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			1.古事記
			
			日本書紀が早くも奈良時代から研究されてきたのに対し、古事記の研究は、江戸時代の本居宣長までほとんど存在
			しなかった。皆無と言ってもよい状態だ。古事記の8年後に編纂された日本書紀でさえ、古事記には言及していな
			い。わずかに、平安時代の「琴歌譜」(きんかふ)と「日本紀私記」(にほんぎしき)に「古事記」という名が見
			えるが、これとて、琴歌譜は編者不詳、成立年代不明の和琴の譜本であるし、日本紀私記は、奈良・平安に行われ
			ていた(奈良期には行われていないという説もある。)、日本書紀の講書(説明会/読書会のようなもの)の原稿
			である。いずれも参照程度に名前を記したにすぎない。これに反して書紀は、奈良・平安期から鎌倉・室町・江戸
			と、各時代を通じて解釈本が存在し、各地で講書が行われていたようである。

			この格差は一体なんであろうか。いかに唐風化が流行し、日本書紀が国選の歴史書で古事記がそうではないからと
			言っても、何か奇異な物を感じる。同時期に二つの歴史書が成立するのも妙に引っかかるし、なにか「古事記」に
			はその成立や内容に関して、我々がまだ知らない特殊な事実があったのではないかと思わせるのだが、トンデモ本
			を除けば、どの本を読んでもそんな事に言及している書物はない。何も資料がないので、学者先生達も言及しよう
			がないのだろうが、我々アマチュアからすれば、プロなら梅原猛のような、結果的に賛同できるかどうか、実証可
			能かどうかは別にして、エッと思えるような解釈をしてもらいたい気もする。

			ともかく古事記は、日本書紀の陰に隠れて、京都や伊勢・尾張・奈良などの公家や、古代以来の神祗関係の家など
			で細々と書写され続けられてきただけで、一般には全く目に触れることすら無かったのである。そして江戸時代、
			関ヶ原から3,40年経つと、武家社会はともかく町人や農民の生活はようやく安定を見せ始める。そして国学の気運
			が高まって、本居宣長が登場する。本居宣長の「古事記伝」(1798)によって、その訓読と注釈が大成し,それ以
			後古事記研究は盛行した。明治以後、津田左右吉の「神代史の新しい研究」(1913)の出現によって、古事記神話
			の非史実性・説話性がはじめて指摘された。


			(1).宣長までに。

			江戸前期には、儒学の思想が武士達に主要な学問とされたこともあって、儒学によって神道が解釈されることもお
			こった。これが儒家神道で、明確な廃仏思想に立脚し、朱子学や陽明学の立場から神儒一致的な神道思想を展開し
			た。なかでも、朱子学系の吉川惟足(これたり)による吉川神道と、それをまなんだ山崎闇斎による垂加(すいか)神
			道が代表的である。垂加神道は,闇斎独自の神道説で、天地・陰陽・人道の根源はすべて土金の訓に備わるという。
			これは朱子の理気説とまったく異なるものである。さらに闇斎は天照大神による天上支配と,素戔鳴尊による天下
			支配という二つの支配様式を設定し,前者の子孫である天皇を尊重しながらも,後者の系譜を引く将軍の全国支配
			を正当化した。
			古神道の復興は、「仏教や儒教の影響を受ける前の日本固有の自然な在り方」を取り戻し追求するという、国学の
			発展を促した。寛永21年(1644)に京都の版元、前川茂右衛門が古典シリーズの一環として「古事記」を刊行し
			たり、伊勢神道の豊受大神宮(外宮)の権禰宜(ごんのねぎ)で、神道家の度会延佳(わたらいのぶよし)が著し
			た、「■(ごう)頭古事記」などが刊行されて、ようやく一般にも古事記の存在が知れ渡り、古事記本文の分析・
			検討が容易に行えるようになった。

