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東国へ向かうヤマトタケルノミコトが、東海沖にて嵐に遭う場面
			1.はじめに
			
			古事記・日本書紀に書かれている故事の、一体どのくらいの記事が考古学的に証明されているのだろうか。いつも
			それを知たいと思うのだが、どうさがしてもそんな本はない。「記紀と考古学」というのは、私が研究者だったら
			調べてみたいと思っているテーマである。
			部分的に、三種の神器と北九州の鉄製品の剣・鏡そして珠についての比較や、鏡の研究のなかで、八咫の鏡と福岡
			・平原遺跡出土内行花紋鏡との関連に言及した論考などが見られるが、本格的に考古学と古事記・日本書紀の比較
			をした本はないようだ。大いに触発される本として、森浩一氏などの「記紀神話における考古学」等々の一連の著
			作はあるが、森氏のように記紀に興味を示す考古学者というのはむしろ現代ではマレである。伝統・慣習によるも
			のか、或いは師の教えなのか、考古学者は古来より記紀にあまり関心がないようだ。
			私の推測では、おそらくこれは津田史学の影響で、さらに「記紀に興味を示す」という学者は、何か戦前の皇国史
			観の持ち主でもあるかのような雰囲気が学界、史学界にあるのだろうと思われる。戦後まもなくの頃の、社会主義
			にあらずんば学問にあらずというような学会の雰囲気の中で、天皇家支配を目的として記紀が製作されたという津
			田の主張は、戦中・戦時に黙らざるを得なかった自らの贖罪も込めてか、追随する研究者も多かったことと思われ
			る。

			私の年代(団塊の世代)を学生運動の波が包んでいた時代は、まだ我々は想像力を働かせる事が出来た。共産主義
			は破竹の勢いで国家建設を進めていたし、「コミュニズム」という言葉自体にも、単なる革新性や時代性を超えて、
			何か崇高な精神性の匂いがしていた。しかし現在は違う。そういう波にかって泳いだ我々団塊の世代でさえ、もう
			社会主義に対する幻想は捨て去ってしまっている。飢えた社会であったが故にできあがっていた運命共同体のよう
			な連帯感は、大都市は言うに及ばず、かってはそれが無ければ生活さえままならなかった田舎においてさえ、もは
			や存在しない。学問の世界でも、もうそろそろ社会主義の呪縛から解き放たれてもいいのではないかという気がす
			る。かと言って、何も戦前の皇国史観・天皇陛下万歳の時代に戻るわけではないのだ。私が主張しているのは、つ
			まり、学問の世界から政治色を排除して、確かに天皇家を中心として編まれている記紀ではあるが、周辺諸国の思
			惑や抗議に惑わされたりせずに、純粋に歴史学の観点から、古事記・日本書紀をもう一度読み返して見ませんか?
			という提案なのである。森浩一氏も言う、「発掘していて、この状況は何かむかし本で読んだ事があるぞ、という
			ような場面にしばしば立ち会いましてね、こりゃ記紀をもう一回読み替えさんといかんぞと思いましたね。」

			「記紀の概要」の部分でも述べたが、古事記と日本書紀の2書がなくて、考古学の成果だけで古代史を構築しなけ
			ればならないとしたら、我々は今のような古代へのイメージはおそらく持ち得ていないだろうと思う。博物館に並
			んでいる埋蔵物だけで組み立てる古代は、おそらく殺伐とした無味乾燥な歴史となっていたに違いない。発掘出土
			物は、文献の光が当たってはじめて光り輝く文化財となるのである。


			例えば私が学者だったらやってみたいと思っている事は以下のような事である。

			(1).記紀を初めから読んで細分化し、以下のように分類してみる。例えば、

			・古事記−下巻−大雀命(おおさざきのみこと)の条、この段落の2つ目の、以下の文章、

			此天皇之御世 爲大后石之日賣命之御名代 定葛城部亦爲太子伊邪本和氣命之御名代定壬生部 亦爲水齒別命之御
			名代定蝮部 亦爲大日下王之御名代定大日下部 爲若日下部王之御名代定若日下部 又役秦人作茨田堤及茨田三宅
			又作丸迩池 依網池又堀難波之堀江而通海 又堀小椅江 又定墨江之津
			此の天皇の御世に大后(おおきさき)石之日賣(いわのひめ)の命の御名代(みなしろ)と爲(し)て葛城部(か
			づらきべ)を定め、また太子(おおみこ)伊邪本和氣の命の御名代と爲て壬生部(みぶべ)を定め、また水齒別の
			命の御名代と爲て蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下の王の御名代と爲て大日下部を定め、若日下部の王の御名
			代と爲て若日下部を定めき。
			また秦人(はだひと)を役(えだ)てて茨田(うまらた)の堤及び茨田(うまらた)の三宅(みやけ)を作り、ま
			た丸邇(わに)の池、依網(よさみ)の池を作り、また難波の堀江を堀りて海に通し、また小椅(おばし)の江を
			堀り、また墨江(すみのえ)の津を定めき。

			この文章を以下のように、

			・大雀命−−(1).石之日賣の命の名代として葛城部を定め、
			 	(2).伊邪本和氣の命の名代として壬生部を定め、
			  	(3).水齒別の命の名代として蝮部を定め、
			  	(4).大日下の王の名代として大日下部を定め、
			  	(5).若日下部の王の名代として若日下部を定めき。
			  	(6).秦人をかり出して茨田の堤及び
			  	(7).茨田の三宅を作り、
			  	(8).丸邇の池、
			  	(9).依網の池を作り、
			  	(10).難波の堀江を堀りて海に通し、
			  	(11).小椅の江を堀り、
			  	(12).墨江の津を定めき。  		と分解する。

			(2).これを考古学的に確かめられそうな記事と、そうではない物に分ける。ここでは(6)から(12)が前者で、
				(1)から(5)が後者の範疇に入りそうである。勿論どっちともつかないような記事もあるだろう。それはそ
				れで区分を設ければよい。

			・仁徳天皇の御代−−考古学的に確かめられそうな記事

		 	 	(6).秦人をかり出して茨田の堤及び
			 	(7).茨田の三宅を作り、
		 	 	(8).丸邇の池、
		 	 	(9).依網の池を作り、
		 	 	(10).難波の堀江を堀りて海に通し、
		 	 	(11).小椅の江を堀り、
		 	 	(12).墨江の津を定めき。

			(3).このうち、存在が確認されている物、そうでない物に分けると、

		 	   	(6).秦人をかり出して茨田の堤及び   確認済み
			  	(7).茨田の三宅を作り、        未確認(候補地あり)
			  	(8).丸邇の池、            未確認(候補地あり)
			 	(9).依網の池を作り、         未確認
			  	(10).難波の堀江を堀りて海に通し、   確認済み
			  	(11).小椅の江を堀り、         未確認(候補地あり)
			  	(12).墨江の津を定めき。        確認済み

