科学する邪馬台国 古代の船と航海ルート
日本書紀の成立は飛鳥時代から奈良時代にかけてであるが、中に書かれた説話はそのはるか以前の事を記録している。
その中に、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が木の使い方について教えた話が載っており、檜は端宮(みずみや
:宮殿)に、杉と豫樟(くす)は浮宝(うきだから:舟)に、披(まき)を奥津棄戸の臥具(おきつすてどのふしぐ
:棺桶)に使えとある。この話は、建築材料に檜を、船舶建造には杉や楠木を、棺には槇を使えと教えており、今日
でも木材の使用法としては極めて合理的な選択なのである。即ち、檜(ひのき)は耐久性と強度に優れており、杉は
軽量かつ加工性に優れ、楠木(くすのき)は成分に樟脳(しょうのう)を含み天然の防虫素材であり、槇(まき:コ
ウヤマキ)は水分にいたって強く腐りにくいという性質を持つ。
この教えは、江戸時代にも忠実に基本として守られ、現代でも杉を船舶用材木として用いている地方は多い。つまり、
木材に関しては、すでに日本書紀の成立した時代には完成した文化となっていたのである。以下は弥生遺跡から出土
した丸木舟180試料の樹種構成である。これを見ても、舟材として杉が多く用いられていることがはっきりしてい
る。
さてここでは、古代の舟の構造と倭を取り巻く航海ルートについて見ていく事にしよう。
左は大阪市立博物館に展示されている、出土した古代の丸太くり抜き舟である。縄文時代から弥生にかけて広く我が国で使用されていた典型的な舟と言える。
写真の舟は大人5〜6人が乗れそうな大きさであるが(大阪市立博物館のコーナー参照)、近海における漁であればこの程度で十分ではないかと思われる。
又建造方法も、巨木をくり抜くだけであり極めて単純な構造になっている。しかし、いかに大きな丸太舟であろうと、この構造では海洋に乗り出す事は出来ない。
波を受ければひとたまりもないからだ。
(1).古代の船はどんな形をしていたか?
古代の我が国への文化・技術の伝来ルートとしては、朝鮮半島経由北九州へのルート、中国大陸華南地方から南・西
九州へのルート、及び東南アジアから南九州へのルートの3つがほぼ確認されている。
しかしこの他にも、朝鮮半島からの渡航が対馬海流に流されて山陰・北陸や東北地方の日本海側に到達した事もあっ
たに違いない。高天原に国を譲る前の古代出雲の発展などは、大陸・朝鮮から北九州を経由せずに直接出雲へたどり
着いた人々が築いたものである可能性が高い。又、東南アジアからの人々が四国や紀州・東海にたどり着いたりした
事もあったはずである。
しかし、我が国から大陸へのルートはおそらく一つ切りしかない。北九州から韓国を経て帯方郡に到るルートである。
これ以外のルートは、現在の所まだ確認されていない。このルートによる航海でも、距離は数十キロと短いが、当時
にあっては大航海だったのである。
ではそのような大航海に用いられた舟は、一体どんな構造の舟だったのだろう。残念ながら、紀元前後から3・4世
紀にかけての航海用の船舶についての資料は全く存在しない。しかし概要を知るてがかりはある。土器に書かれた舟
の絵と古墳から出土する舟の埴輪である。これらは、古代の人々が想像力を駆使して作ったものではなく、実際その
時代に使用されていたものと見るべきである。
上左は唐古・鍵遺跡の土器の破片。舟の最後尾の絵のようである。最後尾からクルーに向かって号令をかけていると
いう説や、くくられた持賽(じさい:航海の人身御供)であるという説もある。上右の壺に書かれた絵はもっとはっ
きりしている。櫂が7本、櫓らしきものも見え真ん中には帆が張られているのが見える。(帆ではなく旗という説も
あり、別資料の実測図をみるとなるほど旗として描いてある。しかし私は簡単な帆の原型のようなものであろうと考
える。)では下の壺に書かれた絵はどうだろう。拡大したのが右側である。
これらの絵からは以下のような点が見て取れる。
