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科学する邪馬台国  古代建物の復元
− 大林組・プロジェクト・チームの活動を中心に −



各地の史跡・遺跡や博物館を訪問していると、よく古代の建造物を復元してあるのにぶちあたる。比較的、竪穴式住居が多い。これは、このホームページの中の研究入門編「邪馬台国の住居」を参照 して貰えばわかるが、誰にでも割と簡単に復元できるからだろう。材料と人手さえあれば、私でも復元できそうな気がする。勿論あくまでも形だけだが。
高床式住居については一寸そういう訳にはいかない。素人がちょいちょいと組み立てられるものではない。一応、大工とまではいかなくてもある程度建築物についての知識が必要である。しかし、それに してもある程度の技術と知識があれば建てられるはずである。
しかしながら、それは我々が今日、木造建築の基本的な構造や建て方をある程度知っているから可能なのであり、全く建築物についての知識がなければどうしようもない。我々は子供の頃から、近所で 家が建っていく過程を何件も見聞きしており、柱があって、棟があって、瓦をふいて、というような作業内容をある程度知っているから建てられそうな気がするのである。 では、縄文・弥生の頃についてはどうだろう。その頃の住居は、一体誰がどうやって建てていたのだろうか。
古代の遺跡から発見される住居跡というのは、ほとんど柱が立っていた穴が残っているだけであるが、最近、青森の三内丸山遺跡をはじめとして、幾つかの遺跡で柱に用いられていた木材の破片が残って いるものが発見されている。これらの遺構から、建物に用いられていた木材の材質まである程度特定できるようになった。又、木造建築物が弥生時代になって現れたものではなく、既に縄文の時代から 各地で建てられていた事も明らかになったし、建築専門家達の分析によれば、これらの縄文時代の建築物も、非常に高度な建築(或いは土木)技術を備えていた事もわかって来ている。
このHPの中でも紹介している北陸富山の桜町遺跡、石川のチカモリ遺跡(以上縄文)、福岡の平塚川添遺跡、吉武高木遺跡(以上弥生)等では、実に高度な木材加工技術を持っていた事がその遺物から証明されている。

そんな中、古代建築物の復元技術の面で、ある一つのプロジェクト・チームが活躍している。今もって用途の不明なもの、あるいは我が国で始めて出土したような建築物の跡、さらには、文献上 には記録があるが、現在遺構も遺物も残存していないような建物。そのようなものを専門に調査・分析し、可能なら復元してしまう、不可能でもCG(コンピュータ・グラフィツクス)上で復元してしま おうというのである。大林組<古代建造物復元>プロジェクト・チーム(私がかってに命名した)。これがそのグループの名前である。このグループ(或いは別のグループか?)は、古代出雲大社の復元にも挑戦しており、 その成果は(株)学生社刊「古代出雲大社の復元」として公刊されている。他にもさまざまな建造物の復元を試みており、時々NHKなどでそのCGにお目にかかる事もある。現在(99.1)池上曽根遺跡の、巨大神殿(この古代建造物の 用途にについては、神殿と証明されたわけではないが、一番有力な説としてこう呼んでいる。)の復元も担当しており、現地の大きなテントの中では作業が進行中である。(神殿は、99年4月には現地にお目見えするはず。)
このページも、内容は、同じ(株)学生社刊「三内丸山遺跡の復元」(98年7月20日発行:1,900円)を全面的にベースとしている。


三内丸山遺跡・巨大建物の復元



上の写真の建物は、青森県三内丸山遺跡から出土した柱跡の大型建造物を復元したものの模型である。遺跡内の資料館に展示されている。この建造物の用途も今もって判明していない。見張り台、灯台、集会所、首長の館、祈祷所、等々諸説紛々である。私の所属する「歴史倶楽部」 のメンバー達の中では「灯台」説が有力のようである。当時は海が遺跡側まで来ていたこと、海産物の種類が多いことから相当遠くの海まで漁に出ていた事などを考えると、海からどこが自分のムラか見分けられないと戻れなくなる、というのが主な理由だが、私もこれが一番 説得力がありそうな気がする。それはともかくとして、実寸の復元物は遺跡の中に立てられているが、発掘された柱跡をさまざまな角度から検証して復元されたのだが、この復元に「大林組復元チーム」が活躍した。