			となる。勿論これがすべて仁徳天皇の事績と証明されているわけではない。仁徳天皇非実在説もあるくらいだから、
			誰の御代かとかは不明なことも多いだろう。ここでは記事に書いてある事が現在事績として確認できるか、地名で
			あればその地が今もあるか、或いはあったことが確認できるか、などを判断材料にすればよい。しかしながら、地
			名は既にあったものを後で神話や帝紀に採り入れた可能性も考慮しなければならないだろう。斉明天皇の土木事業
			や、蘇我馬子の邸宅跡など、近年になっても色々と新しい考古学上の発見は相次いでいるし、ともかく、こうやっ
			てあらゆる事績を分析していけば、どのくらいの確立で記紀は信憑性があるかという確率が導き出せるのではない
			だろうか。
			自分でやればいいではないかという問も自問自答するが、他に職業を持っている身ではとてもその時間がない。
			よしんばあったとしても、各地の発掘状況などを入手できる環境にはいないし立場でもない。誰か研究してくれな
			いかなと密かに願う毎日である。




			2.事例検証・その1 −狭山池の築造−
		

			狭山池とは、大阪の南部、現在の大阪狭山市(おおさかさやまし)の中央北寄りにある、古代からの有名な溜め池
			である。東の羽曳野丘陵と西の狭山丘陵との間に位置し、池尻、半田、岩室にまたがる。北流する西除川(にしよ
			けがわ)と、その西側を北流する三津川(みつがわ)を堰き止めて造った人工池で、周囲約4キロ、満水面積38.
			9ヘクタール、灌漑面積約570ヘクタール。北西岸から西除川が流出し、北東岸からは当池を水源とする東除川
			(ひがしよけがわ)が流出する。葛城山系の天野山を源流とする西除川(にしよけがわ:上流は天野川とも呼ばれ
			る。)は、狭山池を形成した後、南河内平野を北流して大和川左岸に注ぐ。

			狭山池は、「古事記」「日本書紀」にも登場し、我が国最古の潅漑用の溜池(ダム)で、記紀の記事は以下のよう
			になっている。		
			
			『日本書紀』崇神天皇紀
	 		六十二年秋七月乙卯朔丙辰,詔曰,農天下之大本也,民所恃以生也,今河内埴田水少,是以,其国百姓怠於農事,
	 		其多開池溝,以寛民業,冬十月,造依網池,十一月,苅坂池,反折池,一云,天皇居桑間宮,造之三池也

			『古事記』垂仁天皇記   次,印色入日子命者,作血沼池,又狭山池
			
			これによれば、狭山池はすでに崇神・垂仁天皇の頃に築かれたことになっている。現在河内平野の東一帯は、生駒
			の麓を北流する石川および大和川とその支流によって潤っているが、西側一帯は、この狭山池出現前は全くの荒野
			であったと想像される。この狭山池とそこから流れ出る東除川・西除川によって、ようやくこの地方は灌漑された
			のである。千数百年の時を経ても今だにこの水は、この辺り一帯の稲作・畑作に貢献している事になる。しかしな
			がら、ほんとに崇神天皇の詔で築造されたのだろうか。

			森浩一氏は、かって「和泉市史」のなかでこの問題を取り上げ、狭山池の周りの斜面に6世紀の須恵器の窯跡を発
			見し、この溜め池は、かまどが構築された後、すなわち6世紀以降に築かれた可能性を指摘していた。その後野上
			丈助氏は、その後の研究成果から、「河内に於ける池溝開発についての覚え書き」(羽曳野市編纂紀要 羽曳野史
			3 1978刊)の中で、河内の溜め池がすくなくとも飛鳥朝以前には遡らないという結論を出して、今日それはほぼ
			定説である。考古学的な見地からは、ほぼ6世紀末から7世紀にかけて築造されたものではないかとされているの
			である。昭和63年から行われた、「平成の大改修」と呼ばれる大規模な改修工事に伴う発掘調査でも、7世紀前
			半に築造された日本最古のダム式溜池であることが確認された。堤の最古の盛土から出た木材の年輪をしらべた結
			果,AD616年を示していたのである。
			この結果が即、築造年とは見なせないが、その後数年乃至数十年のうちに用いられたものなのは確かであろう。
			狭山池は、以来1400年間にわたり何度も改修工事が行われ,その記録が周辺民家の古文書に残されている。そ
			の中には,地震で池の堤防が壊れたという記述も見え、大阪府の調査で、池の底から8mを上回る厚さの堆積物が
			確認された。堆積物の下半部は細粒砂と粘土・シルトの互層で所々粗粒砂層を挟んでいる。上半部には礫混じりの
			粗粒砂からなる厚い砂層があり,その上を粘土・シルト層が覆っており、これは明らかに、狭山池に残る地震の痕
			跡であると認められ、古記録が事実であったことが証明された。

			ここでは記紀が、何らかの理由で、実際の事績を実際より古い時代のこととして記述していることが見てとれる。
			崇神天皇の時代(4世紀?)ではなくて推古朝あたりにまで時代が下ってしまう。記紀がどういう理由でそう記録
			したのかは定かではないが、その理由を探るのもまた、古代史の謎解きの楽しみかもしれない。いずれにしても、
			狭山池が詔によって人工的に作られた灌漑施設であるのは確かで、それを記紀が、年代こそ疑問が残るものの、ち
			ゃんと記録していることも確かなのだ。


往時の約半分くらいになってしまった狭山池(大阪府大阪狭山市:2001年4月8日)




			3.事例検証・その2 −斉明天皇の土木事業−

			
			平成 12年(2000)2月22日、23日の各新聞は、奈良県明日香村で発掘された亀形と小判形の石造物を中心とする遺
			構についての記事を掲載している。いまでもこんなものが出土するとは、明日香と言うところはほんとに何がでて
			くるか分からない所だ。
			斉明天皇は、史学界では「土木工事好き」とか稀代の「建設マニア」として知られている。日本書紀には「狂心の
			渠」(たぶれごころのみぞ)と表現されており、斉明朝を、学者によっては「造営と狂心の土木工事時代」とか
			「狂乱の時代」と呼ぶ人もいる。皇極天皇時代からの造営・土木工事の軌跡を日本書紀に探してみると以下のよう
			に記載がある。
	
