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			1.古事記編纂の意図
		
			古事記序文において編纂の意図が述べられている事は前述した。和銅4年(711年)9月18日、元明天皇は太朝臣安
			万侶に古事記編纂の詔を出している。序文によれば、諸説入り乱れている天皇家系図及びその周辺の歴史を、正規な
			ものとして整理する必要を感じていた天武天皇が、稗田阿礼に命じて(或いは共に)、それらの帝紀や旧辞の編纂事
			業を思い立ったという。そしてそれが元明天皇の時代になって完成するのである。しかしながらほんとにその目的だ
			けで古事記を造ったのであろうか。膨大な旧書を集めておそらくは取捨選択し、あのような物語的な部分も多数に含
			めて一書とするためには、もっと他に何か目的があったのではないかという疑問を抱かせる。

			序文をそのまま鵜呑みにしないとすれば、古事記は一体いつ、誰によって作られたのか。古事記の編纂者・編纂の主
			宰者は、この書を残すことで後代に(或いはその時代に)何を伝えようとしたのか。それはおそらく、文体や文脈、
			用語、施注等々を正しく読み、序文・本文の中から正しい解釈を探し出すことによって明らかになるのだろうと思わ
			れる。しかしそれを一から、古事記原文を読み探し出すことは、一介の歴史マニアである我々には殆ど不可能と言っ
			て良い。この「古事記・日本書紀の研究」の最後項に「古事記原文、上・中・下巻」を参考に掲載しているが、これ
			らの文章を全く註釈書・解説書を読まずに、漢和・国語辞典だけで読み進んでいこうとしたら、私などにはおそらく
			一生を費やしても不可能な作業のように思える。本居宣長を嚆矢とする多くの先学達の古事記研究とその成果とがあ
			って、我々は今こんなHPを製作したり出来るのである。大いに先人達に感謝しなければなるまい。

			序文と本文の詳細な研究から、その編纂の意図は、各種概説書によれば、以下のような点にあるとされる。


			(1).序文にある「莫不稽古以繩風猷於既頽照今以補典教於欲絶」(古(いにし)へを稽(かん)がへて、風猷
			(ふういう)既(すで)に頽(すた)れたるに縄(ただ)したまひ、今を照らして典教(のり)を絶えなむとするに
			補ひたまはずといふこと莫(な)かりき」という文章の「稽古照今」という語は、中国の「進五経正義表」にある言
			葉から取っていると思われるが、稽古と照今とを相対する語として用いており、過去の事象を明らかにし、それによ
			って現代の道徳規範とする、というような意味である。即ちこれをもって古事記は、天皇家の(古事記が書かれた)
			時代の支配者としての正当性・由緒を語るものとして編集された。

			(2).天武天皇が述べたとされる編纂の理由から、「邦家の経緯」(国家組織の根本)、「王化の鴻基」(天皇の
			指導の基本)を正しくし、書として残すことでその本旨を後世に伝えようとしたが、天武の崩御により完成するには
			至らなかった。

			(3).古事記の伝える独自の氏族の数は、日本書紀のそれの3倍に及ぶ。また、推古朝以後、即ち壬申の乱以後に
			有力となった氏族が多いという指摘は、神代から神武天皇そして推古帝へと続く王家の皇統の中に自らの系譜も組み
			入れることで、有利な氏族伝承を展開したい豪族達と、それを利用し有力氏族を自らの支配体制の中に取り組みたい
			天武天皇の思惑とが融合し、古事記が出来上がった。
			神々の物語や天皇の歴史を語りつつ、天皇家と臣下の血縁的・地縁的関係を正しく(あるいは新たに)構築し、それ
			を広く明らかにする事によって、律令制における臣下の倫理的規範を示そうとした。



