Music: Anna
九州国立博物館開館4周年記念特別展 古代九州の国宝 シンポジウム「邪馬台国はここにあった」 2009.11.08 福岡県太宰府市



	表題の展示に併せて、九州国立博物館で「邪馬台国はここだ!」の講演会が開催された。300席しかないのに、応募は1200
	通だったそうだ。第一部は、奈良県桜井市で巻向遺跡を掘っている、桜井市教育委員会の橋本氏と、昔吉野ヶ里を掘って、今や大
	学学長になった高島氏の基調対談。そして第二部が、素人4人による講演会と言うことで、私も4人の中の一人に選ばれた。今回
	はどういう選択基準かは分からないが、時ならぬ帰省と思って引き受けた。













	邪馬台国やっぱり九州? 九博4周年で特別展、国宝など400点	2009.10.23 14:44 サンケイ

	
	「古代九州」展で展示されている、大分県のダンワラ古墳から出土した「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」
	=福岡県太宰府市の九州国立博物館

	九州ゆかりの考古資料の国宝や重要文化財など約400点を展示する九州国立博物館(福岡県太宰府市)の開館4周年記念特別展
	「古代九州の国宝−邪馬台国(やまたいこく)もここからはじまった」が、11月29日まで開かれている。
	埼玉県の埼玉稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」(11月11〜29日以外は複製品を展示)と熊本県の江田船山古墳出土の「銀錯
	大刀」には、いずれも「獲加多支鹵大王」(雄略天皇)の名が刻まれており、東西の豪族が中央の大王に仕えたことを示す貴重な
	資料。大分県のダンワラ古墳出土の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は「鏡の装飾が中国の出土例に匹敵する出来栄えで、卑弥呼(ひみこ)
	が使っていたとしてもおかしくない」(九博)という。
	九博の担当者は「東西南北に開かれ、文化交流の拠点となっていた九州の姿を浮かび上がらせたい。東京や関西に所蔵された資料
	の“里帰り”としても意義深い」と話している。


	毎日新聞のニュース
	============
	ぐるっと県内:卑弥呼が使用? 鉄鏡の写真紹介、九博PRうちわ−−日田市 /大分 

	九州国立博物館(福岡県太宰府市)が、10月20日−11月29日に開催する開館4周年特別記念展「古代九州の国宝」のPR
	うちわを入館者に配布している。裏面に日田市出土の国指定重要文化財「金銀錯嵌(さくがん)朱龍文鉄鏡」の写真をあしらい、
	「卑弥呼が使った宝飾鏡?」とうたった。日田の考古学ファンは「よくぞこの鉄鏡の意義に触れてくれた」と感激の面持ちだ。 
	鉄鏡は中国の皇帝級の所持品と言われ、日田市の3世紀の遺跡から出土。やはり古代中国の権威の象徴「金銀錯鉄帯鉤(たいこう)」
	(国指定重文)とともに、「同時期の日田の女王・久津媛こそ卑弥呼」と説く郷土史家も多い。「久津媛と日田の古代を語る会」
	の川崎邦輔さんは「九博がよくぞ『宝飾鏡?』と踏み込んでくれた。消極的な見方の市当局も意義を重視してほしい」と話す。
	【楢原義則】 
	毎日新聞 2009年8月11日 地方版 
	============ 














特別展のパンフレット1

特別展のパンフレット2

特別展のパンフレット3

特別展のパンフレット4



	「卑弥呼の宮殿」邪馬台国論争が再燃  畿内か、九州か− 2009.3.20 19:31 サンケイ

	
	邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡中心部から、大規模な神殿跡と思われる柱穴が出土
	=18日午前、奈良県桜井市 遺跡で説明しているのは、この日第一部で講演した桜井市の橋本さん。