			皇極天皇元年 (642)  9月癸丑( 3日)  百済大寺建立の詔。この寺の建築計画は舒明11年(639)にはじまる。
		      	     (642) 9月辛未(19日)  飛鳥板蓋宮造営の詔。
			斉明天皇元年(655)10月己酉(13日)   小墾田と、深山広谷に宮殿を造ろうとするが中止。
			斉明天皇2年 (656) 是歳条       後飛鳥宮建設。造営と狂心の土木工事。
			斉明天皇3年 (657) 7月辛丑      飛鳥寺西の須彌山像を作り、旦に孟蘭盆会を行ない、墓に覩貨羅を饗す。 
			斉明天皇5年 (659) 3月甲午      天樫丘東之川上に須彌山を造り、陸奥と越の蝦夷を饗す。 
			斉明天皇6年 (660) 5月        中大兄皇子が初めて漏刻を造る。石上池辺に須彌山を作り、粛慎47人を
						   	   饗す。 
	
			655年1月、皇極上皇は飛鳥板蓋宮で2度日の皇位に就いて斉明天皇となった。すでに還暦をすぎていた斉明天皇は、
			飛鳥の岡本に皇居の造営をはじめ、田身嶺(たむのみね)の頂に垣を巡らせ、穎の上の二本の槻(つき)の木のそ
			ばに高殿を建てて両槻宮(ふたつきのみや)と名付け、吉野に離宮を新造するなど、土木工事を次々に起こした。
			さらに、女帝は巨大な石垣を築く計画をたてた。香具山の西から石上山まで溝を堀るため、三万余とも七万余とも
			いわれる人夫が集められた。この溝は運河のようなもので、完成すれば船を浮かべ、垣にする石を運ぶ計画だった
			ようだが、人びとの間から「狂心の渠」という怨嗟の声があがった。また、「石の山丘は作るはしから崩れるだろ
			う」と非難された。蘇我臣赤兄(そがのあかえ)にそそのかされた有間皇子(ありまのみこ:孝徳天皇の遺児)は、
			これを批判し、謀反をはかったとして処刑される。民衆を打ちひしぐ大土木工事、陰湿な謀略。斉明朝をして「狂
			乱の時代」とよぶ研究者がいることは、あながち的はずれでもないのである。日本書紀には、有名な田身嶺の周垣
			と両槻宮および「狂心の渠」と石の垣のことは、以下のように記されている。
			
			斉明天皇2年(656)是歳条

			時に、事を興すことを好ゐたまひ、すなわち水工をして渠(みぞ)を穿(ほ)らしめ、香具山の西より石上山に至
			る。舟二百隻を以(も)ちて、石上山の石を載(つ)みて、流れの順に宮の東の山に控引(ひ)き、石をかさねて
			垣(かきね)とす。時の人謗(そし)りて曰く、「狂心の渠。損費(そこないついや)すこと、功夫(こうふ)三
			万余。造垣(かきねづくり)功夫七万余。宮材(みやのき)爛(ただ)れたり。山椒(やまのすゑ)埋(うず)も
			れたり」といふ。また謗りて曰く、「石の山丘を作り、作る随(まにま)に自ずから破(こわ)れなむ。」といふ。
			
			ここに言う「宮の東の山」は、岡本宮が明日香村岡の板蓋宮伝承地と呼ばれたところにあったから、その東すなわ
			ち酒船石のある丘とその付近の丘陵と考えられる。平成四年に酒船石のある丘の中腹から、砂岩の切石を四段に積
			んだ石垣が数十メートルにわたって発掘され、この推定が裏付けられた。想像通り、酒船石の丘が「石を累ねて垣」
			としたという「宮の東の山」であつたといえる。
			「宮の東の山」における石垣の用途について、歴史家の直木孝次郎氏は、いただきに酒船石を置く丘を美化する修
			師的な施設とみるべきで、換言すれば立体的な庭園を飾る設備である、とする。同氏は2000年1、2月の発掘で酒船
			石の丘の北の麓から出土した亀形右・小判形石の水槽、石敷広場等は、この推定に適合するともいう。

			明日香村飛鳥の埋慮文化財展示室に水落遺跡がある。昭和56年(1981)、ここから不思議な遺構が発掘された。版
			築工法で堅く固められた一辺約40メートルの方形基壇 周囲に丁寧な張り石、地下深く埋めた24個の礎石。礎石と
			礎石の間は、大石で梁のように連結されていた。中央に彫り込みのある長方形の大石等々。奈良国立文化財研究所
			が調査したところ、さらに細長い鋼管の埋設が判明、その内部には白い粘土が薄くたまっていた。水を導き、排水
			するための施設と分かった。さらに、建物の念入りな耐震構造が明らかになった。結局、『日本書紀』の斉明 6年
			( 660)5月条に「皇太子(中大兄)が初めて造る」と記された漏刻(水時計)の遺構と判断された。サイフォンの
			原理を応用した水時計が一階中央で時を刻み、二階に吊るした大鐘で飛鳥の都に時を告げる施設だったことを、現
			地の説明板が絵解きしている。つまり、朝廷が時の管理まで行なうようになっていたわけだ。さらに、この水落遺
			跡の北側に石神遺跡があったという。『日本書紀』によると、」 657年に都貨羅(トカラ)国の人、660年に高麗・
			百済の使者が入朝しており、 655、658、660の各年に蝦夷(えみし)や粛慎(みつはせ)が入朝したため、これを
			饗応したという記事がある。その場所は「飛鳥寺の西」「甘樫丘の東の河原」とあり、石神遺跡の位置と重なる。

			かつて「石上」を「イソノカミ」と読んで天理市の右上と解釈する人もいた。しかし「イシガミ」と読めば「石神」
			ともなる。香具山の西から石上山まで溝を掘るという「狂心の渠」も石神遺跡と関係するのではなかろうか。従来、
			謎の巨石として取りざたされてきた「酒船石」をめぐる議論も、これでケリが尽きそうである。酒船石の記号のよ
			うな彫り溝は、この亀形石まで水を流す導水路だったのだ。だとすると、酒船石には他の方向へ流れている溝がま
			だ何本かあるし、このような遺構が近辺にはまだ幾つか眠っているのかもしれない。斉明天皇は土木・造園に力を
			つくしたが、斉明が即位した 655年前後は、東アジアの国際関係は極度に緊張し、高句麗・百済・新羅の朝鮮三国
			と日本の問の外交使節の往来が少なくなかった。
			これらの入朝者に日本の国威を示し、外交交渉を有利に進めるためには、国力を上まわる労力・財力を投入しても、
			首都をりっぱに師る必要があったのではなかろうか。

			斉明天皇は百済救済のため筑紫に赴くが、斉明七年( 661)、筑紫・朝倉宮(橘広庭宮)で崩御した。その遺骸を大
			和へ運ぶ舟中で、息子の中大兄皇子(天智天皇)は、亡くなった母斉明天皇を哀慕しての以下の歌を詠んでいる。
	