			そんななか、もともとは真言宗の僧であった契沖(けいちゅう。俗姓下川氏、字は空心。契沖は法号。寛永17〜元
			緑 14:1640〜1701)は、40歳前後に妙法寺の住職となったが、このころから古典の研究を始め,元禄3年(1690)
			に主著「万葉代匠記」を完成する。従来の中世的な儒教思想による解釈を排して、和漢の書の出典を豊富にあげ、
			精密な解釈を行い、その文献学的方法は一時代を画した。また歴史的仮名遣いを制定し、「もののあわれ」に注目
			し、近世国学の基礎を築いた。

			京都伏見稲荷の宮司の家に生まれた荷田春満(かだのあずままろ)は、契沖の門人となり、ともに古代歌謡研究を
			進め、テキストとして古事記も用いたが、この段階における国学の典籍の中心は、依然「万葉集」や「日本書紀」
			であった為、古事記の評価はさほど高くはならなかった。ところが荷田春満の弟子であった賀茂真淵(かものまぶ
			ち)は、日本書紀より古事記を重視する思想を提示し、その教えはさらに賀茂真淵の弟子である本居宣長によって
			発展させられ、綿密な古事記研究の契機となった。国学の大成者である本居宣長は、それまでの仏教や儒教と習合
			した神道説を批判し、古典を実証的に研究することを通じて古神道の精神に回帰することを主張した。

			秋田の人平田篤胤(ひらたあつたね:1776〜1843)は、本居宣長に入門せんとするも宣長没により果たせなかった
			が、宣長の継承者を自称し、復古神道として独自の神学をつくりあげた。宣長に比べて著しく宗教的神秘的色彩が
			濃厚で、復古主義・国粋主義の立場を強め、復古神道を大成した。平田派国学は、農村有力者に広く信奉され「草
			■(そうもう)の国学」として尊皇攘夷運動を支え、幕末には彼らの思想は、尊皇攘夷を叫ぶ勤皇の志士たちの行
			動理念となった。



			(2).本居宣長(1730〜1801) 

			享保15年5月7日(新暦 1730.6.21)〜享和元年9月29日(同1801.11.5)。享年72歳 。江戸中期を代表する国
			学者。幼名富之助。俗名は弥四郎、後に健蔵と改めたが、26歳から宣長と改めそれ以後は新たな名前は使用して
			いない。実名は栄貞(よしさだ)、号は石上、芝蘭、春庵、66歳から中衛を用いる。

			伊勢国松坂(三重県松阪市)の木綿商の跡取り息子として、享保15年(1730)松阪に誕生したが、幼くして父を
			亡くし廻りから商人教育を施されるが、和歌・漢文に熱中し学問に魅了されていた。母の願いにより長じて医者と
			なる。医業の傍ら「源氏物語」や日本古典に傾注し、「源氏物語玉の小櫛」、「玉勝間」、「うひ山ふみ」、「秘
			本玉くしげ」、「菅笠日記」などの著作を著す。34才の時、江戸の国学者・賀茂真淵との「松阪の一夜」と呼ば
			れる運命の出会いを経て、生涯を通じて「古事記」の研究に没頭し、35年の歳月をかけて「古事記伝」全44巻
			を刊行する。 古語の読法研究、神々の系図、神道の解釈、天体の動きなど、膨大な研究を「古事記伝 」としてま
			とめ終わったのは69才の時であった。鈴と山桜を愛し、53歳の時に増築した自らの書斎を「鈴屋」と呼び、こ
			れを屋号にも使用した。松坂に生まれ、医者として松坂で開業し、松坂の町で一生を送った、皇国史観の塊のよう
			な学者だった。
			京都遊学時代には堀景山に入門し、漢學を修め、冷泉流の森河章井尹(あきただ)に和歌を學んだ。その他この在
			京中に契沖の著書を読み感化されたとされる。帰郷後は小児科医として開業し、門人を集めて「古典学」の講義を
			始めた。宣長は、門人で第75代出雲国造千家俊勝の次男である千家俊信(せんけとしざね)から貰った図(金輪
			造営図)で、「出雲大社」が古代に壮大な高さを持った神殿であったことを知る。そしてそれを「玉勝間」で世間
			に紹介し、その伝承に疑問を持ちながらも、真実が含まれているのではないか記している(「玉勝間」巻13「同
			社金輪の造営の図」)。その時から200年以上たった、平成12年(2000)、宣長の想像が現実のものとなって
			姿を現したのはまだ記憶に新しい。