	宮殿を思わせる建物群跡が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡。「卑弥呼の宮殿の手がかりが見えてきた」「邪馬
	台国には、まだ遠い」。邪馬台国論争に再び火がついた。
	卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは239年。今回見つかった建物群跡は、まさにこの時期にあたる。纒向遺跡が邪馬台国の
	中心とみる石野博信・兵庫県立考古博物館長は「方位を合わせた構造は、中国の宮殿と共通している。卑弥呼は、魏の使者を迎
	えるにあたって外交交渉上、国の威容を整えようとしたのかもしれない」と推測する。

	辰巳和弘・同志社大教授(古代学)も「魏志倭人伝は『卑弥呼は鬼道(きどう、呪術)につかえ、よく衆を惑わす』と記す。ま
	さに女王が祭祀(さいし)や政治を行った場所の一部だろう」。
	今回の発掘現場を昭和53年に調査した寺沢薫・奈良県立橿原考古学研究所総務企画部長は、西側に張り出した柵(さく)と、
	方位を合わせた建物群の計画性に注目し、「儀式を行う特別な建物だったことは間違いない。中心施設はさらに東に埋まってい
	るのだろう」と今後の調査に期待をよせた。
	勢いづく畿内説に対し、九州説を唱える高島忠平・佐賀女子短大学長(考古学)は慎重な姿勢を崩さない。「数棟の建物跡と柵
	が見つかっただけで、邪馬台国を議論するのは時期尚早。全体構造が明らかになっていない段階では、九州と比較もできない」
	と指摘し、魏志倭人伝の記述や発掘成果をもとに「邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)などを有力候補とした北部九州である
	ことは動かない」と話した。







	今回は、どういう訳だか応募も選考もなかったようで、このシンポジウムの講演者に選ばれてしまった。主催は西日本新聞だが、
	どうやら素人の人選は、共催である梓書院に任されたようである。鷲崎さんとは宇佐神宮で一緒だったし、福島さんも佐賀でご
	一緒した。矢野君とはこういう席で一緒になるのは初めてだが、勿論昔から良く知っている。そのせいか、なんだか今回は全然
	緊張しなかった。



開始前の講演会場。



その会場に集まった聴衆を、舞台の袖からこっそり写している福島さん。
昨夜泊まった実家から、私の母親と弟も聞きに来ているのだが、どこにいるか全然わからん。




第一部 基調対談







	奈良県桜井市で、巻向遺跡を掘っている橋本さんがまず発掘調査の報告。スライドをふんだんに使って説明していた。演壇すぐ下
	に控えていたので、スライドを映す余裕が無かった。橋本さんは、「いやぁ、九州説の中に一人、孤軍奮闘という感じですねぇ。」
	と言っていたが、九州の人は優しい。話が終わっても、質問攻めにしてとっちめてやろう、と言うような人は一人もいなかった。
	橋本さんが、「いや、これ(大型建物跡)が出たからと言って、すぐ邪馬台国と騒ぐのはおかしいです。」とLIP サービスをして
	いたからかもしれない。




	続いて高島さんが、邪馬台国は「吉野ヶ里です。」とやりだした。昔は時代が違うようなことも言っていたが、北墳墓群が発見さ
	れたあたりから、時代も合致すると言い出した。楼閣や物見櫓や城柵など、魏志倭人伝に書いてあることが全部揃っているのはこ
	の吉野ヶ里くらいです、と力説していた。




第二部 素人さん、いら〜っしゃい


トップ バッター 筑前くーん




	<井上修一(筑前)プロフィール>
	昭和25年(1950)福岡県朝倉市生まれ 朝倉高校、西南学院大学を経て、IT業界に35年従事。10年ほど前から、大阪市本町にて
	歴史倶楽部を主宰し、現在会員30名。同時に「邪馬台国大研究」HPを立ち上げ、現在アクセス数は120万を越える。
	大阪府吹田市在住。

