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			1.諸本


			前述したように、現在記紀の原本は存在していない。今日伝わっているのは全て後世の写本、或いは版本である。こ
			れらの写本類の大きな特徴は、日本書紀が国選の歴史書として扱われたためか、奈良期の終りから平安にかけて既に
			存在しているのに、古事記の方は南北朝以降のものしか現存していない事である。2つ目は、これも同様の理由によ
			るものか、量的に日本書紀が圧倒的に多く、古事記の方は少ないという現象になっている。記紀ともに、現存してい
			る写本類は卜部(うらべ)家伝来に関わる物が多いが、これは卜部家が神道家で、祭祀を司り、家学として「日本書
			紀」研究を行っていた事による。古事記が南北朝・室町期になって書き写されるようになったのは、主に神道の研究
			材料として珍重されるようになったためである。また今日では写真撮影の解禁と撮影技術が向上したためか、記紀の
			影印・複製が盛んに作られており、資料館等でもそれら写本を実見できるようになった。


			(1).古事記

			古事記の伝本は、1).伊勢系諸本と、2).卜部系諸本とに大別できる。伊勢系諸本の書写時期は、南北朝から室
			町始めにかけてであり、卜部系諸本よりも古い。


			1).伊勢系諸本
			伊勢系諸本は、更に、真福寺本(しんぷくじぼん)系と道果本(どうかぼん)系に分かれる。道果本系には句読点が
			施してあるが真福寺本系にはなく、真福寺本系のほうが古式を保っている。

			■真福寺本系
			・真福寺本(国宝、愛知県宝生院(大須観音)蔵)
		 	冒頭の「成立過程」の部分で書いたように、今の所一番古く確かな写本として、古事記研究の底本となっている写
		 	本である。
		 	この寺に残されていた「古事記」写本を、本居宣長門人でもあった尾張藩士の稲葉通邦(みちくに)が発見する。
		 	真福寺(宝生院の全身)の第二世信瑜(しんゆ)の命で、真福寺の僧・賢瑜(けんゆ)が写したもので、上・中巻を応
		 	安4年(1371)に、下巻を翌年(1372)に写し終え、信瑜が校正した。文章はすべて流麗な古漢字で書かれ、句読
		 	点やフリガナはない。上・中・下巻と、3巻揃った完本としては現存最古である。本書は粘葉装だが、奥書に「執
		 	筆賢瑜俗老廿八歳」とあった。上・下巻と中巻は、伝来系統が異なると云われる。

		 	  
						『真福寺本』


			■道果本系
			・道果本(重要文化財、奈良県天理図書館蔵)
		 	道果が永徳元年(1381)に書写したもの。真福寺本に次いで古いが、上巻の前半部分しか現存していない。本文に
		 	は返り点が記され、所々にフリガナが振ってあり、道果の書き込みもある。そのため、道果の目的は、写本ではな
		 	く、古事記の校正だったのではないかと云われる。

		 	


			・道祥本(どうしょうぼん:伊勢本ともいう。東京都静嘉堂文庫蔵)
		 	伊勢の興光寺の僧恵観(えかん)の書写本を、道祥(荒木田給サ)が応永31年(1424)に書写したもの。上巻が
		 	残るが後半部に欠損が多い。ちなみに「財団法人静嘉堂文庫」は、三菱財閥の岩崎小彌太が、先代の残した蒐集品
		 	を保存展示する為の美術館として建てたもので、岩崎彌之助(三菱第二代社長)と小彌太(同第四代社長)の親子二代
		 	によって設立され、国宝7点、重要文化財82点を含む約20万冊の古典籍と5,000点の東洋古美術品を収蔵し
		 	ている。東急田園都市線、大井町線・二子玉川駅。


			・春瑜本(しゅんゆぼん:重要文化財。伊勢神宮蔵。伊勢一本、御巫本(みかなぎぼん)とも云う。)
		 	春瑜が応永33年(1426)に道祥本を書写したもの。春瑜の自筆かどうか意見が分かれている。真福寺本の誤脱を
		 	補正する資料として有用。