(1).舟の最前部・最後部が高くせり上がっている。(2).櫂を用いており複数のこぎ手がいる。(3).少なく
とも丸木船ではなさそうである。(4).底が平らのようであり、こぎ手も何人か乗るとすればくり抜き丸太の上に
舷側板を乗せた準構造船とも考えられる。
この絵がそっくり立体化したような埴輪が出土している。下、左は宮崎県西都原遺跡からの舟形埴輪(東京国立博
物館蔵)、右は大阪市立博物館蔵の足付舟形埴輪である。
これらの埴輪からは船の構造がより鮮明に観察できる。大きさや細部の割合は判明しないにしても、おおよそどん
な構造だったかははっきりとしている。この船の構造が、以後我が国では中世(13・14世紀)まで主流の造船
技術となるのである。この構造は、既に中国では前漢時代の模型船に出現しており、どうやら造船技術も、稲作や
青銅器製作やその他もろもろの技術・文化の伝播と同様に大陸からもたらされたもののようである。5世紀の新羅
の舟形土器は、これらの我が国の舟形埴輪とそっくりな形をしており、当時、中国大陸、朝鮮半島と倭とがほぼ同
程度の造船技術水準にあった事が窺える。あるいは、それらの技術をもたらした根幹(ルーツ)は一つかもしれな
い。
最初の壺に書かれた船の絵をご覧頂きたい。船体中央の位置に帆が張ってあるのが見える。これをもって、古代に
も帆を使用していたと考えるのは早計である。本格的な帆の使用はずっと後の時代になってからで、それも常に帆
を持ちいて航海するようになるのは江戸時代になってからである。平安時代には、1本のマストに四角い帆を張っ
ての航海が見られるらしいが、あくまでも補助手段であった。土佐日記(平安時代)に書かれた12日間の航海
でも、帆を張ったのはたった1回である。3/4世紀にあっては、主力の推進機関はまだまだ櫓や櫂(オール)を
用いた人力なのである。
(2).大きさと性能
では大きさは一体どの位あったのだろう。埴輪からは実船の全長や寸法比は分からない。後の時代の文献や出土品
から類推するしかない。一般に、大陸へ渡航するほどの船なら相当大きい船(遣唐使船のような)でないと難しい
ような気がするが、実はそうでもないらしい。元水産庁漁船研究室主任研究官であった石井謙治氏によれば、各地
で発掘された古代の複材丸太船(準構造船の船底部分)の遺物や、残された文献(風土記)等から見て、全長30
m、幅3m、排水量30トン、漕ぎ手40人(約時速3ノット:6km/時)位の船は当時建造出来たのではない
か、と言う。しかし素人の我々が見たら、これでも相当大きな船のような気がする。漕ぎ手が40人という事は、
使節団や持賽・生口(貢物にする奴隷)等を入れると50人を越えてしまう。
これは大使節団では無かろうか? 私の考えでは、当時の訪中団はせいぜいこの半分程度(或いはそれ以下)の規
模だったのではないかと思う。石井氏は、1975年に朝鮮海峡を渡った野生号(雑誌野生時代の編集長
だった角川春樹氏の発案で、古代船を復刻し朝鮮海峡を渡ろうという趣旨の元に建造された)の設計者であるが、
この船は排水量13トン、全長16.5m、漕ぎ手14人で巡航2ノット(時速3.7km)というものであった。
テストでは2ノット出たそうだが、実際に海峡を渡った実績では平均1.7ノットだったらしい。
氏は、野生号は3世紀の船の復元では無いと強調しながらも、3ノットで大陸への航海は十分可能と言う。排水量
15トン、全長20m、漕ぎ手24人で3ノット可能であろうと言う。ちなみに、野生号は西都原出土の舟形埴輪
をモデルにしている。
かっての帯方郡(今の仁川港)から奴国(今の博多)、までを47日かかって航海した。
(3).航海ルート
当時の航海技術が、今日に比べて相当幼稚なものだった事ははっきりしている。海図も磁石も無いのであるから、目で見る実測と風力や風向による経験則、及び夜間であれば星の位置による現在地把握しかない。先述の石井氏は、まだ天文航法は無く地文航法(海岸に沿って可視物を確認しながら進む航法)だけだったろうとする。倭人伝の記載を見ても、航海の失敗は持賽のせいにしてこれを殺してしまうくらい神頼み的要素が強かったのである。
