「青沼茜雲・開田風童」伯父・甥展 2005.9.17





	
	青沼先生から、「青沼茜雲・開田風童」伯父・甥展に招待された。青沼先生の個展は大宰府でいままでにも何回も行われて
	いるが、今回は甥の開田風童さんの絵も一緒に展示してある。開田さんは私と同じ歳である。青沼先生は、学生時代、太宰
	府の姉さんの家に下宿していたという事だが、「伯父」という表現からすれば、開田さんはこの姉さんの子ではなく、妹の
	子なのだろう。太宰府生まれとあるから、この伯父・甥はある期間、太宰府で一緒にすごした間柄なのだ。おそらく開田さ
	んは、絵を描く伯父さんを見て育ったのだろう。そのせいで自分も画家になったに違いない。(やっぱり、後出の「太宰府
	天満宮宝物殿季報」にそう書いてある。)



	
	開田さんの絵は、青沼先生とはガラリと変わった作風で、見るからにメルヘンチックな童画である。これはこれで、ほのぼ
	のとした夢の世界を彷彿とさせ、我々の育った田舎の光景がふんだんに描かれていて、ノスタルジィにどっぷり浸れる世界
	だ。もうこんな世界が我々に訪れることは、二度とないのかもしれない。

















上下2枚は、今度大宰府内に新しくできた(10月オープン)、九州国立博物館の大宰府側エントランスの光景だ。





上は「都府楼跡」。絵葉書にもなっている光景の原画である。



	
	八女は現在「八女茶」で有名だが、かっては我が故郷の甘木・朝倉同様に、蝋(ろう)でも有名だった。そのため櫨(はぜ)
	の木が多い。青沼先生はこの櫨の木の風景を好んで描く。幼い頃から見慣れた風景なのだろう。







光明寺とは、大宰府から「九州歴史資料館」へ行く途中にある、石庭がきれいなちいさな寺である。











	
	好きな大宰府の貴族の絵があったので、詳細に細部を撮影してみたが、やはり油の乗りまでは写せなかった。やはり、絵は
	実物を見なければその真髄は理解できないな。筆の運びや、絵具の重なり具合や、微妙な色合いなどは、直接目で見ないと
	わからない。「どうしてここは何度も重ね塗りしてるのだろう。」とか「なぜここでこんな色を使ったのだろう。」とかの
	疑問は、写真からでは沸いてこない。興味を引く1枚の絵は、見ていて見飽きるということが無い。















ほんとにこの絵は素晴らしい。この絵こそ、太宰府天満宮のどこか一番いい場所に飾られてしかるべきだろう。



これらは先生が渡欧したときの絵である。ヨーロッパを描いてどうして「望郷」なのかは、おそらくそのときの先生の心境なのだ。









	
	今でも田舎に行けばこういう光景に出会えないことは無い。見慣れた日本の風景だ。しかし、もうこういう世界は戻らない
	な、という気になるのはなぜだろう。おそらくそれは、描かれている子供の表情にあるのだろうと思う。こういう表情で遊
	ぶ子供の世界が、もう二度と自分には戻らないから、おそらくそう思うのだ。
	しかし田舎に行けば、今でもこういう表情で遊んでいる子供達はいるのかもしれない。あるいは、いてほしいという開田氏
	の想いが昇華して、これら一連の絵に表わされているのだろう。



一見牧歌的だけれども、実際にこういうところで子供時代をすごした人間には、たまらない懐かしさがこみ上げてくる。



綺麗な絵である。この「伯父・甥展」は、伯父と甥とのやさしい気持ちがあふれた展覧会だ。















	
	展覧会に集まった先生の知己の方々をあつめて、太宰府天満宮でお祓いをしてもらうらしい。大宰府禰宜である味酒(みさ
	き)さんのはからいかな。ここでお祓いしてもらうのははじめてだ。





	
	上右、中央で立っている人が味酒さん。なんと菅原道真が大宰府へ流されたとき、一緒についてきた従者がご先祖である。
	驚くべきことに、ご先祖は「日本三代実録」に名前が登場するという。千年以上にわたって菅原道真に仕えているのだ。

