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			1.日本神話概略
			
			我が国古代の伝承を今日に伝えている書物は,古事記と日本書紀の二つだけである。古事記も日本書紀もいわゆる
			神代時代から始まって,古事記は第三十三代推古天皇まで,日本書紀は第四十一代持統天皇までの事跡を扱ってい
			る。古事記は前半部分の方が詳しく,日本書紀は後半部分の方が記事が詳しくなる。又,古事記の方が古くからの
			言葉をそのまま残そうとしている。現在では母音はあいうえおの五つしかないが,古事記は当時八つあった母音を
			異なる漢字で書き分けている。ともかく,それぞれ研究の対象に選べば,それだけで一生費せそうな内容を持った
			重要な文献である事は間違いない。この二つの書物の初めの内容はいずれも神話であり,古事記の上巻は大きく五
			つに分かれている。

			.國生み神話.....天地開闢(かいびゃく)から,イザナギ,イザナミの話が中心。       
			.高天原神話.....アマテラスとスサノオを中心とした,神の國高天原での話。         
			.出雲神話.......高天原を追放されたスサノオが出雲で退治する八俣のオロチや因幡の白兎の話。
			.日向神話.......天孫降臨から,海幸彦・山幸彦等の物語。                 
			.神武東征神話...日向の高千穂から東を目指して遠征する神武天皇の東征記。         
		
			日本神話とは、「古事記」と「日本書紀」の両書に載せられた神話を総称するときの呼称である。一部、地方の
			「風土記」の記述も加わる。神話は、高天原の神々を中心とする記述がその大半を占める。その出典となる文献は
			決して多くはない。本来日本各地には、それぞれの形で何らかの自然信仰や伝承があったと思われるが、大和王権
			の支配が広がるにつれてそのいずれもが国津神(くにつかみ)または「まつろわぬ神」という形に歪められて「高
			天原神話」の中に糾合されてしまったと考えられている。後世まで大和王権などの日本の中央権力の支配を受けな
			かったアイヌや琉球には、それぞれの独自の神話が存在している。
			「記紀の概要」の項で記述したように、古事記上巻は「序」と「神代」で構成され、日本書紀全30巻の構成は、
			1・2巻を神代上・下として神話の記述にあてている。ここに書かれた「国生み」や「高天原」「大国主命」の物
			語などを日本神話と呼ぶのであるが、最近は教科書にもその内容が記述されないので、我が国は世界でも希有な、
			自国民が自国の神話を知らない民族になりつつある。

			和銅5年(712)に成立した古事記と、養老4年(720)に成立した日本書紀とでは、みてきたようにその書物の性
			格や内容も違っており、文体も、前者は和語を交え変体漢文、後者は純粋漢文で書かれているが、ともに、天地の
			始まり(開闢神話)から初代天皇・神武の誕生に至る神々の物語を語っている。共通する素材や内容をもつ一方で、
			大きく異なる部分も持っており、両者を一括して見つめる視点とともに、独立した資料として捉えることも必要で
			ある。日本書紀は本文の伝承のほか、複数の異説を「一書に曰く」として記載している。
			記紀神話の全体は、開闢神話から始まり、イザナキ・イザナミによる国生み神話、アマテラスとスサノヲの対立を
			語る高天原神話、スサノヲの追放から大国主神の地上統一を描く出雲神話、大国主神の国譲りからニニギの命の地
			上降臨を中心とした天孫降臨神話、ニニギ・ホヲリ・ウガヤフキアヘズという天孫三代の日向神話によって構成さ
			れており、その成立の意図が、天皇家の地上支配のいわれとその正統性を語ることにあるとされてきたのは、これ
			まで見てきたとおりである。それゆえに、記紀神話は国家神話・王権神話と呼ばれ、天皇家の神話と呼ばれる。
			もちろん、個々の神話の背後には民間に伝承されていた神話群があったはずだし、文字化される以前には、語部に
			よる音声の伝承があったはずだが、それらは風土記を除けば今は一切残されていない。

			「書紀」では最初の神はクニノトコタテノミコトである。しかし記紀2書ともにイザナギ・イザナミ以前は、タカ
			ミムスビ(高御産巣日:高木の神)以外はただ名前の羅列であって特記する記事もない事から、神話が完成してい
			く過程で適当に加筆されたものと考えられる。
			この後神話は以下のように続いていく。イザナギ・イザナミによる日本列島の生成や神々の創造。イザナギが黄泉
			の国から逃げ帰って禊ぎを行った際、右目からツクヨミ、左目からアマテラス、そして鼻からスサノオが出現する。
			スサノオの狼藉やアマテラスの岩戸籠もり。スサノオは高天原を追われ出雲へ流される。スサノオはここで八俣大
			蛇(ヤマタノオロチ)を退治してクシナダヒメと結婚する。「古事記」ではこの六代後にオオクニヌシ(大国主)
			が出現するが、「日本書紀」ではオオクニヌシはスサノオとクシナダヒメの直接の子供という事になっている。
			オオクニヌシは幾つか別名を持ち、「因幡の白ウサギ」など多くの逸話が残っているが、これは本来別々の話であ
			ったものがオオクニヌシの話として集大成されたものとの見解が有力である。オオナムチという名は「日本書紀」
			におけるオオクニヌシの呼び名である。アマテラスは、出雲の国は自分の子が支配すべきであると考え、タカミム
			スビと図って出雲に圧力をかける。オオクニヌシは出雲の国を高天原に譲り、豪壮な宮殿で隠居する(のちの出雲
			大社という説が有力)。この国譲りの後、ヒコボノニニギが高千穂の峯に降ることになる。(天孫降臨)ヒコボノ
			ニニギから三代に渡って日向に住んだ神々を日向三代と呼ぶ。そしてカムヤマトイワレヒコが東を目指して遷都の
			旅に出る。これを「神武東遷」と言い、イワレヒコは神武天皇と呼ばれ奈良の橿原に都を定め、天皇家の始祖とな
			る。ここまでの物語が「記紀」にいう所謂日本神話である。 




			2.古事記の神々

		
			天地の始め高天原に、天之御中主神 (アメノミナカヌシノカミ)・高御産巣日神 (タカミムスヒノカミ) ・神産巣
			日神 (カミムスヒノカミ)の三神が現れ、続いて、国土がまだ水に浮く油のようでクラゲのように漂っている時に、
			宇摩志阿斯訶備比古遅神 (ウマシアシカビヒコジノカミ)・天之常立神 (アメノトコタチノカミ) の二神が現れる。
			この五神は「特別/別格」という意味合いで「別天津神」(ことあまつかみ)と言う。この五柱の神は、特に性別
			はなく、身を隠してしまった。(この、身を隠すという表現はどうもよく分からない。)次に「神世七代」(かみ
			よななよ)と言って、国之常立神 (クニノトコタチノカミ) ・豊雲野神(トヨクモノノカミ)の独神(ひとりがみ)
			が二代、、その後男女二神の対偶神が五代続く。国之常立神と豊雲野神もまた性別はなく、またこれ以降神話には
			登場しない。これに引き続く五組十柱の神々は、それぞれ男女の対の神々であり、以下、左側が男性神、右側が女
			性神である。
		
			宇比地邇神 (ウヒジニノカミ)			須比智邇神 (スヒジコノカミ) 
			角杙神 (ツノグヒノカミ)				活杙神 (イクグヒノカミ) 
			意富斗能地神 (オホトノジノカミ)			大斗乃弁神 (オホトノベノカミ) 
			於母陀流神 (オモダルノカミ) 			阿夜訶志古泥神 (アヤカシコネノカミ) 
			伊耶那岐神 (イザナギノカミ) 			伊耶那美神 (イザナミノカミ) 

