青沼茜雲 GARELLY6




銀座個展  2009年9月15日 〜 9月24日 


	昔一度、先生のお供をして銀座の画廊を廻った事があった。その時は私も東京に住んでいたので、先生の絵を一時預かって、銀座の
	画廊で鑑定を頼んだりしたのだった。先生が昔買った絵は、殆ど鑑定書が付いていないので、付けられるものならと試みたのだ。
	下4枚の写真はその時のもの。





	その銀座で青沼先生が個展を開かれた。本来ならお祝いに銀座へも出かけるところであるが、我々夫婦はちょうどこの開催翌日から、
	個展が開かれている期間中、イタリア南部へ旅行に出かけていたのである。残念無念と思っていたが、東京在住で青沼先生のサポー
	ター(と自称されている)の宮原さんが、その個展の模様を写真に撮っておられた。早速CDをお借りしてPCへ取り込んだのだが、
	この作業がまた難儀だった。写真は一枚一枚のサイズがバカでかく、全部で千枚はあろうかという写真を一枚づつリサイズしなけれ
	ばならなかった。オマケに宮原さんは、同じ絵や場面を角度を変えて何枚も写しているものだから、HPに載せる取捨選択に大いに
	時間が掛かってしまった。季節は秋から冬へ移り、忘年会や新年会、年度末と仕事もめちゃくちゃ忙しくなって、とうとう、写真を
	預かって数ヶ月が経過してしまった。青沼先生、宮原さん、ごめんなさい。宮原さん、写真提供ありがとうございました。




	個展は、初期の絵が多く展示されていて、私の好きな写真が一堂にならんでいた。これらの絵を一度に見られるチャンスを逃してし
	まったが、考えてみればその間、私はフィレンツィエやバチカンで、先生の絵に勝るとも劣らない(ちと褒め過ぎか?)ダビンチや
	ミケランジェロを見ていたので、ま、それはそれで良しとしよう。

	そんなわけで、今回の個展には私はおじゃましていないので、このHPのコメントが書けない。そこで、東京の青沼サポーターの一
	員である、宮原さんが書いたcaption をそのまま転載する事にした。青字は全て宮原さんがアルバムに書いていたものである。黒字
	は私が書いたもの。



クオリア銀座画廊入り口の立て看板





「銀座のやなぎ」。この銀座の柳のルーツは京都三条である。今でも、これら並木道の柳の「親木」が、高瀬川沿いに立っている。



クオリア銀座画廊入り口、3階です          クオリア銀座画廊入り口の大看板



福岡県八女郡黒木町出身 元宝塚歌劇団 黒木瞳さん

女優の黒木瞳は先生の教え子である。機会があったら是非会いたいものだが、多分先生の周囲では、みんなそう思っている事だろう。



上右は、
衆議院 福岡県第七区 自民党 古賀誠氏より



太宰府市・日永田武士さんより



東京サポーター 宮原洋一郎。中島尚信より



祝電 大牟田市・服部様より               祝電 川野ご夫妻より


























	八女津媛(やめつひめ)。この絵はまさしく絵画的である。デザイン的と言ってもいい。邪馬台国八女説の立場に立てば後ろの山は
	飛形山であろうし、朝倉説に立てば古処・馬見山である。畿内説から見れば、まさしくこの山は二上山でもある。




	以下は、2006.5.9に福岡県八女郡矢部村を訪ねたときに書いた文章である。
	(訪問記は、「邪馬台国比定地一覧」の中の「八女説」のコーナーにある。)
	
	八女津媛(やめつひめ)。文献上は、日本書紀の中に「八女」の地名がはじめて出現する。景行天皇十八年春三月、景行天皇(大足
	彦忍代別尊)が八女の県(あがた)に巡行したとき、「東の山々は幾重にも重なってまことに美しい。あの山にたれか住んでいるか」
	と尋ねた。そのとき、水沼の県主(みぬまのあがたぬし)「猿大海(さるのおおあま)」が「山中に女神あり。その名を八女津媛と
	いい、常に山中にいる」と答えたことが記録されている。これから八女の地名が起ったと日本書紀は記す。
	八女津媛神社はその八女津媛を祀った神社である。神社の創建は養老三年三月(719)と言われ、日本書紀完成の一年前にあたる。

