青沼茜雲先生 伊勢神宮に絵画奉納式 2013.12.14




宝塚古墳



宝塚古墳1号墳



宝塚古墳2号墳(道路を挟んで1号墳の向かいにある)。




		宝塚古墳		出典:ウィキペディア

		宝塚古墳(たからづかこふん)は三重県松阪市にある古墳。1号墳と2号墳の2基が現存している。1928年(昭和3年)の
		鈴木敏雄による調査でほぼ1キロメートル四方の丘陵上に墳丘の確かな古墳が26基、不確かなものを含めれば88基の古墳
		の存在が確認され、花岡古墳群と呼ばれた。1965年(昭和40年)ころまでに宅地開発などで81基が失われ7基だけになり、
		中部台公園(総合運動公園)などの開発が行なわれたのちの昭和60年ころには4基を残すのみとなった。

		2006年に現存しているのは、1号墳と、道路を挟んでその北側に隣接する2号墳のみである。いずれも前方後円墳で、1932
		年(昭和7年)4月25日に国の史跡に指定された。また、1号墳から出土した船形埴輪をはじめとする埴輪群は、他の出土
		品と併せて2006年(平成18年)6月9日に「三重県宝塚一号墳出土品」の名称で国の重要文化財に指定された[1]。

		<宝塚古墳1号墳>

		所在地		三重県松阪市宝塚町・光町 
		形状		前方後円墳 
		規模		全長111m 
		築造年代	5世紀初頭 
		被葬者		伝・乙加豆知命 
		出土品		埴輪ほか(国の重要文化財) 
		史跡指定	1932年(昭和7年)国の史跡 

		この地の豪族であった飯高氏の祖先の乙加豆知命(おとかずちのみこと)の墓とする説がある。墓の北西約1キロメートル
		にある阿形を本拠地とした飯高氏は、大和朝廷に接近することで繁栄したと考えられている。平安時代には衰退したもの
		の、松阪市飯高町にその名を残している。
		松阪市と松阪市教育委員会を主体として1999年(平成11年)6月 - 2000年(平成12年)3月に発掘調査が行われた。
		調査結果を以下に列記する。

		調査前は100メートルと考えられていた全長が111メートルであることが確認された。伊勢地方(旧伊勢国)最大である。
		古墳時代中期初頭(5世紀初頭ごろ)の築造の首長墓であると考えられる。
		墳丘は前方部を東に向けて造成されている。この前方部の北側には、祭事の場であったと考えられている方形台状の「造り
		出し」が設けられ、「造り出し」と前方部の間を繋ぐ橋状の通路が日本で初めて確認された。この通路は「土橋(どばし)」
		と呼ばれている。この「造り出し」部と土橋の周囲で円筒埴輪列と多くの形象埴輪が出土した。
		畿内以外の地域では珍しく円筒・朝顔形の円筒埴輪、船形・盾形・家形・靫形・囲形・甲冑形・蓋形・大刀形などの豊富な
		種類の形象埴輪が出土した。


		<船形埴輪>

		この調査で土橋の西側から出土した船形埴輪は、全長140センチメートル、高さ90センチメートルとそれまでに出土した中
		では日本最大であると同時に独特の装飾がなされていたため第1級の埴輪資料であるとされ、2006年(平成18年)6月9日に
		他の1号墳からの出土品と併せて国の重要文化財に指定された。指定対象は造り出し付近出土の埴輪120点(船形埴輪を含む)
		と墳丘出土の埴輪50点であり、包含層出土の埴輪90点と土器11点が附(つけたり)指定となっている[2]。この発掘調査の
		のち、当時を想定し埴輪の模型を並べるなどの整備が行われ、2005年(平成17年)4月27日に「宝塚古墳公園」となり一般
		に公開されている。


		<宝塚古墳2号墳>

		所在地		三重県松阪市宝塚町 
		形状		帆立貝式古墳 
		規模		全長90m、高さ10.5m 
		築造年代	5世紀 
		出土品		埴輪 
		史跡指定	1932年(昭和7年)国の史跡 
 
