Music: A Taste of Honey

邪馬台国ナウ
2013-01-15 〜 2013-02-06


		邪馬台国を求めて 朝日新聞デジタル

		(このシリーズは小滝と編集委員・中村俊介が担当します。文中敬称略)
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		(ニッポン人脈記)邪馬台国を求めて:1

		
		映画で卑弥呼に扮した岩下志麻さん=(C)1974 表現社/ATG

		
		篠田正浩さん


		■卑弥呼が舞い降りた 

		 謎は深いほどおもしろい。まして自分の国のルーツにかかわることならば。 
		かつて邪馬台国(やまたいこく)という国があった。2〜3世紀のことだ。朝鮮半島から海を渡り、陸路の旅を
		経てたどり着いた地で女王卑弥呼(ひみこ)が治めていた――。古代中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」
		はそう記す。 
		 だが、記述はわずかに約2千字。所在地は九州か、近畿か。江戸時代から論争が続き、今も決着していない。
		卑弥呼についても「鬼道(きどう)をよくする」、呪術者とみられていたことぐらいしかわかっていない。 

     	 ◇  

		1974年、女優の岩下志麻(いわしたしま=72)は悩んでいた。 
		夫で映画監督の篠田正浩(しのだまさひろ=81)から「映画『卑弥呼』で主演をやってほしい」と求められてい
		た。「卑弥呼は神の言葉を聞く女性らしい。それを体でどう表現したらいいの?」演技の参考資料といっても、倭
		人伝以外にない。「入り口が見えなかった」と岩下は当時を振り返る。
		いっそのこと、実際に神がかりを体験してみようか。そう思い立った岩下は、知人の女性2人と連れ立ち、静岡の
		女性霊媒師を訪ねた。 
		畳敷きのあまり広くない部屋だったと記憶している。3人が霊媒師の前に座ると、目を閉じて頭を下げるよう求め
		られた。いわれた通りにしていると、何やら呪文が始まった。霊媒師の両脇にいた2人は畳をかきむしり、体をぶ
		るぶると震わせ始めた。 

		岩下自身もなぜか激しい頭痛に襲われながら、薄目を開けて霊媒師のしぐさをしっかり観察した。 
		「卑弥呼が神の託宣を伝える時の演技が見えた」手応えを感じた。時間にして二、三十分だったろうか。岩下らは
		ぐったりしてしばらくの間立ち上がれなかった。 
		卑弥呼に神が宿る瞬間をどう演じるか。岩下は口を丸く大きく開けてみた。目に見えない何かが口から入り込んで
		くるのではないか。そう考えたからだ。 
		撮影中のことだ。帰宅した岩下が生まれたばかりの長女を抱こうとすると、激しく泣かれた。演じた卑弥呼の妖気
		がまだ岩下に漂っていたのかもしれない。岩下はベビーシッターを雇い、長女を自分からしばらく遠ざけた。 
		「初めて授かった子を抱く、女性として幸せな瞬間なのに。とってもつらかった」 

	     ◇ 

		撮影の間、篠田は岩下に目立った演技指導をした覚えがない。「勝手にやってもらった。女優は存在自体がシャー
		マン(呪術者)だからね」
		篠田は14歳で敗戦を迎えた。「戦争中は皇国史観を教えられた。天皇の名前が登場しない邪馬台国のことなんて、
		戦後になるまで知らなかったんだ」皇国史観を押しつけた人々に対し、篠田はいまも許せないと思っている。その
		一方で女王が統治した国が古代日本にあったのなら映画にしてみたいとも思い続けた。 
		戦後、卑弥呼は木暮実千代(こぐれみちよ)や吉永小百合(よしながさゆり=67)らも映画の中で演じている。
		だが、主人公に据えた作品は篠田が撮った1本だけだという。そこまで「卑弥呼」にのめり込んだ理由を、篠田は
		著書「闇の中の安息」に書いた。 

		「私は、志麻という女優をとおして(略)、自分の中で日本人とは何か、という問いかけをしているようなところ
		がある」その日本人にとって、邪馬台国とはどんな存在なのだろう。古代史上最大の謎に魅了された人々を訪ねた。 

		(編集委員・小滝ちひろ) 
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		(ニッポン人脈記)邪馬台国を求めて:2

		
		宮崎和子さん。後ろは島原城

		
		宮崎康平さんとともに=宮崎和子さん提供


		■二人で一人 幻を追う 

		盲目の詩人、宮崎康平(みやざきこうへい)の著書「まぼろしの邪馬台国」は、昭和40年代の邪馬台国ブームに
		火をつけたベストセラーとして名高い。 
		長崎県島原に生まれた。神話を否定して弾圧を受けた古代史家、津田左右吉(つだそうきち)の講義を早大で聴き、
		邪馬台国への思いを募らせていた。 
		郷里で島原鉄道の重役を務める傍ら、文芸誌「九州文学」で創作活動を展開した。そんななか、康平は邪馬台国探
		しに没頭し始める。自己主張が強くて反骨。かんしゃく持ちで猜疑心(さいぎしん)が強く、なんでも自分中心じ
		ゃないと気が済まない。過労で失明した後も、康平の難しい性格は変わらなかった。先妻は子供を残して逃げ出し、
		その後、迎えたのが福岡の放送劇団員で声優をしていた和子(かずこ、83)だった。 
		一回り12歳下の、同じ5月7日生まれ。「俺の嫁ごになるようできとる」と康平に言わしめ、仲人は「九州文学」
		を育てた作家、火野葦平(ひのあしへい)だった。 