			2).卜部系諸本
			「校本古事記・解説編」によれば、卜部系諸本は現在36本が現存し、兼永筆本を祖本としている。

			■兼永筆本(京都府鈴鹿勝氏蔵、兼永本、鈴鹿登本ともいう。)
		 	上・中・下三巻(3冊)が残る。正三位の卜部朝臣兼永が、室町末期を下らない大永2年(1522)に書写したもの。
		 	序の最後は、書名風に表記され、序と上巻は、改行によって切り離されている。本文には句読点が打たれ、一部に
		 	はフリガナも施されていて、読みやすい。

		 	

			■それ以外(全て江戸時代の書写)
			・近衛本(陽明文庫本、京都府陽明文庫蔵)系
			・梵舜本(ぼんしゅんぼん:東京都國學院大學蔵)系
			・山田本(やまだぼん:東京都静嘉堂文庫蔵)系
			・猪熊本(香川県猪熊家蔵)系
			・三浦本(戸川本、兵庫県戸川家蔵)系
			・九條本(奈良県天理図書館蔵)系
			・隠顕蔵本(奈良県天理図書館蔵)系
			・祐範本(ゆうはんぼん:前田本、東京都前田育徳会尊経閣文庫蔵)系
		 	これに、寛永版本系を加えた9系統(35本)に分類され、この他に校本的な頼房本(茨城県水戸彰考館蔵)がある。


			3).版本
			今までの所、古事記の最初の版本は、寛永21年(1644)に版行された卜部系の寛永版本(上・中・下3冊)である。
			度会延佳(わたらいのぶよし)の「□(ごう)頭古事記」は、数種類の伝本を校訂したもので、貞享4年(1687)に
			版行された。こうした成果が、本居宣長の「古事記伝」につながる事になる。


			見てきたように、室町期書写の「真福寺本古事記」が、伝わる最古の「古事記」である。「古事記」本来の姿を伝え
			る唯一の写本とも云われる。現在われわれが目にしている「古事記」は、実は本居宣長の「訂正古訓古事記」(1802)
			に準拠している。後述するように、宣長は30年にわたって「古事記」を研究し、大著「古事記伝」を著わした。
			その成果から生まれたのが、「訂正古訓古事記」である。句読点、フリガナ付で読みやすく、しかも「古事記伝」と
			いう解説書付である。後代の「古事記」は、殆どが「訂正古訓古事記」に準拠しているといってもよく、そのため、
			「『古事記』は享保2年(1802)に、江戸で、本居宣長が作ったものである。」という意見もある。

			



			(2).日本書紀

			日本書紀の伝本は、1).古写諸本と、2).卜部家本系諸本に分けられる。卜部家本系諸本はその殆どが鎌倉期以
			降の写本である。

			1).古写諸本(古本系)

			■田中本(国宝、東京都田中穣氏蔵 奈良国立博物館)
		 	第十巻応神紀の残巻で、奈良末期から平安初期(9世紀頃)の書写と思われる。現存する最古の写本で、楷書体の
		 	遺品としても貴重なものである。
		 	以下の写真は巻第十の「応神天皇紀」で、首尾各1紙を欠くものの9紙を残し、応神天皇2年から41年までの記
		 	事を、端麗な楷書で記している。この中には、王仁博士の来朝などの著名な記事も収められている。仮名などの訓
		 	読点や校異などの注記はなく、紙背には、空海の詩文集である「性霊集」が書写されている。こちらは書風から平
		 	安時代後期に書写されたものと考えられるが、これが「性霊集」の現存最古本である。文中には振り仮名や送り仮
		 	名が付されており、平安時代における「性霊集」の読法を精細に伝えて国語学上にも貴重である。

		 	

