Music: Night
1.古事記の成立過程
魏志倭人伝と同様に、古事記にも原本は無い。今の所一番古く確かな写本として、古事記研究の底本となっているの
が「真福寺本」と呼ばれるものである。この寺は名古屋にある。北野山真福寺宝生院。寺の歴史は、鎌倉時代末の1
320年頃、木曽川と長良川にはさまれた中州、尾張国中島郡内(今の岐阜県羽島市大須付近)に、北野社が勧進さ
れた時に始まる。その神宮寺として創設されたのが真福寺である。慶長17年(1612)、徳川家康の命により、洪水
などの難を避けるべく今の地に移転した。この時に、塔頭「宝生院」一寺となったが、やがて大須観音として親しま
れるようになった。この寺に残されていた「古事記」写本を、本居宣長門人でもあった尾張藩士の稲葉通邦(みちく
に)が発見する。応安4年(1371)、5年(72)頃に、真福寺の僧・賢瑜(けんゆ)が写したもので、上・中・下巻と
3巻揃ったものとしては現存最古である。本書は粘葉装だが、奥書に「執筆賢瑜俗老廿八歳」とあった。
古事記は、序と上巻、中巻、下巻の三部構成になっている。上巻は「天地のはじめ」から「神々の誕生・天の岩戸・
八股の大蛇・国譲り・海幸山幸」といった神代の時代を扱っており、中・下巻は天皇の系譜である。中巻が初代の神
武天皇から応神天皇まで、下巻が仁徳天皇から推古天皇の時代までという構成になっている。この中で、古事記の成
立について記録している部分は「序」である。言い換えれば、古事記の成立について書かれたものはこの序文しかな
い。
以下の写真右側が、真福寺写本古事記の開始部分である。左側が「序」の終りと「上巻」の開始部分(赤線で囲んだ
黄色の部分までが序文の範囲)。見て頂くように、序文と上巻の間には不思議なことに区切りがない。いきなり次の
文字へと繋がっている。「・・朝臣安萬侶」と来た後に、1文字分のスペースも無く「天地初發之時於高天原・・・」
と続いている。実に奇妙であるが、これについては別項に譲る事にする。


以下が真福寺本古事記の「序」原文である。(表記できないものについては伏せ字。字体は「小学館日本古典文学全
集古事記」によった。)
国宝 真福寺本古事記原文
古事記上卷 序并
臣安萬侶言夫混元既凝氣象未敦無名無爲誰知其形然乾坤初分參神作造化之首陰陽斯開二靈爲君羊品之祖所以出入幽顯
日月彰於洗目浮沈海水神祇呈於滌身故太素杳冥目夲教而識孕土産嶋之時元始綿■【しんにゅう+貌】頼先聖而察生神
立人之世寔知懸鏡吐珠而百王相續喫劔切蛇以万神蕃息与議安河而平天下論小濱而清國土是以番仁岐命初降于高千嶺神
倭天皇經歴于秋津嶋化熊出爪天劔獲於高倉生尾遮徑大烏導於吉野列■【イ舞】攘賊聞歌伏[即覺夢而敬神祇所以稱賢
后望烟而撫黎元於今傳聖帝定境開邦制于近淡海正姓撰氏勒于遠飛鳥雖歩驟各異文質不同莫不稽古以繩風猷於既頽照今
以補典教於欲絶曁飛鳥清原大宮御大八洲天皇御世濳龍體元■【三水+存】雷應期聞夢歌而相纂業投夜水而知承基然天
時未臻蝉蛻於南山人事共給虎歩於東國皇輿忽駕浚渡山川六師雷震三軍電逝杖矛擧威猛士烟起絳旗耀兵凶徒瓦解未移浹
辰氣■【三水+診】自清乃放牛息馬■【心+豈】悌歸於華夏卷旌■【右楫扁+戈】戈■【イ舞】詠停於都邑歳次大梁
月踵侠鍾清原大宮昇即天位道軼軒后徳跨周王握乾符而■【手怱】六合得天統而包八荒乘二氣之正齊五行之序設神理以
奬俗敷英風以弘國重加智海浩汗潭探上古心鏡■【火韋】煌明覩先代於是天皇詔之朕聞諸家之所■帝紀及本辭既違正實
多加虚僞當今之時不改其失未經幾年其旨欲滅斯乃邦家經緯王化之鴻基焉故惟撰録帝紀討覈舊辭削僞定實欲流後葉時有
舍人姓稗田名阿礼年是廿八爲人聰明度目誦口拂耳勒心即勅語阿礼令誦習帝皇日繼及先代舊辭然運移世異未行其事矣伏
惟皇帝陛下得一光宅通三亭育御紫宸而徳被馬蹄之所極坐玄扈而化照船頭之所逮日浮重暉雲散非烟連柯并穗之瑞史不絶
書列烽重譯之貢府無空月可謂名高文命徳冠天乙矣於焉惜舊辭之誤忤正先紀之謬錯以和銅四年九月十八日詔臣安萬侶撰
録稗田阿礼所誦之勅語舊辭以獻上者謹隨詔旨子細採■【手庶】然上古之時言意並朴敷文構句於字即難已因訓述者詞不
逮心全以音連者事趣更長是以今或一句之中交用音訓或一事之内全以訓録即辭理■【匚構中ロ】見以注明意况易解更非
注亦於姓日下謂玖沙訶於名帶字謂多羅斯如此之類隨本不改大抵所記者自天地開闢始以訖于小治田御世故天御中主神以