従って、出航の季節や日取りには相当慎重だったはずである。同時に航海ルートも、一番安全な、最短で海峡をわたれる航路を目指したはずである。倭人伝の記事は、帯方郡から倭に来るには、韓国の海岸線に沿って南下し狗邪韓国から対馬−壱岐−末廬国と辿っているので、倭から大陸への航行はこれと逆のルートだったのであろう。地図で見ると、今の感覚で行けば長崎あたりから一気に東シナ海を抜けていけばいいような気もするが、これはとんでもない事
なのである。先述の3ノット程の船では確実に難破するそうである。石井氏は、地乗り(文)航法が有効だった理由について以下の点を上げている。
@.常に陸上の目標で自船の位置が確認できる。(今日でも、晴れていれば対馬から韓国がぼんやりと見える。)
A.状況が悪化したらすぐ、島影、岬、湾内のような安全圏に避難できる。
B.食料や水が随時補給可能なので、貢ぎ物以外の物資をそう多く積まなくてもいい。したがって大型船の必要がない。
C.朝鮮西岸のような潮の干潮による流れの変化が激しい所では、順潮が利用できる。(但し、逆潮の場合は潮待ちの要あり。)
渡航の季節はどうだろう。人力航海の第一条件が、快晴・無風・視界良好・波穏やか、というのは常識である。当然、季節風が吹き波も高い冬場には決行しなかったはずだ。
余談になるが、大阪や東京に住む人で一度も博多に来た事が無い人の中には、博多を宮崎や鹿児島のような南九州と同じ気候だと思っている人がいる。九州というイメージがそうさせるのであろうがとんでもない。
博多の冬は、日本海の冬をイメージしてもらえば良い。風が強く、波も高く、空はどんよりと暗い。博多の冬は完全に日本海気候なのである。私も大学卒業まで博多にいたが、初めて迎えた大阪の冬で空が青いのに驚いたものだ。「冬なのにどうして青空なんだ!」と叫んだ。博多で、冬青空を見た事は一度も無い。
『三国史記』に出てくる倭の新羅襲撃は、旧暦の4〜6月に集中しており、9〜1月の間は全く見られないというから、倭では、この期間は海洋渡航禁止だったと考えて良い。実際、今日の海洋気象台の観測値を元にしても、先の条件に一番合致するのは7月である。7月が一番波が低く穏やかであり、8月に入ると荒くなり9月以降は平均値が高波となる。夏であれば、衣服もいらず万一難破しても近海であれば泳ぐ事も出来る。
対馬海流は相当の早さで流れている。平均1.3ノットと言われるこの海流に、3ノット程の古代船が航行するには大分難儀を強いられそうだが、経験によりあらかじめどう流されるかがわかっていれば問題ない。初めから流される事を想定して船首をその方角に向ければいいのである。ただ、計算外に流されてしまった場合は問題である。雨や霧で視界が利かない時ははるか日本海を漂い、運が良ければ今のロシア辺りに流れ着き、悪ければ日本海の藻屑となった事であろう。
(4).古代船 なみはや
古代復元船『なみはや』
全長 : 12.0m
幅 : 1.93m
高さ : 3.00m
(船底より)
深さ : 0.72m
重量 : 約5.0t
(丸木船部分)
漕手 : 8名
使用丸太材 :
アメリカ合衆国オレゴン州カスケード山脈エイブリ山の標高700m山中の松。(樹齢推定650年、樹高推定45m)USA Maison Bluse & Jirard社他による寄付。
命名 :
一般公募。なにわ古名で日本書紀に登場する浪速国(なみはやのくに)から。平成元年6月19日(月)から23日(金)まで大阪市役所前で一般公開された。
船名揮毫は当時の西尾大阪市長。
設計建造 :
船の復元は、古代船研究の権威・松本哲神戸商船大学教授が設計を担当、岡山県邑久郡牛窓町の船大工、草井格氏が指揮して建造を担当。平成元年1月19日起工式、5月末完成。
6月2日に進水。
昭和63年春、大阪市平野区長吉長原2丁目の高廻り(たかまわり)2号墳から舟形古墳が出土した。この古墳