	<邪馬台国の所在とその行方> 	−筑後川北岸の、日田−吉野ヶ里の範囲のどこかに、邪馬台国はあった− 

	●中国正史においては、邪馬台国は帯方郡から南へ南へと降ってきた所にあり、さらにその南に、敵対する「狗奴国」があ
	るという位置関係は一致している。
	●南北の軸に対し東西の線、即ち、「女王国より東、海を渡ること千余里」の「別の倭種」は倭人伝の対象になっていない。つま
	 り北九州が、「魏」から見た「倭」であり、「倭人」たちの国だった。「魏志」以前の認識では、未だ日本列島に王権は成立し
	 ておらず、正史に書かれている国々と、魏から見た「倭」の領域はほぼ「九州島」に限定されている。

	

	●「宋書」における倭王「武」の、「寧所に暇あらず」、「東は毛人」「西は衆夷」を征服したという上表文では、明らかに倭の
	 中心は畿内にある。これは「隋書」以後の中国正史も同じで、王権が畿内に成立した時期以降の認識と見て良い。
	●中国人の目に「国」として認識された領域が、当時三十ばかりあった。そして、末廬国、伊都国、奴国などを見てもわかるよう
	 に、当時の国々の領域は極めて小さい。現在の市町村程の領域が当時の国である。そして30の国々は北九州のエリア内にすっぽ
	 りと収まってしまう。邪馬台国が近畿にあったとすると、それを取り巻く国々が30というのはあまりに少なすぎる。北九州から
	 近畿までの間にクニと認識されてよい領域はごまんとある。魏志倭人伝には300くらいの国の名が記録されていないとおかしい。
	 倭人伝が対象にしている「倭」の範囲は、韓国南部から北九州の範囲を指している。

	

	●矢の先は鉄鏃または骨鏃。」という記事は注目。弥生時代の「鉄鏃」の出土は圧倒的に北九州、それも福岡県に集中している。
	 福岡県からは398個が出土しているのに対して、奈良県からは僅かに4個である。その他の例も多々あり、考古学から見ても倭人
	 伝の記述は北九州を対象としている事がわかる。

	

	●どこかを無視しなければ「説」は成り立たない。
	 不弥國から南へ水行で二十日かかると投馬國へ到着し、さらに南へ水行十日、陸行一月で「邪馬台国」と言うことになる。奴國
	 が博多湾岸から春日市のあたりだと想定すると、東の不弥國は、従来通り宇美町・飯塚市・嘉穂郡あたりになり、その南は三井
	 郡から甘木朝倉地方、或いは浮羽郡・久留米市を含むエリアが考えられるが、水行の意味が不明だし、川を降っても(どの河か
	 が問題になるが、宝満川あたりか。)1日で下ってしまう。20日もかからない。有明海へ出て、更に筑後川を遡り甘木・朝倉へ
	 行くことはできるが、これとて4,5日もかからない。更に、その投馬國から水行十日、陸行一月と言うことになるともうお手上
	 げである。倭人伝に言う方角や日程や距離の情報はどこまでが正しいのか?全部が正しいとしたら、この記事からは今の所邪馬
	 台国は判明しないと言うことになる。「これは出鱈目、伝聞。」とか「一月は一日の誤り。」などとどこかを無視しなければ
	 「説」は成り立たないようになっている。

	

	●帯方郡から邪馬台国までの里数は計12,000里である。これから「奴国」までの里数を引くと「奴国」から邪馬台国までは
	 1300−1500里くらいしかない。これは短里と呼ばれる80m−100mで計算すると110-140kmにあたる。つまり博多から百数十kmの所
	 に邪馬台国があった勘定だ(陸行、水行はこの際無視)。また、LANDSATから写した九州の写真を見ると、多数の人が暮らせそう
	 な平野は、北九州では有明海北岸、筑後川流域しかない。状況的には筑後川北岸の、日田−吉野ヶ里の範囲のどこかに、邪馬台
	 国はあったと考えたい。文献と考古学と地理学が一致している。またこの流域で、在までの所、邪馬台国を彷彿とさせる遺跡は
	 「吉野ヶ里」しかない。

	