			冬十月、癸亥の朔にして己巳の日、天皇の喪、帰りて海に就きき。
			ここに皇太子、一所に泊はてて天皇を哀慕しのび奉り給ひ、すなはち口づから号ひ給ひしく

			君が目の恋ほしきからに泊てて居て斯くや恋ひむも君が目を欲り
			

			奈良新聞 2003年9月13日 

			酒船石遺跡は大嘗宮? 天武天皇が豪華改修
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			明日香村教委主事が新説 飛鳥時代の大規模な石垣が見つかった明日香村岡の酒船石遺跡は、天皇が大嘗祭(だい
			じょうさい)を営む「大嘗宮」とする新説を、村教育委員会の相原嘉之主事が、このほど発行された論文集に発表
			した。大嘗祭は即位した天皇が権威を示す特別な儀式で、天武・持統朝(672−697年)ごろから始まったと考えら
			れている。酒船石遺跡では、総延長 700メートル以上の石垣が村教委の調査で見つかり、日本書紀に記された斉明
			天皇(在位655−661年)の「石の山丘」に当たるとされている。
			一方、丘陵の北側では亀形石造物を中心とする導水施設が平成12年に出土。斉明朝から持統朝にかけて、水を使っ
			た祭祀が行われたらしい。飛鳥時代の大嘗宮は見つかっておらず、相原主事は平城宮跡の遺構をもとに天武朝の大
			嘗宮を考察。平城宮では大きく3つの区画に分かれており、神事を行う悠紀(ゆき)院=東側と主基(すき)院=
			西側、みそぎのための廻立(かいりゅう)殿=北側があった。
			相原主事は天武朝の大嘗宮にも東西対称の空間と廻立殿から入る北側の入り口を想定。飛鳥浄御原宮には設営に適
			した場所がなく、「宮外のいずれかの場所に求める必要がある」とした。
			これらの条件は酒船石遺跡に該当。同遺跡の丘陵は酒船石をはさんで東尾根と西屋根に分かれており、それぞれの
			尾根に悠紀院と主基院、亀形石造物周辺に廻立殿が営まれた可能性があるという。亀形石造物(導水施設)でみそ
			ぎを済ませたのち、丘陵の施設に入って儀式を行ったらしい。通常の大嘗宮は仮設だが、天武天皇は大嘗祭に匹敵
			する大規模な新嘗祭(にいなめさい)を毎年営んでおり、常設だった可能性を指摘。隣接する飛鳥池遺跡では、新
			嘗祭の米に付けた天武六( 677)年の木簡が出土している。
			亀形石造物などの導水施設が天武朝に大改修されていることにも注目。相原主事は「斉明朝から祭祀施設として使
			われ、天武天皇が大嘗宮としてより豪華に改修したのではないか。酒船石遺跡は律令初期の大嘗宮の条件を満たし
			ている」と話している。
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整備された、奈良県明日香村の「酒船石遺跡」(亀形石遺構)2004年3月14日





			4.事例検証・その3 −天武天皇・正殿跡− 
			
			−飛鳥京第151次調査・現地説明会 2004.3.13 −













			5.事例検証・その4 −天の香具山− 

			
			天香具山は「万葉集」巻1にうたわれているとおり、聖なる山として扱われている。そして記紀神話が示すように、
			香具山の土を取って祭りを行うなど、一見すると香具山の神聖性は大変古い時代から確立していたようにみえる。
			またいままで、そうしたことを前提としながら香具山を研究した書物も少なくない。
			ところが、わかくさ国体をめぐる体育施設の建設工事にからんで、昨年来(1994)そのことをうかがわせるだけの
			発掘調査が行われた。
			すなわち香具山の東南部南山町の傾斜面から、昨年始めて5世紀の小古墳群が発見され調査された。そのなかには
			陶質土器をともなう物もあり、渡来人、あるいはそれと縁の深い人々の墓が、5世紀に香具山の境域につくられて
			いたことが判明した。そして今年(1995)の春になると、引き続いて行われた調査を通じて、小古墳群が5世紀だ
			けでなく、6世紀になっても引き続いて造られたことがわかった。これらの事実は極めて重要な意味を持つ。
			というのは、こうである。香具山の境域内に小さい古墳を造ると言うことは、神聖なる香具山という概念が、少な
			くとも宮廷の中でまだ
			成立せず(庶民信仰は勿論あり得るが)、宮廷からの強力な規制が住民に強制されていなかった可能性を示す。
			三輪山についてこれを比べてみると、三輪山の山域には古墳が無く、それからある程度離れた地域に箸墓古墳や石
			塚などがまず造られ、最も三輪山に接近したところでも、桜井市の茅原大塚くらいのものしかない。そのことを指
			摘した寺沢薫・千賀久氏らがいわれる通り、三輪山の場合、古墳が出現し始めた時期には、すでに神聖なる山で、
			墓を造らないという習慣があったとみてよい可能性がある。(日本の古代遺跡5「奈良中部」)そうした事例を参
			考にすると、天香具山への宮廷を中心とした信仰は、案外新しい時代にはじまるとみてよいのではなかろうか。
			なおウネビ山についていえば、4世紀の前方後円墳、スイセン塚やイトクノ森古墳の存在が注目される。その位置
			を山の境域内と考えて良いかどうかは今後の問題だが、天香具山との対比で見逃すことはできないだろう。

			要するに、いま挙げた事例は、記紀が実際にあった事柄の年代よりも、かなり古い時代からそのことがあったよう
			に、何らかの事情から改作したケースと言ってよい。そうした類の事例は、考古学の調査が進行し、その研究が古
			代史学との接点をたくさんつくればつくるほどますます増加することだろう。それを丹念に積み重ねる事によって、
			記紀の虚実をまずつかみ取り、その上で改作の事情を追求する着実な研究成果を蓄積するに違いない。記紀の資料
			批判という古くて新しい課題は、このような手続きをへながら、いまや新子団塊に到達しつつあるといえるだろう。
			【原島礼二(埼玉大学教授)「発掘が書きかえる古代史」1995.1発行 新人物往来社「古事記・日本書紀の謎」抜粋】