			宣長50歳代が天明年間( 1781〜89)にあたり、世の中は飢饉に噴火、政変、大火と大混乱の中にあるが、宣長は
			その学問業績を積み重ね、執筆中の「古事記伝」も次第に全国に知れ渡り、宣長の名声も高まる。諸国からの入門
			者、来訪者も増えていった。熊本県山鹿市の神職であった帆足長秋は、「古事記伝」の刊行を待ちきれず、娘京と
			「古事記伝」書写の旅に発つ。帆足京は15歳の若さながら、見事な書体で古事記伝を書写し宣長を驚かせた。帆
			足長秋・京親子の書写した「古事記伝」は本居宣長記念館以外では、唯一現存している全巻揃いの古事記伝写本と
			なっている。熊本博物館前には、旅立つ帆足長秋・京父娘の像がたっている。

			本居宣長の長男「春庭」(はるにわ)が、宝暦13年(1763)2月に誕生した。その年の5月、宣長は賀茂真淵と
			初対面する。現在、松坂市の本居宣長資料館の外庭の一角にこの碑が建っているが、ここがその対面の屋敷跡なの
			である。宣長は、かねて「冠辞考」を通じて多大な影響を受けていた真淵とここで初めて対面し、翌年門人となる。
			この後、真淵が死去するまで約6年間、書簡の遣り取りによる添削を受ける。賀茂真淵との出逢いは、生涯この一
			度きりであった。宣長は晩年、各地に古典の出張講義をする等、国学の普及と後進の育成にも努めているし、門人
			は全国にいた。また平田篤胤のように、宣長死去後に門人となった者もいた。


			「古事記伝」とは、本居宣長が35年をかけて書き終えた「古事記」の注釈書である。第1巻では、「古事記」の
			価値を説き、「日本書紀」等との比較、書名、諸本、研究史、また解読の基礎となる文体論、文字や訓法について
			書き、宣長の古道についての考え方を述べる。第2巻は序文の解釈と系図が載る。第3巻から第44巻が本文とそ
			の訓読、注釈である。書かれてから既に200年が経過しているが、いまだに「古事記」研究書の第一ステップと
			されている。宣長が古事記伝をいつ頃書き始めたかは不明であるが賀茂真淵との対面前後であるようだ。随所に真
			淵の「古事記は真実の書だ」という真淵の影響が見られる。

			宣長は「うひ山ふみ」の中で、「道をしらんためには、殊に古事記を先とすべし、まづ神典は、旧事紀、古事記、
			日本紀を昔より、三部の本書といひて、其中に世の学者の学ぶところ、日本紀をむねとし、次に旧事紀は、聖徳太
			子の御撰として、これを用ひて、古事記をば、さのみたふとまず、深く心を用る人もなかりし也、然るに近き世に
			至りてやうやう、旧事紀は信の書にあらず、後の人の撰び成せる物なることをしりそめて、今はをさをさこれを用
			る人はなきやうになりて、古事記のたふときことをしれる人多くなれる、これ全く吾師ノ大人の教ヘによりて、学
			問の道大にひらけたるが故也。」と書いている。
			「道を知るためにはまず「古事記」を第一番にすべきである。神典は、「先代旧事本紀」、「古事記」、「日本書
			紀」を昔から、三部の書と言って、学者が一番研究するのは「日本書紀」で、次が「先代旧事本紀」、これは聖徳
			太子の御撰であるとして尊ばれ、「古事記」はあまり重用視されず、特に注目する人もいなかった。それが近年
			「先代旧事本紀」は偽書で、後世作られた書だということをみんなが知り、これを使う人はいなくなった。「古事
			記」が重要だと注目されるようになった。これはまったく我が師賀茂真淵によって学問が開けてきたためである。」
			と述べて、古事記の重要性を強調している。

			また古事記は、漢文の文飾が無く、古くからの伝説のままにて、記述の仕方も昔のままで他に例が無く、上代のこ
			とを知る上でこれに勝る本はない、とも書いている。「神代」のことも「日本書紀」より詳しくたくさん書かれて
			いるので、道を知ると言う目的からは第一の古典であるとしている。