	
	<日本三代実録> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	日本三代実録(にほんさんだいじつろく)は、平安時代の日本で編纂された歴史書で、901年に成立。六国史の第六にあた
	る。清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代、天安2年 (858年) 8月から、仁和3年 (887年) 8月までの30年間を扱う。編者は
	藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。編年体、漢文、全50巻。
	(編纂)
	『日本三代実録』の序文によれば、本書の編纂は宇多天皇が、源能有、藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平に詔して
	編纂を命じたことにより始まった。具体的な開始年には諸説ある。記された各人の官位からの推測では、寛平5年 (893年) 
	4月から寛平6年 (894年) 8月となる。『日本紀略』には寛平4年 (892年) 5月1日とあるが、この時期に関する同書の記述に
	は誤記が多く、信頼度は高くないという。寛平9年 (897年) に源能有が没し、翌年宇多天皇が譲位すると、編纂作業は中断
	した。次の醍醐天皇の勅を受けて編纂を再開し、延喜元年 (901年) 8月に完成した。途中、菅原道真が失脚して太宰府に左
	遷され、三統理平は転任して編纂から外れた。完成を報告したのは、藤原時平と大蔵善行の二人であったが、編纂の実質的
	中心は、菅原道真と大蔵善行の二人と推測される。
	(内容)
	記述の密度は六国史中もっとも高い。詔勅や表奏文の全文を豊富に収録した。先例のできあがった慣行を記載し、読者たる
	官人の便宜を図った。節会や祭祀など年中行事の執行を毎年記す。
	陽成天皇の退位の事情など、権力者にはばかって筆を抑えたと思われる箇所がある。元慶の乱では、ところどころ記録が欠
	けていると記して略した箇所がある。これを誠実な態度の表れとみる者もいるが、その部分に編者が故意に隠した事実があ
	るのではないかと疑う者もいる。
	巻15と、巻19から巻48、すなわち貞観10年 (868年) と貞観13年 (871年) 1月から仁和元年 (885年) 12月には、ところどこ
	ろ写本の省略箇所があり、全文が伝わらない。





上左写真、左端に私も神妙に座っている。前に青沼先生と、九州造形短期大学の谷口学長。



青沼先生、谷口学長が、一同を代表して神前に参拝する(上左)。





全員で記念撮影。
	
	この後、近くの料理屋さんに一席設けてあるという。驚いた。またや。そうと知ってれば何か御土産をもってくるんだった。
	何かいつもお世話になるばっかりで恐縮してしまう。





来月オープンする「九州国立博物館」の、エントランスの前を通って料理屋さんへ向かう。





大きな料理屋さんだ。後で知ったが福岡ではわりと有名な料理屋さんだった。





綺麗な庭である。ここは、元は有名な九州財界人のお妾さんの屋敷だったそうだ。





	
	先生の挨拶のあと乾杯したが、順繰りに挨拶させられて、私にも振られた。私はまだ先生と知り合って2,3年だし、この
	会の中では駆け出しなので気が引けたが、internetを通じて先生の「広報マン」を引き受けますというようなことを喋った。





上左は、先生がほんとに「先生」だった頃(中学校の先生)の教え子たち。なんと女優の「黒木瞳」も教え子である。



	
	先生のファンの調香師のXXさん。びっくりするほど美人だ。彼女が調香して、どっかのコンテストでグランプリを取った
	という香水をお土産にもらったが、年末に、我が歴史倶楽部の忘年会で、歴史クイズで一番になった錦織さんが持って帰っ
	た。奥さんか娘さんは気に入ってくれただろうか。





セーラー服のような上着を着て、下の牛の背中に乗って写っている、5歳くらいの私の写真が実家にある。
叔母2人につれてきてもらったらしいが、5歳とすれば、今から50年前である。勿論何も覚えていない。






ほろ酔い気分で大宰府の中を抜けて、二日市から電車で福岡・天神へ向かい、空港へ行く。







大阪上空、堺から羽曳野にかけての古市古墳群。空から見ると、ほんまに古墳の団地だ。



上右の高速道路わきに見えている一番大きな古墳は、たぶん誉田御廟山古墳(応神天皇陵)だと思う。



	
	上のマンションは、都島のカネボウ跡に建っているベルパークシティのマンションである。我々も今のマンションを購入す
	る前に、見えている高層棟の一室を買おうとしたが、当時の私の年収ではとても手が出なかった。(でも友達は買った。)



淀川を越えて、大阪城(たぶん)公園を遠くに見て(下)、飛行機は伊丹空港に到着。やれやれ、今日も生き延びた。