			故是に天照大御神見畏(かしこ)みて。天の石屋戸開きて刺許母理(さしこもり)坐しき。爾に高天の原皆暗く、
			葦原中國(あしはらなかくに)悉に闇し。此れに因りて常夜(とこよ)往きき。是(ここ)に萬の神の声、狹蝿那
			須(さばえなす)【此二字以音】満ち。萬の妖(わざはひ)悉發き。是を以ちて八百萬の神、天安の河原に神集ひ
			集ひて【訓集云都度比】。高御産巣日神の子、思金神に思わしめ【訓金云加海尼】て常世の長鳴鳥を集つめて、鳴
			かしめて、天の安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鐵(まがねてつ)を取りて、鍛人(たんじん)天津麻羅
			【麻羅二字以音】を求ぎて、科伊斯許理度賣命【自伊以六字以音】に科(おほ)せて、鏡を作らしめ。玉祖命に科
			せて、八尺勾玉の五百津の御須麻流(みすまる)の珠を作らしめて、天兒屋命、布刀玉命【布刀二字以音下效此】
			を召して天の香山の眞男鹿(まおしか)の肩を内拔きに拔きて、天の香山の天の波波迦【此二字以音木名】を取り
			て、占合ひ麻迦那波而【自麻下四字以音】しめて、天の香山の五百津の眞賢木を根許士爾許士【自許下五字以音】
			て、上枝(ほつえ)に八尺勾玉の五百津の御須麻流の玉取り著け、中に八尺鏡【訓八尺云八阿多】取り繋け、下枝
			に白丹寸手(しらにきて)、青丹寸手而(あをにきて)取を垂【訓垂云志殿】でて、此の種種の物は布刀玉命、布
			刀御幣と取ち持ちて、天兒屋命、布刀詔戸言祷き白(まを)して、天手力男神、戸の掖(わき)に隱れ立ちて、天
			宇受賣命、天の香山の天の日影を手次(たすき)に繋けて、天の眞拆(まさき)を鬘(かづら)と爲て、天の香山
			の小竹葉(ささば)を手草に結ひて、【訓小竹云佐佐】天の石屋戸に汚氣【此二字以音】を伏せて蹈み、登杼呂許
			志、【此五字以音】神懸り爲て、胸乳を掛き出で、裳緒(もひも)を番登(ほと)に忍し垂れき。爾に高天の原動
			而(とよ)みて、八百萬神共に咲(わら)いき。【岩波古典文学大系「古事記」】

			(注:)
			この論考は、天香具山が今の奈良県にある大和三山の一つであるという前提に立っている。しかし高天原が九州に
			あったという立場をとる観点からすれば、これはまた違った角度からの検証が必要であろう。

 
天香具山(奈良県大和三山)2001年1月21日






			6.事例検証・その5 −岩戸山古墳− 
			
			−筑紫国造磐井の墓・福岡県八女市 −

福岡県八女市・岩戸山古墳 2000年12月2日

			岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、全長約135m、後円部径約60m・高さ約18m、前方部幅約92m・高さ約17mを
			測る。墳丘周囲には幅20mの周堀と外堤を持ち、外堤を含めると全長約 170mの大前方後円墳となる。古墳の東北隅
			には外堤につづく一辺約 43mの方形の区画(別区)が存在している。墳丘の内部主体は不明であるが、墳丘、別区
			から多量の石製品、埴輪が出土している。筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)の墳墓とされ、6世紀前半の築造と
			考えられている。
			6世紀初頭継体天皇の時代、畿内政権からの独立を図った磐井は、朝鮮半島に出兵する将軍・近江毛野臣(おおみ
			のけなのおみ)を、新羅と組んでさえぎろうとしたが、畿内から来た援軍大伴・物部の軍団に破れた。「筑紫国風
			土記」によれば、豊前方面へ逃亡した磐井が見つからないのに腹を立てた官軍の兵士たちによって、石馬の首が落
			とされたと記されている。九州では第一級の古墳で、規模では宮崎県西都原の女狭穂塚(めさほづか)古墳に次ぐ
			ものである。岩戸山古墳が磐井の墓であろうとの推定は、幕末の久留米藩の国学者矢野一員によってなされ、現地
			の実証的考察による優れたものである。この説の補遺完成がみられるのは戦後のことであった。
		
			筑紫国造が成立したのは6世紀の後半ともみられているが、5世紀後半にはすでに肥・豊(肥前・肥後・豊前・豊後)
			にまたがる一大勢力圏をつくっていたとみられる。磐井の乱の後も国造の存続を許され、白村江の戦ののち唐に抑
			留されて天智 10年(671)帰国した筑紫君薩野馬はその後裔とみられる。同族に筑紫鞍橋君・筑紫火君・筑紫火中
			君がみえる。八女丘陵上には、現在11基の前方後円墳を含む約 150〜300基の古墳が発見され、その年代も5世紀中
			頃から 6世紀後半までおよんでいる。磐井の乱以後も連続して大形墳墓が造営されており、筑紫君一族が滅びるこ
			となく存続したことを物語っている。

			日本書紀継体天皇 21年(527)の記事によると、大和朝廷は、新羅から奪われた任那の地を奪還するため、近江毛
			野臣に6万の兵を率いて渡海させることになったが、新羅はひそかに筑紫君磐井に賄路を送って毛野臣の軍の渡海
			を妨げることを勧めた。そこで磐井は肥・豊(肥前・肥後と豊前・豊後)の二国をもあわせた勢力をもって、朝鮮
			半島からの貢船を略奪し、朝延にたち向ったので朝廷は国家の大事として物部大連麁鹿火を遣わして討伐させたと
			いう。同22年11月、御井群(現在の福岡県久留米市・三井郡)で激戦が行なわれ、磐井は敗れて斬られた。同12月
			に磐井の子の葛子は、糟屋の地(現在、同県粕屋郡)を屯倉として献上して父の罪に連座することを免れたという。
			「筑紫国風土記」逸文には、磐井は豊前国上膳県(現在、豊前市付近)に逃亡したという別伝と、生前に彼が築造
			した自分の墓と、そこに飾られた石人、石馬などのことが記されている。

			「日本書妃」縫体天皇条(二十一年)