	●邪馬台国と狗奴国との間の闘争は一応の停戦状態になり、邪馬台国も狗奴国もしばらくはともに存続していた。以前は、その後
	 邪馬台国が東遷し近畿勢を打ち負かしてヤマト王朝をうち立てたという「邪馬台国東遷説」の立場に立っていたが、最近どうも
	 違うのではないかと思うようになった。全国の古墳からの出土物を見ると、日本の社会は卑弥呼以後の 150年間に本格的な軍事
	 政権の到来を見る。夥しい馬具に武具、鉄剣に弓矢といった闘いの日々の中に古墳の埋葬者たちは生きていた。とても1女子を
	 女王として擁立し、それで国中が平和に収まるというような生やさしい社会ではなかった。刺し殺し、首をはね、目玉をえぐる
	 というような残虐な闘いが100年以上続いた。「宋書」に登場するいわゆる「倭の五王」たちは、王そのものが武力に秀でた絶
	 対君主のような存在だった。「王自ら甲冑を纒い山河を駆けめぐって、寧所に暇あらず。」とある。この時代になると馬が大量
	 に日本にも移入され、軍事力は邪馬台国の時代とは比べものにならない規模に発展していたと考えられる。シャーマンとしての
	 卑弥呼、年端もいかない壱与。邪馬台国時代の統治を考えると、とてもこの連合国家が日本を武力で統一したとは考えにくい。
	 武力を保持しない女王をたてる事で、あえて国中を治めようとした倭国連合の人々の感性は、この激動の4世紀には通用しなかっ
	 た。

	

	●邪馬台国は、台頭してきた渡来系の新興集団によって滅ばされ、あるいは取り込まれて歴史から消えていったという可能性が大
	 である。4世紀には大和を中心に各地に古墳が築造され、明らかにそれまでとは異質な民族たちの大量移入を思わせる証拠が山
	 ほど残されている。それは「邪馬台国時代」とは異なる文化である。」

	



	<補遺>

	■卑弥呼の時代、日本は未だ統一には至っていない。「漢書」には別れて百余国となっているし、後漢になって朝貢した国でも一
	つは「奴国」で一つは倭の「面土国」である。三国時代になっても、倭の女王国は三十国を従属させているとは言っても、南には
	狗奴国と敵対し、東には「皆倭種」の国々が控えている。これはとても大和朝廷(或いはその前身)によって倭が統一されている
	状態とは言い難い。もし日本が統一されていたとすると、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」という一文は全く意味をな
	さない。同時期、朝鮮半島では馬韓は50余国にわかれ、辰韓、弁韓も12国に別れて争っていた。日本だけが統一されていたと
	いう見方は、東アジアの状況を全く無視し、倭だけが特殊な民族であったとする、「天皇陛下万歳!」時代の史観と全く変わりが
	ない。古墳の築造時期を古く古く持って行こうとし、大和朝廷による統一が、既に弥生時代には成立していたと言うことにしたい
	人たちは、形を変えた「皇国史観」の持ち主である。