			宣長は、神話に登場する神々について、人間のはかり知るべき存在ではないとして解釈を避けている。しかし、写
			本の校訂、訓読、記事の考証については、歴史学的・国語学的手法を駆使しながら、純粋に厳格な批判的態度で考
			察を展開し、その業績は現代でも十分通用するほどの水準を持っている。肥後熊本藩士で宣長の弟子の長瀬真幸
			(ながせまさち: 明和2( 1765)〜天保6( 1835))は、「古事記伝」の説に基づいて古事記を訓読し、享和3年
			(1803)「訂正古訓古事記」を出版したが、これは現在でも古事記訓読のテキストとなっている。


			
			「古事記伝(こじきでん)」 巻1,2 本居宣長自筆稿本 〔天明5-8(1785-88)〕 2冊 27.4×18.9cm
  


			(3).宣長以後

			明治30年代になると、西欧から学問としての「神話学」が導入され、比較神話学的研究が開始された。大正14
			年、高木敏雄は「日本神話伝説の研究」で日本神話の特殊性を指摘し、昭和6年、松本信広は「日本神話の研究」
			で、民俗学・神話学の手法を用いて、南方民話と日本神話の類似性を分析した。以後、朝鮮神話・北方民族神話と
			の類似性を指摘した三品彰英(「日鮮神話伝説の研究」昭和18年)、比較神話学を集大成した松村武雄(「日本
			神話の研究」昭和33年)、歴史学の視点から考察した上田正昭の研究(「神話の世界」昭和31年)、民族学的
			方法を用いた大林太良(「日本神話の起源」昭和36年)などが、古事記の日本神話を様々な角度から分析した。

			一方、前のコーナーで紹介したように、こういう大正から昭和にかけての古事記研究の中で、見逃せない業績とし
			て存在しているのは「津田左右吉」の一連の研究である。前述したので詳細は省くが、津田の主張は要するに、
			「帝紀・旧辞の作成目的は、天皇家の日本統治を正当化するための政治的なものであった。」というものである。
			それ故、「古事記の神代部分に書かれている神話は、歴史的な事実でないばかりか、神話でもない。」と断じたの
			であった。

			

			これは、敗戦による皇国史観の罪悪感がまだ尾を引いている中にあって、台頭してきたマルクス経済学を中心とす
			る社会主義思想が、その他の多くの学問にも影響を与えていた風潮とも相まって、史学界にも多くの賛同者を得た。
			社会主義にあらずんば学問にあらずというような学会の雰囲気の中で、天皇家支配を目的として記紀が製作された
			という主張は、戦中・戦時に黙らざるを得なかった自らの贖罪も込めてか、追随する研究者も多かった。資料批判
			を徹底するあまり、神代史を神話と認めない津田の考察は、述べてきた一連の比較神話学からの批判を浴びて修正
			させられたりしたが、しかし、古事記の資料としての性格を詳細に分析しようとした研究態度は高い評価を得、今
			でも津田史学の信奉者は多い。しかしながら、「古事記」「日本書紀」の持つ歴史書としての価値・意味をもっと
			問い直す、という私の立場から云えば、「津田史学」のおかげで、日本の古代史研究はずいぶんと遠回りをしたと
			いう気がする。

			戦後の古事記研究の成果は大きく2つに大別される。1つは、諸写本を系統化し、それに基づいて正しい本文を探
			ろうとした研究である。沢潟久孝・浜田あつしは「古事記諸本概説」を著わして、28種にのぼる写本の内容と系
			統を明らかにし、真福寺本系と寛永版本系の2系統に大別した。古賀精一はこれに修正を加え「古事記諸本の研究」
			を出した。「古事記学会」はこれらの研究成果に基づいて「校本古事記」を製作した。もう一つは、古事記本文の
			読み方に対する国語学的な研究の高まりである。古事記は戦前までは、宣長の「古事記伝」や長瀬真幸の「訂正古
			訓古事記」に従って訓読みされていた。しかし昭和34年、神田秀夫は「古事記の構造」で、古事記の漢文的部分
			は熟語として音読みすべきであるとした。倉野憲司や丸山二郎も同様の考察をし、それぞれ独自の読み方を提案し
			た。