			 二十一年の夏六月の壬辰の朔甲午に、近江毛野臣、衆六万を率て、任那に往きて、新羅に破られし南加羅・喙己
			呑を為復し興建てて、任那に合せむとす。是に、筑紫国造磐井、陰に叛逆くことをりて、猶預して年を経。事の
			成り難きことを恐りて、恒に間隙を伺ふ。新羅、是を知りて、密に貨賂を磐井が所に行りて、勧むらく、毛野臣の
			軍を防遏へよと。是に、磐井、火・豊、二つの国に掩ひ拠りて、使修職らず。外は海路を遨へて、高麗・百済・新
			羅・任那等の国の年に職責る船を誘り致し、内は任那に遺せる毛野臣の軍を遮りて、乱語し揚言して日はく、「今
			こそ使者たれ、昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき。安ぞ率爾に使となりて、余をして倆
			が前に自伏はしめむ」といひて、遂に戦ひて受けず。驕りて自ら矜ぶ。是を以て、毛野臣、乃ち防遏へられて、中
			途にして淹滞りてあり。
			天皇、大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等に詔して日はく、「筑紫の磐井反き掩ひて、西の戎の地を
			有つ。今誰か将たるべき者」とのたまふ。大伴大連等僉日さく、「正に直しく仁み勇みて兵事に通へるは、今麁鹿
			火が右に出づるひと無し」とまうす。天皇曰はく、「可」とのたまふ。秋八月の辛卯の朔に、詔して日はく「咨、
			大連、惟茲の磐井率はず。汝徂きて征て」とのたまふ。物部麁鹿火大連、再拝みて言さく、「嗟、夫れ磐井は西の
			戎の奸猾なり。川の阻しきことを負みて庭らず。山の峻きに憑りて乱を稱ぐ。徳を敗りて道に反く。侮りりて自
			ら賢しとおもへり。在昔道臣より、に室産に及るまでに、帝を助りて罰つ。民を塗炭に拯ふこと、彼も此も一時
			なり。唯天の贊くる所は、臣が恒に重みする所なり。能く恭み伐たざらむや」とまうす。詔して日はく、「良将の
			軍すること、恩を施して恵を推し、己を怒りて人を治む。攻むること河の決くるが如し。戦ふこと風の発つが如し」
			とのたまふ。重詔して日はく、「大将は民の司命なり。社の存亡、是に在り。勗めよ。恭みて天罰を行へ」との
			たまふ。天皇、親ら斧鉞を操りて、大連に授けて日はく、「長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ。専
			賞罰を行へ。頻に奏すことに勿煩ひそ」 とのたまふ。二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に、大将軍物部大連麁
			鹿火、親ら賊の師磐井と、筑紫の御井郡に交戦ふ。旗鼓相望み、挨塵相接げり。機を両つの陣の間に決めて、万死
			つる地を避らず。遂に磐井を斬りて、果して彊場を定む。十二月に、筑紫君葛子、父のつみに坐りて誅せれむこと
			を恐りて、糟屋屯倉を献りて、死罪贖はむことを求す。

			日本書紀の記すところは、磐井は完璧に「反逆者」である。
			新羅から賄賂を貰って、近江毛野臣の6万の軍の行く手を遮ったことになっている。磐井は近江毛野臣に対して、
			「昔はともに同じ釜の飯を食った仲ではないか」と非難してもいる。天皇は、大伴金村(おおとものかなむら)、
			物部麁鹿火(もののべのあらかい)、許勢男人(こせのおおと)等の意見を聞き、物部大連麁鹿火を遣わして磐井
			を征伐させる。筑紫の御井郡(現在の久留米市、三井郡辺り)で激戦となり、磐井は斬られてしまう。磐井の子、
			葛子(くすこ)は、糟屋(旧糟屋郡、現古賀町)にあった屯倉を(朝廷に)献上して父の死に連なって死罪となる
			ことを免れた。これが「日本書記」の記す「磐井の乱」である。しかし、「書記」はあくまでも官営出版物であり
			大和朝廷側から見た記録である事を念頭に以下を読み進んでいただきたい。


			「古事記」継体天皇条
			此の御世に、筑紫の君、石井、天皇之命に従はずして、礼なき事多かりき。かれ、物部の荒甲の大連、大伴之金村
			の連二人を遺して、石井を殺らしめ給ひき。

			「古事記」も磐井は「反逆者」としている。命令に従わないので、物部荒甲(もののべのあらこ)、大伴金村(お
			おとものかなむら)の二人に殺されたと言う。

			「国造本紀」
			伊吉島造、磐余王穂の朝、石井に従へる者新羅の海辺の人を伐つ。天津水凝の後の上毛布直の造なり。

			この書物については私はあまり詳しくないが、これによれば磐井に従っていた者が新羅に確かにいたことになる。
			伊吉島造がこれらを滅ぼしたと言うことは、磐井はやはり「官」に逆らったことになるのだろう。

			「筑紫国風土記」逸文
			筑後の国の風土記に曰はく、上妻の県。県の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、
			南と北と各六十丈、東と西と各四十丈なり。石人と石盾と各六十枚、交陣なり行を成して四面に周匝れり。東北の
			角に当りて一つの別区あり。号けて衛頭と曰ふ。衛頭は政所なり。其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。号
			けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。号けて偸人と曰ふ。生けりしとき、猪を偸みき。仍りて
			罪を決められむとす。側に石猪四頭あり。臓物と号く。臓物は盗みし物なり。彼の処に亦石馬三疋・石殿三間・石
			蔵二間あり。古老の伝えて云へらく、雄大迹の天皇のみ世に当りて、筑紫君磐井、豪強く暴虐くして、皇風に偃は
			ず。生平けりし時、預め此の墓を造りき。俄にして官軍動発りて襲たむとする間に、勢の勝つましじきを知りて、
			独自豊前の国上膳の県に遁れて、南の山の峻しき嶺の曲に終せき。ここに、官軍、追ひ尋ぎて蹤を失ひき。士、怒
			泄まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。古老の伝へて云へらく、上妻の県に多く篤き疾あるは、蓋
			しくは慈に由るか。

			問題はこの文献である。「逸文」(いつぶん)というのは、断片的にしか残っていない文章のことで、「筑紫国風
			土記」のなかに納められているが、本文にあるように、「筑後国風土記に曰く」となっていて、もともとは筑後国
			風土記にあった文章のようにも思えるが、「筑後国風土記」という文献は、現在までの所その存在が確認されてい
			ない。筑後の国で起きた出来事だからこう書いたのだろうという意見が定説である。上記逸文の大意は、
			「・・・・筑紫君磐井の墓がある。衛頭(がとう)という別区(べっく)があって、ここに様々な石像物が立てら
			れており、猪を盗んだ盗人が裁かれている様子が描かれている。磐井のおこないは荒々しく、大和朝廷にも従わな
			かった。磐井は生前この自分の墓を築いた。突然、朝廷軍が襲ってきて、磐井は豊前の国へ逃げた。朝廷軍は追っ
			たが逃がしてしまい、怒りの治まらない兵士たちは、この磐井の墓に立っている石人の手を壊し、石馬の首を落と
			した。土地の古老がいうには、上妻の県(八女市)に病気がちの人が多いのはそのせいである。」 となる。
			ここで、地元の人や「磐井の乱」が「乱」ではないとする人達が着目するのは、「俄にして官軍動発りて襲たむと
			する間に、」という部分である。ここには、磐井が「反逆」したのではなく「官軍」が突然襲ってきたことが読み
			とれるという。確かにそういう見方も出来るだろう。しかし、その前段に「豪強く暴虐くして、皇風に偃はず」と
			あるので、大和から見ればこれは「反逆」と捉えられるのではなかろうか。
			磐井のほうからすれば、「理不尽にも強権を持って」攻め込んできた、という事になるのかもしれないが、社会が
			変革・統一へ向かう時というのはいつでも同じ様な事が起きる。アメリカにおけるインディアンや、明治期のアイ
			ヌの人達のようなものである。有無を言わさず新しい体制に組み込み、相容れない者は抹殺してしまう。私の「磐
			井の乱」についての考えは「岩戸山古墳」の中でも述べたが、日本が中央集権への統一に向かう中で起きた部族間
			闘争だと思っている。大和朝廷が、まつろわぬ最後の(?)豪族を武力でなぎ倒し、屯倉を基盤として九州を傘下
			におさめ、やがて西国一帯を支配下に置いた象徴的な事件であったと思う。おそらくは、これに類した小規模な強
			権発動は日本中至る所で繰り返されたに違いない。
	