	■ではいつ頃日本は統一されたのか。卑弥呼が魏に朝貢したのは 238-247年の頃であるが、はまだ統一には至っていない。高句麗
	の好太王の碑文によれば、日本は辛卯の年(391)には大挙して朝鮮半島に兵を出し、400年前後には京城付近まで進出して高句麗
	と争っている。これはとても九州の一隅の兵力では不可能だろう。「日本書紀」や朝鮮の「三国史紀」などによれば 360年頃から
	日本は百済と関係を持っている。これらを考えると、日本は3世紀の半ば頃にはまだ統一されていないが、4世紀の初めから前半
	には既に統一されていたと思われる。これは馬韓50余国が統一されて百済となり、辰韓12国が統一して新羅となったのとほぼ同一
	時期である。
	この、短期間に成立した日本の統一はいかにして成ったのか。邪馬台国が東遷して大和朝廷になったと考えると悩まなくて済むが、
	私にはまだ何か別の要因があるような気がして仕方がない。北九州の高天原から南九州へ移動した一団がほんとにいたと解釈すれ
	ば、宮崎に残る西都原古墳群や日向神話の持つ意味も理解できる。「高天原=邪馬台国」から日向へ降りてきたニニギは、日向で
	勢力を発展させるが、では北九州に残った邪馬台国はどうなったのだろうか。	依然として勢力を保っていたのなら、東遷するの
	は北九州の高天原でなくてはならない。しかるに、近畿を平定するのは日向に住んだイワレビコなのだ。
	安本美典説では、歴代天皇の平均在位数の計算から、天皇の在位期間は、過去にさかのぼればさかのぼるほど短くなる。そして一
	代の天皇の平均在位年数は約10年とする。これは日本だけでなく、中国の王の在位年数の場合も、西洋の王の場合も同じ傾向を
	示している。ここから導き出される結論は、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えても、神武天皇の活躍した時代は280年
	から290年くらいにしかならない。つまり大和朝廷の一番初め、邪馬台国の時代に届かないことになる。
	つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後である、ということになるのである。これは、邪馬台国=弥生時代、神武以後=古墳時
	代という史観と合致する。
	■私は九州からの勢力が東へ東へと進み大和朝廷を築き上げたと考える説に賛同する。それは中国の文献や我が国の考古学の成果
	とも、今の所は一番合致していると考えるからである。しかし神武天皇に比定される人物、或いは一団が、ほんとに日向から来た
	のか、それとも九州の他の地域から来たのかまでは、わからない。だが明らかに、弥生時代から古墳時代に移り変わる我が国の考
	古学上の状況は、西から新しい文化文明が東へ移ってきたことを示しているし、奈良盆地の中に縄文人が古くから住み付き、純粋
	な日本人として培養されて、やがて稲作を取り入れ、農耕具や青銅器を自分たちで考えたとはとうてい思えない。それらは明らか
	に西の九州から来たのであり、厳密に言えばそれは北九州で、更にその源は朝鮮半島であり、中国大陸である。そしてそれらは、
	散発的な移動はともかく、神武東遷に象徴される、北九州の一団によって近畿地方にもたらされたものとする考え方が一番合理的
	である。




二番手 矢野くーん
	
	<矢野寿一プロフィ−ル>
	朝倉市十文字生まれ、朝倉高校、中央大学を経て保険関連企業へ。現在は退社して、福岡市でIT関連人材の派遣などを行う会社
	を経営。社長業の傍ら、それまで考え続けてきた邪馬台国についての自説を世に問うため、08年に『波濤万里 邪馬台ニ至ル』を
	梓書院から上梓。この本の序に同級生である井上筑前が寄稿した「『波濤万里 邪馬台ニ至ル』を推さず」との一文があるように、
	朝倉出身ながら〈畿内説〉を唱えているため「裏切り者」を自認する。福岡県筑紫	野市在住。

	邪馬台国は畿内大和であり、新解釈で投馬国は多摩	海の道は順次式に辿るのでなく放射的に

	『魏志倭人伝』をどう読むかが課題のようになっているが、私は中国の「正史」は極めて正確であると考える。邪馬台国を比定す
	るには、持論に沿って仮説を展開するのではなく、蓋然性の高い仮説をいくつか組み立て、邪馬台国自体も行程の中の一国として
	倭人伝を読むべきである。
	そこで行程の読み方だが「水行」の場合は≪放射式≫に、「陸行」は≪順次式≫に読む。水行を放射式に読むというのは私以外唱
	えていないと思うが、海はまっすぐに目的地に伸びており、陸とは違うからである。倭人伝の中に≪魏王に生口(奴隷)160人を
	献じた≫とあるが、そのためには300〜500人の団体が海を渡って行ったことになる。古代の日本は海洋国家であり、交易が盛んに
	行われていたのである。重要なのは、どの本にも帯方郡から狗邪韓国、末盧国までは順次式で書いてあるが、これは間違いだとい
	うこと。放射式に読まなければいけない。そうしなかったから、混乱が起きている。