			2.日本書紀
			
			「古事記」・「日本書紀」は、日本人自らが著わした7世紀以前の歴史書、という共通した性格を持っているため
			「記紀」と一緒にして呼ばれる事が多いが、前述したように、古事記が18世紀の本居宣長による研究まで、殆ど
			まともに読まれることがなかったのに対して、日本書紀は、養老4年( 720)の撰進直後から朝廷で講書が行われ
			ていたようである。もっとも、講書の開催時期については異論もあるようだが、鎌倉時代に書かれた日本書紀の注
			釈書「釈日本紀」の開題に引用された、康保2年( 965)の外記勘申の「日本紀講例」によれば、養老5年に日本
			書紀の講書が行われたとあり、他にも日本書紀の古写本などに「養老」という文字が見え、奈良時代の講書を示唆
			する文献が多いことから、一応、奈良時代には講書が行われていたとする説が有力なようである。



			(1).講書での研究

			「日本紀講例」によれば、養老5年の後、弘仁3年(812)、承和10年(843)、元慶2年(878)、延喜4年
			( 904)承平6年(936)、康保2年(965)と6回の講書が行われたことが窺える。講書は、元慶以降は宴会を伴
			うようになり、酒席で日本書紀を題材とした和歌が詠まれた。講書の終了時には、その学問的成果を記録として残
			し、年号を付与して「私記」として保存された。現在、甲乙丙丁の4種の「日本書紀私記」が残っている。しかし
			これらの写本が、朝廷で行われた講書の「私記」なのかどうかは不明である。だが、甲乙丙の3種の私記が、日本
			書記本文の語句の読み方のみを記録している事や、「釈日本紀」が、語句の読み方を多く取り扱っていることなど
			から、初期の講書で行われていた事の内容が、もっぱら語句の読み方や意味を中心にした勉強会だったことが推測
			できる。また、「釈日本紀」に引用されている「承平私記」や「元慶私記」では、日本書紀の成立過程、原資料の
			検討、記事への批判などが行われており、古代の「講書」が、日本書紀研究の第一歩だったのは間違いない。古代
			における日本書紀の研究史には、太田晶二郎「上代に於ける日本書紀講究」(史学会編)がある。


			(2).釈日本紀
		
			鎌倉時代における日本書紀の研究は、卜部兼方「釈日本紀」につきる。前頁で記したように、日本書紀の研究は、
			講書にはじまり多くの私記を生んだが、これらの私記を数多く引用集成したものが「釈日本紀」28巻である。本
			書は卜部兼文が文永・建治の頃(1264〜78)、前関白一条実経、その子摂政家経らに日本書紀を講じたときの筆記
			録を元に、兼文の子兼方が編纂したものである。開題・注音・乱脱・帝皇系図・述義・秘訓・和歌の7部門にわけ
			て、日本書紀の成立、本文の正誤、字句の解釈、読法、和歌などについて研究書的叙述を試みた書。
			この書物には、「史記」や「文選(もんぜん)」などの漢籍が直接間接に多く引用されているが、その他にも、前
			述した「私記」や「古語拾遺」・「古事記」・「日本後記」など日本の書籍も多く引用され、単に「私記」の寄せ
			集めではなく、日本書紀研究の集大成となっている。内容も、日本書紀の成立や記事批判、語句の訓読解釈を行う
			など、講書の段階に比べるとはるかに水準の高い物になっている。資料の引用や解釈は「私記」や父、兼文の残し
			た「師説」を参照しているようだが、兼方自身の意見も入っている。なお、「釈日本紀」には、諸国の風土記など
			の逸文(いつぶん:原本は残っていないが、文章の一部が引用の形で他の文献に残っている物。)が多く引用され
			ている点でも価値が高いとされている。