			しかし、そうは言っても実際に現地経営にあたる者は必要で、筑紫国造制度そのものは温存された。磐井の子孫は、
			大和朝廷に従順な僕(しもべ)としてその後も生きていく事になる。以下の文献がそれを証明している。


			『日本書紀』欽明天皇条(十五年)
			 余昌、遂に圍繞まれて、出でむとすれども得ず。士卒遑駭てて、所図知らず。能く射る人、筑紫国造といふもの
			有り。進みて弓を彎き、占擬ひて新羅の騎卒の最も勇み壮れる老を射落す。発つ箭の利きこと、乗れる鞍の前後橋
			を通して、其の被甲の領会に及ぶ。復続ぎて発つ箭、雨の如く、彌しくして懈らず。圍める軍を射却く。是に由
			りて、余昌及び諸将等、間道より逃げ帰ることを得たり。余昌、国造の、圍める軍を射却けしことを讃めて、尊び
			て名けて鞍橋君と日ふ。

			『日本書紀』欽明天皇条(十七年)
			 十七年の春正月に、・・・・是に、阿倍臣・佐伯連・播磨直を遺して、筑紫国の舟師を率て、衛り送りて国に達
			らしむ。別に筑紫火君百済本記に云はく、筑紫君の児、火中君の弟なりといふ。を遺して、勇士一千を率て、
			衛りて弥弖弥弖は津の名なり。に送らしむ。

			『日本書紀』天智天皇条 (十年)
			十一月の甲午の朔癸卯に、対馬国司、使を筑紫大字府に遺して言さく、「月生ちて二日に、沙門道久・筑紫君薩野
			馬・韓島勝裟婆・布師首磐、四人、唐より来りて自さく、・・・・

			『日本書紀』持続天皇条(四年)
			冬十月・・・・乙丑に、軍丁筑後国の上陽郡の人大伴部博麻に詔して日はく、「天豊財重日足姫天皇の七年に、
			百済を救ふ役に、汝、唐の軍の為に虜にせられたり。天命開別天皇の三年にびて、土師連富抒・氷蓮老・筑紫君
			薩夜麻。弓削連元宝の兒、四人、唐人の計る所を奏聞さむと思欲へども、衣無きに縁りて、達くこと能はざるこ
			とを憂ふ。








			7.事例検証・その6 −獲加多支歯大王− 
			
			熊本県・江田船山古墳と、埼玉県・稲荷山古墳の鉄剣銘文



			埼玉県さきたま古墳群9基の古墳の内、最も古いのが稲荷山古墳である。5世紀後半に築造されたと推定されてい
			る。金錯銘鉄剣は、出土時にはサビだらけで誰もここに金で文字が刻まれているとは想像もしなかった。昭和43
			年の出土から10年後、サビの進行がひどく鉄剣は奈良の「元興時文化財研究所」に、サビ防止処理の為委託され
			た。その処理中、キラリと刀剣の一部が輝きレントゲン写真にくっきりと「辛亥年七月中記」ではじまる115文
			字が浮かび上がったという訳である。辛亥年は西暦471年にあたる。1500年を経てよみがえった、まさに
			世紀の大発見」だった。この時発見された文字の中の「獲加多支歯大王」が「ワカタケルだいおう」と解読され、
			以前発見されていた、熊本の江田船山古墳出土の、銀象嵌の太刀も同じ文字であることがわかった。これによりワ
			カタケル大王の時代(雄略天皇:5世紀後半)には、大和朝廷は既に九州から関東までをその影響下(支配下?)
			に置いていた事が推定されるに至った
			のである。

			【雄略天皇】
			第21代天皇。推定在期間、456〜479年。中国の『宋書倭国伝』に登場する倭王武ではないかと考えられて
			いる。允恭天皇の第五皇子で,名は大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)。ここから、銘文の「ワカタケル大王」
			はこの天皇とされた。第20代・安康(あんこう)天皇の同母弟にあたる。兄の安康天皇は在位3年で眉輪(まよ
			わ)王に刺殺されるという事件が起こった。このとき、大泊瀬皇子は背後に同母兄の八釣白彦(やつりのしろひこ)
			皇子や坂合黒彦皇子がいるのではと疑い、八釣白彦を生き埋めにして殺し、黒彦皇子と眉輪王は二人をかくまった
			葛城円(つぶら)大臣の家に火をかけて焼き殺した。さらに、従兄弟の市辺押磐(いちのべのおしは)皇子まで狩
			に誘い出して射殺している。こうした一連の粛正のあと、大泊瀬皇子は泊瀬朝倉宮で即位した。このため、凶暴な
			悪徳天皇との印象が強い。雄略の都は朝倉宮だが、この銘文では斯鬼宮となっている。しかし古代、朝倉宮のあた
			りも磯城と呼ばれていたのだ。朝倉宮の西方に欽明天皇の磯城島金刺宮があったこともそれを裏づける。
	
			獲加多支鹵は「ワカタケル」と読めたため、大泊瀬幼武命の”幼武”を指すことがメデイアでも大々的に報じられ
			た。稲荷山鉄剣の銘文解読は、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀の銘文解読にも訂正を迫り、それまで、銘文中の
			「□□□□歯大王」は反正天皇を指すとされてきたが、しかし、稲荷山鉄剣の発見で、これもワカタケルと読み雄
			略天皇を表すものとされた。東国と九州の豪族の墓から、5世紀後半に実在した大王の名を記したる鉄剣と鉄刀が
			出土していることの意味は大きい。倭王・武の上表文の内容が必ずしも誇張でないことを裏付けられたからだ。
			雄略天皇の祖先たちは、みずから甲冑を身につけて軍団を指揮し、東は東国から西は九州まで征戦を戦ったのであ
			ろう。その結果、雄略天皇の時代には、すでに東北地方を除く日本全土をほぼ支配していたものと思われる。