		1号墳の北に位置する全長90メートルの前方後円墳である。前方部が極端に小さいため帆立貝式古墳と呼ばれる。1号墳よ
		り後に築造されたと考えられている。当初は円墳とみなされていたが、のちに帆立貝式の前方後円墳であることが判明した。
		1号墳と同様、1932年に国の史跡に指定されたが、墳丘が史跡指定範囲外にも広がっていることが判明したため、1978年に
		指定範囲を拡大して国の史跡に追加指定された。
		後円部は径89メートル、高さ10.5メートルで、前方部は幅約40メートル、長さ17メートル、高さ2.9メートルである。2号墳
		も周囲に埴輪が並べられていたことが確認された。墳丘の一部が当初史跡として指定した範囲外に及んでいたため、1969年
		(昭和44年)に一部が宅地として造成されたり、前方部が道路になってしまうなどの損傷を受けている。


		<脚注>
		1. 平成18年6月9日文部科学省告示第79号
		2.「新指定の文化財」『月刊文化財』513号、第一法規、2006


		事前に電話で解説をお願いしていた、松阪市文化財センターの田中さんが古墳で待っていてくれた。挨拶とお礼を言って
		早速解説をお願いした。若いがなかなか熱心で、一生延命に話してくれて、皆さん非常に好感を持ったようだ。
		「いゃー、若いけど、松坂を愛する気持ちが溢れてた名解説だったねぇ」と言っている人がいた。







		「三重県松阪市黒田町ごけ山」の丘陵地に立地し、西から東へ伸びる山の尾根を利用して築造した古墳である。所在は松阪
		市宝塚町と光町である。1号墳は前方後円墳、2号墳は帆立貝式前方後円墳で、昭和7年に1,2号墳ともに国指定史跡と
		なり現在まで保護されてきた。平成11年6月から平成12年3月の期間、古墳の保存整備事業として、松阪市と松阪市教育委員
		会を調査主体とした発掘調査が実施され、その調査でともに5世紀はじめ頃の築造と判明した。



田中さんの解説に熱心に聞き入る皆さん。普段、古墳を見るなどあまりないと見えて興味深い顔付きだ。









		■宝塚1号墳■

		全長百十bの前方後円墳で伊勢地方最大の古墳。墳丘部は昭和七年に、同五十三年に周辺も含めたおよそ二万六千七百平方
		bが国史跡に指定された。平成十一年から調査が始まり、昨年一月に古墳本体と「造り出し」部を結ぶ「土橋」と呼ばれる
		通路が全国で初めて出土。四月にはこの「土橋」から約二b離れた所で国内最大の「船形埴輪」が見つかり、十月には「造
		り出し」部から全国で初めて数多くの埴輪群が配列状態で出土した。被葬者は近畿地方とつながりがあり、伊勢湾西岸の広
		い範囲を強い力で支配した人物と推定される。





		1号墳は、後円部前方部ともに3段築成で全長111m、後円部経約45m、後円部高7.8m、前方部幅約54m、前方部長約41m、前
		方部高 4.8mを測る伊勢地方最大の古墳。円筒埴輪が下段2段のテラスに並べられている。葺石は各段の斜面に葺かれていて、
		2段目埴輪列と葺石の間に細かい敷石が巡っている。主体部は未調査である。前方部と後円部のくびれ部分に、大きな方形
		の2段構造になった「造出し」(つくりだし:祭祀場と考えられている)があり、墳丘と土の陸橋で結ばれていた。



		造出しはその地形から、あることがほぼ想像されていたが、このような構造の土橋は我が国初出である。また造り出し部分
		の全容が明らかになったのもはじめてである。造出しの大きさは東西18m、南北16mを測る。この上部や周囲に船形、囲み形、
		家形、壺形などの埴輪が、ほぼ据えられた状態のままで並べられていた。埴輪の量も県下最多量で、出土量の多いものの中
		では最古の埴輪群である。



		田中さんの後ろに見えている四角いエリアが「造りだし」である。八女市の青沼先生のアトリエがある近くにも岩戸山古墳
		があって、この古墳も「造りだし」を持っているが、あちらは「造りだし」というより広場である。「別区」(べっく)と
		呼ばれる。岩戸山古墳の後円部に造られた広い空間で、このようなものを持った古墳は全国でもあの古墳だけである。文献
		(筑紫国風土記)によると、ここで裁判が行われていたらしい記述があり、特別な祭祀場とも考えられる。廻りには、古墳
		造営時のように石造物が並べられている。宝塚古墳の「造りだし」も祭祀を行っていたと思われるが、ここからは日本唯一
		の船型埴輪や囲み形埴輪が出土している。