			(3).神道的解釈

			「釈日本紀」以後、約500年間に渡って日本書紀の本格的な注釈書は出現しなかった。18世紀に谷川士清(た
			にかわことすが)が「日本書紀通證」を著わすまでは、日本書紀は歴史書としてよりもむしろ神道の経典として、
			神道家・神官や僧侶、知識人たちに読まれたのである。室町時代の日本書紀の注釈は、そのため「神代紀」を中心
			に宗教的な解釈に依っていた。本来神道には確立した教義などは存在していなかったが、鎌倉時代になって伊勢の
			度会神道や吉田神道などが、中国思想を採りいれつつ徐々にその教義を確立し、日本書紀もそのための解釈に用い
			られた。忌部正通の「神代巻口訣」や一条兼良の「日本書紀纂疏(さんそ)」なども出現するが、所詮、新興神道
			諸家が、自己の神道思想に基づいて日本書紀の神代紀を解釈したものであり、学問的には「釈日本紀」にもはるか
			に及ばなかった。


			(4).江戸時代の研究

			江戸時代初期の日本書紀研究は、神道の教典として日本書紀を解釈する研究が続いていたが、しかし日本書紀を歴
			史書として捉えようと言う態度も高まっていた。山崎闇斎(やまざきあんさい)は「神代巻風葉集」の中で、日本
			書紀が「一書に曰く」と他の文献を紹介して客観的であろうとしている編集態度を評価している。また、元文4年
			(1739)に刊行された玉木葦斎(たまきしゅんさい)の「神代巻藻塩草(もしおぐさ)」では、日本書紀を解釈す
			る根拠に「万葉集」・「古語拾遺」・「類聚国史」など日本の古典のみを用い、儒教・仏教の経典を用いて解釈し
			ようという神道家たちの方法論からは脱却し、純粋に史料批判を行おうとしたものとして注目される。江戸時代当
			初、神代巻しか刊行されなかった日本書紀も、次第に全編が刊行されるようになり、研究者達の層を拡大するのに
			大いに貢献した。
			このような新たな傾向のなかで、18世紀中葉に「日本書紀」全編の注釈書が登場した。谷川士清(たにがわこと
			すが)の「日本書紀通證」である。伊勢の和学者で神道家でもあった士清は、寛保元年(1741)にこの書の記述を
			開始し、宝暦元年(1751)に脱稿、同12年に出版した。全35巻のうち巻1を日本書紀全体に対する総論とし、
			巻2から巻7を神代紀、巻8以下を皇代紀にあてている。内容は、中世から近世始めに多かった空理空論の注釈書
			とは異なり、字句の意味を古典に基づいて解釈し、従来注釈の行われなかった皇代紀について、その出典を明らか
			にしながら国語学的な注釈を行った。彼の研究は、現代でも十分通用する方法論と内容を持っていた。
			しかし、特に神代紀などには師の山崎闇斎の説を多く引用し、また神道家のためか垂加流神道の気配が濃厚に残っ
			ている点などが本居宣長によって指摘されている。また、谷川が用いた日本書紀の写本も低質なものとの指摘があ
			る。
			「日本書紀通證」に、わずかに遅れて出た河村秀根(ひでね)の「書紀集解(しょきしっかい)」も日本書紀全編
			に対する注釈書である。尾張藩士であった秀根は、吉見幸和(よしみゆきかず)の弟子となって神道を学んだが、
			藩主徳川宗春の死後は古典の実証的研究に没頭した。彼は日本書紀を重要視し、過去の注釈書を集大成した「書紀
			集解」を製作した。秀根の子益根も加わったこの研究は、数度の改稿が行われ、天明5年の序を持つこの書は、実
			に約60年の歳月を費やして完成したのである。内容は、日本書紀をあくまでも漢籍として扱い、分註を後世の書
			き込みと考えて削除するなど国語学的には問題が残るが、語句の漢学的解釈を行った点などは、現代でも十分通用
			する高い価値を持っている。ただ、河村親子が用いた日本書紀の写本は、「日本書紀通證」同様、あまり信頼のお
			けるものではなかった。
			「日本書紀通證」「書紀集解」が製作された18世紀は国学の発展期でもあった。先の、古事記の本居宣長の項で
			述べたように、従来の学問が儒教・仏教の経典を中心とする中国の書物を用いて行われていたのに対し、国学は、
			日本古来の精神を日本の古典に求めようとするもので、古事記・日本書紀は貴重な書物として扱われた。本居宣長
			の「古事記伝」もこいう風潮の中から生まれ出たのであった。周知のように、宣長依然の、国学の祖契沖、荷田春
			満等は日本書紀を古事記よりも重視した。これに反して春満の弟子、賀茂真淵は古事記を重要視し、その立場がさ
			らに真淵の弟子の宣長によって「古事記伝」として大成したことは述べたとおりである。しかし宣長は、古事記本
			文を検討する際に日本書紀の文章を引用しており、その史料的価値は十分認識していたのである。

