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			1.古事記の原資料


			太安万侶が古事記を選録する段階で参考にした資料にはどんなものがあるのだろうか。「序」で語られているように、
			稗田阿礼が勅語の旧辞と帝紀を謡習して、「子細に採(と)り■【手偏に庶】(ひろ)って」選録したとなっている。
			謡習と云えば、阿礼が語るところを太安万侶が書き写したように一般には思われているが、勿論そんな事はない。謡
			習するもととなった文献が在ったはずであり、それは「序」で述べられているように、諸家に伝わる旧辞であり帝紀
			であったのだろう。そしてそれは、当然皇室(大王家)に伝えられた旧辞と帝紀も含まれていたはずだし、むしろそ
			っちの記事のほうが多かったに違いない。また天武天皇が稗田阿礼に命じたときにはすでにあったのだから、旧辞お
			よび帝紀のそもそもの成立はそのずっと前の時代ということになる。ではその旧辞、帝紀とは一体どんなものだった
			のだろうか。


			(1).帝紀(帝皇日継、先紀、帝王本紀、日本帝紀)

			「帝紀」については、日本書紀の欽明天皇2年3月の条に、天皇の子女について記した部分の注に、「帝王本紀に多
			に古き字ども有りて、撰(えらび)集(さだ)むる人、屡(しばしば)遷り易(か)わることとを経たり。後の人習
			(なら)ひ読む時、意(こころ)を以て刊(けず)り改む。伝え写すこと既に多にして、遂に舛雑(たがいにまよう)
			ことを致す。前後(さきのち)次(ついで)を失ひて、兄弟参差(かたたがひ)なり。(略)」とある。
			ここから、書紀の編纂時に「帝王本紀」と呼ばれる皇室の系譜を記した書物が存在していた事が窺えるし、異本が幾
			つかあってそれらは異なる内容を持っていたらしい事もわかる。また「伝え写すこと既に多にして、遂に舛雑」とあ
			るので、相当多くの系譜や故事が記録されていたようである。ここにいう「帝王本紀」も、古事記「序」の「帝紀」
			と同じものであろうとされているが、これらの記事からだけでは、その内容がどんなものであったのかは不明である。
			やはり古事記本文に記されている内容から類推せざるを得ない。

			「序」では、帝皇日継、先紀とも書かれており、その題名から天皇(大王)の系譜をつづっていった物であろうとい
			う推測が成り立つ。帝皇日継と帝紀と分けて書いてあるのだから、当然この二つは別物であるという意見もあるが、
			これは文体の違いからくるもので、帝紀と帝皇日継、先紀は同じ物であるという意見が主流である。帝紀に関しては
			古事記の「序」以外にも、日本書紀でも言及されている。書記では、「一書に曰く」として色々な意見を記述してい
			るのはよく知られているが、この段階(書記が編纂される段階)では、「一書」が多数存在していた事が明らかであ
			る。また書記の本文中にも、「帝王本紀にはこうかいてある。・・」という箇所があって、当時帝王本紀と呼ばれる、
			皇室の系譜を記した書物があって、それには幾つかの異本があり、またその内容が異なっていたことなどが窺える。
			また書記には「日本帝紀」という語もあらわれる。これらの記事からは、その帝紀の内容がどん
			なものだったかまでは窺えないが、だいたいの想像はつく。

			「古事記」は、上巻は神話時代を扱っているが、中巻・下巻は神武天皇から推古天皇までの、各天皇の情報、その御
			代における事績や物語などを記載しているが、その天皇特有の物語などを除けば、その形式は一定のフォーマットを
			持っている。即ち、天皇の名、皇居の所在、治天下の事象、后妃・皇子女の名、それに関する重要事項、治世中の重
			大事件、天皇の享年、治世の年数、山陵の所在等々である。これらは勿論天皇によってその一部を欠いたりはしてい
			るが、基本的に同一の形式を持っており、おそらくはこれが「帝紀」の内容だったと考えられる。


			(2).旧辞(本辞、先代旧辞)

			「序」では本辞、先代旧辞とも記される。天武紀の十年三月の条に「上古の諸事」とあるが、これも旧辞の事であろ
			うとされる。では旧辞とはなにか。これは簡単である。「古事記=帝紀+旧辞」なのだから、小学校で算数を習った
			人なら誰でもわかる。つまり、古事記から帝紀の部分を除いたものが旧辞という事になる。具体的には、上巻の神話、
			中・下巻における多くの伝説や歌物語などが旧辞の内容である。これらも帝紀同様に、皇室(大王家)に代々伝わっ
			てきた伝承や物語がその核になっていると考えられるが、諸家に伝わる物語や、民間の伝承に取材したと思われる内
			容も含んでいる。


			(3).帝紀・旧辞の成立時期

			ではこれらの旧辞・帝紀は、いつ頃どうやって成立した物だろうか。述べたように、天武期にはすでに原資料があり、
			しかも様々な異本があった事が「序」からうかがい知れる。旧辞の内容が民間の伝承もとりいれているとすれば、そ
			れははるか文字が出来る以前から伝えられてきた可能性もあるが、それは探求不可能である。ではいつ頃これらはま
			とめられ、成文化されたのだろう。津田左右吉は、古事記の、旧辞を出典としたと考えられる物語の多くが、23代
			顕宗天皇の御代までである事を理由に、「それからあまり遠くない時代、しかしその記憶がやや薄らぐぐらいの、欽
			明朝頃、即ち6世紀の中頃には一通りまとまっていたのだろう。」(日本古典の研究・上)と延べ、これは今日ほぼ
			定説のようになっている。
			帝紀、帝皇日継、帝王本紀というような呼び方は、「天皇」号が成立する6世紀以前に求められるというような意見
			もある。いずれにしても、天武天皇が命じて編纂された古事記に記載された旧辞・帝紀の内容は、おそらく、原初に
			あった旧辞・帝紀からはその内容が大きく書き換えられている可能性が高い。
			当時の中央政府にとって都合の悪いことや公表したくないことは、大きく改編されたり黙殺されたりしたであろうし、
			その作業はしばしば行われたと推測できる。また、古事記編纂の時期には、おそらく漢書、三国志などの漢籍は既に
			渡来して来ていたものと思われるが、古事記にはその影響はあまり見られないようである。