			以上の七組十二柱の神々を総称して神世七代という。神世七代の最後に、イザナギ、イザナミが現れる。以上は
			「古事記」の神話部分冒頭の記述で、「日本書紀」における神々の系譜は若干違った構成をとり、また神の名もか
			なり異なっている。


				





			3.日本書紀の神々

		
			日本書紀における天地開闢の場面は、性別のない神々の登場、(巻一第一段)と男女の別れた神々の登場(巻一第
			二段・第三段)に分かれ、古事記と内容が違う。さらに異説も存在する。
			書紀によれば、太古、天と地とは分かれておらず、互いに混ざり合って混沌とした状況にあった。しかし、その混
			沌としたものの中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。そして、その中から、
			神が生まれるのである。天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが神となる。国常立尊(クニノトコタ
			テノミコト)・国狭槌尊(クニノサツチノミコト)・豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)である。これらの神々には、
			性別がなかった。この部分については以下のように6つの異説がある。

			(1).一書によれば、天地の中に生成されたものの形は不明である。しかし、これが神となったことは同じで、
				生まれた神々は次の通りである。幾つかの神々は別名を持つ場合があるが、ここでは一つに限っている。
				国常立尊(クニノトコタテノミコト)
				国狭槌尊(クニノサツチノミコト)
				国狭立尊(クニノサタチノミコト)
				豊国主尊(トヨクニムシノミコト)
				豊組野尊(トヨクムノノミコト) 
				豊香節野尊(トヨカブノノミコト) 
				浮経野豊買尊(ウカブノノヨヨカフノミコト) 
				豊国野尊(トヨクニノノミコト) 
				豊齧野尊(トヨカブノノミコト) 
				葉木国野尊(ハコクニノノミコト) 
				見野尊(ミノノミコト) 
			(2).一書によれば、天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが、神となったとされる。すなわち、本
				文と同じ内容であるが、神々の名称が異なる。 
				可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト) 
				国常立尊(クニノトコタチノミコト) 
				国狭槌尊(クニノサツチノミコト) 
			(3).第3の一書でも、生まれた神々の名が異なる。なお、生まれた神は人のような姿をしていたと描写されてい
				る。
 				可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト) 
				国底立尊(クニノソコタチノミコト)
			(4).一書の4番目は、生まれた神々の名は下の通りである。この異伝は、古事記の記述に類似している。
				国常立尊(クニノトコタチノミコト) 
				国狭槌尊(クニノサツチノミコト)
			これらの二柱の神々の次に、高天原に生まれたのが、下の三柱の神々である。 
				天御中主尊 (アメノミナカヌシノミコト) 
				高皇産霊尊 (タカミムスビノミコト) 
				神皇産霊尊 (カミムスビノミコト) 
			(5).第5の一書によれば、天地の中に葦の芽が泥の中から出てきたようなものが生成された。これが、人の形
					をした神となったとされる。本文とほぼ同じ内容であるが、一柱の神しか登場しない。
			国常立尊(クニノトコタチノミコト)
			(6).第6の一書も、本文とほぼ同様に、葦の芽のような物体から神が生まれた。ただし、国常立尊は漂う脂のよ
				うな別の物体から生まれた。
				天常立尊(アメノトコタチノミコト) 
				可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコチノミコト) 
				国常立尊(クニノトコタチノミコト)

			渾沌から天地がわかれ、性別のない神々が生まれたあと、男女の別のある神々が生まれることとなる。本文によれ
			ば、四組八柱の神々が生まれた。四組の神々は、それぞれ男女の対の神々であり、以下の左側が男性神、右側が女
			性神である。
		
			■土煮尊(ウヒジニノミコト)			沙土煮尊(スヒジニノミコト) 
			大戸之道尊(オホトノジノミコト)		大苫辺尊(オホトナベノミコト) 
			面足尊 (オモダルノミコト)			惶根尊 (カシコネノミコト) 
			伊弉諾尊(イザナギノミコト)			伊弉冉尊(イザナミノミコト) 

			日本書紀本文によれば、国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊に、以上の四組八柱の神々を加えたものを総称して神世七
			代という。これも一書によれば、四組八柱の神々の名が異なっている。これらの神々の血縁関係は、本文には記さ
			れていないが、一書の中には異伝として、記されている。









			4.日本神話の記事

			(1).天地開闢(かいびゃく)(2.古事記の神々、3.日本書紀の神々を参考。)

			神話の冒頭は、世界中のどんな民族でも神々と国土の創世物語から始まる。天と地はどのようにして生まれ、神々
			はどうやって人間の世に出現したか。国土はどうやって形成されていったのか。日本神話もほぼ同様の記事から始
			まっているが、日本の古代神話は、他の民族によく見られるような、一人の神や英雄が建国したというような形は
			とらず、これまで見てきたように各地にあった伝承や全国の有力者の家に伝わってきた物語を集大成し、それを天
			皇家の国土支配の正当性に結びつけている。例えば、現存する「出雲の国風土記」などは、実にユニークな出雲建
			国の物語を残しているが、記紀にはそれらは一切除外されている。
			大和朝廷は、みずからの政治的意図に基づいて神話を構成し、それを補う物として、各部族にあった伝承を採用し
			たものと思われる。しかしながら、日本書紀ではこれらの伝承を6つの「別伝(一書に曰く)」として紹介したり
			しているが、それは公平に各部族の伝承を記録として紹介した物ではなく、あくまでも参考として掲げているにす
			ぎない。(3.日本書紀の神々を参考。)
			「2.古事記の神々、3.日本書紀の神々」で見たように、神話は天地開闢の後に多くの神々を創出しているが 古
			事記と日本書紀では神々の名前は異なるものの、似通った名前の神もある。傾向としては、どうも古事記が、書記
			の別伝にあった伝承を採用しているようである。三神や五神、神代七代というような数字から、三五七という中国
			思想の聖数がとり入れられているという説もある。

			(2).国産み

			古事記によれば、大八島は次のようにして生まれた。
			イザナキ・イザナミの2神は、別天津神たちに漂っていた大地の完成を命じられる。別天津神たちは、天沼矛(あ
			めのぬぼこ)を2神に与えた。イザナキ・イザナミは、天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛で、渾沌とし
			た大地をかき混ぜる。この時、矛から滴り落ちたものが、積もって島となった。この島を淤能碁呂島(おのごろじ
			ま)という。2神は、淤能碁呂島に降り立って、SEXをする。一般的には、この2神は兄妹(或いは姉弟)であ
			るとされている。アマテラスとスサノヲの関係にもあるように、日本古代の支配形態における異性の兄弟がはたす
			役割は、他の民族には余り見かけないものがある。日本の国は近親相姦から始まっているのである。イギリスの言
			語学者チェンバレンは、「いかに原始社会の事とはいえ、イザナキ・イザナミのSEXの場面はワイセツそのまま
			の表現で、こんな神話は世界のどこの文献にもない。」と批評している。そのSEXの様子は、
			古事記から引用すると、

			イザナキ 「そなたの体はどのようになっているか?」 
			イザナミ 「私の体には、欠けているところが1ヶ所あります。」 
			イザナキ 「私の体には、出っ張ったところが1ヶ所ある。そこで、私の出っ張ったところを、あなたの欠けてい
				 るところに補って国を作りたいと思うがどうだろう。」 
			イザナミ 「いいと思います。」
 