	また、行程にも関連するが、倭人伝を書いた陳寿は倭国の位置を会稽東冶(福建省福州市)に位置させるために、帯方郡の報告にあ
	った「東」を「南」に訂正し、全体を整合させるため、末盧国から先の方角を90度時計回りに置き変えたのではないかと考えている。
	これらを踏まえ、倭人伝の戸数記述から人口を推測し、一人当たり1反の水田耕地面積を試算したとき2万戸を擁する奴国を基準
	にすれば、邪馬台国は3万5千fの広さが必要となる。平成15年の島根県が3万4千fだから、いかに広いかということだ。同様
	にしてみれば、狗奴国、投馬国の4国はそれぞれ、筑紫、大阪、濃尾、関東平野以外には存在しないと思う。

	卑弥呼の都は桜井市纏向遺跡付近

	結論としては各国の位置を次のように比定する。
	●邪馬台国は畿内大和で王都は奈良県桜井市の纏向遺跡付近とする。
	●投馬国は東京南部の多摩地方とし、政庁は府中市付近か多摩丘陵に存在した。これは新説で、関東がこれまであまり注目されて
	 いなかったが、考古学的な見地からもそこに強力な国があったことは間違いない。
	●狗奴は三重県桑名市多度付近とする。多度の航空写真を見るとその地形に驚かれるはず。
	●奴国は福岡平野にあり、政庁は福岡市東区の香椎宮付近。
	●不弥国は宗像市付近にあった。
	●伊都国から帯方郡にいたる国については従来説と同じ。
	詳細はhttp://yamatoentaku.comで。








三番手 鷲崎さーん
	鷲崎さんは、例によって40頁にも及ぶ資料を配付していた。何せご自分の著書からの抜粋なので、ホントはもっと添付したかった
	のかもしれない。著書は600頁なのだ。いつものように、邪馬台国宇佐説を語っていたが、今回は年輪年代法や炭素14年代法にも
	かみついていた。
	今回は、頼んでいた梓書院からも西日本新聞からも写真が送って来なかったので、写真がない。又、以下は鷲崎さんの資料からの
	抜粋である。










四番手 福島さーん
	「今日の講習を聞いて、もしここに、よし!俺が邪馬台国を見つけてやる、とか考えている人がいたとしたら、無駄ですからど
	うぞおやめ下さい。もう私が見つけております。」という発言に、会場大爆笑。「女王はどこに居られる?」「山たい!」で又
	爆笑。ほんとに食えない、愛すべき爺様である。講演会などは、おもしろおかしくでいいのだ。











クリックすれば大きな地図に。





	以下は、私と矢野君の同級生、「調君@4組」が、この日会場の一番前に陣取ってレポートしてくれた内容である。彼はこの日の
	主催者である西日本新聞社の子会社の社長で、新聞にも多くの記事を書いている。この日の模様も勿論新聞に載ったが、彼が書い
	たのかどうかは定かでない。