	     ◇ 

		和子は盲目の夫の手を引き、その目となり足となって九州中の遺跡や古墳をめぐった。熊本の阿蘇、宇土半島、福
		岡の糸島半島、佐賀の唐津……。そして康平は、故郷島原を含む長崎諫早周辺に邪馬台国があったと確信する。 
		和子は「魏志倭人伝」はもちろん、「古事記」や「日本書紀」などを数え切れないほど読み聞かせ、夫の発想を記
		録した。ボール紙を切って海岸線に、ひもを川に見立てて立体的な九州の地図もこしらえた。康平はそれに触れな
		がら、手の感覚を通じて頭の中に浮かぶ地図と、倭人伝が記す邪馬台国への道のりを重ねてそのありかを探った。 

		このエピソードは2008年、堤幸彦(つつみゆきひこ、57)のメガホンで映画化され、竹中直人(たけなかな
		おと、56)と吉永小百合(よしながさゆり、67)がむつまじい夫婦愛を演じた。 
		といっても、実際には絵に描いたような夫唱婦随でもなかったようだ。「私が勝手に出歩くのも嫌う人でね」と和
		子。「でも、自分と全然違った世界の人で、話題が多くて私の好奇心を満たしてくれる存在でした。話してておも
		しろい男って、なかなかいないものですよ」二人で一人。「まぼろしの邪馬台国」は、どちらが欠けても生まれな
		かったのだ。

		
		映画 「まぼろしの邪馬台国」竹中直人と、吉永小百合
		

		康平は作曲家古関裕而(こせきゆうじ)と組み、校歌などをいくつも作った。「おどみゃ島原の」で始まる哀愁を
		帯びた「島原の子守唄」も彼の作だ。乳飲み子を抱えて立ち尽くす康平の姿が浮かぶ。早大の先輩で演劇仲間だっ
		た森繁久弥(もりしげひさや)もよく舞台で歌った。 

	     ◇ 

		康平の家に、バイオリンを抱えた少年が出入りしていた。同じ長崎出身の歌手さだまさし(60)である。さだの
		父親と深い交友があった康平は、さだを「まあ坊」と呼んでかわいがった。「小さい頃は怖かったなあ。でも、遠
		い親戚のおじさんみたいでした」1972年、さだがフォークデュオ「グレープ」を結成すると、康平は地元マス
		コミへの売り込みに一肌脱ぎながら、長崎人なんだから長崎らしい歌を作れと叱咤(しった)した。長崎の風物詩
		を描く「精霊(しょうろう)流し」は、そうして生まれた。 
		「言葉に出して読めないような詩だったら書くな。自分の詩を声に出して読んでいる気で歌えって」。いにしえの
		奈良の空気をまとう曲「まほろば」の歌詞について、康平は楽屋で「俺もあんなのを書きたかった。おまえは俺を
		超えた」と喜んだという。 
		80年、康平死去。最後の電話は自分のコンサートチケットの割り振りだったと、さだは聞いている。翌年のアル
		バム「うつろひ」に「邪馬臺(やまたい)」を収めた。「盲(めし)いた詩人」として曲中に登場する康平へのオ
		マージュである。 
		そうそう、あのヒット曲「関白宣言」のひな型は、どうやら康平と和子らしい。(中村俊介) 
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		(ニッポン人脈記)邪馬台国を求めて:3

		
		松本清張さん

		
		帚木蓬生さん


		■作家もとりこになった 

		社会派ミステリーの巨人、松本清張(まつもとせいちょう)は「まぼろしの邪馬台国」の宮崎康平(みやざきこ
		うへい)と並び称される戦後の邪馬台国ブームの立役者だった。1967年、第1回の吉川英治文化賞の受賞者
		が康平、文学賞が清張に決まった。 
		授賞式で、清張は康平に開口一番、「印税が全部、自分のものと思ったらダメだよ。税金に持って行かれるんだ
		よ」と話しかけた。康平の妻、和子(かずこ、83)は、清張のねぎらいとも冗談ともつかぬ口調を覚えている。 
		ときに「清張史観」と呼ばれるほど、清張には古代史モノが多い。「断碑」や「石の骨」では在野の考古学者の
		悲劇を、「陸行水行」では邪馬台国を扱った。吉川文学賞受賞の前年からは「古代史疑」の連載を開始し、邪馬
		台国への探求を本格化させていた。 
		その根底に流れるのは、ジャーナリスティックな批判精神だ。先の康平への一言は、ドラマチックに、ときに感
		傷的に邪馬台国への思いをつづった康平をライバルと認めたうえでの牽制(けんせい)だったのか。 

  	     ◇ 

		文芸春秋の編集者として清張と二人三脚で歩んだ北九州市立松本清張記念館長、藤井康栄(ふじいやすえ、78)
		は「古代史へののめり込み方はすごかった」と振り返る。 
		古い論文や専門書を読み込み、学者に電話をかけたり手紙を書いたりして貪欲(どんよく)に知識を吸収した。
		長電話の相手はほとんど古代史関係者だったという。 
		藤井は現代史の闇を扱った「昭和史発掘」の取材で、清張の手足となって奔走した。「古代史を一緒にやろうと
		誘われたけれど、私は無理ですよと断った。それがかなりご不満だったみたい。『あんたはロマンチストじゃな
		いねえ』って。一方で、他人に調べさせるなんてもったいないとも思っていたようです」 
		清張は朝日新聞西部本社(北九州市)時代から暇を見つけては遺跡を訪ねた。推理作家として名をなした後も、
		遺跡巡りは続いた。 
		出張のたびに予約した航空便を変更したので、航空会社に煙たがられた。「まだ見てなかった、もう一度見たい、
		って。予定通りの便に乗ったことがほとんどないほどね」 
		そうして導き出した清張独自の邪馬台国九州説は、市民を巻き込む空前のブームへの導火線となっていく。 