《復元までに》
このプロジェクト・チームは、古代建造物の復元作業(と言っても実際に建てることは少なく、図面上或いはCG上で復元する。)をもう20年にわたって続けているのだが、過去に、源氏物語の主人公光源氏の住んでいた「六条院」(勿論六条院そのものは架空のものだが、 文献から平安時代の「寝殿造りの復元」を試みた。)や、古代の出雲大社(現在の倍の高さがあったという。)の復元などに挑戦しているが、今回三内丸山遺跡の大型建物の復元にあたっても周到な事前準備を行っている。 前述の本によれば、チームの誰もがそれまで縄文時代については、通り一編の知識しか持っていなかった。狩猟に明け暮れ、獲物をもとめて旅から旅、住居は仮住まいで、家と呼ぶようなものはまだこの時代には無かった。これはつい最近まで多くの人が抱いていた縄文のイメージでもある。 それが三内丸山遺跡の出現により大きく転換したのだ。彼らも同じであった。「大型建物跡の発見」のニュースは、彼らにこれが建造物である事を認識させ、古代の建築技術が、既に縄文時代に高度な段階に達していたことを知らしめた。現地へ飛んだプロジェクト・チームは、すぐ復元作業に取りかかる事を決めた。 そして以下のような行動に移る。
@、縄文人の生活・文化を知る事。大阪千里の国立民俗学博物館に小山修三教授を訪ね、縄文時代全般の話を聞いている。
A、縄文遺跡の訪問。復元にあたって参考になりそうな遺跡を片っ端から訪ね歩く。そして、その遺構・遺物から、彼らは縄文人が驚くべき建築技術を既に備えていた事を知る。彼らが訪ねた遺跡は、大半がこのHPでも紹介しているが、以下のような所である。 栃木・小山市の寺野遺跡、石川・金沢のチカモリ遺跡、能登町の真脇遺跡、富山・小矢部市の桜町遺跡、朝日町の不動堂遺跡、そして福島・会津若松市の県立博物館。
B、現地踏査と検証。
C、復元作業(図面化)。
全ての作業を終え想定復元図面を彼らが発表したのは、作業に取りかかってから延べ2年4ヶ月後の平成8年9月末の事だった。

《復元作業》
@、人口の想定 :  プロジェクト・チーム(以下PTと記す。)は、三内丸山遺跡に常時住んでいた住民の人口を400〜500人とした。学者によっても、50人〜500人とばらつきのある数字だが、PTは大型建造物の建設を可能にするには、最盛期で4〜500人規模は必要と割り出した。一人あたりの作業負担量を25〜30キロとして、1回の仕事量 を6〜7トンとすれば、実際の重労働に参加できる成人男性の数は200〜280人となり、総人口はその倍になるという勘定だ。(PTでは、大型掘立建物の柱1本の重量を平均6.55トンとしており、一時に発揮される対重量を6〜7トンとした。)
A、土木工事の想定復元 :  PTによれば、三内丸山では縄文時代の常識からすればケタ違いの土木作業の痕跡が幾つも認められると言う。一つは道路である。これはまさに「道路工事」と呼んでいいほどの土木工事で、日本で最初のそして最古の土木工事の施工例だそうである。また、遺跡の北と南に作られた巨大な盛り土(マウンド)は、過去、全国の遺跡にも例のない特異な建設遺構となっており、 その施工の規模は以下のようになる。
             
A.盛り土の土量(平均値を採用)
北の盛り土 盛り土の幅 50b、同 延長 90b、一層の土厚 0.2b、同 総土量 900立方b
南の盛り土 盛り土の幅 50b、同 延長 70b、一層の土厚 0.2b、同 総土量 700立方b
両盛り土の各一層分の合計土量 1、600立方b
B.施工に必要な員数
土砂の採取
(1日1人1立方bを掘削採取できるとする。)
合計土量 1,600立方bでは延べ1,600人工が必要。
土砂の運搬
(モッコによる二人一組で運搬を行うものとすると、一度に60`が標準量となる。)
詳しい計算(省略)の結果から、1、600立方bを運ぶには、延べ1,824人工が必要。
敷き均しと締め固め 仕事量を1人1日6立方bとすれば、1,600立方bの処理には延べ267人工が必要となる。
従って、上記を合計すると3,691人がこの施工に必要な延べ員数となる。