			こうして、2人は性交を始める。しかし、この性交の前に、女性であるイザナミのほうから男性のイザナキを誘っ
			たために、ちゃんとした子供が生まれなかった。最初に産まれた子供は、水蛭子(ひるこ)であり、2人はこの子
			を葦舟に乗せて流してしまった。次に産まれたのは淡島(あはしま)であった。水蛭子と淡島は、イザナキ・イザ
			ナミの子供の内に入れない。ちゃんとした子供が生まれないので、2神は、天津神のもとへ行き、どうするべきか
			を聞いた。すると、占いによって、女から誘ったのがよくなかったとされた。そのため、ニ神は淤能碁呂島に戻っ
			て、再び性交をする。ここからこの兄妹神は、大八島を構成する島々を生み出していった。産んだ島を順に記すと
			下のとおりになる。

			・淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま) 
			・伊予之二名島(いよのふたなのしま) 胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。 
				愛比売(えひめ) 
				飯依比古(いひよりひこ) 
				大宣都比売(おほげつひめ) 
				建依別(たけよりわけ) 
			・隠伎之三子島(おきのみつごのしま) 別名は、天之忍許呂別(あめのおしころわけ) 
			・紫島(つくしのしま) 胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。 
			 	白日別(しらひわけ) 
		 		豊日別(とよひわけ) 
		 		建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ) 
		 		建日別(たけひわけ) 
			・伊伎島(いきのしま) 別名は、天比登都柱(あめひとつばしら) 
			・津島(つしま)    別名は、天之狭手依比売(あめのさでよりひめ) 
			・佐度島(さどのしま) 
			・大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま) 別名は、天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ) 

			以上の、8島が最初に生成されたことにより、日本のことを大八島国という。2神は、続けて、6島を産む。

			・吉備児島(きびのこじま) 別名は、建日方別(たけひかたわけ) 
			・小豆島(あづきじま)   別名は、大野手比売(おほのでひめ) 
			・大島(おほしま)     別名は、大多麻流別(おほたまるわけ) 
			・女島(ひめじま)     別名は、天一根(あめひとつね) 
			・知訶島(ちかのしま)   別名は、天之忍男(あめのおしを) 
			・両児島(ふたごのしま)  別名は、天両屋(あめふたや) 

			日本書紀の記述は、基本的にイザナキ・イザナミが自発的に動いて、国産みを進めていくものである(巻一第四段)。
			また、イザナキ・イザナミのことをそれぞれ陽神・陰神と呼ぶなど、陰陽思想の強い影響がうかがわれる。本書に
			よれば、古事記と同様に、イザナキ・イザナミは、天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛で、渾沌とした大
			地をかき混ぜる。この時、矛から滴り落ちたものが、積もって島となった。ただし、この時、他の天つ神は登場し
			ない。
			また、八という字は、もともとは「多い、大きな」という意味を表す「や(弥)」であったものを、後世数詞の
			「八」と理解したため無理矢理「八嶋」をもってこざるを得なくなったという指摘もある。それゆえに、八嶋の選
			びかたは各書によってばらばらで、今日から見ればなにか不自然な日本列島の構成になっている。別名として、島
			に神名を冠しているのは不明である。


			(3).神産み 

			大八島およびその他の小さな島々を産み終えたイザナキ・イザナミは、神々を産んだ。ここで、産まれる神は、風
			の神・木の神・野の神といったような自然にまつわる神々である。

			大事忍男神(おほことおしをのかみ) 
			石土毘古神(いはつちびこのかみ) 
			石巣比売神(いはすひめのかみ) 
			大戸日別神(おほとひわけのかみ) 
			天之吹男神(あめのふきおのかみ) 
			大屋毘古神(おほやびこのかみ) 
			風木津別之忍男神(かざもつわけのおしをのかみ) 
			大綿津見神(おほわたつみのかみ) 
			速秋津日子神(はやあきつひこのかみ) 
			速秋津比売神(はやあきつひめのかみ) 

			速秋津日子神と速秋津比売神は以下の神々を産んだ。

			沫那藝神(あはなぎのかみ) 
			沫那美神(あはなみのかみ) 
			頬那藝神(つらなぎのかみ) 
			頬那美神(つらなみのかみ) 
			天之水分神(あめのみくまりのかみ) 
			国之水分神(くにのみくまりのかみ) 
			天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ) 
			志那都比古神(しなつひこのかみ) 
			久久能智神(くくのちのかみ) 
			大山津見神(おほやまつみのかみ) 
			鹿屋野比売神(かやのひめのかみ) 	別名は、野椎神(のづちのかみ) 

			大山津見神と野椎神は以下の神々を産んだ。

			天之狭土神(あめのさづちのかみ) 
			国之狭土神(くにのさづちのかみ) 
			天之狭霧神(あめのさぎりのかみ) 
			国之狭霧神(くにのさぎりのかみ) 
			天之闇戸神(あめのくらどのかみ) 
			国之闇戸神(くにのくらどのかみ) 
			大戸惑子神(おほとまとひこのかみ) 
			大戸惑女神(おほとまとひめのかみ) 
			鳥之石楠船神(とりのいはくすぶねのかみ) 別名は、天鳥船(あめのとりふね) 
			大宜都比売神(おほげつひめのかみ) 
			火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ) 
			別名は、火之R毘古神(ひのかがびこのかみ) 別名は、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ) 

			ところが、火の神である迦具土神を出産したために、イザナミの女陰が焼けてしまい、イザナミは病気になった。
			イザナミは、病に苦しみながらも、吐瀉物などから次々と神を生んでいった。 

			金山毘古神(かなやまびこのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる) 
			金山毘売神(かなやまびめのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる) 
			波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ、イザナミの大便から生まれる) 
			波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ、イザナミの大便から生まれる) 
			彌都波能売神(みつはのめのかみ、イザナミの尿から生まれる) 
			和久産巣日神(わくむすひのかみ、イザナミの尿から生まれる) 

			和久産巣日神には以下の一柱の子がいる。 

			豊宇気毘売神(とようけびめのかみ) 

			イザナキは、イザナミの死に号泣した。この涙から、神がまた生まれた。

			泣沢女神(なきさわめのかみ) 

			そして、イザナキは、イザナミを比婆(ひば)の山に葬った。愛する妻を失ったイザナキはその怒りから、迦具土
			神を十拳剣で切り殺した。この剣に付着した血からまた神々が生まれる。なお、この十拳剣の名前を「天之尾羽張」
			(あめのをはばり)、別名を伊都之尾羽張(いつのをはばり)という。

			石折神(いはさくのかみ) 
			根折神(ねさくのかみ) 
			石筒之男神(いはつつのをのかみ) 

			以上三柱の神は、十拳剣の先端からの血が岩石に落ちて生成された神々である。

			甕速日神(みかはやひのかみ) 
			樋速日神(ひはやひのかみ) 
			建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ) 
			別名は、建布都神(たけふつのかみ) 
			別名は、豊布都神(とよふつのかみ)

			以上三柱の神は、十拳剣の刀身の根本からの血が岩石に落ちて生成された神々である。

			闇淤加美神(くらおかみのかみ) 
			闇御津羽神(くらみつはのかみ) 