は、直径21mの墳丘に1.5mの周濠を持つ5世紀前半の円墳で、長原古墳群の中でも早期に作られた古墳で
ある。発掘された舟形埴輪は全長128.5cm、幅26.5cm、高さ36cmで、埴輪の船としては全国最
大規模のものであった。
埴輪は、下部に丸太のくり抜き船を持ち、その上に舷側板を積み上げる準構造船であった。船首と船尾は高く立
ち上がる独特の形をしており、各地で発見される土器の船形とよく似ている。舷側の中央部には櫂をかける4対
の突起があり、船体内部の両端にはデッキが設けられていた。極めて精巧な構造を持っていたため歴史的な価値
が高く、この古墳から出土した他の埴輪とともに重要文化財に指定された。
大阪市、大阪市教育委員会、(財)大阪市文化財協会は、大阪市制100周年・協会創立10周年記念行事とし
てこの舟形埴輪のモデルとなった古代船を復元し、「倭の五王」時代の航海を再現する事にした。大阪から・韓
国釜山まで700kmの航海実験であった。
現在は、大阪市の難波宮跡に近い法円坂建物群(5世紀の高床式建物跡が16棟発掘された)の復元建物の隣に、
財団法人大阪市文化財協会の手で保管されているが、通常は幌テントに覆われていて見えない。月に何度か一般
公開しているので、公開日は協会に問い合わせされたい。
古代船なみはやは、平成元年7月8日出港式の後天保山岸壁を出航し、随伴船「コーラルホワイト」警備船
「のじぎく」とともに、漕行と曳航で瀬戸内海の各地に寄港しながら関門海峡を渡り、博多、呼子から壱岐・対馬
を経て朝鮮海峡を渡った。8月11日(金)韓国・釜山港に入港した。漕ぎ手は大阪市立大学ボート部のメンバー
であった。
【古代船の再現】(「古代研究」第9号:1999年5・6月号)
そこで10年前、大阪の長原高廻りから出土した舟形埴輪を10倍の大きさにし、実際に木造船として作ってみました。
現在の船の構造設計者によると、とても構造的に船にならない、ということでしたが、直径2mの丸太をカナダから
輸入し、埴輪を忠実に模することにより、全長12m、8人漕ぎの古代の準構造船を再現したのです。
この船を”なみはや”と名づけ、実際に海に浮かべて漕いでみますと、非常に安定が悪く、そのうえなかなか進みま
せん。50cmの高さの波がきただけでもバランスを失ってひっくり返りそうです。1mもの波がこようものなら漕ぎ出
すのは到底無理なことです。また喫水が浅いため少しの風でも倒れそうになるので、天理の東殿塚古墳から出土した
土器の絵のように、帆のようなものを立てるなどという事は、現実的に絶対に無理なことでした。
結局、船を安定させるため何百キロという重りを底に入れて、大学のボート部の学生に、古代の人が渡ったであろう
と思われるコースで、玄界灘を越えて韓国に向けて漕いでもらったわけですが、これが殆ど進みません。そのまま漕
いで行っても、一体何日かかれば港に到着するのか、見当がつかないほど進みません。10年たった今だから言えるの
ですが、韓国の港では、学生達が古代の赤いたすきの衣装に着替えて、ずっと8人で漕いできたかのように振る舞っ
てもらっていましたが、実のところは夜間、他の船に牽引してもらっていたのです。
【財団法人 大阪市文化財協会 調査部長 永島暉臣慎氏】
木舟で津軽海横断に成功 縄文の交流再現 asahi.com 2002.6.19
戸井漁港に到着し、拍手で迎えられる木舟=北海道戸井町で
青森県大間町と北海道戸井町の有志らが19日、縄文時代の交流を再現しようと、手作りの木舟(全長7.7メート
ル)で津軽海峡横断に成功した。青森と北海道南部は縄文時代、同じ円筒土器文化圏だったといわれ、青森市の三内
丸山遺跡や道南の遺跡からは共通の特徴を持つ土器が出土している。丸木舟での交易も推測されるという。19日は
午前5時すぎに青森の大間港を出港。漕(こ)ぎ手5チーム、計25人が交代で波をかき分け、9時間かけて約17
・5キロ離れた北海道・戸井漁港に無事、到着。海峡を渡った縄文人に思いを巡らせた。 (23:48)