			--------------------------------------------------------------------------------
			<稲荷山古墳の鉄剣銘文>
			(表)
			辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比□、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児
			名多沙鬼獲居、其児名半弖比、((□は土偏に危)
			(裏)
			其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、令作
			此百練利刀、記吾奉事根原也、
			辛亥の年中記(しる)す。ヲワケの臣、上つ祖(おや)名はオホヒコ、其(そ)の児タカリのスクネ、其の児、名
			はテヨカリワケ、其の児、名はタカハシワケ、其の児、名はタサキワケ、其の児、名はハテヒ、其の児、名はカサ
			ハヨ、其の児、名はヲワケの臣。世々杖刀人の首として、事(つか)え奉り来り今に至る。ワカタケル大王の寺、
			シキの宮に在る時、吾(われ)天下を左(たす)け治む。此の百練の利刀を作らしめ、吾が事え奉る根原を記すな
			り。
			辛亥の年7月に記す。私、ヲワケの一番の祖先の名はオホヒコ、その子の名はタカリノスクネ、その子の名はテヨ
			カリワケ、その子の名はタカヒシワケ、その子の名はハテヒ、その子の名はカサヒヨ、その子の名はヲワケノオミ。
			先祖代々の首(大王の親衛隊長)として大王に仕え、今にいたっている。ワカタケル大王(雄略天皇)がシキの宮
			にあるとき、私は大王が天下を治めるのを補佐した。この何回も鍛えよく切れる刀をつくらせ、私が大王に仕えて
			きた根原を記すものである。(県立さきたま資料館資料)
			--------------------------------------------------------------------------------
			<江田船山古墳出土の鉄刀>
			明治6年(1873)、熊本県玉名郡菊水町(たまなぐんきくすいまち)にある江田船山古墳から、全長61mルの前
			方後円墳で、横口式家型石棺(せっかん)が検出され、内部から総数92点にも及ぶ豪華な副葬品が検出された。こ
			の中に全長90.6cmで、茎の部分が欠けて短くなっているが、刃渡り85.3cmの大刀があり、その峰に銀
			象嵌(ぎんぞうがん)の銘文があった。字数は約75字で、剥落した部分が相当ある。おおよその内容は推察でき
			るものの、今一つ判然としない。
			<鉄刀銘文>
			治天下□□□□□大王、奉□典曹人□弖、八月中、用大リ併四尺□刀、八十練六十□刀、服此刀者長寿、子孫注ゝ
			得三恩也、不失其所統、作刀者名伊太□、書者張安也
			天の下治(しろ)しめすワカタケル大王の世、奉仕する 典曹人(てんそうじん)の名はムリテなるが、八月中に、
			一釜の美(うま)し鉄(くろがね)の板と、併せて 四尺の刀形の?(あらがね)とを用いて、八十(やそ)たび鍛
			(きたえ)て、十握(とつか)あまり三寸の上好なる利刀を造らしめた。この刀を服する者は長寿にして、子孫が
			綿々と続き、王恩を得て世々その統属するところを失わざらんことを。刀を造りし者の名は伊太加にして、書せし
			者は張安なり。

			この銘文には、治天下、八十たび、十握などの強い日本調が混じっている。大王と王恩、四尺と一釜、十握と三寸
			などの前後を対応照応させて、漢文の本来の手法を巧みに利用している。また年号がない。
			--------------------------------------------------------------------------------

			ワカタケル大王(雄略)の時代に、金象嵌と銀象嵌の鉄刀が製作され、それらを下賜された人物が、北武蔵野稲荷
			山古墳と肥後の江田船山古墳に埋葬されたことになる。『宋書』倭国伝に引く倭王武の上表文にみえる「東は毛人
			を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」の表現に対応するかのごとくである。五世紀後半の雄略
			朝には、関東から中部九州に至る範囲に、支配力が強く及んでいたことを示す。張安なる人物がみえ、彼が銘文の
			作者であることが注目される。ワカタケル大王のもとには、こうした渡来系の人びとがいて、記録に従事していた
			ことが想像される。

 
埼玉県・稲荷山古墳と、熊本県・江田船山古墳


稲荷山古墳鉄剣と、江田船山古墳鉄剣





			8.その他の新聞記事 





			9.結論 

			
			みてきたように、記紀に記載された記事の幾つかは実際の考古学的な事実によっても確認できている。事績を行っ
			た時期や為政者に疑問は残ったとしても、実際記紀に書かれていることが、現在も遺跡・遺物として残っているの
			である。時代を経るごとにその信憑性は高まり、古代へ遡るごとにそれは薄くなって確認作業は困難になるが、記
			紀は結構事実を記載しているのだという印象は持ってもらえた事と思う。しかしながら、考古学が文献上の事績を
			確認する作業において、困難な現実も立ちはだかっている。近畿圏における陵墓の発掘禁止は、「天皇家の尊厳を
			護る」という宮内庁の方針によって、歴代天皇陵は124代(昭和天皇まで)であるにもかかわらず、陵墓参考地
			として500にのぼる古墳が手つかずである。最近の調査によって相当進歩したと言われる陵墓調査ではあるが、
			まだまだ壁は厚い。
	
			また、最近の考古学者達が文献をあまり参考にしない、はなはだしきは記紀を全くのお話だとして、考古学上の知
			見と照らし合わそうともしない風潮は、ひとり考古学や歴史学のみならず、人文科学系の学問全体にとっておおい
			なる損失である。古代人の知恵を馬鹿にしてはいけない。何か分からない遺物や遺構について、記紀はどこかに書
			き残している可能性もあるのである。「記紀に学べ!」と言いたい。
	





			10.附記 −安本美典氏の作業− 

			
			「魏志倭人伝」「古事記神話」「考古学的事実」の一致


			前段まで書き進んで、今読みかけの、安本美典氏の最近の著作「邪馬台国と高天の原伝承」(勉誠出版(株)平成
			16年3月1日発行)を開いてみた。そしたら驚いた事に、な、なんと、私が冒頭で述べたような事を、既に安本
			氏は調査されていて、対比表を作成されていた。勿論神話部分のみなので、古事記全体に及ぶ物ではないが、それ
			にしても、さすがは私淑する安本先生である。願わくばこれを受けて、古事記全体、日本書紀全体にわたって、こ
			の作業を引き継いでくれるような研究者はいないものだろうか。この分析は、単に歴史の解明に役立つのみならず、
			記紀全体の信憑性や編纂意図の解明などにも大いに有効な手段のような気がする。しかし私の着眼点は、安本氏が
			取り上げるほどに、間違った物ではなかったという事が確認できて望外の喜びであった。亀のような遅々とした私
			の古代史研究の歩みであるが、この道でいいのだという確信がもてた事は幸せだった。










安本美典著:「邪馬台国と高天の原伝承」(勉誠出版(株)平成16年3月1日発行)より転載





邪馬台国大研究・ホームページ /記紀の研究/記紀と考古学