			以上二柱の神は、十拳剣の柄からの血より生成された神々である。 また、殺された迦具土神の体からも、神々が生
			まれた。

			正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ、迦具土神の頭から生まれる) 
			淤縢山津見神(おどやまつみのかみ、迦具土神の胸から生まれる) 
			奥山津見神(おくやまつみのかみ、迦具土神の腹から生まれる) 
			闇山津見神(くらやまつみのかみ、迦具土神の性器から生まれる) 
			志藝山津見神(しぎやまつみのかみ、迦具土神の左手から生まれる) 
			羽山津見神(はやまつみのかみ、迦具土神の右手から生まれる) 
			原山津見神(はらやまつみのかみ、迦具土神の左足から生まれる) 
			戸山津見神(とやまつみのかみ、迦具土神の右足から生まれる) 

			(4).黄泉の国
		
			イザナキは、イザナミを取り戻そうとして、黄泉国へと赴いた。黄泉に着いたイザナキは戸越しに、イザナミに
			「あなたと一緒に創った国土はまだ完成していない。帰ろう。」と言ったが、イザナミは「黄泉の国の食べ物を食
			べたからもう帰れません。」と答えた。「黄泉神と相談しましょう。お願いですから、私の姿は見ないで下さい。」
			とイザナミは言い、家の奥に入っていった。イザナキは、なかなか戻ってこないイザナミに痺れを切らし、自分の
			左の角髪(みずら)につけていた湯津津間櫛(ゆつつなくし)という櫛の端の歯を折って、火をともして、中を覗
			き込んだ。すると、イザナミは、すでに美しきイザナミではなく、蛆がたかり、声はむせびふさがっており、体に
			は8柱の雷神がまとわりついていた。雷神の名は以下の通り。

			大雷(おほいかづち、イザナミの頭にある) 
			火雷(ほのいかづち、イザナミの胸にある) 
			黒雷(くろいかづち、イザナミの腹にある) 
			折雷(さきいかづち、イザナミの陰部にある) 
			若雷(わかいかづち、イザナミの左手にある) 
			土雷(つちいかづち、イザナミの右手にある) 
			鳴雷(なりいかづち、イザナミの左足にある) 
			伏雷(ふしいかづち、イザナミの右足にある)

			これにおののいたイザナキは逃げ帰ろうとしたが、イザナミは自分の醜い姿を見られたことを恥じて、黄泉醜女
			(よもつしこめ)に命じてイザナキを追わせた。イザナキは、蔓草を輪にして頭の上に載せていたものを投げ捨て
			た。すると、葡萄の実がなり、黄泉醜女が食べている間に逃げた。しかし、まだ追いかけてくるので、右の角髪
			(みずら)につけていた湯津津間櫛(ゆつつなくし)という櫛を投げ捨てた。すると、タケノコがなり、黄泉醜女
			が食べている間、逃げた。だが、またさらに、イザナミは先ほどの8柱の雷神と黄泉の国の兵士達にイザナキを追
			わせた。イザナキは、十拳剣で振り払いながら逃げたが、それでも追ってきた。黄泉比良坂の坂本に着いた時、坂
			本にあった桃の実を3つ投げたところ、追ってきた黄泉の国の悪霊たちは逃げ帰っていった。ここで、イザナキは、
			桃に「人々が困っている時に助けてくれ」と言って、意富加牟豆美命(おほかむずみのみこと)と名づけた。最後
			に、イザナミ本人が追いかけてきたので、イザナキは千人がかりで動かすような岩で黄泉比良坂をふさぎ、悪霊が
			出ないようにした。その岩を間にして、対面して、この夫婦は分かれることとなる。この時、イザナミは1日に千
			人を殺そうと言い、これに対しイザナキは1日に千五百人生もうと言った。これは、人間の生死の由来を表してい
			る。
			なお、この事件から、イザナミのことを黄泉津大神(よもつおほかみ)・道敷大神(ちしきのおほかみ)とも呼び、
			黄泉比良坂を塞いだ大岩を道返之大神(ちかへしのおほかみ)・ 黄泉戸大神(よみとのおほかみ)とも言う。

			見てきたような「黄泉の国神話」は、主に古事記に記載されている内容で、古事記は黄泉の国を出雲地方であると
			解釈しているようである。現に、古事記では、黄泉比良坂は出雲国の伊賦夜坂(いふやのさか)と明記しているし、
			イザナミを比婆(ひば)山に葬ったとあるように、古事記は固有名詞を出して、神話を真実であるようにつとめて
			いるが、日本書紀には全くそういう気配はない。それ故、黄泉の国や根の国をめぐっては現在でも、出雲だ、熊野
			だというような論議を呼んでいる。
			また、イザナギがイザナミの亡骸を見る場面は、まさしく遺体が腐っていく過程を描写した物で、これは横穴式石
			室の中を進ん行く古代人の姿である(森浩一氏)という意見や、大和朝廷の天皇家にも見られる「喪(も)がり」
			の光景を現した物だ(鳥越憲三郎氏)という意見などがある。いずれにしても古代人が、妻や身近な者の死後の姿
			について、現代では想像も出来ないような体験をしたのだろうという事は想像できる。腐っていく死体を見るなど
			と言うことは日常茶飯事だったのかもしれない。

			書紀と古事記では順序は前後するが、いよいよ三貴神と呼ばれる神々を創出することになる。換言すれば、日本神
			話はこの三貴神によって(実際にはアマテラスとスサノヲの二神だが。)始まっているとも言える。イザナキは、
			黄泉のケガレを嫌って、禊ぎを行った。この時も、様々な神々が生まれた。最後に生まれたアマテラス(日の神、
			高天原を支配)・ツクヨミ(月の神、夜を支配)・スサノオ(海を支配)は三貴神と呼ばれ、イザナキによって世
			界の支配を命じられた。
			禊ぎを行って神が生まれるという発想は、邪なるものを排して、清く正しい環境の中から三貴神を生じさせたのだ
			という意見もあるが、その後のスサノヲの振る舞いや処遇をみると、そんな簡単な問題でもなさそうである。


			(5).アマテラスとスサノオの誓約(うけい)

			スサノオは、イザナキによって、海原を支配せよと命じられたが、イザナミのいる黄泉の国へ行きたいと泣き叫び、
			天地に甚大な被害を与えた。イザナキは怒って隠れてしまった。そして、スサノオは、アマテラスの治める高天原
			へと登っていく。アマテラスは、スサノオが高天原を奪いに来たのかと勘違いし、弓矢を携えて、スサノオを迎え
			た。スサノオは、アマテラスの疑いを解くために、2人でウケヒ(誓約)をしようと言った。これは、お互いのア
			クセサリーから子供を生んで、どちらが多いかを競うものである。もしスサノオのものからできた子の方が多けれ
			ば、スサノオは潔白であることが証明されたことになる。結果、スサノオの方がなした子供が多かったので、アマ
			テラスはスサノオを許した。ここでもアマテラスとスサノヲのSEX関係が暗示されている。