手こぎボートで太平洋横断 仏人冒険家、米西海岸に到着 2005年11月02日16時14分 asahi.com
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1日、米オレゴン州クーズ湾に到着したフランス人冒険家、エマニュエル・コワンドルさん
(ジャガー・ルクルト社提供)=AP
小さな手こぎボートで北太平洋の単独無寄港横断を目指し、今年6月に千葉県銚子市を出発したフランス人冒険家の
エマニュエル・コワンドルさん(32)が1日未明、米西海岸オレゴン州のクーズベイに到着した。
約1万キロの海原を渡り、10月31日に同州沖にたどり着いた。AP通信によると、サンフランシスコに入港する
予定だったが、波が高くて近づけず、最後の約90キロは漁船に引航されて入港した。
接岸こそできなかったものの、支援者らは「129日と17時間で米国領海に入った」と述べ、成功したとしている。
91年に別のフランス人冒険家が残した134日の記録を破って「新記録を樹立した」という。
コワンドルさんは到着直前、船上から自らのウェブサイトに発信した航海日誌に「早く家族に会って硬い地面の上を
歩きたい」と書いた。
2005.09.05 17:46:15
韓国で8000年前の丸木舟が出土
<韓国南東部の慶尚南道昌寧郡にある飛鳳里(ピボンリ)遺跡から、約8000年前の丸木舟の一部が出土。>
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8千年前の丸木舟、韓国で出土…世界最古の可能性も
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【ソウル=中村勇一郎】韓国の国立金海博物館は7日までに、韓国南東部の慶尚南道昌寧郡にある飛鳳里(ピボンリ)
遺跡から、8000年前の新石器時代のものとみられる丸木舟が出土したと発表した。
福井県の鳥浜貝塚で見つかった丸木舟よりも2000年以上古いという。韓国メディアは、世界最古の可能性もある、
と伝えている。
丸木舟は松の木で造られ、長さが3メートル10、幅約60センチ、深さ約20センチ。へさき部分はV字形で、1、
2人が乗れる程度の大きさという。出土した地層から新石器時代初期のものと推定される。
飛鳳里遺跡では、これまでに新石器時代のドングリの貯蔵庫など集落があったことを示す遺跡が発掘されている。
同博物館の任鶴鐘(イム・ハクジョン)室長は「新石器時代にこの付近で高い技術を持った人たちが海と親しみなが
ら生活していたことを示している」と話している。 (読売新聞) - 2005年9月7日14時38分更新
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国内最古推定「新石器時代の丸木舟」が出土
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新石器時代のものと推定される丸木舟が出土した。
国立金海(キムヘ)博物館(館長、金正完)は5日、慶尚南道昌寧郡(キョンサンナムド・チャンニョングン)ビボ
ン里にある新石器時代の遺跡から丸木舟が見つかった、と発表した。
発掘団は船が出土した堆積層からみて「制作年代は約8000年前」と明らかにした。 科学的な年代測定で新石器草
創期のものと確認された場合、この船は国内最古となる。
船は松の木を掘って作られている。 大きさは、残っている船体から推定して最大長さ310センチ、幅60センチ、
厚さ2.0〜5.0センチ、深さ約20センチ。 1〜2人が乗れる規模だ。
イム・ハクジョン学芸研究室長は「日本で最も古い船として知られる鳥浜1号や伊木力遺跡出土品よりも2000年以
上前のものと推定される」とし、「新石器時代の生活史と船舶研究の画期的な資料が確保された」と評価した。
鄭在淑(チョン・ジェスック)記者
邪馬台国大研究ー・ホームページ / 科学する邪馬台国 / 古代の船と航海ルート