			同じように、紙背に「性霊集」が書写されていて、もともとは同じ巻の仲間だったと思われるものに、以下の3種類
			がある。いずれも「巻1・神代上」の断片的な紙片(断簡)である。

			・佐佐木本(佐佐木信綱本、佐佐木幸綱氏蔵) 10行、237文字。
			・猪熊本(猪熊全寿氏蔵) 3行、59文字。
			・四天王寺本(大阪四天王寺蔵) 4行、26文字と2行、55文字の2葉。

			これらの資料から、古態の日本書紀は句読点がなく、神代紀の一書は、小字2行で書かれていたことなどが判明して
			いる。
			また断簡神代紀の本文は、後述する卜部兼方本神代紀と一致し、兼方本の古さを証明している。

			■岩崎本(国宝、東洋文庫本、文化庁保管 京都国立博物館)
		 	22巻推古紀、24巻斉明紀の2巻を残す。9世紀後半〜10世紀半ば頃書写されたと思われる。訓点を持つ最古
		 	の写本で、平安中期・後期と室町時代の一条兼良による、3時期の訓読点が付与されている。
			■前田本(国宝、東京都前田育徳会尊経閣文庫蔵)
		 	巻11仁徳紀、巻14雄略紀、巻17継体紀、巻20敏達紀の4巻を残している。平安後期(11世紀)の書写と
		 	見られ、句読点を残す。

			このほかにも古写本として、院政期から南北朝期の書写を含む宮内庁本(禁中本、図書寮本、宮内庁書陵部蔵、巻2
			・10・12〜17・21〜24、計12巻)院政期の書写と見られる北野本(京都府北野天満宮蔵、巻22〜27、
			計6巻)、嘉禎2年(1236)の書写になる鴨脚本(いちょうぼん:嘉禎本、京都府加茂御祖(みおや)<下鴨>神社
			禰宜鴨脚家伝来、神代下)などがある。


			2).卜部家本系諸本

			卜部家に歴代「家本」として伝わっていた書記の写本は、大永5年(1525)に紛失している。しかし、紛失前の大永
			十年(1513)から翌年にかけて、その家本を三条西実隆(さねたか)が書写している。また、家本を鎌倉時代に書写
			したものも現存している。

			■卜部兼方本(国宝、弘安本、文化庁保管、京都国立博物館) 
		 	神代上下2巻が存在する。弘安9年(1286)以前に卜部兼方(かねかた)が書写した。底本は、平安時代の博士家
		 	の大江家本に近いとされている。本書には兼方の2度の裏書きがあるが、父兼文(かねふみ)の行った書記の講述
		 	と密接な関係があり、兼方の著した書記の注釈書「釈日本紀」に収められている。
			■卜部兼夏本(国宝、乾元本、奈良県天理大学附属天理図書館蔵)
		 	神代上下2巻が残る。卜部兼夏が乾元(けんげん)2年(1303)に書写した。上巻前半部には、兼夏が字詰めを整
		 	えて書き改めようとした形跡が残っている。
			■卜部兼石本(重要文化財、奈良県天理大学附属天理図書館蔵)
		 	3巻神武紀〜30巻持統紀までが現存する。家本紛失後、兼石が家本の復興を志し、三条西実隆の写本を筆写し、
		 	校合(きょうごう)を重ね、天文9年(1540)に完成した。神代上下巻がないのは、既に兼方本、兼夏本があった
		 	ためだろうと思われる。併せて、歴代天皇紀の完本となっており、書紀研究上貴重な資料である。
			■熱田本(第3〜6,9,10,12〜15巻、熱田神宮蔵)

			この他にも卜部家本系の諸本として、三条西実隆の書写本を慶長年間頃に書写したと見られる内閣文庫本(永正本、
			全30巻)、水戸本(嘉暦本、鎌倉本、彰考館本)、池内本(永和本)、北野本、伊勢本などがある。

			