		 ◇ 


		女王卑弥呼は、古今の小説家にインスピレーションを与えてきた。横光利一(よこみつりいち)の「日輪」しかり、
		黒岩重吾(くろいわじゅうご)の「鬼道の女王 卑弥呼」しかり。昨夏刊行されたばかりの帚木蓬生(ははきぎほ
		うせい、65)著「日御子」も、そうだ。 
		帚木は福岡県在住。精神科医と作家の二足のわらじを履く。以前から編集者に「邪馬台国やりませんか」と水を向
		けられてはいたが、その気はなかった。ところが数年前、講演に訪れた奈良で、学者は九分九厘、邪馬台国は近畿
		だと思っているという話を耳にする。 
		「半々ならまだしも、なんという情けない事態かと思いました。九州に住んでいる者として腹が立ってね。で、や
		りましょう、と」 
		3〜4年かけて150にのぼる論文や著作を探して次々に読破しながら準備を進め、1年かけて執筆。平和を愛し
		た卑弥呼と邪馬台国の物語を、通訳を代々のなりわいとする使譯(しえき)一族に語らせた。 
		邪馬台国は九州の筑後川流域に置いた。卑弥呼は「日御子」と表記した。世界の中心を自負する古代中国は、遠く
		離れた地に住む倭人(わじん)をさげすんだのか、彼女の名にも「卑しい」の文字を使ったともいわれる。そんな
		倭人を復権させたいとの思いがあった。 
		「権力を持った卑弥呼はアマゾネスみたいに思われがちだけれど、武力だけで大勢を束ねるなんて無理。彼女には
		きっと『理(ことわり)』があった。『理』があれば人はみな従う。人間の脳は、そんな仕組みになっています」 
		帚木は卑弥呼像を人間の心理から分析してみせた。 
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		(ニッポン人脈記)邪馬台国を求めて:4

		
		諸星大二郎さん

		
		星野之宣さん


		■餓鬼に巫女に 変幻自在 

		自由な発想が武器の、漫画の世界。邪馬台国や卑弥呼はこれまでどう描かれてきたのだろう。卑弥呼と聞いて、多
		くの人は妖艶(ようえん)な美女を思い浮かべるはず。ところが諸星大二郎(もろほしだいじろう、63)は「暗
		黒神話」という作品で、彼女をみにくい餓鬼の姿にしてしまった。餓鬼とは仏教にいう、飢えと渇きに苦しみ続け
		る亡者のこと。不老不死を得ようとした卑弥呼の末路だというのだ。「魔障ケ岳」では卑弥呼の墓を、奈良の大和
		三山のひとつ、耳成山そのものに見立てた。 
		「邪馬台国はどこか、といった謎解きより、古代人が神々の存在をどうとらえていたかに関心がある。卑弥呼を餓
		鬼にして抵抗はあったか?なかったですよ」 
		諸星は万人受けする作家ではないが、熱狂的なファンを持つ。「古事記」などをネタ箱に、日本民俗学の祖、柳田
		国男(やなぎたくにお)ら先人の考えを援用しつつ、日本や中国の歴史・古典の世界を奇々怪々な「異界」に作り
		替えてきた。膨大な知識が奇抜な発想を引き出している。 
		近年、新しい発掘成果や新説が相次ぎ、邪馬台国論争はめまぐるしい展開を見せる。卑弥呼のいた時代は従来の弥
		生時代末期ではなく、むしろ古墳時代にさしかかっているのではないか、との見方さえある。「魔障ケ岳」の舞台
		に奈良の発掘現場を登場させたが、「最近は古代史の常識そのものが変わりつつあるようですね。また勉強し直さ
		ないといけませんかねえ」。 

	     ◇ 

		諸星を「先達」と仰ぐのが、SFで名をなした星野之宣(ほしのゆきのぶ、58)だ。「宗像教授伝奇考」をはじ
		めとした伝奇モノに新境地を見いだそうともがいたとき、「すがるものは諸星さんの『暗黒神話』しかなかった」。 
		卑弥呼像はまったく異なる。SFと古代史を融合させ、時空を超える叙事詩に仕立てた「ヤマタイカ」。そこに登
		場する卑弥呼は、素顔こそ見えないものの、凜(りん)とした美しい巫女(みこ)の空気をまとう。 
		星野はかつて、古今東西の歴史上の妖女たちを描いた。「でも、やはり卑弥呼でしょう。ミステリアスなイメージ、
		わからないから余計に引きつけられる」 
		星野作品を支えるのは、諸星と同様、豊富な専門知識だ。コマの中にも、やたらと説明調の文字が多い。「『ヤマ
		タイカ』も、どんどん読者が参加してくれれば、という気持ちでした」。どこか、邪馬台国論争の大衆化と似る。 

		