	福岡県立朝倉高校21回生のBLOG    昭和44年卒業

  	2009/11/18	「同窓生の動き 同級生で熱く「邪馬台国」バトル

	九州国立博物館 邪馬台国シンポジウム、	21回生の井上修一、矢野壽一両氏が講師に

	 近畿か九州かで大きく意見が分かれて論争が続く邪馬台国の所在地。どこにあったのかは大きな関心を呼んでいるが、11月8日
	に太宰府市の九州国立博物館で開かれたシンポジウム「邪馬台国はここにあった」(西日本新聞社主催)で、朝倉高校21回卒のアマ
	チュア歴史家である井上修一(HN筑前)氏および矢野壽一氏の二人がそれぞれの研究結果を披露した。
	 300人の古代史ファンを集めたこの企画は、同博物館で開催されている「古代九州の国宝」(29日まで)の関連イベント。第一部は
	畿内説の最も有力な候補地とされる奈良県桜井市纏向(まきむく)遺跡の発掘を担当している同市教委の橋本輝彦氏と、九州説の
	ポイントの一つ吉野ヶ里遺跡を発掘した高島忠平佐賀女子短大学長が、それぞれの立場で最前線のニュースを紹介した。
	 第2部には在野の研究4人が講師として招かれていて、邪馬台国の所在地を井上氏(大阪府)は「日田〜吉野ヶ里説」、矢野氏(筑
	紫野市)が「畿内説」、鷲崎弘朋氏(東京都)が「宇佐説」、福嶋正日子氏(久留米市)の「筑後説」と、それぞれが自説を熱くアピール
	した。	 (リポート、写真は21回卒 調@4組)


	邪馬台国は畿内大和であり、新解釈で投馬国は多摩
 
	◆矢野壽一氏プロフィル

	
	 朝倉市十文字生まれ、朝倉高校、中央大学を経て保険関連企業へ。現在は退社して、福岡市でIT関連人材の派遣などを行う
	会社を経営。社長業の傍ら、それまで考え続けてきた邪馬台国についての自説を世に問うため、08年に『波濤万里 邪馬台ニ至ル』
	を梓書院から上梓。この本の序に同級生である井上筑前氏が寄稿した「『波濤万里 邪馬台ニ至ル』を推さず」との一文があるよ
	うに、朝倉出身ながら〈畿内説〉を唱えているため「裏切り者」を自認する。福岡県筑紫野市在住。

	■矢野氏のシンポジウム発言要旨抜粋

	 ●海の道は順次式に辿るのでなく放射的に

	 『魏志倭人伝』をどう読むかが課題のようになっているが、私は中国の「正史」は極めて正確であると考える。邪馬台国を比定
	するには、持論に沿って仮説を展開するのではなく、蓋然性の高い仮説をいくつか組み立て、邪馬台国自体も行程の中の一国とし
	て倭人伝を読むべきである。
	そこで行程の読み方だが「水行」の場合は≪放射式≫に、「陸行」は≪順次式≫に読む。水行を放射式に読むというのは私以外唱
	えていないと思うが、海はまっすぐに目的地に伸びており、陸とは違うからである。倭人伝の中に≪魏王に生口(奴隷)160人を
	献じた≫とあるが、そのためには300〜500人の団体が海を渡って行ったことになる。古代の日本は海洋国家であり、交易が盛んに
	行われていたのである。《写真は矢野壽一氏》    
	 重要なのは、どの本にも帯方郡から狗邪韓国、末盧国までは順次式で書いてあるが、これは間違いだということ。放射式に読ま
	なければいけない。そうしなかったから、混乱が起きている。
	 また、行程にも関連するが、倭人伝を書いた陳寿は倭国の位置を会稽東冶(福建省福州市)に位置させるために、帯方郡の報告に
	あった「東」を「南」に訂正し、全体を整合させるため、末盧国から先の方角を90度時計回りに置き変えたのではないかと考えている。

	 これらを踏まえ、倭人伝の戸数記述から人口を推測し、一人当たり1反の水田耕地面積を試算したとき2万戸を擁する奴国を基準
	にすれば、邪馬台国は3万5千fの広さが必要となる。平成15年の島根県が3万4千fだから、いかに広いかということだ。同様
	にしてみれば、狗奴国、投馬国の4国はそれぞれ、筑紫、大阪、濃尾、関東平野以外には存在しないと思う。

	 ●卑弥呼の都は桜井市纏向遺跡付近

	 結論としては各国の位置を次のように比定する。
	◆邪馬台国は畿内大和で王都は奈良県桜井市の纏向遺跡付近とする。
	◆投馬国は東京南部の多摩地方とし、政庁は府中市付近か多摩丘陵に存在した。これは新説で、関東がこれまであまり注目されて
	 いなかったが、考古学的な見地からもそこに強力な国があったことは間違いない。
	◆狗奴は三重県桑名市多度付近とする。多度の航空写真を見るとその地形に驚かれるはず。
	◆奴国は福岡平野にあり、政庁は福岡市東区の香椎宮付近。
	◆不弥国は宗像市付近にあった。
	◆伊都国から帯方郡にいたる国については従来説と同じ。
	詳細はhttp://yamatoentaku.comで。


