Music: Baby it's you



科学する邪馬台国 
ガラスが辿って来た道








ガラスの歴史は古い。エジプトやメソポタミアの遺跡からは、少なくとも3,500年前に用いられていたガラス製品が出土している。ガラス製法の技術はこれらの地方からヨーロッパへ渡り、 紀元前後には鋳造、型押し、モザイク、カット、サンドイッチ、エッチング、マーブルといった技術がほぼ出揃っていた、と見られる。

右の写真の棚に並ぶガラス製品は、私のWifeが通っているガラス教室で作った製品を並べたものだが、これらは全て「吹きガラス」と呼ばれる製法で製作したものである。 よくTVでも放映している、吹き竿を使って空気を送り込みガラスを形成する技術である。ヨーロッパではこの技術は、紀元前後にはほぼ完成された技術になっていた。 残された製品を見ると、当時は相当に高い技術力を持っていた事が分かるのである。今日では復元不可能なほどの高い技術で製作したガラス製品も現存する。

中国におけるガラス製造は、これらの先進地に比べると約1000年ほど遅れていたとされている。しかし春秋戦国時代から漢代にかけての遺跡からは、ガラス製の壁(へき)や玉が出土しているので、 最新技術こそ遅れていたが、これらの優れたガラス製品を生み出す技術が既に存在していた事は明らかだ。そしてその技術は、朝鮮半島を経由して古代の我が国にも伝わっていたはずである。 では、古代の日本においてもガラス製品は生産されていたのだろうか? 原材料は何処から入手していたのか? 工房は何処にあった?




佐賀県吉野ヶ里遺跡の新発見は、学術的に貴重な成果を多くもたらしたが、その中の一つにガラス製品がある。中でも、有柄把頭飾銅剣とともに1002号甕棺から出土したガラス管玉は、 そのガラス製品としての技術的な完成度で注目を集めた。当時のガラスは、今日のダイヤモンドにも匹敵する貴重な財宝であったのは勿論だが、先端技術の結晶でもあった。
左の写真はその出土したガラス管玉にヒモを通して、製品の復元を試みたものである。管玉は、全部で74個、直径は7_から9_、最長6.8a、一番短いもので2.0aだったが、この時代 (弥生中期:紀元前150〜紀元150年頃:邪馬台国時代より100年ほど前)としては、長い管玉である。出土時は、内部を朱で塗られた甕棺の中に有柄把頭飾銅剣とともに横たわっていたのだが、 その形から、単なるネックレスやペンダントではなく何か立体的な製品を構成していたのではないかと考えられた。東京ガラス工芸研究所の由水(よしみず)常雄所長が考えたのが、 左の写真の「ダイアデム」である。ダイアデムというのは、ギリシャやローマで用いられた頭に被る王冠のことだが、左はまだ完成品ではない。由水氏は、出土した管玉と全く同じ成分のガラス 管玉の復元に成功しているが、それを用いて復元したダイアデムは、現状のままでも部品の過不足が無く、ちょうど成人の頭を一周するサイズの冠が出来上がったという。 由水氏は、「同時に出土した有柄把頭飾銅剣も、どちらかと言えば中国風の「斬る」よりも、中央アジアに見られる「突く」剣であり、王冠と併せて考えると、当時中国からの文化以外にもスキタイやケルト などの中央アジアやヨーロッパの文化が日本にも入ってきていた事の証拠ではないか。」と述べている。
しかし、ここで大きな疑問がわき上がる。吉野ヶ里周辺の弥生遺跡はおろか、日本の弥生遺跡を探しても「ダイアデム」なるものの出土例はない。中国でもそのような王冠が使用された形跡はないし、 韓国にもない。(但し韓国では、同様の形状、成分の管玉が1989年4月合松里遺跡から出土し、殆ど吉野ヶ里出土のものと同じと確認された。)中央アジアの文化が中国・韓国を飛び越して日本にいきなり 飛来するものかどうか疑問視する声もある。

由水所長の手を経た吉野ヶ里出土の管玉は、滋賀県大津市にある日本電気硝子研究所(JR東海道線脇すぐ)で、マイクロアナライザーや、化学分析法によって調べられた。その結果、中央アジアやヨーロッパに多い 「ソーダガラス」ではなく、酸化鉛、酸化バリウム、ケイ酸を主成分とする、中国ルートの「鉛・バリウムガラス」である事が判明した。更にこの管玉は、同時代の他のガラス製品と比べると次のような特徴を持っていた。 第一に、通常のガラス製品に見られる、鉄、アルミナ、銀などの不純物が殆ど見られず、高度に厳選された材料のみで作れられている事。第二は、ガラスの融解温度を低くして製品の透明度を高める酸化ナトリウム(当時は 炭酸ナトリウムと推測される)が、通常の3倍も加えられている事。第三は、ガラス化を促進して膨張率を低下させ、細工を可能にする為の添加剤としてホウ酸が加えられている事。これは、同時代の中国のガラスでも殆ど 含まれていない。第四に、酸化銅の含量を調整し鮮やかな青色を発色させている事。この管玉のコバルトブルーは並の青色ではない。ただ酸化銅を加えるだけでは、くすんだ青になりやすくここまでの青にするには相当の 技術を要する。これらの結果から、由水氏らが出した結論は「このガラスの組成は、現代にもひけを取らない高度な化学知識に裏打ちされている。」というものだった。つまり、当時としては最高級の素材が用いられていたのだ
素材の高級さに比較して、余りにも稚拙なのが製品。この管玉は製造技術的には、はなはだおそまつな代物なのである。写真でも確認できるが、大きさは不揃い、泡や気泡が内部にふくまれている、切り口は大雑把、等々。 由水氏も、「素材の高度さと、未成熟な製品技術の落差があまりにも大きいのが、この管玉の最大の特徴です。」と述べている。では、誰が、どこでこの管玉を製作したのか? 