	     ◇ 

		孤高の世界に読み手を引きずり込む諸星。壮大なスケールの星野。そんな2人を「尊敬している」と言いながらも、
		独自の立ち位置を切り開いたのが安彦良和(やすひこよしかず、65)だ。 
		「ガンダム」などのアニメーターとして有名だが、漫画家として古代史モノに愛着を寄せる。漫画を武器に、古代
		史の空白に迫れないかという思いがある。 
		皇国史観が強調された戦前教育の反動で、戦後、日本神話は切り捨てられ、否定された。学生運動の闘士だった安
		彦も、そう思ってきた。「でも、ナンセンスと捨ててしまうのはまずいんじゃないか。貴重なヒントがむざむざ捨
		てられているんじゃないか。(ギリシャ神話の)トロイだって最初は誰も信じなかったでしょう」 
		大国主を主役に据えた「ナムジ」では神々を復活させ、卑弥呼や邪馬台国を組み込んだ。英雄や神様が縦横無尽に
		駆け抜け、卑弥呼はまさに天照大神のイメージだ。 
		「僕は社会と関係していたい。だから、史料の通りではないかもしれないけれど、こうだったかもしれないよと、
		空想ではなく歴史物語を描いているつもりです」 
		そういえば、かつて手塚治虫(てづかおさむ)が「火の鳥」黎明(れいめい)編で描いた卑弥呼はヒステリックな
		老婆だった。卑弥呼とは、かくもいろんな顔を持つ。(中村俊介) 
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		(ニッポン人脈記)邪馬台国を求めて:5

		
		十二代三輪休雪さん。後ろが「続・卑弥呼の書 No.8」

		
		青木孝憲さんと「卑弥呼(ヒミコ)」


		■エロスこそ造形の源泉 

		黒々とした山に見えた。 
		近寄ると、それは開かれた書物の造形だと気づいた。なぜか中央に女陰が鎮座する。表面を覆うアルファベットに
		似た文字は、古代人の記憶だろうか。高さ2メートル近く、幅6・5メートル、奥行き3メートルの圧倒的な質感
		に、大地と生命のエネルギーがほとばしる。「作品の名は「続・卑弥呼の書 No.8」。山口県立萩美術館・浦
		上記念館にある陶芸家、十二代三輪休雪(みわきゅうせつ、72)の大作だ。
		茶陶で名高い萩焼の名門に生まれた。伝統を踏まえながらエロスや死を創作の源に据え、前衛的な陶のオブジェを
		生み続けてきた。卑弥呼の名を冠した一連の作品群は、その一角をなす。 

	     ◇ 

		史上最強のエロスを放つ女性は誰か。クレオパトラも楊貴妃もいいが、日本人ならば卑弥呼だと三輪はいう。「ミ
		ステリアスだから想像力をかき立てられるんだ」 
		人の技と火とが織りなす、偶然の産物がやきもの。人知を超えた火と土の芸術は、神の声を聞いたという、人であ
		って人でない卑弥呼のイメージと、どこか響き合う。 
		三輪は、本というモチーフを人類文化の凝縮と生命の象徴に見立て、邪馬台国に君臨した女王の栄華と衰退に重ね
		合わせた。作品を覆うひびは崩壊、女性のシンボルは新たな生命誕生の予感だ。 
		一昨年、東日本大震災が日本列島を襲った。三輪は現地の状況をテレビで見た。目を覆う惨状ながら、がれきの下
		で草木が芽生え始めているのに気づき、驚いた。「崩壊と生成という『卑弥呼の書』の主題そのものじゃないか」 
		同じ萩の陶芸家、金子司(かねこつかさ、42)に協力してもらい、彼の白くて小さな、まるで深海の植物のよう
		な不思議な造形をいくつもNo.8の周りに配してみた。崩れ落ちた「続・卑弥呼の書 No.8」を苗床に、無
		数の命が萌(も)え出る情景ができあがった。「崩壊と生成、復興を、あらゆるものは繰り返すんだよ」。山陰の
		小さな城下町から送る東北へのエールだ。 

	     ◇ 

		卑弥呼の妖しげな力は、現代の粋を集めた工業デザインにも作用するらしい。 
		手作り感あふれる個性的な車を生み出してきた、富山にある光岡自動車の「卑弥呼(ヒミコ)」はその代表格だろ
		う。フェンダーの流れるラインは、波を切って大海原を駆ける船のへさきのよう。ふっくらとした高貴な顔つきに、
		つぶらなライトは少女のまなざしにも見える。 
		デザインしたのは開発課課長兼工場長の青木孝憲(あおきたかのり、37)だ。その生き物的な曲線美は、「鬼道」
		を操る伝説の巫女(みこ)の妖艶(ようえん)なイメージが憑依(ひょうい)したかに思えてくる。 
		青木は宇都宮生まれ。自動車のデザイナーを志すが、大手メーカーはことごとく落ちた。たまたま目にした光岡の
		商品広告を見て電話した。何度も門前払いを受けながら、強引にデザインを送りつけて面接にこぎ着ける。 
		大手はみんな落ちた、学問もダメ、女にももてない、でも車への情熱は負けない。思いの丈をはき出すと、「じゃ
		あ、来い」。そういって拾ってくれたのが、当時社長で、今も慕う会長の光岡進(みつおかすすむ、73)だ。 
		青木は、蛇がうねるようなボディーに八岐大蛇(やまたのおろち)の名を付したスポーツカー「大蛇(オロチ)」
		で注目を浴びる。 
		次はかわいいだけではない、女性の生き様を映し出す車を作りたい。
		自信のある女性がかっこよく乗れるスポーツカーを生み出したい――。女王や王女をイメージした青木のデザイン
		に、光岡が「卑弥呼」と名付けた。「日本で最初の女性の統率者だからね」と光岡はいう。 
		「オロチ」といい「ヒミコ」といい、青木の作品には古風な和名が不思議と似合う。青木はいう。「有機的なデザ
		インに生命を与えるには、軽い横文字より情感豊かな言葉がいい。それが『言霊(ことだま)』の重みなのでしょ
		う」(中村俊介) 