PTは、これらの作業は1ヶ月以内で行わないと別の多くの要因が加わって施工計画が更に複雑なものになるとし、30日で行ったと想定する。そして南北の盛り土工事には一時に123人の要員が必要であったと見積もるのである。 さらにはほぼ同人数位の支援体制も必要だった、と想定している。

B、建物の想定復元 :  大型の掘立柱建物跡以外にも、三内丸山遺跡では多くの建物跡が発掘されている。多くは通常の竪穴式住居跡だが、その中に、倉庫と見られる高床式の建物や、超大型の竪穴式大型住居跡(通称ロングハウスと呼ばれる。)も見つかっている。 ここ数年の各地からの発掘例により、従来弥生時代の建築物とされていた高床式建物は、現在では少なくとも縄文中期末葉には建設されていた事が明らかとなったし、ロングハウスも、富山県朝日町の不動堂遺跡を皮切りに主に日本海側遺跡を 中心に東日本で多く発掘されており、縄文人がこれらの大型建物を建設する技術をすでに修得していた事も明らかになった。大林組PTでは、掘立柱建物の復元に先立ち、このロングハウスや高床式建物の復元も試みている。 その過程は省略するが、その作業の結果として彼らが得た感想を付記しておきたいと思う。
「以上が国内最大といってよい三内丸山の巨大ロングハウスの復元経緯である。それにしても、偉容とよぶにふさわしい姿である。それは大変な手間と計画を要求された施工であっただろうと思わせられる。 当時、これだけのものをつくることができたばかりでなく、これだけのものを必要とした人々、あるいはその生活を営んだ人々であったことを思うと、ここでも驚きを禁じ得ない。」

《掘立柱建物の復元》
三内丸山遺跡における建造物で全国の注目を集めたのは、何と言っても掘立柱建物である。写真でわかるように6本の柱が等間隔に立てられ、それぞれの柱跡は直径1bもあった。しかも用いられた材木の柱根も残存しており、全てクリの木であった事も判明している。 柱径が巨大である事は、その立ち上がった建造物も巨大であったはずだ。PTも建築という見地からそれは肯定している。直径1bの柱が、高さも1bなどという事はあり得ない。それにふさわしい高さを保持していたはずである。
この建造物の用途については前述したように今もって定まっていないが、諸説を大分すると<非建物説>と<建物説>に分ける事ができる。<非建物説>は、これらの柱が柱単独で直立していたとするものであり、北米先住民や我が国では一部のアイヌの村に見られるような トーテムポールのようなもの、あるいは金沢のチカモリ遺跡に見られるようなウッドサークル(ストーンサークルの木材版)、さらには、信州諏訪神社に伝わる御柱祭りの柱のような神域のシンボルとしての用途等が指摘されている。しかし、PTは、<非建物説>は縄文人の 能力、意欲を過小評価しているとし、<建物説>を採用する。灯台説を唱えたのは、作家の故司馬遼太郎氏だが、物見櫓説も合理性がある。PTでは、「用途の不明なものの建築は不可能」であるとして、とりあえずこの建造物を何らかの祭祀に用いられた施設との想定の元に 復元作業を行っている。

@、柱の材質(クリ)による高さの想定。 発掘当初クリの木は高さがせいぜい7,8bにしかならないという意見も出たが、これは栽培用に先端部を切り落とした近年のクリの木であって、本来は20b以上に成長する事が明らかになった。実際、三内丸山遺跡対策室の調査によって青森周辺で高さ20bのクリの木が発見された。 縄文時代には、当然それ以上のクリの木が原生していたものと考えられる。

A、柱穴を土質工学の見地から考察する。 発見された6つの柱穴は、正確に4.2bの間隔をとり2列に並んでいる。深さは2〜2.5bも掘り下げられており、6つのうち4つに木柱根が残っていた。木柱根は0.9〜1b程の径で最大のものは103cmであった。高さは50〜65aほどが残っていた。現在までに判明している考古学的な 事実は次の2点である。

●クリの木の立て方はそれぞれが、列の内側へ角度2度ほど傾いており、計画的かつ意図的なものであって、柱を立てる際に重心が穴の中心より外側へ来るようずらして設置されていた。
●柱を立てる際に、砂と粘土質土を交互に入れて突き固める技法がとられており、これによって柱がより固定されるようになっていた。