「ここです。ここにこうやって立っていたんです。発掘時はバラバラだったんですけどね」と田中さん。



造り出しの横から墳上へ登る。ここへくれば前方後円墳だというのがよく分かる。



ここから松坂市内、鈴鹿山脈、伊賀地方の山々が一望できる。



田中さんがこの古墳の意義や松坂地方の古代について熱弁をふるう。







クリックすれば拡大します。

私はここには三度目である。一度は発掘中。二度目はまだ整備中であった。今回は綺麗に公園化されていて気持ちがいい。




古代には海がもっと松坂市内まで迫っていて、この古墳の被葬者も海運や海に関係した豪族だったと思われます。



鈴鹿山脈の遠景。斎王もあの山並みを抜けてきたものと思われる。



上の写真、しめった部分の下に石室があって、ここに被葬者が葬られていた。



		<三重・宝塚古墳から船形埴輪が出土  Asahi.com  2000年4月11日>

		 三重県松阪市宝塚町から光町にまたがる国の史跡「宝塚1号墳」(5世紀初頭、前方後円墳)から、国内最大の船形埴輪
		が出土した。同古墳を調査している同市教育委員会が10日、発表した。全長140センチ、高さ90センチ、最大幅25
		センチで、ほぼ完全な形で復元されている。船上には、船首から順に王の権威を象徴する大刀(たち)、威杖(いじょう)、
		蓋(きぬがさ)がマスト状に立つ。同様の装飾船は、珍敷塚(めずらしづか)古墳(福岡県吉井町)の石室壁画や、東殿塚
		古墳(奈良県天理市)の円筒埴輪に描かれた線刻画などでは確認されていたが、実際に埴輪として出土するのは、初めて。
		八賀晋・三重大名誉教授(考古学)は「全国でも最高水準の埴輪資料」と評価している。(09:51) 




		松阪市文化財センター


		当センターは、市民文化会館・図書館等が集中する市の文化ゾーンとなっている区画にある。旧カネボウ綿糸(株)松阪工
		場の倉庫を譲り受け、その保存・活用も目的として大規模な補修の手が加わって完成した。更に隣地に管理センターが併設
		され、旧倉庫は、展示室、市民ギャラリー、収蔵庫2室として生まれ変わった。管理棟には事務室・図書室の他に、発掘で
		出土した遺物の洗浄・復元を行う遺物整理室、発掘調査報告書の作成作業を行う資料整理室等があり、これで松阪市として
		の、埋蔵文化財に対する取り組みの準備は全て整ったことになるのだろう。



		松阪市は、古代史関係では、 2000年4月に松阪市教育委員会が発表した「宝塚古墳」とそこから出土した日本最大の「船形
		埴輪」で一躍全国的に有名になった。今までの船形埴輪にはない5世紀当時の古代船の詳細な部分が表現されていて、今ま
		で文献やその他で想像・推定されていた部分を明らかにした、我が国第一級の文化財となった。















		<三重・宝塚古墳から船形埴輪が出土  Asahi.com  2000年4月11日>

		 三重県松阪市宝塚町から光町にまたがる国の史跡「宝塚1号墳」(5世紀初頭、前方後円墳)から、国内最大の船形埴輪
		が出土した。同古墳を調査している同市教育委員会が10日、発表した。全長140センチ、高さ90センチ、最大幅25
		センチで、ほぼ完全な形で復元されている。船上には、船首から順に王の権威を象徴する大刀(たち)、威杖(いじょう)、
		蓋(きぬがさ)がマスト状に立つ。同様の装飾船は、珍敷塚(めずらしづか)古墳(福岡県吉井町)の石室壁画や、東殿塚
		古墳(奈良県天理市)の円筒埴輪に描かれた線刻画などでは確認されていたが、実際に埴輪として出土するのは、初めて。
		八賀晋・三重大名誉教授(考古学)は「全国でも最高水準の埴輪資料」と評価している。(09:51) 