		

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		(ニッポン人脈記)邪馬台国を求めて:6

		
    	高島忠平さん=佐賀県の吉野ケ里遺跡

		
		佐原真さん


		■時にライバル 時に友 

		1989年2月、佐賀県にある吉野ケ里遺跡は熱気に包まれていた。濠(ほり)に囲まれた広大な弥生時代の大集
		落が地下から姿を現し、朝日新聞とNHKが「卑弥呼の都」のイメージとダブらせて大きく報じたのだ。 
		九州にこれほど大規模な弥生集落があることはそれまで知られておらず、邪馬台国近畿説に比べて九州説の弱点だ
		った。その劣勢を跳ね返す発見。「邪馬台国は吉野ケ里で決まり」とばかりに考古学ファンが見学に押し寄せ、九
		州説は反撃ののろしをあげた。 

		 「邪馬台国は吉野ケ里の物見櫓(やぐら)から見える所にある」 

 		いま旭学園理事長で、当時、佐賀県教育委員会に籍を置いて発掘を指揮していた高島忠平(たかしまちゅうへい、
		73)は、そんな名言で一躍時の人になった。「ミスター吉野ケ里」の名も定着し、九州説の論客として近畿説の
		前に立ちはだかる。 

	     ◇ 

		その高島にも頭が上がらない近畿説のライバルがいた。2002年に死去した元国立歴史民俗博物館長、佐原真
		(さはらまこと)だ。2人はシンポジウムでもしばしば対決した。 
		開発で消滅寸前の吉野ケ里を「魏志倭人伝」に絡めてマスコミに喧伝(けんでん)して救ったのが、「論敵」で
		あるはずの佐原だった。
		当時、佐原は奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所、奈文研)の埋蔵文化財センター研究指導部長の職
		にあった。 
		「佐原さんあっての吉野ケ里」。高島は頭(こうべ)を垂れる。 
		高島は福岡県飯塚市の生まれで、両親は佐賀出身。根っからの九州人が熊本大を卒業した64年、奈文研に入っ
		た。同期に佐原がいた。
		京都大大学院で学んだ佐原はずっと年が上だったが、同じ釜のめしを食う仲となった。配属された平城宮跡発掘
		調査部では、定期的に研究会が開かれていた。ネタがつきたのか、あるとき邪馬台国を取り上げることになった。 
		上司の坪井清足(つぼいきよたり、91)の命令で、九州出身の高島が九州説の役回りに。考古学界では近畿説
		が強いし、しかも勤務先はその牙城(がじょう)だ。四面楚歌(しめんそか)、鉄壁の近畿説に当たって砕けた。
		「あのときの怨念だよね。九州説への君のエネルギーは」とは、のちに佐原が高島にかけた言葉だ。 
		高島はその後、奈文研から佐賀県教育委員会に移り、佐賀の文化財行政の基礎作りに励む。そして迎えた89年。
		吉野ケ里を視察に来る佐原から、マスコミを連れて行くからね、と連絡があった。 
		当時、吉野ケ里は工業団地の予定地で地元の期待を集めていた。高島は県の役人として、遺跡の一部を残す約束
		で開発部局を相手に苦労して計画をまとめていた。その調整案が吹っ飛ぶことに正直、不安がなかったわけでは
		ない。 
		「私には佐原さんの行動様式がわかるわけです。パッと何か言うだろうって。奈文研で10年一緒だったのだか
		ら」一方で、どこか佐原に期待したところもあった。その後、当時の佐賀県知事、香月熊雄(かつきくまお)の
		英断で、あっさり遺跡の保存が決まる。「保存は佐原と高島の共同謀議だと書かれたこともあった。でも、そう
		思われても仕方ない関係でした」 
		自分の立場を忘れてしまうほど、無邪気で思い込みが激しくて、でも、言うだけの努力と行動をする人。そんな
		佐原は高島にとって師匠であり、反面教師でもあった。吉野ケ里は、近畿説と九州説のコンビが手を取り合って
		守った遺跡だった。 

	     ◇ 

		高島は28歳の結婚時、佐原からお祝いにもらった遺跡の研究報告を大事に持っている。そこには、こんな一文
		がしたためられている。 

		畿内は俺がやる  九州は委(まか)した。 
		一九六八・一〇 佐原雅珍 

		「雅珍」とは佐原のあだ名で、ガッチン、頭が固いということらしい。(中村俊介) 
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		(ニッポン人脈記)邪馬台国を求めて:7

		
		光谷拓実さん

		
		金原正明さん


		■木よ花よ 教えておくれ 

		実は、考古学は年代判定が苦手だ。遺跡の地層の重なりや、遺物の形状の変化から「AとB、どちらが古いか」
		という相対年代は割り出せる。だが絶対年代、つまり西暦何年にその遺跡ができたかを決定するのは難しい。
		そこで科学の出番となる。 
		奈良文化財研究所で環境考古学を担当する光谷拓実(みつたにたくみ、65)は1989年、1枚のヒノキ板を
		顕微鏡でじっとのぞきこんでいた。奈良県中部の邪馬台国候補地、纒向(まきむく)遺跡にある纒向石塚古墳の
		濠(ほり)から出土した板だ。 
		木は、温暖な年ほど太く成長するため年輪の幅が広くなり、反対に寒いと狭くなる。その変動をものさしにして、
		遺跡から出た木材や古い建築の年代を推測するのが年輪年代学だ。欧米で盛んになったこの手法を80年代に日
		本に持ち込んだのが光谷だった。 
		纒向石塚は、考古学的には邪馬台国時代の墓といわれている。そうであれば、この国が存在したといわれる2〜
		3世紀の年代が、板に残された年輪から読み取れるに違いない――。 