			実際、天武天皇が、左大臣右大臣といった一人の補佐官もおかず、全て自ら決断し政務を行った事はよく知られてい
			る。兄・天智天皇の目指した律令中央集権国家への道を彼もまた突き進むのであるが、己の意志と独断でそれを行お
			うとする強い姿勢は、壬申の乱以前と以後とでは、桁違いの権力集中を天武天皇にもたらしたと言われる。
			その意見等々に従えば、古事記編纂は明らかにこれらの政治的意図を持って計画立案された一大プロジェクトだった
			と言うことになる。
			これらはおもに歴史学者や史学関係の古事記解説書に見られる見解である。表現や順番は違うが、古事記編纂の意図
			としてだいたい似たような事がかいてある。しかし、文学や民俗学方面からはまた違った意見も見られる。そんな中
			で一番有力そうなのが、古事記は歴史書ではなく初めから文学書として書かれているというものである。即ち古事記
			編纂者の意図は、古事記を初めから高い文芸格調を持った物語作品として作り上げることにあったというのだ。特に
			上巻に見られる神話部分には、編纂者は物語としての質の高さを最優先していると思える部分が多いと言う。勝者よ
			りも敗者への同情、恋愛物語の多さ、直接的な愛情表現、今日では卑俗とも思える性愛描写等々は、天皇並びに朝廷
			が検閲した歴史書としては、とても「序文」にあるような編纂意図に沿っているとは思えない、となる。歴史書とし
			ては不完全すぎるのである。これもなかなか看過しがたい意見のように思える。

			もともとは神話として書かれ、そこに神話以後も書き足したので「文学」と「歴史」が共に包含されたような書物と
			なった。そして上程されたが、さすがに歴史書としてこれではと言う事になった。そこで新たに国撰の歴史書として
			「日本書紀」が作られた。こう考えると、古事記編纂の過程で、日本書紀の骨格はすでにほぼ出来上がっていたとす
			る意見も理解できそうである。一方は文芸書、一方は史書として編まれ、この2冊(記紀)はペアで1つの「総合誌」
			として捉えるべきかもしれない。




			2.日本書紀編纂の意図

			もし仮に、古事記が文学作品として作られたものであるとすれば、古事記の「序」にあるような天武天皇の勅語を受
			けて成立したのは実は日本書紀であるという事になる。実際、日本書紀の方が古事記「序」の編纂意図に忠実に沿っ
			ているようにも思える。淡々と編年体(紀伝体・紀年体)で書かれている書紀の内容は、天皇家の権威付けには古事
			記よりもむしろ、日本書紀の方が本命だったのではないかとも思える。実際日本書紀は、物語性を排し天皇家系譜や
			天皇の事績について事細かく記述している。前述したように、古事記と日本書紀を比較すると、かなりその編集方針
			が異なっているのが分かる。古事記はおそらく天武天皇の考えの基に、一つの意見を押し通す事でその独自性を有し
			ているが、日本書紀の方は国史である為か、異説を全部掲げ「一書に曰く」として紹介している。異説の在ることを
			知らせ、判断は読者に任せているのである。

 

			天皇による日本統治の正当性を神話的・歴史的に説明し、律令体勢成立の必然性を主張している点は古事記と同じだ
			が、最初の官撰の歴史書として日本書紀は長く重んじられてきた。編纂の経緯は複雑で不明な点が多い。発端は天武
			天皇10年( 681)に、天皇が川嶋皇子・忍壁皇子・中臣大嶋・平群子首ら12人に対して「帝紀」と上古の諸事を
			記録させた事にある、とする説が有力である。編纂者として名前が確実なのは舎人親王だけと前述したが、藤原不比
			等が中心的な役割を担っていたとする説や、太安万侶も加わっていたとする見解もあり、多数のスタッフを抱え長い
			年月をかけて完成されたことは疑いがない。しかし述べたように、ある部分は古事記と同歩調で編纂された可能性も
			あるのではないだろうか。
			古事記同様、「帝紀」「旧辞」がその根本資料となっているが、多くの資料を収集し、その原文を尊重しているのは
			日本書紀における特徴である。諸氏や地方に散逸していた物語や伝承、朝廷の記録、個人の手記や覚え書き、寺院の
			由緒書き、百済関係の記録、中国の史書など、実に多くの資料が編纂されているが、たぶんに中国(唐)や新羅を意
			識した(或いはまねた)ような印象もあり、半島・大陸に対しての優位性を示すのも、編纂目的の一つだったのかも
			しれない。そしてそれは、日本国内の臣下達に対する大和朝廷の権威付けにも使用されたような気がする。

			しかし忘れてならないのは、日本書紀はあくまでも天武天皇の子・舎人親王によって編纂されたという点である。
			古来権力者が残した記録には自らの正当性を主張している点が多く、都合の悪いことは覆い隠す、というのは大原則
			である。書記に書かれている事を全て真実だと思いこむのも極端だが、まるっきり嘘八百を書き連ねている訳でもな
			い。何が真実で何が虚構か、また書紀に書かれていないことにも思いをめぐらし、それらを体系的に組み上げていく
			作業を通して、編纂の意図は次第に見えてくるのだろうと思う。



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