右の写真は、福岡県春日市の赤井手遺跡から出土したガラス勾玉の鋳型である。(このHPでも紹介している春日市の「奴国の丘歴史公園」に行けば、歴史資料館で本物が実見できる。)弥生時代のガラス製品は、岩手県から山口県までの本州内 で約50、北九州で約100カ所から発見されているのであるが、ガラスの勾玉鋳型が出土したのは4カ所しかない。大阪府茨木市の東奈良遺跡、山口県菊川町の下七見遺跡、福岡県弥永原遺跡、そして赤井手遺跡である。(ガラス製品全体を見ても鋳型は9カ所 からしか出ていない。東奈良と七下見を除けば全て福岡県春日市周辺である。) 従って当時の日本に、ガラスで勾玉を製作する技術が、少なくとも存在していた事は確かである。もしかしたら勾玉も日本で製造していたかもしれない。一番可能性があるのは、福岡県それもいわゆる「奴国」とされている春日市周辺である。 しかし、原材料も日本で入手していたかは現段階では不明なのだ。管玉は出土数が少ない事から、吉野ヶ里の管玉も、由水氏は「製造は朝鮮半島であろう。」と推測している。先述した、朝鮮半島での管玉出土がその可能性を高めている。
日本で出土するガラス製品は、圧倒的に「鉛・コバルトガラス」なのだが、いくつかは「ソーダガラス」も混じっている。当時中国産のガラスにはソーダガラスは全く存在しないので、由水氏の言うように、ガラスは「中国−朝鮮ルート」と 「中央アジア−朝鮮ルート」の二つの道を辿って日本へもたらされた可能性も否定はできない。

いづれにしても、日本で明らかにガラスが生産されたという証拠は奈良時代にならないと見つからないのである。しかも、不思議な事にその後も殆ど日本ではガラス製造の技術は発展しない。ガラスの本格的な生産が我が国で行われるようになるのは、 明治という近代になってからの事になる。







【98.9.24 asahi.comより】 コバルトブルー、弥生の腕輪

《写真》 出土したガラス製の釧(くしろ=腕輪)

京都府与謝郡岩滝町にある、弥生時代後期から末期の大風呂南(おおぶろみなみ)墳墓群から ガラス製の釧(くしろ=腕輪)が出土した。コバルトブルーに輝く全国で初めての完形品。 断面は五角形で極めて珍しい。大きさは最大径9.7センチ、内径5.8センチ。撮影ライトで 透明感が台紙に映える。
 (c)Copyright Asahi Shinbun.






【2000年1月18日(火)朝日新聞】
第1回「考古科学シンポ」
自然科学が解き明かす古代

「こういう研究方法が以前からあったら、私の研究もずいぶん変わっていたでしょうね。」古代ガラス研究の第一人者、藤田等・静岡大学名誉教授(考古学)の感想には実感がこもっていた。重さ40キロという大型顕微鏡をかついで全国の遺跡をめぐり、形態、気泡や制作時のきずなどを手がかりにガラスを体系的に分類してきた。次々と発表される最新技術を使った分析は、藤田さんにはまぶしくも映ったようだ。
東京・本郷の東京大学で昨年暮れにあった第1回「考古科学」シンポジウム=写真=は、自然科学系の研究者達が企画した研究発表の場だった。用意した150席は終日、空きが無く、床に座って熱心にメモを取る人もいた。その熱気は新たな科学技術が考古学にもたらす可能性への期待の大きさを示しているように感じられた。
「分析科学は文化系の考古学者の下請け仕事ではないのです」。小林紘一・東大原子力研究総合センター助教授の開会のあいさつが、シンポジウムの目的を端的に語っていた。ガラス、金属、年代測定、保存科学、染料、磁器と発表には大きく六つのテーマが設けられた。
 東大アイソトープ総合センターの小泉好延さんは「弥生・古墳時代のガラス材質」と題して発表した。全国から持ち込まれたガラス玉の分析結果をまとめたものだ。加速器を使った荷電粒子励起X線分析という方法で、ガラスの成分を非破壊で調べた。形態や用途、ガラス内外の状態を考察する従来の考古学的手法とは違い、主成分や着色成分、材質などからガラス玉分布の特性や変遷を探った。
 その結果東日本で出土した、弥生から古墳時代前期にかけてのガラス小玉の大部分はカリ石灰ガラスであることが判明した。中国でも出土例が限られている種類だ。一方、同時代の北九州では、カリ石灰ガラスとソーダ石灰ガラスが混在していたことが分かった。どこから渡ってきたのか、東西の分布の違いは何を意味するのかなどは今後の研究課題だという。
発表を聞いた藤田さんは、「これからはこうした化学分析の結果をどう活用するかが考古学者に問われる。勉強が必要ですね」と語った。
シンポジウムの企画、準備をしたのは、実際に出土品の分析や測定に当たっている東大の研究者たちだ。「新たな科学技術は歴史の解明の力になれるはずです。従来の専門領域の枠を超えた意見交換が必要だと思います」。企画の中心となった小林さんは、今年中に第2回を開催したいと考えている。   (志)

邪馬台国大研究ホームページ/科学する邪馬台国 / ガラスが辿って来た道