	     ◇ 

		光谷は年輪の幅を一つずつ、100分の1ミリ単位で読み取っていった。「どこまで測ったかわからなくなるか
		ら、一度測り始めたらなかなか休めない。部屋に人が入ってきて邪魔されないように、鍵をかけたこともあった」。
		根気勝負だった。結果的に、ヒノキ板の年輪は西暦177年を示した。 
		最も外側の樹皮がなかったから、板に加工した際、樹皮に近い年輪を数十年分は削り落としたのだろう。そこで
		「伐採はもう少し後、3世紀前半ごろでは」と光谷は推定した。女王・卑弥呼は248年ごろに死んだといわれ
		ている。どうも時代は重なりそうだ。 
		機材が進化したおかげで、デジタルカメラとコンピューターで自動計測もできるようになった。だが光谷は今も
		デジカメの年輪写真を紙焼きし、それを顕微鏡で測る。 「どうも新しい機械になじめない。アナログ人間なんだ」 

	     ◇ 

		顕微鏡をのぞけば、古代の暮らしも見えてくる。人々の周りにどんな植物があったか。何を栽培し、どう利用し
		ていたか。奈良教育大教授の金原正明(かねはらまさあき、56)が専門とする花粉分析は、それを解き明かす
		技術だ。 
		遺跡の土を遠心分離器にかけたり、薬品処理したりして花粉や種を取り出す。その数を倍率400〜600倍の
		顕微鏡で一つずつ丹念に数えていく。先輩研究者が残した資料や写真をスケッチして花粉の形の特徴を覚え、種
		類を判別していくのだ。 
		「熟練が必要で、慣れた人と慣れない人では計測結果がまったく違う」 
		光谷が測ったヒノキ板と同じ纒向石塚の濠の土を金原が調べてみると、ベニバナ花粉が大量に見つかった。「一
		帯がベニバナ畑と考えてもいいほどの量」だった。 
		染織や化粧品、虫下し、防腐剤とさまざまに使われる花。卑弥呼はベニバナ染めの真っ赤な服を着ていたのか、
		それとも……。 
		別の場所で出土した木製水路からは、寄生虫の卵の殻がまとまって見つかった。 
		「この施設は古代のトイレだったと考えられる。纒向の人々は、野菜や魚を寄生虫がついた生に近い状態で食べ、
		寄生虫病を抱えていたのでは」と金原は話す。 
		纒向でそこまでわかるなら、邪馬台国候補地のライバル、九州の遺跡でも同じ研究ができるのではないか? 
		だが、光谷は「九州は落葉樹林が多く、年輪計測に向く針葉樹のヒノキやスギの良好な資料が見つからない」と
		話す。佐賀県の吉野ケ里遺跡でも、年輪を測れる木材は出土していないという。金原も「吉野ケ里は台地にある
		せいか、花粉や種が風に飛ばされ、いい分析資料が出ない」と嘆く。 
		どうやら、邪馬台国は今なお科学の探求が及ぶ少し先にいるらしい。(小滝ちひろ) 
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		(ニッポン人脈記)邪馬台国を求めて:8

		
		石野博信さん

		
		寺沢薫さん


		■掘ってつないで40年 

		邪馬台国近畿説の有力な候補地が、奈良県桜井市にある集落跡、纒向(まきむく)遺跡だ。3世紀ごろに大小様
		々な前方後円墳が築かれ、最大級の箸墓(はしはか)古墳(全長280メートル)は卑弥呼の墓との伝承もある。 
		兵庫県立考古博物館長の石野博信(いしのひろのぶ、79)は1972年、纒向の発掘を任された。奈良県立橿
		原(かしはら)考古学研究所に入って2年目だった。 
		石野が掘り進むと、幅5メートルの真っすぐな溝が数百メートル以上にわたって出土した。箸墓に向かって延び
		る運河のようだった。大量の土器が埋まった土の層もあった。しかし、その下にはなぜか生活の痕跡がまったく
		見られない。 
		「まっさらな土地に新しい町を造る。今ならば、都市基盤整備事業みたいなものか」。そう推測してみたが、確
		信が持てない。 
		「5年も掘ったが、『何じゃ、この遺跡は?』という思いがずっと消えなかった」 石野は思った。 
		「住居の跡が一つもみつからない。人家のない町なんてあるだろうか?」 

	     ◇ 

		石野からこの遺跡の調査を引き継いだ寺沢薫(てらさわかおる、62)はある日、1メートル四方の四角い試掘
		溝を掘ってみた。断面を観察すると、住居跡らしいくぼみがいくつも重なっているのに気がついた。どれも浅く、
		複雑に絡み合っているように見える。どうやら建物を建てた後に、ほどなく次を新築することが繰り返されてい
		たらしい。 
		発掘調査は、地面を水平に掘る。ある深さに達したら、その表面の土の色や質の違いを見分ける。そこを集中的
		に掘り下げれば建物などの跡が浮かんでくる。だが纒向の場合は痕跡が薄すぎて、なかなか住居と判断できなか
		った。 
		寺沢は、県立橿原考古学研究所で30年近く、纒向遺跡を調べてきた。現在は桜井市纒向学研究センターの所長
		を務める、生き字引的存在だ。 「この遺跡にたくさんの家があったことは間違いない」と寺沢は言う。 
		ただ同時に「人の目で痕跡を見分ける現在の発掘技術で、それを掘り出すのはほとんど不可能」と音を上げる。 