			3).版本

			卜部家伝来のものとして、慶長4年(1599)の「勅版本」神代巻、慶長15年に木活字で全30巻を版行した「古活
			字版」(慶長活字本)、これに訓点を加えた「寛永整版本」や、広く一般に流布した「寛永九年整版本」などが残っ
			ている。また古写本系としては、嘉元4年(1306)の書写本を模刻した丹鶴本(神代上・下巻)がある。





			2.注釈書

			(1).古事記

			1).「古事記裏書」

			伊勢神宮「神道叢書」所蔵、重要文化財。縦29p、横19p、楮紙、袋綴、墨付11枚1冊の装丁。
			現存する最古の古事記の注釈書は、神宮文庫所蔵、室町初期の応永31年(1424)、沙弥道祥が書写した「古事記裏
			書」1冊である。これは当時77歳の道祥(荒木田一門の鳥居給サの法名。荒木田給サとも言われる。正平3年(13
			48)生まれ、内宮の権祢宜従4位下に叙せられ、志摩国伊雑戸上村に隠居して出家した。応永30年、81才で死去。)
			が、尾崎坊之本(伊州度会郡宇治郷・尾崎遍照院の所蔵本)を書写した物。ここに「文永十年二月四日丑剋、兼文注
			之。」とある事から、著者は卜部兼文であるとする説が長く信じられてきたが、近年北畠親房の著述作説や、多数の
			加筆者を想定した説などが出現し、真の選録者を確定するには至っていない。
			本書は純粋に注釈書的な私見を述べた書ではなく、「旧事本紀」など奈良、平安朝の日本・中国の書物を引用し配置
			した書である。古事記の上・中両巻の11項目について、参考になる書物の文書を引用し、さらに著者の私見を若干
			ながら加えている。引用書25種の中には、現在なくなった貴重な資料も含まれている。後半終末に、前記した「文
			永十年二月十四日丑剋兼文注之」とあり、同時代で、同文の兼文書入れの貼紙が、真福寺本にあるので、両者の間に
			関係があったことが推察される。


			2).本居宣長「古事記伝」

			国学者本居宣長の代表的著述。『古事記』全体の包括的な注釈書。全44巻。総論、序文注釈、神統譜、本文注釈か
			らなる。この中で国学的立場での史料批判を行っている。「直毘霊」は総論にある論文。近世における古典研究の卓
			越した成果であるとともに現代にいたるも『古事記』のみならず、古代文化研究の基本書たる地位を失っていない。
			宣長が『古事記』研究に着手したのは宝暦14年(1764)頃、最後の巻の浄書終了は寛政10年(1798)、宣長69
			歳のときであった。刊行は寛政2年(1790)から文政5年(1822)。宣長没後20年余にして刊行を終えた。『古事
			記伝』における研究態度は、まず諸写本などへの厳格な批判の上に本文を校訂し、訓法を付し、さらにそれに周到な
			注釈を加えるといったものである。わからないものはわからないと率直にいうなど、まさに学問的である。しかし、
			校訂訓法も万全とはいえず、また宣長自身の目的が古語による古代の“真実”の探求であったため、ややもすれば、
			強引な解釈を示す場合もあった。とはいえ宣長のこの著述により『古事記』は一躍神典としての高い位置を占めるに
			いたったのである。
			近年、宣長批判の書も多いが、その批判の元になった解釈はこの「古事記伝」に依っている場合が多く、広汎な資料
			整理に立脚した注釈は、古代を絶対視する古道論において、今日なおこの書を超えるものは出現していない。