			(6).岩戸隠れ 

			スサノオはアマテラスの耕す田のあぜを壊し、田に水を引く溝を埋め、また大御神が新嘗祭(にいなめさい)の新
			穀を食する神殿に糞をひり散らしてけがした。アマテラスが神聖な機屋(はたや)にいて、神にたてまつる神衣を
			機織女に織らせていたとき、スサノオはその機屋の棟に穴をあけ、まだら毛の馬の皮を逆さに剥ぎ取って穴から落
			し入れ、機織女はこれを見て驚き、梭で陰部を突いて死んでしまった。これを見て、さすがにアマテラスは恐れて、
			天の岩屋の戸を開いて中にこもってしまった。そのため高天原はすっかり暗くなり、葦原中国もすべて暗闇となっ
			た。
			この状態の打開のため、八百万の神々が、天の安河の河原に会合して、タカミムスヒコの子のオモヒカネに、善後
			策を考えさせた。そしてまず常世国の長鳴き鳥を集めさせて鳴かせ、次ぎに天の安河の川上の堅い岩を取り天の金
			山の鉄を採って、鍛冶師のアマツマラを捜して、イシコリドリに命じて鏡を作らせ、玉祖命(タマノオヤノミコト)
			に命じて、たくさんの勾玉を貫き通した長い玉の緒を作らせた。次ぎにアメノコヤネとフトダマを呼んで天の香具
			山の雄鹿の肩骨を抜き取り天の香具山の朱桜を取り、鹿の骨を灼いて占い、神意を待ち伺わせた。そして天の香具
			山の枝葉の繁った賢木を、根ごと掘り起こして来て、上の枝に勾玉を通した長い玉の緒をかけ、中の枝に八咫鏡を
			かけ、下の枝に楮(こうぞ)の白い布と麻の青い布を垂れかけて、これらの種々の品はフトダマが神聖なぬさとし
			て捧げ持ち、アメノコヤネが祝詞を唱えて祝福し、天手力男命神(アメノタジカラヲノカミ)が岩戸の側に隠れて
			立ち、アメノウズメノミコトが、天の香具山の日陰蔓(ひかげのかずら)をたすきにかけてまさきのかずらを髪に
			まとい、天の香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の岩屋戸の前に桶を伏せてこれを踏みならして、神がかりして、
			胸乳をかき出し裳(も)の紐を陰部まで押し下げた。すると、高天原が鳴りとどろくばかりに、八百万の神々がど
			っといっせいに笑った。
			そこでアマテラスははふしぎに思って、天の岩屋戸を細めに開けて、中から言うには、「私がここに隠っているの
			で、天上界は自然に暗闇となり、また葦原中国もすべて暗黒であろうと思うのに、どういうわけでアメノウズメは
			舞楽をし、また八百万の神々はみな笑っているのだろう」と言った。そこでアメノウズメが言うには「あなた様に
			もまさる貴い神がおいでになりますので、喜び歌舞しております」と申し上げた。こう申す間にアメノコヤネノ命
			とフトダマノ命が、その八咫鏡を差し出して、アマテラスに見せたとき、アマテラスがいよいよふしぎに思って、
			そろそろと石屋戸からでて鏡の中をのぞいたときに、戸の側に隠れて立っていたタジカラヲノカミが、大御神の御
			手を取って外に引き出した。ただちにフトダマノ命が、注連縄(しめなわ)を大御神の後ろに引き渡して、「この
			縄から内にもどってお入りになることはできません」と申し上げた。こうしてアマテラスが岩屋から出ると、高天
			原も葦原中国も自然に太陽が照り明るくなった。そこで八百万の神々が一同相談して、スサノヲにたくさんの贖罪
			の品物を科し、またヒゲと手足の爪とを切って祓えを科して、高天原から追放してしまった。
			
			ここでも古事記は「天の金山」「天の香具山」という固有名詞を頻発して客観的たろうとつとめている。この説話
			におけるアマテラスは、まさに太陽神としての存在で、農耕神としての一面も持っている。日の神であるアマテラ
			スの喪失は、同時に農耕の存続の危機でもあった。さしずめスサノヲは冬将軍、あるいは旱魃・飢饉の象徴ともと
			れる。危機を打開するために集まって雨乞いを行ったり、神に生け贄を捧げたりするのはどの民族でも行っている
			し、雨乞いなどは江戸時代にも行われていた。ただ、この神話の場合には非常にユニークなのが、集団での歌舞飲
			食パーティーであり、アメノウズメによるストリップという点にある。媚態よろしく性的な踊りでアマテラスを呼
			び出す様は、古代における性の開放を示しているというような民俗学からの意見などもある。
			さて悪玉となったスサノヲだが、彼の日本神話における役割はいかなるものだったのだろうか。追放された出雲に
			おいては、大国主と並ぶ出雲の神様として現代でも祀られているが、この岩屋隠れの神話では完全に悪神である。
			これはおそらく、高天原が出雲を吸収するに当たって、出雲側に悪玉が必要だったのではないかと思われる。大国
			主命は善政をしいているし、いきなり出雲をよこせとするにはなにか理由が居る。スサノヲはそのために悪玉の役
			割を背負わされて出雲へ追放されるのかもしれない。
			この神話部分で無理やり挿入した逸話のようで、出雲の祖神であるスサノヲにしては幼稚な悪行だし、後段に出現
			する、八岐のおろちを退治して櫛奈多姫と仲良く出雲で暮らすスサノヲとは別人である。出雲を根の国としている
			古事記では、無理矢理根の国へ追放する神が必要だったとも言える。


			(7).ヤマタノオロチ退治 

			高天原を追われたスサノヲは、出雲国の肥河の川上の鳥髪という所に着いた。このとき箸がその川を流れ下ってき
			たので、スサノヲは、その川上に人が住んでると思い、川をのぼっていくと、年老いた夫婦が少女を間に置いて泣
			いていた。
			スサノヲは「あなた方はだれか」と尋ねた。すると翁が答えて「私は国つ神のオホタマツミホ神の子です。私の名
			はアシナヅチ、妻の名はテナヅチといい、娘の名はクシナダヒメといいます」と言った。また「あなたはどうして
			泣いているのか」と聞いた。これに答えて「私の娘はもともと八人おりましたが、あの高志(こし)の八俣の大蛇
			が毎年襲ってきて娘を食ってしまいました。今年も今、その大蛇がやってくる時期になったので、泣き悲しんでい
			ます」と言った。するとスサノヲが「その大蛇はどんな形をしているのか」と聞くと、答えていうには、その目は、
			ほおずきのように真っ赤で、胴体一つに八つの頭と八つの尾があります。そして身体には、ひかげのかずらや檜、
			杉の木が生えていて、その長さは八つの谷、八つの峰にわたっており、その腹を見ると一面にいつも血がにじんで
			ただれています」と答えた。 
			そこでスサノヲはその老人に「そのあなたの娘を、私の妻に下さらないか」と言うと、「恐れ入ります。しかしお
			名前を存じませんので」と答えた。するとスサノヲは答えて「私は天照大御神の弟である。そして今、高天原から
			くだってきたところだ。」と言った。そこでアシナヅチ、テナヅチノが、「それならば恐れ多いことです。娘をさ
			しあげましょう」と言う。そこでスサノヲはたちまちその少女を爪形のクシに姿を変えて御角髪に刺し、そのアシ
			ナヅチ、テナヅチに命じて「あなた方は、いく度もくり返し醸した濃い酒を造り、また垣を作り廻らし、その垣に
			八つの門を作り、門ごとに八つの桟敷をつくり、その桟敷ごとに酒樽をおき、桶ごとにその濃い酒を満たして待ち
			受けよ」と言いつけた。 
			それで命じられたとうり準備して待ち受けるとき、その八俣の大蛇が、ほんとうに老人のいうとうり現れた。大蛇
			はただちに酒桶ごとに自分の頭を垂れ入れて、その酒を飲んだ。そして酒に酔って、その場に留まって寝てしまっ
			た。 このときスサノヲは、身につけていた十拳剣(とつかつるぎ)を抜いて、その大蛇をずたずたに切ったので、
			肥河の水は真っ赤な血となって流れた。そして大蛇の中ほどの尾を切ったとき、剣の刃が毀れた。そこで不振に思
			って、剣の先で尾を刺し割いて見てみると、すばらしい大刀があった。そこでこの大刀を取り出し、不思議なもの
			だと思ってアマテラスに、このことを報告し剣を献上した。これが草薙の大刀である。これは現在三種の神器とし
			て天皇家が保有する。