	     ◇ 

		とはいえそれは、庶民の宅地のこと。「都市」を象徴する大型の建物が近年ようやく姿を現し始めた。寺沢の後
		を継ぐ、桜井市教委調査研究係長の橋本輝彦(はしもとてるひこ、43)は2009年、南北19・2メートル、
		東西12・4メートルの建物跡を掘りあてた。 
		3世紀前半の中では国内最大。同時代に生きていた邪馬台国の女王、卑弥呼の神殿ないしは宮殿かと注目された。
		橋本は奈良大1年生の時、寺沢の発掘現場でアルバイトを始めた。家業の骨董商(こっとうしょう)を継ぐつも
		りだったから、考古学の道に進む気はなかった。 
		でも、纒向の調査を手伝ううちに「ここを掘りたい」と思うようになった。弥生時代から古墳時代への移り変わ
		りはどこから始まるのか。その謎解きがおもしろくなった。 
		「寺沢さんは東京出身。うまく発掘できないと関東弁で怒られる。関西人の僕には怖くて、『辞める』なんてよ
		う言わんかった」と橋本は笑う。 
		09年に掘った大型建物跡の敷地は、東西150メートル、南北100メートルの範囲に土を数十センチ盛り上
		げて整地してあった。 
		「土器のかけらもごみ捨て穴もない。清浄な空間として整えられたのではないか」丁寧な観察は寺沢に厳しく仕
		込まれたものだ。 
		実は、この建物の発見は偶然ではない。寺沢が周辺を何度か発掘し、やや小ぶりな建物跡数棟分が整然と並ぶの
		を確認している。「その先に何かある」。橋本はそうにらんでいたのだ。寺沢は「このあたりに卑弥呼がいたと
		考えるべきだろう」と言い切った。 
		一方、最初にこの遺跡を手掛けた石野は慎重だ。「卑弥呼が中国からもらった金印を押した封泥(ふうでい)、
		つまり公文書の封をした粘土が出土するかどうか。見つかれば中枢の役所があったことになり、決まりかもしれ
		ないが」 決定打を求め、今年も纒向遺跡の発掘は続いている。(小滝ちひろ) 
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		(ニッポン人脈記)邪馬台国を求めて:9
         

		
		七田忠昭さん

		
		苅谷史穂さん(左)と俊介さん=奈良県桜井市の纒向遺跡

		■あとはお前に任せたぞ 

		佐賀県の吉野ケ里遺跡は、邪馬台国九州説の候補地の一つだ。 
		佐賀市の佐賀城本丸歴史館で館長を務める七田忠昭(しちだただあき)(61)にとって、この遺跡は、高校教
		諭で考古学者だった父忠志(ただし)が古代のおもしろさを教えてくれた「教室」でもあった。 
		小学生のころ、父のお供でよく吉野ケ里へ散歩した。弥生時代の甕(かめ)棺が地中から顔を出し、土器の破片
		や矢じりがいくらでも拾えた。「興味を持ったのは4年生のころかな。父に『これ何?』と聞いても『自分で調
		べろ』と」。家には父が集めた専門書が数多くあった。忠昭はそれらを読みふけるうち、次第に古代史にのめり
		込んでいった。 
		忠昭は父の母校、東京の国学院を卒業後、県教育委員会の発掘調査技師になった。父が周囲にこう話していたと
		後から聞いた。「忠昭に後を継いでほしいんだ」 

	     ◇ 

		1912年生まれの父、忠志も、吉野ケ里で土器拾いを楽しんだ子どもだった。20代の青年だった34年には
		すでに、この遺跡のことを学会誌に発表している。甕棺や土器の出土量の多さから見て、弥生時代には中国大陸
		との交渉の拠点だったとし、九州の古代研究上重要だと説いた。その吉野ケ里の発掘を、忠昭が命じられたのは、
		父の死から5年後の86年だった。 
		調査が終われば遺跡は消え、工業団地になることが決まっていた。つまり、父が早くから注目していた遺跡を息
		子が壊さなければならない。「僕がやるのか」。忠昭はため息をつくしかなかった。 
		ところが3年後、多数の甕棺を埋葬した墳丘墓や様々な建物跡が見つかり、にわかに注目が集まった。県知事が
		毎日、発掘事務所へ電話をかけてきて、見学者の増え具合を知りたがった。電話に出るたび、忠昭は確信を深め
		た。「これで吉野ケ里を保存できる」結果的に遺跡は歴史公園として残った。忠昭は言う。 
		「父は郷土の歴史を明らかにして、地域に生かそうとしていた。私も最後までそうありたい」 