			
			「古事記伝(こじきでん)」 巻1,2 本居宣長自筆稿本〔天明5-8(1785-88)〕2冊 27.4×18.9cm  本居宣長館所蔵


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			【本居宣長】(1730〜1801:江戸時代中期の国学者。伊勢松坂の人、鈴屋と号した。)
			宝暦13年(1763)、34歳の時に賀茂真淵に入門。『古事記』注釈研究に志し、30数年かけて完成したのが『古事
			記伝』全44巻44冊である。宣長自筆の稿本は草稿(初稿)本、巻17(版本巻18)〜44の27巻22冊、再稿本全
			44巻44冊が本居宣長記念館と天理図書館に現存する。伊勢松坂市の本居宣長館が所蔵するのは巻1(総論)、巻2
			(『古事記』序文の注釈、神統・皇統の系譜)の最終稿本と考えられる。宣長自筆と伝えられるが、異筆と見られる部
			分もあり今後の精査が待たれる。随所に施された付箋や朱などによる加筆訂正からは宣長の推敲の跡を窺うことがで
			きる。『古事記伝』成立の過程を知るための重要な資料。「須受能屋蔵書」の印記がある。  
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			【略歴】
			 8歳  15歳まで西村三郎兵衛、斎藤松菊に手習いや千字文、岸江之仲に謡曲と四書を習う。
			16歳  1年間、江戸の叔父の店で修行。 
			17歳  浜田瑞雪氏に弓の指南を受ける。 
			19歳  伊勢の今井田家の養子になり紙商となるが、21歳で養子縁組み解消、紙商も離職。 
			23歳  京都の堀景山塾で漢文学を学ぶ。
			24歳  京都の堀元厚塾で医学を学ぶ。
			25歳  堀元塾閉鎖のため武川幸順塾に再入学。 
			26歳  武川塾卒業。引き続き同所で医療実習を受ける。 
			28歳  帰郷後、松坂魚町で内科、小児科医を開業。 
			29歳  松坂魚町宅等で古典講釈塾を開き「源氏物語」等町人に教える。 
			34歳  宝暦13年(1763)、江戸の国学者賀茂真淵と一夜対面、翌年入門、文通で指導を受ける。賀茂真淵が死
			 	   去するまで約6年間続いた。
			52歳  天明元年(1781)。「古事記伝」執筆、「古事記」中巻の伝に着手。 宣長宅で賀茂真淵十三回忌を開催。 
			53歳  「詞の玉緒」版下出来る。「天文図説」「真暦考」成る。書斎「鈴屋」竣工。 
			55歳  天明4年(1784)2月、志賀島で金印が発見さる。 
			56歳  「漢字三音考」「詞の玉緒」刊行。 
			57歳  「古事記伝」巻2、板下を名古屋に送る。出版開始。「玉鉾百首」出版。上田秋成との論争始まる。 
			58歳  家斉、11代将軍となる。「木枯森碑文」執筆。「国号考」刊行。「秘本玉くしげ」「玉くしげ」を紀州
			 	   藩主に献上。
			63歳  紀州徳川家(五十五万五千石)に仕官(但し松坂住み)、資格は医師ながらもっぱら古典講釈をおこなう。
			  	   没年までに和歌山に三度出府し藩主、また清信院に進講する。 
			【著書】 78種206冊3表
				   (代表作「古事記伝」44冊、「源氏物語玉の小櫛」9冊、「詞の玉緒」7冊、「玉勝間」15冊)
			【歌】  約1万首
			【書簡】 1021通 (受取人保管分のみ)
			【門人】 489名(外に没後門人2名) 
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			(2).日本書紀


			1).卜部兼方「釈日本紀」

			日本書紀の研究は、講書にはじまり多くの私記を生んだが、これらの私記を数多く引用集成したものが「釈日本紀」
			28巻である。本書は卜部兼文が文永・建治の頃(1264〜78)、前関白一条実経、その子摂政家経らに日本書紀を講
			じたときの筆記録を元に、兼文の子兼方が編纂したものである。開題・注音・乱脱・帝皇系図・述義・秘訓・和歌の
			7部門にわけて、日本書紀の成立、本文の正誤、字句の解釈、読法、和歌などについて研究書的叙述を試みた書。