			日本書紀では泣き声をたどって老夫婦に出会うことになっており、姫の名前も稲田姫である。しかし話の大筋は一
			緒で、いずれかがもう片方を参照したものと思われる。八岐の大蛇とは、実は出雲平野を流れる大河で、これが洪
			水で暴れる様を大蛇に見立て、その治水に貢献した者をスサノヲに象徴した、というのが民俗学的な見方であるが、
			この神話で重要なのは、草薙の剣を高天原のアマテラスに献上している点だろう。これにより、この出雲を高天原
			に服属する地方と位置づけているように思う。


			(8).大国主神の神話 

			これまで国土や神々の殺伐とした話が続いてきた神話に、やっと人間味のある人物が登場する。大国主神(おおく
			にぬしのみこと)である。因幡の白ウサギや恋物語など、政治的な作為もなく、生き生きとした人間模様が見て取
			れる。しかし、不思議なことに、これらの物語は古事記のみで、日本書紀にはまったく登場しない。日本書紀では
			大己貴神(おおなむち)と表記する。
			古事記では別称として、大穴牟遅神(おおなむちのかみ)、葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)、八千矛神
			(やちほこのかみ)、宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)など5つの名前がある。日本書紀には、更に大物主
			神(おおものぬしのかみ)、大国玉神(おおくにたまのかみ)を加えた7つの名があり、こんなに沢山の名前をも
			つ神は珍しい。書記に追加されている2つの神は大和の神である。これらの名前を古事記の編者が書紀から取った
			とすれば、どうして大和の神2つを削除したのだろうか。
			或いは、書紀の方が古事記を参照して、そこに大和の神2神を追加したとも推測できる。これらの神名は、一つ一
			つの名前にそれぞれ神格があったと考えられており、或いは出雲地方の多くの神格が統合されて大国主命に結実し
			たのかもしれない。

			現在は出雲大社の祭神となっている「大国主命」は日本各地にさまざまな神話を残しているが、少彦名神(すくな
			ひこなのかみ)と全国を巡り、国土の修理や保護、農業技術の指導、温泉開発や病気治療、医薬の普及、禁厭の法
			を制定、といった数々の業績を残しており、国造りの神とも言われる。有名な神話「因幡の白兎」では、兎がサメ
			に皮を剥ぎ取られて苦しんでいるところを、通りかかった大国主命によって助けられた。また、七福神に登場して
			くる「だいこく様」は、インドの大黒天に日本の大国主命の信仰が合体した神である。この神は、両方の要素を引
			き継いでおり、絵本に見られる袋をかついだ大国様の要素とシヴァ神に見られる性の要素を持った豊饒の神・農耕
			神と考えられている。大国主命は艶聞家でもあり、実に多くの后を持つ。その事から大国主命は、縁結びの神様と
			して名高いが、今では商売繁盛・五穀豊穣の神様や幸福・平和の神様など、様々な形で信仰されている。
			ところで、日本書紀に全く大国主命についての事績がないと言うことは、古事記がこれらの話をどこから持ってき
			たのかという疑問がわく。古事記の大国主命説話はおおきく6つあるが、そのうちの幾つかは明らかに「出雲の国
			風土記」或いはその逸文に原典がある事が分かっている。だとすれば、古事記を編纂した大和朝廷は、出雲につい
			て他にも多くの事を知っていたはずであり、出雲と大和朝廷の浅からぬ関係が浮かび上がる。

			 
		「	大国主の尊」(おおくにぬしのみこと)と白ウサギ、波に乗る玉をさずかる「大国主の尊」。



			(9).出雲の国譲り

			日本神話の3分の1は出雲神話で占められていると言ってもいいほどであるが、これにはどんな意味があるのだろ
			うか。大国主命が全国の国津神たちを束ねていた訳ではないだろうし、記紀を編纂した者達が、多くは出雲出身者
			だったからという訳でもないだろうと思われる。また神話の3分の1以上は九州の地における説話で占められてい
			るという事実は、「九州」→「出雲」→「大和」という大きな流れを予感させるのである。
			出雲の大国主(オオナムチ:大国主の命)は、遠く高志(越)のクニまで進出し糸魚川の翡翠製産をもその勢力下
			に納めようとするほどの権勢を誇っていたが、この出雲王朝に悲劇は突然訪れる。アマテラスら高天原にいた神々
			(天津神)は、葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけアマテラスの子孫だとした。そのため、何人か
			の神を出雲へ使者に出す。まず、天稚彦(古事記では天若日子)が出雲へ赴くが、彼は8年もの間復命しなかった。
			ついで雉が派遣されるが天稚彦はこれを射殺し、その矢が高天原へ届く。その矢はかって天稚彦に与えたものだっ
			たので、「持ち主へ帰れ」と投げ帰すと、矢は出雲へ飛んでいき天稚彦を貫く。
			ついで、高天原の天照大御神(アマテラス)と高御産巣日神(タカミムスビ)の三度目の使者、建御雷(タケミカ
			ヅチ)と天鳥船(アメノトリフネ)は出雲の稲佐の浜(出雲大社東岸)に降り立ち、建御雷は、波頭に突き立てた
			刀の刃先にあぐらをかくという奇怪な格好で大国主と「国譲り」の交渉を開始する。大国主は即答せず、長男の事
			代主(コトシロヌシ)と相談したいと返事する。事代主は大国主に国譲りを勧め、自らは沈む船の中に隠れてしま
			う。そこで大国主は国譲りを決意するが、末子建御名方(タケミナカタ)は腕力による決着を望み、建御雷に信濃
			の諏訪まで追いかけられ、結局諏訪の地に封じ込められてしまう。
			建御雷は出雲に戻って大国主に決断を迫り、ここに「出雲の国譲り」が成立する。大国主は国譲りにあたって、高
			天原の神々の子らと同様の壮大な宮殿造営の条件を出す。高天原はこれを了承し、大国主の為に多芸志の浜に宮殿
			を造る。この宮殿について日本書紀は、

	       	(1).宮殿の柱は高く太く、板は広く厚くする。
			(2).田を作る。
			(3).海で遊ぶ時のために、高橋、浮橋、天鳥船を造る。
			(4).天の安の川に打橋を造る、

			などと厚遇し、天穂日命(アメノホヒ:国譲り交渉の第一陣使者)を大国主の祭祀者として任命する。
			(この天穂日命が出雲国造の祖神という事になっており、現在の宮司はその83代目にあたるとされている。)