			一方、宣長と同時代の橘守部(たちばなのもりべ)は、宣長とは反対に日本書紀を重視する見解で、「神代紀」と
			「神武紀」に対する独自の解釈を、文政3年に「稜威道別」(いつのちわき)で著わした。また、伴信友(ばんの
			のぶとも)は「比古婆衣」(ひこばえ)の1の巻、「日本書紀考」の中で、(1).日本書紀は最初は「日本紀」であ
			ったが、弘仁の頃(9世紀)「日本書紀」と呼ばれるようになった。(2).現在の日本書紀は編纂時のものとは内容
			が異なっている。(3).分注や引用文は後世の人の書き込みである、という現在でも論議を呼んでいる主張を唱えた。
			本居宣長の弟子を自称する平田篤胤(ひらたあつたね)は、宣長とは違って、日本書紀優越論をとり、上記の伴信
			友の説を支持した。篤胤の弟子の鈴木重胤(すずきしげたね)も日本書紀優越論をとり、本文の注釈に力を注いだ
			「日本書紀伝」を執筆したが、未完のまま世を去った。


			(5).明治以後の研究

			明治時代に入ってもしばらくは、国学の流れを汲んだ研究が進められた。代表的な著作には、大阪出身の国学者・
			敷田年治(しきだとしはる)の「日本紀標註」(明治13年)や、平田篤胤の弟子(死後弟子になった)で信濃の
			武士であった、飯田武郷(いいだたけさと)の「日本書紀通釈」(明治32年)などがあるが、いずれも江戸時代
			の注釈書の引用で自説はなく、返って江戸時代の研究よりも学問的レベルは低くなってしまった。以後、目新しい
			注釈書は出現していないが、この時期、後年「紀年論争」と呼ばれる日本書紀の紀年に関する論文が相次いだ。わ
			が国東洋史学の先駆者と呼ばれる「那珂通世(なかみちよ:嘉永 4〜明治41:1851〜1908)は、「上古年代考」・
			「日本上古年代考」・「上世年紀考」などの一連の論考の中で、神武天皇即位の年(紀元前 660:辛酉(かのとの
			とり))は、中国の「辛酉革命説」に基づいており、推古天皇即位の年(辛酉: 601)から1260年を引いた年
			に設定されたという画期的な説を発表して、当時の学界に旋風を巻き起こした。

			

			また、星野恒(わたる),吉田東伍(とうご),菅政友(すがまさとも)は 神功紀、応神紀の紀年が干支二運(120
			年)繰り上げられている事を明らかにし、ほかにも多くの論文が発表され、紀年を巡る論考は隆盛を極めた。明治
			以後のこれらの論考をさらに推し進めて、大正年間に劇的な論考を次々と発表したのが、津田左右吉である。彼の
			業績に関しては「古事記」の項で述べたのでここでは省略するが、基本的に私は「津田史学」には与(くみ)しな
			い。「科学的」とか「実証的」とか云われて、戦後は特に脚光を浴びた学説だったが、今日ではその主張は全く科
			学性を欠いており、実証的ですらない。それについては、いずれ別項で述べたいと思う。

			津田の業績はその後、井上光貞、直木孝次郎、上田正昭などに引き継がれていくが、大正末から昭和にかけて、高
			木敏雄・松本信広による、日本神話の科学的な分析研究が行われたことは、日本の神話学における先駆的な業績と
			して注目に値する。この業績は松村武雄を経て、昭和初期の柳田国男、折口信夫による、日本神話の民俗学的研究
			へも発展していく。




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