			



			2.日本書紀の原資料


			日本書紀はこれまで述べてきたように、その編集方針が古事記とはずいぶん異なっている。書記には「序」がないの
			で、その原資料の探求は本文から類推するしかないが、書記の記載方法やその内容から見て、古事記よりも多くの資
			料が使われた事は確実である。書記は中国の史書にならって、「国史」として編纂する事を目的に、国家事業として
			その編集作業が進められたため、正史としての体裁を整えるさまざまな工夫がされている。その顕著なものは「一書
			に曰く」である。「一本に曰く」「或本に曰く」という形で、より多くの記事を参照にした事を読者に知らしめよう
			としている。これは古事記にはない特徴であるが、書記においても、その原資料となったものはおそらく旧辞・帝
			である。これらについては古事記の項で見てきたが、書記に記録された神代の話や、天皇の情報・系譜などは、多少
			の用語・文字の違いはあっても、その内容は殆ど古事記と一緒である。これは、日本書紀の編纂者たちも、参照した
			資料が古事記と同様に旧辞・帝紀であったことを示している。書記の場合はそれに加えて、注記の形で書名が明記さ
			れ、その文章が引用されている。それらは大別すると、

			(1).百済関係の資料、(2).中国関係の資料、(3).個人の手記、

			の3つに分類できる。また古事記と違って書名がはっきりと明示されているのも書記の大きな特徴であろう。


			(1).百済関係の資料

			「百済記」「百済新撰」「百済本記」の3書である。百済記は神功紀・応神紀・雄略記に、百済新撰は雄略紀・武烈
			紀に、百済本記は継体紀・欽明紀に、それぞれ文章が引用されている。この3書は書記のみにみえ、他にはその存在
			がみえずはなはだ疑わしい部分もある。我が国の事を貴国と書いたり、「天皇」「日本」というような表記も用いら
			れている。前述の津田左右吉氏は、それを日本書記の編纂者たちによる改竄だとしている(日本古典の研究・下)。
			坂本太郎氏は、3書は百済で製作された物ではなく、百済滅亡後、日本へ亡命してきた百済人の手になる物としてい
			るが(日本古代史の基礎的研究・上)、本来資料としては百済側にあったもので、日本側がまるまるねつ造した物と
			は判断していない。それは津田氏も同様のようである。継体天皇の没年を「百済本紀」によっている事や、本文中に
			も「百済本紀」からの引用が見られると指摘している。

			(2).中国関係の資料

			神功紀39・40・43年の条に「魏志(倭人伝)」が引用されており、同66年の条には「晋起居注」が引用され
			ている。これにより、書記の編者が卑弥呼を神功皇后に比定していたことがうかがえるが、これらの条は本文が無く、
			分注だけが記載されるという異例な物となっているため、引用自体が後世の加筆と見る意見もある。また中国の史書
			については、「百済本記」などと同様、漢書・後漢書などから文章をそのまま転記した例も見られる。

			(3).個人の手記

			「伊吉連博徳書」「難波吉士男人書」「高麗沙門道顕日本世紀」が挙げられる。「伊吉連博徳書」は、第四次遣唐使
			に随行した伊吉連博徳による、その往復の紀行記録であり、斉明紀の分注に3ケ所引用されている。この書は天武十
			二年以降に朝廷に提出された物と見られており、孝徳紀の白雉5年(654)2月の分注に「伊吉博徳曰」として引用さ
			れている文章もこれに関連すると見られる。「難波吉士男人書」は、斉明5年(659)7月戌寅の条に「伊吉連博徳書」
			に続けて引用されているだけで、その内容からやはり遣唐使に随行した人物だろうと考えられる。「高麗沙門道顕日
			本世紀」は斉明紀と天智紀に併せて4回引用されているが、詳細は不明である。


			以上、書名の判明している物を列記したが、このほかにも諸家から提出させた記録、朝廷に存在した記録、寺社の由
			来記なども引用された形跡が見える。また、風土記製作の詔は和銅6年(713)だが、それ以前にも、地方の役所から
			提出させた同様の資料があって、それも採り入れられたのではないかと思われる。地名説話などのなかには、地方の
			伝承や記録に依ったと思われる記事も含まれているからである。なお、雄略紀21年3月の条には、百済に関する記
			事の分注に「日本旧記」が引用されている。
			記事の内容に関しては、見てきたような多くの文献が参照されたと思われるが、日本書紀には、国史としての形式や
			体裁のために多くの漢籍が引用されている。「漢書」「後漢書」「文選」「金光明最勝王経」などの名前が挙げられ
			るが、最も多いのは唐代の欧陽詢らによる撰の、「芸文類聚」という書物だそうだ。しかし、必ずしも飾書だけのた
			めではなく、その内容にも多く引用されているので、日本書紀編纂に漢籍の果たした役割は結構大きかったものと思
			われる。




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