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		すでに江戸時代、邪馬台国とされていた、

		福岡県山門郡が、初めて邪馬台国の候補地に登場したのは、江戸中期、6代将軍徳川家宣に仕えた儒学者・新井白石の「外国之事調
		書」である。ついで本居宣長が異説を唱え、邪馬台国論争の起源ともなった場所がここなのだ。いわば、山門は邪馬台国論争の原点
		でもあり、老舗でもある。新井白石が、山門を邪馬台国とした最大の理由は、「山門」すなわちヤマトという音が「ヤマタイ」に一
		致する点である。他にも、日本書紀・神功皇后記に山門県(あがた)の上蜘蛛・田油津姫を討った記事があり、山門の地に女性の首
		長がいたことをうかがわせる。




		その後、久米邦武、白鳥庫吉、星野恒、坂本太郎、田中卓、藤間生大、井上光貞などの学者達も、この地を邪馬台国とした。この地
		域からは、祭祀用具とされる中広の銅矛が多数見つかっている。八女市の吉田から13本、広川町の藤田から18本が出土しており、
		さらに八女市亀ノ甲遺跡には、弥生中期から後期にかけての甕棺墓、石棺墓、土こう墓などの墓地群があり、鉄剣と鉄斧、そして
		「ほう製鏡」が出土している。山門郡瀬高町にある権現塚は、観光パンフレットには「卑弥呼の墓」と紹介されているし、神護石の
		ある女山(ぞやま)を卑弥呼の居城と結びつける説もあるが、全長3kmに及ぶ神護石そのものは、7世紀に築造されたものとの考
		えが定説である。明治時代には、神護石の性格が不明で、城塞としては不十分であるし、神域を囲っているのではないかと考えられ
		たようだ。女山(ぞやま)の旧名は、実は女王山といい、ゆえにここが卑弥呼の居城であるという説が登場した。いまでは、神護石
		は7世紀に作られた朝鮮式山城という意見がほぼ定説だが、神護石に囲われた内側に城塞の施設があるかどうかは不明である。

 






		4つの水門を持つ神護石

		瀬高町は、久留米市の南、矢部川のほとりに開けた静かな町である。以前はみかん栽培が盛んだったが、いまではなすびとセロリの
		日本有数の産地として知られ、ビニールハウスが連なる、のんびりした田園風景が広がっている。
		「邪馬台国=山門郡説」を唱える人たちの根拠の一つがこの女山神護石の存在だ。標高195mの山腹をぬって、全長3kmにも及
		ぶ列石である。西側は採土のため消滅している。周辺では旧石器も採掘され、縄文・弥生土器も出土しており、また三角縁神獣鏡3
		面を出した、前方後円墳の「車塚古墳」にも近い。神護石は、学問的には山城説がほぼ定説だが、まだまだ霊域説も根強く、巨石信
		仰とも結びついて、卑弥呼はこの地で生き続けている。

 

 



 


		女王を祀ったとされる権現塚と蜘蛛塚

		女山から九州自動車道を越えた田んぼのまん中に権現塚古墳がある。周囲141m、高さ5.7m、直径45m。これは神功皇后が
		田油津姫を討ったとき、多くの死者を出し、葬ったところ。または、国造の墓とも、卑弥呼の墓とも伝えられる。まわりがあまりに
		のどかな田園で迫力が伝わってこないが、周辺からは、縄文、弥生時代の遺跡も発見され、甕棺墓も出土している。
		権現塚の近くには、大塚の集落に蜘蛛塚がある。村の鎮守様といった小さな神社の隅に、わずかに盛り上がった土がそれ。上に小さ
		な祠が祀られている。が、伝承では景行天皇西征のとき、従わない者がいたので征伐した首長の墓とある。また、土蜘蛛の首長・田
		油津姫の墓ともされる。
		南18mのところにも古墳があり、これも大塚とよんだ。道路を造る際に2分されたと考えられており、もとは一体の古墳だったと
		思われる。以前は女王塚と呼ばれていたということから、やはり田油津姫の事をさしているのだろうか。雨が降ると血が流れ出すと
		いう伝承もあった。石棺に塗られた朱が溶け出したものだろうが、征服された側の怨念を伝えるようでもある。




