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1.古事記の構成
古事記は三巻からなり、上巻は「序」と神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇につ
いて書かれている。中・下巻では天皇一代ごとに系譜・伝承が記され、仁賢天皇以降には帝紀(天皇家の系譜)のみ
を記録している。
「序」には古事記編纂の意図とその経緯が上表文の形をとって説明されている。(日本書紀には序は無い)。序の末
尾の日付と署名によって和銅5年(712)正月28日に太安万侶が撰進したことがわかるが、この事は「続日本紀」に
は記録されていない。(日本書紀は記録されている)。
「序」は三段から成っていて、第一段では神代から推古朝に至る歴代の事績を回顧し(稽古照今)、第二段で帝紀・
旧辞の撰定を命じた天武天皇と稗田阿礼の誦習について記し、第三段に、和銅4年9月18日に元明天皇が安麻呂に
勅して阿礼の誦習する帝皇日継(帝紀)と先代旧辞とを撰録させたとある。安麻呂の、編纂に当たっての覚え書きの
ようなものまで付与してある。「序」によれば、古事記の原資料は諸氏族の持つ帝紀と旧辞(本辞)であって、これ
らは6世紀半ば以降天皇家に伝えられ筆録されたが、各氏族がこれを写し、多くの異本が出現して本来のものとは違
う、誤った記録が蔓延して来たので、天武天皇は稗田阿礼を助手にしてこれを正す作業を行っていたようである。
古事記の文体をみると、「序」は堂々たる漢文で「古事記」成立の事情を窺う殆ど唯一の資料である。「序」を後世
の挿入とみる学者もいるが、「序」の記すところは当時の時代情勢と矛盾はなく、信用していいという意見が大勢を
占めているようだ。私もこれは本物だろうと思う。上巻は「天地の初め」「大八嶋の生成」「神々の誕生」から始ま
って、高天原・出雲・日向を中心とする神話が続き、神武天皇の父、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
で終わる。神代の時代である。ここでは天皇の国土統治の始源・由来が語られており、漢文体で書かれ歌謡は一音一
字の仮名で記され、古語の表記・発音をあますところなく伝えている。神話の部分には文学性豊かなものが多く、そ
れ故に古事記は史書と文学書の両面から研究されてきたのである。

中巻は初代神武天皇から15代応神天皇までを扱っている。ここにみる神武東征は「天神御子」の「天降り」とされ、
古事記においても史実としてより神話として書かれたもののようにも思える。上巻の延長のような気もするのだ。古
代豪族は、殆どがその祖を天皇家にあるとしたものが多いが、その多くがこの中巻に記された応神天皇までに祖を求
めている。仁徳天皇以後のいわゆる皇別氏族は数えるほどである。これはこの時代が、神と人との混じり合った曖昧
模糊とした時代だった事を豪族達も看破していた事を物語っている。
自家版帝紀に都合のいい系図を書き入れ、太安万侶へ持参した者もいたかもしれない。古事記は古代豪族の研究にと
ってもかかせない資料としての価値が高いが、原資料として採用された旧辞は混合玉石だったことを忘れてはなるま
い。