	     ◇  

		神奈川県南足柄市の発掘調査技師、苅谷(かりや)史穂(しほ)(40)も、幼稚園のころから父俊介(しゅん
		すけ)(66)に手を引かれて遺跡を巡った。 
		大分出身の俊介は高校生のころ、近所にあった縄文遺跡の発掘を手伝った時、考古学に目覚めた。俳優となって
		「大都会」や「西部警察」の刑事役で活躍。一時考古学から遠ざかったが、所属していた石原プロの社長、石原
		裕次郎(いしはらゆうじろう)が東京・成城につくる新居の建築現場から遺跡が見つかると、憧れが再燃した。 
		本業の傍ら、アマチュア考古学者として各地の遺跡発掘に飛び入り参加し、日本考古学協会員として論文も発表
		した。奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡には80年代前半から通う。邪馬台国近畿説の候補地だ。 
		娘の史穂は史学系の大学の受験に失敗。経済学部に進んだものの、結局は「遺跡が掘りたい」と考古学を学べる
		九州の大学に移った。「この道に入ったのは父の直接の影響ではない」史穂はそう言うが、幼いころ父にすり込
		まれたものが心の隅ではじけたらしい。 
		大学卒業後、大分市の発掘を手伝っていると、俊介から「経験になるから行ってこい」と、纒向遺跡を教えられ
		た。その現場には、土の色や成分の微妙な違いから地中の遺跡を見分けるベテラン調査員が何人もいて、発掘技
		術を教え込まれた。 
		2009年。大型建物跡が見つかり、「女王卑弥呼の神殿か」と騒がれた。史穂は嘱託技師として、周りにある
		柱穴の痕跡を手際よく掘っていった。いつも通りボランティアとして駆けつけた俊介は、娘の様子を見て思った。 
		「技術は俺より上にいきやがったな」。うれしくもあり、ちょっぴり悔しくもあった。(中村俊介、小滝ちひろ) 
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		(ニッポン人脈記)邪馬台国を求めて:10
       
		
		足立倫行さん

		
		岡本健一さん


		■2000年前と語り続ける 

		自分独自の研究を手がけたい。ひとたび邪馬台国の謎に引き込まれると、そんな思いに突き動かされるのか。
		ノンフィクション作家の足立倫行(あだちのりゆき、64)が古代史の短期連載を「週刊朝日」で発表したのは、
		60歳を迎えた2008年のことだった。 
		足立は、イカ釣り船に同乗して日本人のイカ好きに迫った「日本海のイカ」や「妖怪と歩く 評伝・水木しげる」
		など、個性的な現代人を描いた著作を発表してきた。そんな足立がなぜ古代史に? 尋ねると、「70代になる
		と現場に行けない。体が動く60代のうちに訪ねたかった」との答えが返ってきた。足立は全共闘世代だが、当
		時はやりの「国家=悪」という見方には違和感があった。 
		「他国とどうつきあい、他国の力をどこまで受け入れるか。それは、弥生時代も今も変わらぬ問題ではないか」 
		中国に朝貢した邪馬台国と、米国の影響下にある今の日本の姿を重ねながら、足立は邪馬台国関連の遺跡を歩い
		た。新書2冊もまとめ、女王・卑弥呼(ひみこ)の墓とも伝えられる奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳につ
		いて「卑弥呼のものではない」との推理も披露した。 
		足立に火をつけたのは、国立歴史民俗博物館長を務めた故佐原真(さはらまこと)ら、邪馬台国論争にも関わる
		考古学者たちだ。足立の故郷である鳥取県で弥生時代の集落遺跡が見つかった時、保存方法を検討する県の会合
		で出会った。「宴席で、佐原さんたちは2千年も前のことを昨日のことのように話す。それがおもしろくて引き
		込まれた」 

	     ◇  

		元京都学園大教授の岡本健一(おかもとけんいち、75)は05年、38種類ある中国の歴史書の電子版テキス
		トの存在を、中国民俗学の研究者から教えられた。 
		その一つ、「三国志」に収められた「魏志倭人伝」は、卑弥呼の最期を「以(もっ)て死す」と記している。 
		「何やら意味深な言い回しの類例を探してみよう」と岡本は考えた。古代から近代までのテキストは5千万字あ
		る。膨大な量だが、電子版テキストが掲載された台湾の歴史研究機関のホームページにある検索機能を使うと、
		ほとんど一瞬で調べがついた。 
		「以て死す」は、倭人伝を収めた「三国志」に33カ所など、計約900例。どれもが非業の死を意味する文脈
		だった。「卑弥呼も穏やかな死ではなかったはずだ」。岡本はそう確信した。 

	     ◇  

		奈良県天理市の前方後円墳、黒塚(くろづか)古墳で1998年、「卑弥呼の鏡」ともいわれる三角縁神獣鏡
		(さんかくぶちしんじゅうきょう)が33面見つかった。泉武(いずみたけし、61)は、市教委の発掘技師と
		して、県立橿原(かしはら)考古学研究所との合同調査に加わっていた。その鏡を見た時、前年に別の古墳で同
		僚が掘った埴輪(はにわ)を思い出した。 
		そこには大きな船の絵が線彫りされていた。埋葬された人が死出の旅に向かうものか。泉はいつしか「古代人に
		とって死とは何だったのか」と考えるようになった。民俗学を学ぼうと、市教委を退職して沖縄に行き、沖縄国
		際大の聴講生になった。 
		「仏教伝来より前、邪馬台国などの時代の死生観を考えるため、仏教の影響が弱い沖縄へ行きたかった」 
		4年間滞在し、離島を足しげく訪ねた。沖縄には生をまっとうして人々に見送られる「良い死」と、そうではな
		い「悪い死」があると知った。 
		昨春から、奈良県中部の明日香村で高松塚古墳の展示施設に勤める。卑弥呼より400年以上後の飛鳥時代、極
		彩色の壁画はなぜ、死者を葬る石室に描かれたのか。死をみつける古代探究は続く。 

		様々なアプローチで研究に取り組む人たち。ついには誰も邪馬台国にたどり着けないかもしれない。でも、追い
		求める人々の心に「幻のクニ」は確かに存在している。 (編集委員・小滝ちひろ) 
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		(このシリーズは小滝と編集委員・中村俊介が担当しました。文中敬称略) 



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