	※     ※     ※


	邪馬台国は筑後川北岸の日田から吉野ヶ里の間に
 
	◆井上修一(筑前)氏のプロフィル

	
	 朝倉市秋月生まれ、朝倉高校、西南大学を経てIT業界に35年。10年ほど前から大阪で歴史倶楽部(30人)を主宰。同時にHP
	『邪馬台国大研究』を立ち上げ、現在120万ビューを超える。邪馬台国関連のサイトでは最も訪れる人が多い。09年1月にはHPの
	集大成ともいうべき『邪馬台国大研究』を梓書院から上梓。大阪府吹田市在住。

	■井上氏のシンポジウム発言要旨抜粋

	 ●どこかを無視しないと【説】は成り立たない

	 まず、結論から言えば邪馬台国の所在地は上記の通りだと考える。それだけ広ければどこかにあるだろうという人も多いが、特
	定の場所を絞り込むには確信できる証拠が足りない。ただ、この地域にあったという根拠を述べる。
	 私は秋月で育ったが、5キロほど離れた甘木の町に行くのに、まったく違うところに足を踏み入れているような感じだった。昔の
	クニの単位もそんなもので、今でいう市、町、村のようなものだったと思われる。それらが寄せ集まったのが倭という国家である。
	《写真は井上修一氏》 
 
	『魏志倭人伝』には邪馬台国を取り巻くクニが30ほどあると記されているが、当時、もし邪馬台国が近畿にあったとすれば、300く
	らいの国名が記されていないといけない。だから、倭人伝が対象とする倭国とは韓国南部から北九州の範囲を示していることになる。
	 邪馬台国を探るキーワードのようになっている「南へ水行十日、陸行一月」などの文字はその一つ一つが正しいとすればお手上げ
	である。どこにも邪馬台国は存在しないことになる。「一月は一日の誤り」などとどこかを無視しないと【説】は成り立たないので
	ある。

	 ●考古学的にみて北部九州である

	 考古学的にみて、一番印象的なのは鉄器。倭人伝には鉄の鏃(やじり)が使われていると記すが、弥生時代の鉄鏃の出土状況をみ
	ると、福岡県から398個も出ているのに対し、奈良県からはわずか4個しか発見されていない。また、倭人伝には絹の記述が見えるが、
	朝倉市の栗山遺跡から一般人と思われる絹を着た人骨が出土した。吉野ヶ里もそうだが、こちらでは絹は結構出ているのに、近畿に
	はほとんど出土例がない。これらからも魏志倭人伝は北九州エリアのことを記述していると結論付けられる。
	 倭人伝には人口7万人の生活エリアが広がっているとされるが、昔の平野部を考えれば邪馬台国は筑後川周辺エリアにあったと想定
	できるし、戦い続けている南の狗奴国は熊本の平野部にあったというように考えてもおかしくない。

	 ではその邪馬台国はその後どうなったのか? 戦乱の時代があって、渡来してきた馬などを使いこなす集団に滅ぼされ、または取
	り込まれて歴史から消えていったのではないかと考える。4世紀には大和を中心に新たな古墳が築造され、新たな文化が広がっている。
	それは九州の邪馬台国を消滅させた人々が、東へ東へと進み、大和政権を築き上げたのではないかと考えられる。その源は朝鮮半島
	であり、中国大陸である。
	自説の詳細はHP「邪馬台国大研究」 http://inoues.net/index.htmlへ。








上は、前夜、今日の弁士四人で呑んだ二日市駅前。下は帰阪した大阪の夜景。




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