		 この古墳を全国的に有名にしたのは、土橋もさることながら、巨大な船形埴輪の出土だった。船形埴輪は陸橋部の西側か
		ら出土し、ほぼ完全な形に復元できる日本最大の船形埴輪である。本体が全長140cm、高さ90cm、最大幅25cm、重量41.2kgで、
		底部は、前後2つある楕円形の円筒埴輪に差し込んでいる。船の構造は、船首・船尾部分が大きくせりあがった準構造船で、
		外洋航海ができる性能を持った船を模式したものと考えられる。2つの円筒埴輪台も含んだ総重量は71.7kgである。船には、
		威厳を示す太刀埴輪が船首に、蓋(きぬがさ)形埴輪は船尾に、王者が持つ威杖(いじょう)のようなものが中程に、また
		2本のマスト状のもの(従来石見形盾と言われたもの)も立てられていた。このマスト状のものはこれまで線刻絵画や壁画
		等の絵画では知られていたが、埴輪では分からなかった。今回の出土により、これまで不明だった古代の葬送儀礼に関する
		貴重な資料が得られたことになる。




		船形埴輪の構造は船体の船底部と側板が突帯で仕切られている。基部と側板は船首、船尾ともに大きくせり上がっており、
		船首と船尾付近に隔壁を造っている。隔壁はハート形を示して、線刻模様と4カ所に鰭(ひれ)を持ち、2カ所の孔(あな)
		が開いている。また底部の楕円円筒のタガから船本体にかけては赤色顔料(ベンガラ)が塗布されていた。この船形埴輪は、
		これまで近畿地方他から出土した埴輪に比べて極めて良好な遺存状態にあるため、今まで判明しなかった大型準構造船の構
		造は元より、琴柱形や蓋形埴輪などの威儀具とともに出土したことで、船形埴輪の持つ意味についても多くが明らかになっ
		た。



		船形埴輪が軍事力の象徴だけでなく、葬送儀礼にも首長の権威を示し、黄泉の国までその権威が及ぶように働きかけていた
		と推測される。この船形埴輪の出現は、古墳の埋葬者が強大な軍事力、技術力、航海術を持った人物で、この時代伊勢にも
		そのような豪族が出現していたことを窺わせるものである。




「え、これ本物?レプリカやろ」「いいえ本物ですよ」「ひぇー、綺麗なもんやねぇ。これ本物かぁ」








		全国的にも10例ほどしか無い珍しい囲み形埴輪は、通水・導水施設を現わしたものだと考えられている。造り出しの東側
		で1個、西側で2個発見された。東側のものは、四角の壁で囲んだ箱形をした埴輪で、内部には水路に関するものと思われ
		る部分があった。上から見ると、上(かみ)から流れてきた水を溜める貯水池、そこからあふれ出た水を受けさらに不純物
		を除くような沈殿漕、そしてきれいな水を下(しも)へ流す排水路の3つの部分に分かれている。
		西側のものは井戸的なミニチュア土製品を伴って出土した。この水に関するミニチュアを含む囲い型埴輪の発見は、歴史的
		に未だ確認がされていない。「まつり」の場でのみ用いられたものなのか、それとも実生活でこのような設備を用いており、
		黄泉の国にも必要であろうと副葬されたものなのか、今後の研究にゆだねられている。造出し部分の平坦部には、家型埴輪
		が多数並べられていた事が確認されている。











「造りだし」の拡大模型。色んな埴輪で囲まれていた様子がよくわかる。


















		「邪馬台国大研究」としてはもう一つ、ここ松阪は「邪馬台国九州説」を唱えた先駆者、松阪が生んだ偉大な国学者、本
		居宣長の生誕地である事を覚えておきたい。宣長は、大きな商家の長男として生まれたが、学問に熱中して商売には殆ど
		興味を示さず、廻りを大変心配させたそうである。長じての宣長は、皇国史観の固まりのような思想の持ち主で、「九州
		説」も、我が国の女王が中国の皇帝に貢ぎ物などするはずがない、卑弥呼などは九州の一蛮族の女酋にすぎない、従って
		「邪馬台国」も九州に在ったのだという意見であった。そのため、「倭人伝」の内容も、「これは一月ではなく一日の誤
		り、これは東ではなく南。」などと極めて恣意的に解釈し、今日の「邪馬台国論争」の火種を作った。

		田中さん、いろいろありがとうございました。