下巻は16代仁徳天皇から33代推古天皇までを扱っている。仁徳天皇以下、履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧
・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻の各天皇、そして33代推古迄の天皇紀である。
それぞれの天皇の事績については、「天皇陵めぐり」のコーナーを参照していただきたいが、その内容はご存じのよ
うに波瀾万丈の恋物語と皇位をめぐる争いの歴史である。大雑把に言えば、下巻時代の始まりが弥生時代を抜けて古
墳時代へ移っていく時代のように思える。倭の五王の時代もここである。
古事記は日本書紀に比べれば、顕宗・仁賢天皇以降の各記には事績が殆ど記されていない。継体天皇記は特にその差
が顕著である。それ故24代仁賢から33代推古天皇までの十代を「欠史十代」と呼ぶ見方もある。綏靖以降八代の
「欠史八代」になぞらえているのだ。
これは古事記編纂者の隠蔽工作なのかそれとも、古墳時代の皇位継承の争いに明け暮れる中で、記録など皆無だった
時代背景をそのまま反映しているのだろうか。或いは、仁徳以後の皇別氏族が少ないことは、時代が新しいので虚史
を主張しがたいのかもしれない。中巻が、いわば神人未分化の時代だとすれば、下巻は人代の時代と言える。
古事記が推古天皇までで終わっていることについてもさまざまな見解がある。推古の次の舒明天皇は天智・天武の父
である。あまりにも身近なため、天武としては稿を改めて詳述する必要を感じ、とりあえず推古で止めたのだろうと
言われている。その別稿は日本書紀に結実しているわけである。
古事記は日本書紀と併せて「記紀」と呼ばれ、日本古代史研究の基本資料である。もしもこの2書がなくて、考古学
の成果だけで古代史を構築しなければならないとしたら、果たして我々は今のような古代へのイメージを持てただろ
うか。断じて「否」である。博物館に並んでいる埋蔵物だけで組み立てる古代は、おそらく殺伐とした無味乾燥な歴
史となっていたに違いない。発掘出土物は、文献の光が当たってはじめて光り輝く文化財となるのである。
「記紀」については偽書説もあるが、学会の大勢はそれに否定的である。日本書紀は多くの資料を紹介し、異説を列
挙して判断を読者にまかせているが、古事記はおそらく天武天皇が選んだ正説で一貫している。編集方針が大きく異
なっているのだ。文体も安万侶が序で述べているように、漢字の音訓をうまく使い分けて日本語を表記し「漢文体」
の日本書紀とは異なっている。本居宣長は、日本語で表記された古事記の方が、日本書紀よりも日本の古代思想をよ
り良く伝えているとして高く評価している。
2.日本書紀の構成
日本書紀は「六国史」の嚆矢で、「続日本紀」によれば古事記編纂の完成後8年たって完成した官選の国史である。
「六国史」 (国史として認められているもの(日本書紀〜日本三代実録まで:古事記は国史ではない。)
日本書紀 720 神代〜持統
続日本紀 797 文武〜桓武
日本後紀 840 桓武〜淳和
続日本後紀 869 仁明
日本文徳天皇実録 879 文徳
日本三代実録 901 清和〜光孝
書紀の内容は、神代から40代(41代:後述)持統天皇までを30巻にわけ、それぞれの天皇記は古事記に比べて
かなり多く記述されているのが特徴である。第3巻以降は編年体で記録され、うち9巻を推古から持統天皇までにあ
てているのも特徴である。これは古事記が天皇統治の正当性を主張していたのに対し、日本書紀は律令制の必然性を
説明していると直木孝次郎は指摘している。確かに古事記に比べれば、日本書紀の方がその編纂ポリシーに、律令国
家の成立史を述べたような政治的な意図が見え隠れしているような気がしないでもない。日本書紀自体には、古事記
の序のような、その成立に関する説明はない。天武天皇の皇子舎人親王が総裁となって編纂事業に携わった事が「続
日本紀」に見えるだけである。大がかりな「国史編纂局」が設けられ、大勢が携わって完成したと推測できるが、実
際の編纂担当者としては「紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂」の名が同じく続日本紀に見えるだけである。
日本書紀は巻数が多いので多くの原資料が用いられ、古事記がいわば天武天皇の編纂ポリシーに沿った形でほぼ一つ
の説で貫かれているのに対して、日本書紀は「一書に曰く」と諸説を併記している。国内資料のみならず、朝鮮資料
や漢籍を用い、当時の対外関係記事を掲載しているのも古事記にはない特徴である。特に、漢籍が当時の日本に渡っ
てきて日本書紀の編集に使われたので、書紀の編纂者達は、古事記のように平易な文字・漢語・表現を使わず、もっ
ぱら漢文調の文体で日本書紀を仕上げたのだとされている。この潤色の典拠となった漢籍を考定する研究を「出典論」
と言って、日本書紀の成立を探る研究分野の一つになっている。



全30巻の構成は、1・2巻を神代上・下として神話の記述にあて、第3巻以降が神代に対して人代の時代となる。
神武天皇から40代持統天皇までを28巻にまとめている。宮内庁認定と異なり、日本書紀は舎人親王の父天武と戦
った弘文天皇を、天皇とは認めていない。従って現代の天皇代数より一つだけ少ない代数となる。ちなみに弘文天皇
(大友皇子:おおとものおうじ)が39代天皇と認定されるのは明治になってからである。明治天皇の裁可を仰いで、
弘文天皇は皇統に加えられた。40代を28巻に納めるので、どうしても2帝紀以上を合巻とする必要があった。
以下がその合巻である。
第4巻 8帝紀 綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化
第7巻 2帝紀 景行・成務
第12巻 2帝紀 履中・反正
第13巻 2帝紀 允恭・安康
第15巻 3帝紀 清寧・顕宗・仁賢
第18巻 2帝紀 安閑・宣化
第21巻 2帝紀 用明・崇峻
また、日本書紀は神功皇后に一紀をあてている。これをもって、彼女も天皇であったという説も結構根強い。さらに
天武天皇には、巻28と29を天武紀上・下巻として2巻1帝紀となっている。これらを除けば、他の19天皇はす
べて1帝紀1巻の原則を守っている。

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