 


		ヤマトは邪馬台国発祥の地か

		町の南西部には、太神という地名の場所がある。これでおおが、と読み以前は大神と書いた。太宰府と大宰府のように点(、)があ
		るかないかの違いだが、我が国最初の漢和辞典とも言える「和名抄」では於保美和(おおみわ)とかなが振られている。三輪山を祀
		る奈良の大神神社を思わせる。さらに、ここはかって宇佐神宮の荘園があったという場所でもある。宇佐から数百kmも離れた瀬高
		町に宇佐神宮の荘園があるというのも何か思わせぶりだ。宇佐は邪馬台国にも比定されるが、邪馬台国連合の一つ「伊邪国」に比定
		する説もある。




		町の中央、山門の堤と呼ばれる集落には1〜2mの巨石が点在している。一見したら古墳の石室の一部のようでもある。家が密集し
		ており、その三輪崎に岩がころがっているような状態だが、集落全体が古墳で、それが卑弥呼の墳墓ではないかという説もある。
		邪馬台国山門説には、低湿地で7万戸もの家を抱えるには狭く、国の所在地としては適さないとか、単なる読みの類似だけで比定す
		るには無理があるとかの批判があるが、もともとここにあった邪馬台国が、より居住に適した久留米のような筑紫平野や筑後川流域
		にうつり、ここにはその呼び名が地名として残ったのではないかという意見もある。そしてその勢力が近畿へ移動し、大和を名乗っ
		たというのである。




		瀬高町に隣接する山川町にも古墳時代の遺跡がある。九折にある「大塚古墳」は全長約44m、幅25mの前方後円墳で、近隣では
		類をみない大規模なものである。特にここからは、他には天皇陵や、磐井の墓と伝えられる岩戸山古墳などから出土している埴輪の
		“蓋”(きぬがさ)の破片が発見されている。ここを中心に、北に蛇谷古墳、南に面の上古墳、クワンス塚などがあり、魏志倭人伝
		にいう「棺あれど槨(かた)なし」の、石棺直葬の前期古墳と考えられる。「面の上古墳」は、洪積期に形成された扇状地の台地上
		にあり、まわりにはかって2、30基の古墳があったと想定されている。この古墳からは、石棺、人骨、鉄剣、鑑、釧などが発見さ
		れ、特に人骨の左手に長さ61.8cmの両刃の剣がそえられており、その柄の部分は、鹿角装の剣の特徴があり、周辺豪族の墳墓
		ではないかとされている。また、四匹の獣を肉彫りにした直径12cmの四獣鏡も、手の間から出土した。四獣鏡は、三角縁神獣鏡
		よりも古い時代のもので、船山古墳や沖ノ島からも出土している。「面の上古墳」は副葬品などから、古墳時代前期のもので、山門
		郡のなかでも古いものと考えられる。

		「邪馬台国=山門郡」説は、位置論から見ても末廬国、伊都国、奴国、不弥国の放射線状の中心軸にあるし、また、末廬国、伊都国、
		奴国については中間に山々があるがほぼ等距離にある。このことは山門が交通の要衝であったことを伺わせ、また、筑後川を利用し
		て有明海から船で外海に出ることも容易だ。邪馬台国=山門郡とすれば、狗奴国はその南にあった事になり、熊襲=熊本にも合致する
		というわけである。さらに、倭人伝の「女王国より以北」には、特に「一大率」を置いて、常に諸国を検察しているという状況にも
		合致する。しかし「邪馬台国山門説」の弱点は、吉野ヶ里や平塚川添のような、弥生時代の大規模な遺跡が未だ発見されていない事
		である。今後の調査に期待がもてるだろうか。


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