	邪馬台国=八女説は、その「八女」という語韻からか、そうとう古くから存在しているようだ。しかしその中心が矢部村であったと
	したのは、私の知る限り中堂観恵氏(現地踏査 邪馬台国 昭和53年原書房発行)が最初ではないかと思う。
	氏は明治27年石川県の生まれで、ほぼ一生を軍人として過ごし海軍少将にまでなっているが、晩年は衆議院議員だった赤城宗徳氏
	の顧問となって郷土史編纂などにも従事している。
	2003年3月7日に物故した作家の黒岩重吾も「耶馬台国は八女津媛が君臨した矢部の山峡ではないか。」と唱えていた。黒岩重
	吾は創作期の後半は古代史に造詣を深め、多くの古代史関係の作品がある。邪馬台国、卑弥呼をあつかったものとしては「鬼道の女
	王卑弥呼」(1996年、文藝春秋) がある。邪馬台国が北九州の連合国となって、やがて大和地方へと進出し、大和政権が成立したと
	言う、いわゆる「邪馬台国東遷説」の立場に立った小説だったように思うが、私の印象では、三十国を統治するにはここはあまりに
	も山峡すぎるような気がする。

	八女市・八女郡を大きな一つの地域と見た場合、その古代勢力の一番の痕跡は「岩戸山古墳」だろう。これが卑弥呼の墓という訳で
	はないが、この古墳に代表される八女古墳群や、この矢部村にも近い童男山古墳を見ると、古代ここに相当な勢力を有した渡来人達
	の末裔が根を張っていたのがわかる。童男山古墳の石室の構造は、紀州和歌山県の岩橋千塚古墳群にみられる、石板を横にして積ん
	でいくやりかたと全く一緒だし、岩戸山古墳から出た「金箔の勾玉」は、紀州の大谷古墳から出たものと同じである。
	この二つの地域に渡ってきた渡来人達は同一の部族だと断言してもいいくらいだ。古墳時代、何らかの大きな勢力が八女地方にあっ
	たのは間違いないし、おそらくはそれが「筑紫の君」、「磐井」へとつながっていくのだろうと思われる。
	しかし卑弥呼の時代に、その素地がこの地方にあったのかどうかまではわからない。大きな弥生時代の遺跡もないし、何より、前述
	したように三十国を統治するにはあまりにも辺境で、「奴国」や「投馬国」との交信すら不自由するのではないか。筑紫の君の背景
	としての素地はあるが、それにしても、さかのぼって5世紀まで戻れたとしても、4世紀には何もない。勿論3世紀の痕跡もない。
	「八女津媛=女王=卑弥呼」という書記の記事と、大型古墳群だけでは、今のところ、ここを邪馬台国の候補にするには決め手を欠
	くと言わざるを得ない。




	この絵の醸し出す世界は、とてもこの世のものではない。どこか遠くへ運ばれてゆく魂の安らぎのようなものを感じる。讒言に依
	って太宰府へ流されてきた菅原道真が、あらゆる雑事、あらゆる柵(しがらみ)から逃れて、天上界で遊んでいるのではないかと
	さえ思える。






	私が先生の絵と出会って感激した最初の絵がこの「天空を行く磐井」だった。最初に出会ったのは私の故郷秋月の眼鏡橋を描いた
	絵だが、古代史関係で衝撃を受けた最初の絵がこれである。その次に、この絵の上にある「太宰府参拝」だったが、「天空を行く
	磐井」については、その鮮やかな赤色と、遠くで磐井を見守る武将達の構図、そして周りの落ち着いた色彩である。龍のように見
	える馬の吐く息が銀色に輝いて、まさしく「天空を行く」絵なのだった。
	太宰府宝物館にあった、本物を見たときの感激は忘れられない。深い憂いを漂わせているかのように見える磐井の顔。磐井に対抗
	するため大和から派遣されてくるのは「物部麁鹿火(もののべのあらかい)」である。日本書紀によれば、磐井は麁鹿火に向かっ
	て、「共に同じ釜の飯を食った仲間ではないか」と、敵対することになった状況を嘆いて(或いは糾弾して?)いる。かっての友
	と闘わねばならなくなった磐井の心中が、あの愁いに満ちた表情になっているのだろうか。私はこの絵をいつまでも見続けていた。









観音様のようにも見えるが、金箔の色紙には魏志倭人伝の文章が見えるので、やっぱりこれも卑弥呼をイメージしたものだろう。美人だ。













福岡県八女市上陽町朧(おぼろ)大橋 誠橋





















青沼コレクション 葛飾北斎の掛け軸・三幅





中嶌氏が曜変天目茶碗を持参  作陶が趣味という青沼先生に披露  一同、濃き瑠璃色の輝きに感激





大英博物館にも展示 石に貴族装束