			以上がいわゆる「出雲の国譲り」と称される 神話の概要である。古事記と日本書紀で細部は異なるが、話の大筋は
			同じである。
			この神話を巡っての解釈も諸説あり、神話の中に何らかの史実性を見いだそうとするもの、全くの創作だとするもの、
			殆ど史実ではないかと唱えるものなど様々だ。私見では、かなりの確率でこの話は史実に基づいているのではないか
			と考える。そう仮定すると、出雲の重要度、弥生以後の我が国の展開が矛盾なく説明できると思う。
			皇學館大学の田中卓教授は、「田中卓著作集2」所収「古代出雲攷:日本国家の成立と諸氏族」で、出雲族の根拠地
			はかって大和であり、出雲は、出雲族が追われた場所である、とする説を述べている。又、梅原猛氏は集英社刊「神
			々の流竄(るざん)」において、出雲族の根拠地は大和であり、出雲は8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした
			土地である、と考えている。これは現在のところ、学界では一般的な意見のようである。即ち、出雲にある程度の文
			化的な先進性を認めたとしても、それは元々大和にあったのだという発想である。特に近畿圏で活動する学者達は殆
			どそういう意見のように見える。しかしながら私には、大和に文化が独自に発展したと考える方がはるかに非論理的
			なように思える。どうしてあんな辺鄙な盆地に突然文化的な萌芽が湧いて出るのか?渡来によらず、縄文からどうし
			ていきなり青銅器や稲作を始められるのか? 渡来文化しかありえないではないか。しかも大陸・半島からいきなり
			大和を目指してくる訳もない。北九州か、山陰か、瀬戸内海を経由してくるしか無いのだ。
			渡来人達は、征服しやすい土地を求めて奈良盆地にたどり着いたと考えるのが一番自然であろう。山陰地方から内陸
			へ南下した渡来人達は、丹波で負け、摂津で負け、河内で負け、或いはこれらの土豪達とは戦わず迂回して、最も弱
			かった奈良盆地を征服したのだ。そのおかげで、奈良は渡来文化をあまさず享受できたと考えられる。大国主の神々
			の本拠地が元々出雲にあり、大和地方もその傘下に治めていたのだ。
			大和の勢力が出雲に大国主の神々を派遣して王国を築いたという見方は、私には本居宣長の考えとそう違わないよう
			な気がする。天皇家とその発祥を大和におき、あくまでも日の本は大和を中心に栄えたとし、よその地方から移って
			きたなどとんでもないという考えは、渡来人及びその源地を蛮族視しているようにしか思えない。いわゆる「進歩的
			な」歴史学者達の中にも、結果的にはこういう立場に立っている人達もいるのである。形を変えた「皇国史観」と言
			えよう。
			記紀によれば、大国主の命は高天原勢力に「国譲り」をする。そして高天原から出雲の国へ天穂日命(アメノホヒノ
			ミコト)が天下る。天穂日命は出雲の国造(くにのみやっこ)の祖先となる。大国主の命の領地であった(可能性が
			高い)大和には、邇芸速日の命(ニギハヤヒノミコト)が天下る。天照大神の孫が2人も出雲と大和に天下っている。
			邇芸速日の命の降臨は神武東征の前であり、出雲の国譲りの後のように思われる。


			

			そもそも出雲大社とは一体なにものなのだろう。元々は杵築(きずき)神社とも呼ばれ、これは「築く」という言葉
			から来ているという説が有力である。相当古い時代からの神社である事は間違いないし、事によるとほんとに「古事
			記」「日本書紀」に言う「出雲の国譲り」で、オオクニヌシの尊が「高天原」に建ててもらった住居かもしれない。
			オオクニヌシの尊は、出雲を高天原の神々に譲り渡す条件として、高天原に建っているのと同じ様な豪壮な宮殿を建
			ててくれと要求し、高天原もこれを了承する。
			以下がその描写の部分である。	
			故、更にまた還り来て、其の大國主神に問ひたまひしく、「汝が子等、事代主神、建御名方神の二はしらの神は、天
			つ神の御子の命の随に違はじと白しぬ。故、汝が心は奈何に。」ととひたまひき。爾答へ白ししく、「僕が子等、二
			はしらの神の白す随に、僕は違はじ。此の葦原中國は、命の随に既に献らむ。唯僕が住所をば、天つ神の御子の天
			津日継知らしめす登陀流(此の三字は音を以ゐよ。下は此れに效へ。)天の御巣如して、底津石根に宮柱布斗
			斯理(此の四字は音を以ゐよ。高天原に氷木多迦斯理(多迦斯理の四字は音を以ゐよ。)て治め賜はば、僕は
			百足らず八十くま手に隠りて侍ひらむ。亦僕が子等、百八十神は、即ち八重事代主神、神の御尾前と為りて仕へ奉
			らば、違う神は非じ。」とまをしき。
			上記太字の部分を訳すと以下のようになる。
			私の住むところを、高天原に住む天津神(あまつかみ)達のそれと同じように、頑丈な基礎と太い柱で建て、高天原
			に届くほど高く千木をかざして建ててもらうならば、(私は引きこもって神妙にいたします。)
			興味深いのは、古事記ではオオクニヌシから要求し、日本書紀では高天原からこれを呈示している事である。この
			「記紀」の描写を以て、出雲大社を神話時代の「オオクニヌシの尊」の館(宮殿)であったとする向きは多い。
			実は私もその一派である。
			この「記紀」の故事は、筑紫(北九州)の先住渡来民族と、出雲に渡来した民族との戦いを伝承したもので、出雲族
			が筑紫族に負けた事を記録していると考える。実際そのような史実があって、それが「記紀」にいう出雲神話として
			残ったものだろう。勿論、実際にオオクニヌシと呼ばれる人物が存在したのかどうかなどは分からない。しかし、戦
			いに負け、宮殿を要求した人物が確かにいたのだろう。そして、勝ったとはいえ有力な部族であった出雲族のために
			筑紫族も敬意を払い、この宮殿を建てたのだと考える。「筑紫族」は「高天原」であり、「出雲族」は「葦原の中津
			國」である。
			一方、この神話はあくまでも神話に過ぎないとして、「出雲の国譲り」などは存在していないとする見方も当然ある。
			しかしながら、いずれにしても、出雲大社が現在存在している事は間違いない事実であるし、その起源が相当に古い
			ものであるのも確かである。

			上図の出雲大社の中へ入ってみる。(Movie:岡清孝氏製作)



			(10).天孫降臨(てんそんこうりん)

			アマテラスら高天原にいた神々(天津神)は、葦原中国を統治すべきなのは、天津神、とりわけアマテラスの子孫だ
			とした。アマテラスは息子の天忍穂耳神を呼び、高天原はスサノヲの追放によって平穏が保たれているが、下界の方
			がどうも騒がしい。各部族の長が互いに覇権を争って戦いを繰り広げている。神の名の下に民衆を統一する王が必要
			だとして、降臨しろと命じる。
			指名したのが、彼の子の邇邇芸命(ニニギニミコト)であった。アメノオシホミミと、造化三神の一柱、高御産巣日
			神の娘の栲幡千々姫神との子である。降臨にあたって、ニニギの補佐役の神々が次々と選ばれた。あのストリップの
			天鈿女神、ニニギの兄の天火明神の子である天香久山神、ほかに思兼神、天手力男神、天石門別神、天目一箇神など
			がそうである。さらに、アマテラスは自ら所有する神器の中でも特に霊力の強い天叢雲剣、八咫鏡、八坂瓊勾玉を天
			璽之神宝(アメノミシルシノカンダカラ)としてニニギに授けた。これらは、後に神武天皇まで受け継がれ、天皇家の
			三種の神器として継承されていく。ニニギは天界に別れを告げ、アマテラスが高天原で栽培した神聖なる稲穂を携え、
			天磐船(アメノイワフネ)に乗って日向(ヒムカ=宮崎県)の高千穂の峰に降臨した。
			下界に近づくにつれ、行く手に赤く妖しい光が見えてきた。用心しながら近づいていくと、光の正体は一人の神の顔
			であった。異様に大きな鼻が、真っ赤に輝いていたのである。怪しんだニニギは、アメノウズメに命じて彼の目的を
			尋ねさせた。アメノウズメは相手を圧倒するために乳房をあらわにして、裳の紐を陰部まで押し下げた格好で彼の前
			に立って話を聞いた。彼はウズメに対して猿田彦神と名乗り、天孫を迎えに出向いたと告げた。よく見ると、そこは
			天の八衢(ヤチマタ)といわれて道が四方八方に分岐しているところだった。サルタヒコの案内で無事高千穂の峰に着
			いたニニギは、ウズメに命じてサルタヒコを彼の故郷の伊勢の国まで送らせた。この2神は夫婦となる。 		
			高千穂の峰の所在を巡っても、戦前は大まじめにその所在論が行われていた。日本神話を研究する「国学」が盛んだ
			った江戸時代以降、天孫降臨の地をめぐっては「臼杵高千穂説」と「霧島高千穂説」が「高千穂論争」を続けていた。
			実際に論文の数を比較すると「霧島高千穂説」の方が支持者が多い。しかし近年、梅原猛が本居宣長の唱えた「高千
			穂移動説」を再評価したことから、この考え方が注目されつつある。なお、臼杵高千穂説では天孫降臨の地を、高千
			穂町内のくしふる峰、二上山、祖母山などと解釈している。古事記、日本書紀、風土記などの出典によってかなり表
			現が異なるが、日向國風土記逸文には「高千穂」の地名の由来が記されている。
			<日向國風土記逸文>
			ニニギノミコトが臼杵の郡の二上の峯に降り立った。しかし辺りは暗く何も見えず、立ち往生してしまう。そこにツ
			チグモ族の大くわ・小くわと名乗る二人が現われ、「ミコトがお持ちになっている稲穂から籾を取り、四方に撒けば、
			きっと晴れ渡るでしょう。」と言う。ミコトがそれに従うと、みるみる空が明るくなり、日と月が輝き始めた。これ
			にちなんで、この地を「高千穂」と名付け、後に「智鋪」と改められた。