下日子波限建鵜草葺不合命以前爲上卷神倭伊波禮毘古天皇以下品陀御世以前爲中卷大雀以下小治田大宮以下爲下卷并
録三卷謹以獻上臣安萬侶誠惶誠恐頓首頓首和銅五年正月廿八日正五位上勲五等太朝臣安萬侶
【古事記 「序文」大意】
--------------------------------------------------------------------------------
古事記上巻 序を并(あわ)せたり
臣、安万侶(太朝臣安万侶・おおのあそみやすまろ・養老七年(723年)没。)が奏上致します。そもそも宇宙の根本
は既に初めから出来上がっており、森羅万象はまだ現れておりませんでした。あらゆるものは名前もないしその働き
もありません。誰もその元始の形を知りませんでした。しかしながら、天と地が初めて分かれた時、三神(天之御中
主神・高御産巣日神・神産巣日神)が物事の始まりとなられて、男女の両性がここから始り、二霊(伊耶那岐命・伊
耶那美命)が万物の親となられました。それから、伊耶那岐命が黄泉国へ往来し、目を洗った時に太陽(天照大御神)
と月(月読命)が現れ、海水に浮き沈みして体を洗った時に、多くの神々が現れました。
−−−−−−−−−− (略) −−−−−−−−−−−−−
(飛鳥の清原の宮で即位した)天武天皇が仰せになりました。「伝え聞くところによれば、諸氏族が持ってる帝紀と
本辞は、もう真実から遠く離れて、勝手に嘘を加えたりしていると言う。今、これらの間違いを正しておかなければ、
数年後には真実がわからなくなってしまうに違いない。「帝紀と旧辞」はそもそも国家組織の根本にもあたり、政治
の基礎である。そこで帝紀をまとめ旧辞を調べて間違いを正し、真実を後世に伝えようと思う。」その時ある舎人が
おりました。姓は稗田、名前は阿礼といい、年令は28才でした。聡明で、一旦目にしたら口で暗誦でき、一回聞い
たらたちまち記憶できました。そこで(帝は)阿礼に命じて、歴代天皇の皇位継承の顛末と、過去からの伝承を誦み
習わさせられました。
−−−−−−−−−− (略) −−−−−−−−−−−−−
そこで(元明天皇は)、旧辞の誤っているのを惜しまれて、帝紀の間違いを正そうとされて、和銅四年九月十八日を
もって、臣、安萬侶に命令して「稗田の阿礼が誦むところの、天武天皇仰せの旧辞を記録し、まとめて献上せよ」と
仰せられ、謹んで、仰せのとおりにこと細かに採拾いたしました。しかしながら、上古の時代は言葉もその意味も素
朴で、文章を作り書き綴ることを、漢字で書くとなると、困難です。
実に、訓によって述べたものは言葉と意味に一致しません。全部を音によって書き連ねると長すぎるものになります。
という訳ですので、ここに、ある場合は一句の中に音・訓を交えて使い、また一方、事柄によっては全部訓を使って
書きとめました。その場合、文脈が分かりにくいのには注を使って明らかにし、意味の分かる部分には注をつけてお
りません。さらに、姓の場合、日下を玖沙訶(くさか)と読み、名前の場合、帯の字を多羅斯(たらし)と読みます。
このような(誰もが)見なれた文字は、もとの資料のままにして改めておりません。
記述した内容は、天地の開闢より始めて、小治田の御世(推古天皇)で終わります。そこで天の御中主の神より下、
日子波限建鵜草葺不合の命より前を上つ巻として、神倭伊波礼毘古の天皇(神武天皇)より下、品陀の御世(応神天
皇)より前を中つ巻として、大雀の皇帝(仁徳天皇)より下、小治田の大宮より前を下つ巻として、あわせて三巻を
記録して、謹んで献上いたします。ここに、臣、安萬侶がかしこみかしこみ申し上げます。
和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶
--------------------------------------------------------------------------------
壬申の乱後、飛鳥浄御原宮に即位した天武天皇は、前記のごとく各豪族家等々に伝わる記録を整理し、正式な天皇家
伝記として残したいと考えた。天皇はそこで稗田阿礼に勅命して、帝皇日継と先代旧辞を誦習させたが、天武天皇は
その完成をみず死去した。その後元明天皇の代になって、天皇は旧辞・先紀の誤りを惜しみ、和銅4年9月18日、太安