			2).谷川士清「日本書紀通證」

			中世においても、忌部正通の「神代巻口訣」や一条兼良の「日本書紀纂疏(さんそ)」などがあるが、全編にわたる
			注釈書は、谷川士清(たにがわことすが)の「日本書紀通證」35巻まで出現しなかった。
			谷川士清(1709)〜76)は、伊勢の津の人で、寛保元年(1741)より始めて宝暦元年(1751)に完成し、同12年に
			京都風月堂より出版された。巻1に、書紀全般に通じる大義を述べ、巻2から巻7には神代紀、巻8以下を皇代紀に
			あて、注釈を施した物で、次の河村秀根著「書紀集解」とともに、江戸時代における二大業績として取り上げられる。

			

			

			3).河村秀根「書紀集解」

			河村秀根(1723〜92)は尾張の名古屋藩士で、吉見幸和の門人となって神道・古典を学び、日本書紀の研究に進んだ。
			天明5年(1785)乙巳11月の序文を持つ本書は、その子益根によって、文化年間(1804〜18)の初年頃に全巻の刊
			行をみた。本書は出典研究に絶大な力を注ぎ、後世の解釈に拠らず、直接本文について古典の義理を求めるという、
			古学的方法論を徹底的に推し進めたものであり、昭和37年の小島憲之著「上代日本文学と中国文学・上」(塙書房)
			の出現まで、これを凌駕する物は無かったという意見もある。

			他に、文久2年(1862)の鈴木重胤著「日本書紀伝」などもある。これは日本書紀の通釈書で、神代の部分まで終わ
			った翌年(1863)に鈴木は暗殺されたため未完だが、完成部分はかなり詳細な注釈書である。



			近代においても、飲田武郷の「日本書紀通釈」などの刊行をみたが、注目すべきは津田左右吉の、記紀に関する一連
			の研究であろう。現在ではその功罪には両論あるものの、精力的に推し進められた研究は、それまでの通説を覆し、
			史界に新しい展望を開いた事は間違いない。
			津田は、「神代史の新しい研究」(大正2年)、「文学に現はれたる我が国民思想の研究」(大正5年)、「古事記
			及び日本書紀の「新研究」(大正8年)、さらにその改訂版「神代史の研究」(大正13年)、「古事記及日本書紀
			の研究」(同年)を公刊し、記紀研究に新しい視点を提示した。


			<津田左右吉>	
			岐阜県米田東栃井の士族の家に生まれた。1887年(明治20)国民新聞創刊号の田口卯吉の論説「国を建つるの他は幾
			何ぞ」に深い感銘をうけ,のち東京専門学校へ入学。1891年(明治24)卒業。澤柳政太郎に寄寓。そのあと富山県の
			本願寺別院附属学校教授をつとめ、上京、白鳥庫吉の庇護を受ける。また中等教師を群馬県立中学・千葉県立中学・
			宇都宮中学・千葉中学校教師,独逸協会中学校教師などをつとめる。教科書『新撰東洋史』『国史教科書』出版に従
			事したこともある。1907年(明治40)満鮮地理歴史調査室研究員につとめ、本格的な研究調査生活に入る。
			津田は天皇制を合理化し近代化し皇室の存続を願い、社会主義を力で弾圧することを反対した自由主義的歴史家であ
			った。彼は民衆の心意の支えをうけていたからマルクス主義には反対であったが,思想の共存を認めていた。日本思
			想の鼓吹を批判し、祭政一致論を批判、アジア主義批判にいき、時局便乗をいましめた。その結果津田は天皇不親政
			の告発をうけ、その古代・上代史に関する著書を「皇室ノ尊厳を冒涜し」と、岩波書店社長・岩波茂雄とともに裁判
			に附せられた。しかし津田は裁判闘争を通じて、自分は不敬どころか天皇を敬愛していることを述べつづけた。この
			立場は,全く戦後に至るも変わるところがない。




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