			(11).山幸彦と海幸彦

			海幸彦)と彦火火出見尊(ヒコヒヒデミのミコト:山幸彦)は、それぞれ山と海での猟を得意としていたが、ある日
			猟具をとりかえて山幸彦は釣りに出たが、海幸彦の釣り針をなくしたことでけんかになった。山幸彦は、海神の宮殿
			に赴き、釣り針を見つけ、釣り針を返した。山幸彦は海神(豊玉彦)の女・豊玉媛(とよたまひめ)と結婚、釣針と
			潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)を得て兄を降伏させたという話。天孫民族と隼人族との闘争の
			神話化とも見られる。また仙郷滞留説話、神婚説話、浦島伝説の先駆をなすものでもある。山幸彦と豊玉媛は、鵜茸
			草茸不合(ウガヤフキアエズ)という子をなした。ウガヤフキアエズの子が、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)で
			ある。


			(12).神武東征

			ニニギ以降、その子,火遠理の命(ほをりのみこと),その又子,鵜茸草茸不合の命(うがやふきあえずのみこと),
			そしてそ神倭伊波礼毘古の命(かんやまといわれびこのみこと=神武天皇)と,三代に渡って日向に住んだとされて
			いる。イワレビコは,「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん。」と兄たちと図って、東国への遠征
			を実施する。日向を発し,大分県の宇佐や福岡県の遠賀郡芦屋に寄り豊後水道を東進し,吉備,難波,熊野と経由し
			て大和に入る。大和を平定して,畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築く。もちろん大和の先住者た
			ちは抵抗し、兄のイツセヒコも戦死するのであるが、結局は天孫のカムヤマトイワレヒコの軍門に降る。こうして神
			武天皇は我が国最初の天皇となり,大和朝廷がここからスタートした。以後天皇家は平成の現在まで続いている,と
			いう事になっている。この,神武天皇が日向を立って橿原に都を定めるまでの色んなエピソードが,古事記と日本書
			紀にほぼ同じ内容で記録されているのである。そして,これを『神武東征』と呼ぶ。戦前は史実として教育にも取り
			入れられていた。 
	
			明治期に,学問的にこの神武東征が何らかの史実を反映しているのではないか,と示唆したのは,東京大学の白鳥庫
			吉である。彼の見解は,同じく東京大学の哲学者和辻哲郎(1889〜1960)によって受け継がれた。大正9年に著した
			『日本古代文化』の中で,彼は邪馬台国九州説を唱え,古事記・日本書紀と魏志倭人伝の記述の一致を指摘している。
			白鳥が述べた論旨とほぼ同じである。
			更に和辻は,大和朝廷は邪馬台国の後継者であり,日本を統一する勢力が九州から来たのであり,その伝承が大和朝
			廷に残っていたのだと主張した。彼は伝承のみでなく,邪馬台国の突然の消滅と大和朝廷の突然の出現,銅矛銅剣文
			化圏と神話との一致,即ち古事記日本書紀に銅鐸文化について全く記事がない事,などにも言及し,神武東征を史実
			あるいは史実に近いものと考えたのである。戦後は,歴史教育の場からこれらの日本神話は全く姿を消してしまった
			のであるが,この説は,主に東京大学の学者を中心に支持され発展し続けた。その後も東大教授のみならず,栗山周
			一,黒板勝美,林家友次郎,飯島忠夫,和田清,榎一雄,橋本増吉,植村清二,市村其三郎,坂本太郎,井上光貞,
			森浩一,中川成夫,金子武雄,布目順郎,安本美典,奥野正男といった幅広い分野の学者達がこの立場に立っている。
			私自身も目下の所,この説が一番説得力があり客観性に富むと考えている。



			5.さいごに

		
			戦後の歴史学は、神話性を排除するため教科書から「古事記」や「日本書紀」の内容を一切排除してしまった。言及
			したとしても、文字通り「神話」であると断定しその内容に全く歴史性を認めなかった。この立場は、今日でも「津
			田史学」として有名であるが、東京大学の白鳥庫吉の弟子であった津田左右吉による処が大きい。
			津田は、『古事記及び日本書紀の研究』を始めとした一連の著作において「記紀」の歴史性を否定し、これらは大和
			朝廷が後世自己の正当化のために作り上げたものであるとした。当然、天皇家の神格化も否定し、記紀には全く歴史
			的な信憑性は無いと断言したのである。その為、津田自身は右翼や極端な保守主義者達から多くの迫害を受けること
			になる。極端な国粋主義者の「原理日本社」は、津田の研究に危機感を抱き、津田を告発した。『古事記及び日本書
			紀の研究』を手始めに、全4冊が発禁処分となり津田は追い込まれていくが、戦後体制になってからは一変する。
			津田は歴史学における進歩的史観の第一人者となり、多くの学者達が師事するようになる。やがては「津田学派」と
			呼ばれる一群の研究者集団が形成され、この流れは今日にも続いている。

			私自身は、天皇家支持でも右翼がかってもいないつもりであるが、津田の、一切の神話に歴史性を認めないという説
			には賛同できない。
			世界中の殆どの国には神話がある。建国神話もあるし、神々の活躍や人民の大移動や融合について語った部分、ほの
			ぼのとした地名の由来など実に様々であるが、私はこれらの神話には何らかの歴史的な事象の存在があると考える。
			荒唐無稽なSFまがいのストーリーにも、何かその物語の核になった歴史的な事跡があって、人々はそれを神話にし
			て語り伝えてきた、と考える。考古学的な遺物は、文献に残された数々の事象に裏打ちされてその値が重みを増して
			いくのであって、ただ遺物だけでは、単なる骨董品である。荒唐無稽と思われる神話の中から史実の核を探し出す、
			この態度は、全く神話に歴史性を認めない立場よりはるかに論理的で科学的だと考えるものである。

 



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