青沼茜雲 GARELLY2

		

		 作品ギャラリー 太宰府編
		
		青沼氏は学生時代この太宰府に住んでいたそうである。今は太宰府市だが、昔は筑紫郡二日市町太宰府だった。歴史の香り
		高いこの町から、氏は約1時間ほどかけて福岡教育大学へ通っていたのだろう。古代西日本の要とも言うべき都府楼(とふ
		ろう)があって、かって菅原道真も歩いた道を、若き青沼氏もまた歩いたに違いない。遙かなる古代からの遼愁につつまれ
		て、氏の古代への思慕はこの街で培われたのかもしれない。
		

		上は、氏の描く太宰府の絵の中でも私が一番好きな絵である。何というきらびやかなイメージなのだろう。勿論、古代人達
		がみなこうした華やかな世界に生きていたわけではない。当時にあっては貴族も勿論、一般大衆にあってはなおのこと、皆
		が皆、日々を生きる事に懸命で、その日の食料確保に追われていたような時代だったのだ。しかし遠く時代は過ぎ去って、
		もう二度と再び戻らないものをこうして再現しようとする時、この絵は我々をその遙かなる世界へと強力に誘(いざな)っ
		てくれる。
		

暮れなずむ太宰府か、それとも黎明時の太宰府だろうか(上)。幻想的とも形容できる神秘を秘めた絵である。






平成5年、太宰府天満宮宝物殿で行われた「青沼茜雲個展」に寄せられた祝辞(下)。











太宰府絵はがき 【太宰府天満宮】

		
		「太宰府」は今から1300年の昔、九州をはじめとする西国の統治のために福岡に置かれたいにしえの「政庁」である。
		太宰府天満宮は藤原道真を祀っているが、これは道真の死後その学業の誉れを讃えるため近所に建てられた神社で、現在の太宰府
		天満宮の位置にかっての「政庁」があったわけではない。地図を見て貰えばわかるが、かっての太宰府の跡は、現在「都府楼跡」
		と呼ばれる遺跡として残っており、現在も(2000.2.5現在)部分的に発掘作業が進行中である。





		
		大和朝廷は宣化元年(536)筑紫菅家を那の津(現在の福岡市南区三宅あたりか?)に設けたが、7世紀後半に白村江(はくすきの
		え)の戦いで唐・新羅連合軍に敗北。海に近くては危険との判断から、政庁を太宰府に移した。以来数百年、太宰師(そち)とし
		て大伴旅人や山上憶良らも西下。万葉筑紫歌壇の舞台となった。この政庁(都府楼)跡は、昭和43年から発掘調査が始まり、華
		やかな時代の遺構、遺物が次々と出土した。それらは、この史跡の脇に建てられている太宰府展示館や、太宰府資料館、九州歴史
		資料館、観世音寺収納藏等に分散して保管されている。



		
		奈良時代、観世音寺に戒壇院が置かれた。戒壇とは僧尼として守るべき戒律を授ける所で、ここで戒を受けなければ正式な僧尼とは
		認められなかった。戒壇はここのほかに、奈良の東大寺、下野(栃木県)の薬師寺に置かれ、天下三戒壇と呼ばれた。本尊の廬舎那
		仏(るしゃなぶつ)は、平安末期の作で重要文化財である。説明版にあるように、江戸時代に観世音寺を離れ、現在は禅寺である。

		「源氏物語」にも登場する観世音寺は、斉明天皇追悼のために天智天皇の発願によって建てられた寺である。完成は奈良時代。古く
		は九州の寺院の中心的存在で、沢山のお堂が建ち並んでいたが、現在は江戸時代はじめに再建された講堂と金堂の二堂があるのみで
		ある。しかし、往時の大きさをしのばせる日本最古の梵鐘(国宝)や、平安時代から鎌倉時代にかけての仏像(全て重要文化財)が
		数多く残り、境内はクスの大樹に包まれ、藤、紫陽花、萩と、花々が季節の移りを知らせてくれる。





		
		当時の「太宰府政庁」の近隣には、西国の僧侶達の学問所である戒壇院(正確には僧達に階位(戒壇)を授ける学問所の親玉のよ
		うなもの:戒壇院はここと奈良の東大寺、下野(しもつけ:今の栃木県)の薬師寺に置かれ、三戒壇と呼ばれていた。ここを出なけ
		れば正式な僧尼とは認められなかった。)や、「観世音寺」(天智天皇が、朝倉の橘広庭宮で崩御した母斉明天皇の菩提を弔うため
		に建立した。)および「観世音寺」をとりまく21の寺社、「筑前国国分寺」「国分尼寺」等々が立ち並び、さながら官庁オフィス
		街の様相を呈していたのである。







 

太宰府を描く青沼茜雲氏。(「作家紹介VIDEO」アート・プロ製作 より)