万侶に「稗田阿礼が誦習している勅語の旧辞を撰録して献上せよ。」と勅命した。そしてそれに従って太安万侶は、
和銅5年正月28日、「古事記」3巻を元明天皇に献上した。
これが「古事記」の成立過程であるが、実はこの「序」にはいろいろと問題がある。体裁からみてもおよそ「序文」
とは言えず、「上表文」の形式であり、唐の「進五経正義表」を参考にしているらしい。また本来は古事記本文とは
別に添えられていたのではないかとも見られている。「序」の部分は、いわゆる漢文体として完成された形式を持っ
ており、本文が日本語として読まれることを前提に書かれているのと比べると、これら(序と本文)は別人の手にな
る物との見方もある。また、帝紀と本辞、帝皇日継と先代旧辞、旧辞・先紀といった様々な表現が用いられているが、
これらは修辞上の問題で、帝紀と帝皇日継と先紀、本辞と先代旧辞と旧辞が同一の物というのが定説になっているが、
ほかにも、これらの帝紀・帝皇日継・先紀・本辞・先代旧辞・旧辞をめぐっての考察は多い。その内容、成立、編纂
者等々の研究にも諸説あるし、さらに、誦習、勅語、撰録などという語をめぐっても、その意味が研究者によって違
っていたりする。又、「もとの資料のままにして改めておりません。」という表現から、太安万侶は稗田阿礼が誦習
する所をそのまま収録したように書かれ、太安万侶の加筆・修正は全くないように述べているが、これを疑問視する
声もある。
以上古事記の成立についてみてきたが、「序」を偽作とは言わないまでも、全部が全部信用してこれがそのまま古事
記成立の真実とする事には疑問が残る。「序」の内容を正しく理解しても、それが古事記の成立過程を正しく語って
いることにはならない。「序」も含めて、古事記本文、及び他の関係資料も検討してその成立過程を探らねばならな
いのだ。
太朝臣安万侶(おおのあそみやすまろ) 生年不詳。養老七年( 723年)没。「安麻呂」とも書く。元明天皇の勅
をうけて舎人(とねり・下級役人)であった稗田阿礼が暗誦していた帝紀(皇室の記録)と旧辞(神話・伝承)を筆
録し、712年に「古事記」3巻として献上した。のちに舎人親王らと「日本書紀」の編さんにも参加した。
「続日本紀」に何度か名前が登場し、昭和54年(1979)奈良市郊外の茶畑から墓誌と骨の一部が発見され話題をよ
んだ。その墓誌から太安万侶の墓だと特定され、非実在説は消し飛んだ。久安5年(1149)成立の「多神宮注進状」
には、安万侶は「品治の子」と見え、「日本書紀」によれば品治は壬申の乱に活躍した天武の忠臣となっている。
稗田阿礼(ひえだのあれ) 生年不詳。没年不詳。飛鳥時代の下級役人。記憶力にすぐれた人物で、天武天皇に命
じられて帝紀と旧辞を暗誦。これを元明天皇のときに太安万侶に記録させ「古事記」が完成。しかし稗田阿礼につい
ては、「弘仁私記」の序に、「天釦女命の後なり」と記載があるだけで、あとは文献に一切登場せず、性別・年齢も
不詳とあって実在を疑問視する説もある。梅原猛氏はいつか、稗田阿礼は藤原不比等であると言っていた。劇画やト
ンデモ本にはたいてい女性として描かれていて、太安万侶と愛人関係にある事が多い。
帝紀(ていき) 帝皇日継、先紀と同じ。歴代の天皇の御名、后妃・皇子・皇女などを記した系譜を中心とする記
録。皇居の名称、御陵なども記してあったらしい。
旧辞(きゅうじ) 神話、伝説、歌謡物語などの伝承された物語の記録。「本辞」「先代の旧辞」と同じ。帝紀・
旧辞ともにその成立状況等は不明。
舎人(とねり) 天皇や皇族などに近侍し、護衛や雑事をつとめた官人。
2.日本書紀の成立過程
日本書紀の場合には、古事記のようにその成立を記した「序」も付与されておらず「上表文」もない。しかし「続日
本紀」養老4年(720)5月癸酉(21日)の条に、
「是より先、一品舎人親王勅を奉りて日本紀を修す。是にいたりて功成りて奏上す。紀三十巻、系図一巻。」
とあり、完成時期は明らかになっている。ここに日本紀とあるので日本書紀とは別物だとする意見もあるが少数派で
ある。日本紀は日本書紀のことと考えて間違いないというのが定説である。日本書紀の構成としては、第1・2巻神
代から始まり、第3巻神武天皇、第4巻綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化天皇、第5巻崇神天皇、