あまりにも少ないこれらの事実に加えて、PTが行った調査は、さすが建設屋と思わせるものである。彼らは、柱が建っていた穴の底を調べてみる事にしたのだ。つまり同じ位置の(深度の)、他の外周部の土と柱の底の土を比較して、底の土にどれだけの圧力が掛かっていたかを調べようと 言うのである。この柱の底が、過去にどれほどの過重を受けていたかがわかれば、5000年前当時の柱の重量が解明できるのではないか、というのだ。彼らが行った調査は以下のようなものである。

1.地層の確認
2.標準貫入試験(N値)
3.物理特性(比重、含水状態、粒土分析)
4.力学特性(一軸圧縮の強さ、粘着力、圧密先行応力)

1.はともかくとして 2.以降に現れる用語は、文化系出身者である私には殆ど理解不可能である。しかし図やグラフ混じりの説明をじっくり読めば、何となくわかってくる。要するに結論を言えば、1平方bに16dの過重が加わっていたという事になるそうだ。
ここで、これまでの結果を全てまとめてみると次のようになる。

◆木柱の直径    平均1b(発掘調査より)
◆ 同 断面積   0.785平方b
◆直下地盤が経験した荷重(柱の断面積あたり)  最小値7.8d  最大値12.6d
◆クリの木の長さ1bあたりの重量(径1b)   0.5d/b(クリの木の比重を0.7d/立方bとする。)

ここから導き出される柱の木の長さは、最小14b、最大23bという事になる。しかしこれは、柱のみが直立していたと考えた場合であり、しかも柱の径が根本から先端まで同じ太さとした場合の数値である。実際にはそういう事は有り得ず、柱は先端部分になるに従って次第に細くなっていく ものであり、それを勘案すると柱の高さは、実に25bに達する可能性があると言う。
PTでは、これが単独で建っていた柱の可能性を検証しているが、結論から言うと単独の柱としては不安定で建造物として成り立たない、というものであった。そこで、何らかの構造をもった建造物としての検証に進む。
諸検証の結果、復元する建物の規模は、軒高が14b、最高部(屋根頂部)で17b、そして木柱の長さは掘立て部位も含めて16.5bとなった。左の図より、建物の総重量は約71dの規模となり、この構造だと下部へかかる荷重は1平方bあたり16dちかくになり、地盤調査の結果とも整合性がとれる。
また柱の高さが約17bとすると風に対する抵抗の面からも一番都合がいいそうである。この三内丸山遺跡のある津軽地方に吹く季節風は、ほぼ一年中、津軽半島と八甲田山系の間を南南西に吹いており、この大型掘立柱建物も長軸を南西−北東方向に向けており、風に対する抵抗が一番少なくすむように建てられている。 つまり古代縄文の人々は、これを建てたとき既に、風向きや風力に対しての妥当な高さについて知識を持っていたのである。また4本柱より6本柱の方が、風に対するたわみが少なくより堅固に建っている事ができる。
PTでは、この他、屋根の有無、梯子の有無(上段への移動方法)、や柱に彩色がほどこされていたかどうかについても検証しているが、これらは全て推測の域を出ない。このあたりになると、おそらく永久にわからないのかもしれない。

いずれにせよ、今回大林組プロジェクト・チームが行った三内丸山遺跡の建物に関する復元作業は、これまで歴史学者や考古学者達が行ってきた作業とは違って、「建築学」という観点から試みられたものだけに、遺跡復元に関して今までにない新しい多くの示唆を含んでいる。歴史学の発展にまた新たなアプローチが加わったと言っていいだろう。







右の写真は復元の3モデルを表している。一番奥はただ立っているだけの6本の柱。真ん中は物見櫓あるいは灯台等の建造物。手前が今回の、大林組プロジェクト・チームにより復元された祭祀建物。






冒頭タイトルの写真は、大阪市道玄坂にある5,6世紀の高床式建物の復元だが、これは大林組ではない。天王寺にある「金剛組」という社寺仏閣専門の建築会社の手になるもの。









大林組が大阪府泉州の「池上曽根遺跡」に復元していた、弥生の大型建物(どうやら神殿という事に落ち着いたらしい)が、1999年3月ついに完成した。 お披露目は4月30日であるが、神殿前の大型井戸も備えた堂々たる建物である。これだけのものは近畿では珍しい。2001年の弥生公園出現が待ち遠しい。





以下は静岡県登呂遺跡における「復元住居」と「復元倉庫」の制作状況である。














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