第6巻垂仁天皇と、以下ほぼ1代1巻の割で続き、第28巻天武天皇の上、第29巻天武天皇の下、第30巻持統天
皇で終わっている。書紀は中国の正史編修にならった国史で、漢文、紀伝・編年の混淆体である。わが国最古の勅撰
の国史で、いわゆる六国史の最初に当たる歴史書であり、漢文により編年体で記録されている。国史ということもあ
り「日本書紀」はきわめて重要視され、すぐれた写本も少なくないが、現存する最古の写本としては、奈良国立博物
館に残る以下の写本という事になっているようだ。これは30巻のうち巻第10の「応神天皇紀」で、仮名などの訓
読点や校異などの注記はなく、書風からみて平安時代初期のものと推定される。また「紀30巻、系図1巻」とある
が、現在までの所、伝わっている系図はない。

続日本紀に「日本紀を修す」とあり、「書」の文字はない。また、中国では紀伝体の史を「書」(「宋書」「漢書」
など)と呼び、編年体のものを「紀」と呼んでいたので、日本書紀は編年体であることから、「日本紀」が正式名だ
ったと言うのが通説である。7世紀終りに編纂されたとみられる帝紀・旧辞や、朝鮮関係史料や諸氏の伝承などを取
り入れているとされるが、古事記を大きく参照した形跡はないようだ。しかし前半部の巻15「仁賢紀」までの部分
に「古事記」を粉本としたのではないかと思える部分があるという意見もある。また、推古28年(620)に、天皇記・
国記と呼ばれる書物が編纂されたとされ、こちらの方が時代的には古い史書であるが、皇極4年( 645)の乙巳(い
つし)の変」の際焼失したとされ、日本書紀はこの後を受けて編纂されたもののようである。しかしこれらについて
は書紀の記述のほかに記された文献はない。
撰者として明らかに名前が登場するのは舎人親王だけであるが、他にも複数の執筆者がいたとみられる。書紀は三十
巻から成っているが、各巻ごとにその用字や文体などに特徴があり、幾つかのグループに別れて製作された物のよう
に見え、編纂者は一人二人では無かった事が窺える。また「弘仁私記」の序には、「古事記」の撰者太安麻呂も参画
したという記事が見えるが、これは「弘仁私記」の撰者多人長が、祖先(太安万侶)顕彰のため挿入したものであろ
うという見方が強い。天武天皇10年(681)、天皇の詔により川嶋皇子らが帝紀及び上古の諸事を記定したと書紀に
みえ、これを書紀編修の開始とみる説が古くからあるが証拠はない。持統天皇5年(691)の、大三輪氏ら十八人にそ
の祖らの墓記上進を命じたという記事も、直接書紀編纂のためのものではないと思われる。「古事記」が2回目に上
進された2年後にあたる和銅7年(714)に、従六位上紀清人ら二人に命じて国史を撰ばせたとあるが、正史の撰修と
しては両人の位階が低すぎるとみられている。また書紀のもつイデオロギーや編纂当時の政治的な情勢からみて、日
本書紀の編纂には藤原不比等が大きく関わっていたとする説もある。
いずれにしても、編纂者の問題も含め書紀の成立過程の究明には、古事記同様、書紀本文の分析がかかせないという
事であろう。


舎人親王天武5年〜天平7年(676〜735)。天武天皇の皇子(「続日本紀」の薨伝には第3皇子とあり、「釈日本紀」
帝皇系図は第5皇子とする)。母は天智天皇の第5女新田部(にいたべ)皇女。元正天皇の詔によって新田部(にい
たべ)親王とともに皇太子(後の聖武天皇)を補佐した。養老4年「日本書紀」(紀30巻・系図1巻)を完成させ
た。親王の第7皇子大炊(おおい)王は淳仁天皇(後廃帝)として即位した後、父舎人親王を「崇道盡敬皇帝」と追
称した。

藤原不比等 斉明5年〜養老4年(659〜720)。藤原鎌足の次男で、母は車持君與志古娘(くるまもちのきみよしこ
のいらつめ)。鎌足の賜わった藤原姓は不比等とその子孫が継承することになって、中臣朝臣氏から独立した藤原朝
臣氏が確立した。和銅元年(708)、右大臣に昇進して地歩を固め、養老元年(717)には政府首班の地位を確立した。
養老2年頃に養老律令の編修を主宰した。
写本・刊本 残巻・零本の中には平安初・中期の書写らしきものもあるが、院政期以後の北野神社所蔵兼永本・吉田
家兼方自筆本・国会図書館所蔵伊勢本などが良本として知られる。刊本は慶長勅板・寛文九年板本などがある。


邪馬台国大研究・ホームページ /記紀の研究/ 古事記・日本書紀の成立過程