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科学する邪馬台国  PCで解く弥生時代の皆既日食

古事記・日本書紀が記す、天照大神天の岩戸隠れの物語が一体何を書き残しているのかについては、古来よりさまざまな説がある。

(1).死亡説・・・・・天照大神の死去を意味しているという説。哲学者和辻哲郎が紹介し、国文学者池田弥三郎がこの説を説く。
(2).火山説・・・・・火山灰で闇夜の如く空が暗くなったという説。物理学者であり、随筆家としても著名な寺田寅彦が説いた。
(3).冬至説・・・・・冬至には太陽の光が最も弱くなる事から冬至との関係を説いた説。民俗学者の折口信夫がこの説。    そして、
(4).日食説・・・・・である。

日食説にも色々な内容がある。例えば東南アジア、インドネシアやバリ島などのミクロネシア群島に伝わる、世の中全体を覆い隠す程の大規模な日食神話。 この話が我が国や韓国に伝わったものだという説などがある。実際に起きた日食現象が神話になって残ったものだとする説は、江戸時代中期の儒学者荻生素来(おぎゅうそらい:1666〜1728)の書いた 随筆『南留別志』(なるべし)の中に、「日の神の天磐戸にこもりたまひしといふは日食の事なり。諸神の神楽を奏せしといふは日食を救ふわざなるべし。」という文章があり、これが日食説の開祖という事らしい。 現代でも多くの人達がこの説を信奉しており、作家の井沢元彦なども『逆説の日本史』シリーズの中でこの説を唱えている。産能大学の安本美典教授もこの説を強力に押している。
ここで取り上げようとするのは、実際に天照大神が生きていた時代に、ほんとに日食が起きたのかどうかの検証である。 もし実際に起きていれば、古事記・日本書紀の話は現実の自然現象を伝えたものである可能性が高くなり、ひいては記紀の信憑性も高くなるはずである。

AD1年〜600年間に本州・四国・九州を通る中心食
オッポルツェル
日食番号
食の種類AD年月日中心食の経路
2885皆既食1年6月10日午後に奥州北部を横断
2986金環皆既食41年4月19日午後に九州南方海上を横断
3017金環皆既食53年3月9日午前に四国・中国を斜断
3142金環食103年6月22日午後に九州南方海上を横断
3248金環食146年8月25日午前に中国・近畿を横断
3267皆既食154年9月25日午前に本州中部を斜断
3271皆既食156年3月9日日の出頃奥州から始まる
3276皆既食158年7月13日日没頃中国・四国に達する
3324金環皆既食179年5月24日午後に奥州北部を横断
3372金環食200年9月26日午前に奥州北部を横断
3478皆既食247年3月24日日没頃九州西方海上に達す
3481皆既食248年9月5日早朝に能登から奥州へ横断
3496金環食254年10月29日早朝に奥州を斜断
3538皆既食273年5月4日夕方に本州中部を斜断
3600皆既食301年4月25日日没頃本州北部に達する
3603皆既食302年10月8日早朝に九州南方海上を横断
3616金環食308年11月30日早朝に九州南方海上を斜断
3658皆既食328年5月26日早朝に近畿と中部を斜断
3785皆既食384年10月31日午前に奥州を斜断
3944皆既食454年8月10日午前に九州を横断
3979金環食469年10月21日午後に奥州を斜断
4003金環食479年4月8日日没頃本州中部を横断
4107皆既食522年6月10日午前に能登・奥州を横断
4235金環食572年9月23日午後に奥州を斜断
4238金環食574年3月9日午前に近畿から奥州にかけて斜断


『食宝典』という書物がある。これは計算で、過去・現代・未来に起こった或いは起きる可能性のある日食・月食を求めて、世界地図(または日本地図)上にその軌跡を描いたものである。今から100年ほど前の、オーストリアの天文学者 T・R・オッポルツェル(1841〜1886)が完成した『食宝典』や、元東京商船大学教授で古天文学者渡辺敏夫博士(1905〜)の『日本・朝鮮・中国−日食月食宝典』、英国のE・T・スティブンソン、A・W・ホールデン共著の『東アジアの歴史的日食マップ集』等がある。 オッポルツェルの計算は、全て手計算で行わねばならなかったため省略が多く、後の時代の一部で精度に問題がある。しかし1番から8000番までの日食値は有効で、現在でも用いられている。今日では、PC上で動く幾つかの天文ソフトが市販されており、天文マニアなら誰でも簡単に日食マップを作成・プリントできるようになった。

古天文学という天文学の新しい分野を創設した斉藤国治氏(1913〜)は、これらの『食宝典』を元に紀元後7世紀位までの日食について計算している。 斉藤氏は元東京大学教授で理学博士、東京天文台に長く勤務された天文学の専門家である。天文関係の著書も多い。『星の古記録』(岩波新書)、『飛鳥時代の天文学』(河出書房新社)、 『古天文学−パソコンによる計算と演習』(恒星社)、『国史・国文に現れる星の記録の検証』(雄山閣)、などがある。
博士の出した結論によれば、紀元から推古天皇の代までの間に起きた日食・金環食で、本州・四国・九州にかかる皆既日食は25回あった。その中に、卑弥呼が死んだとされる248年9月5日の日食があった。博士は、これが卑弥呼=天照大神が死んだ後神々が哀惜するなかに起きた日食で、人々は 畏れおののき、又後継者問題も紛糾していたので、日食の解決と壱與の選出とで再び世の中が明るくなった、この事が岩戸隠れの神話として残ったのであろう、と言う。

博士の検証方法は以下のようなものである。@.まず、オッポルツェルの日食表・マップを参考に右の表を作成した。
600年間に25例であるから食の発生頻度は24年に1回の割合になるが、部分食はもっとあったはずと言う。又、表からも分かるように、規則正しく24年に1回の周期で中心食が起きる訳ではない。2年続けて起きている例も2例あり、1年飛びの例も3つある。 A.更に卑弥呼の死んだ年を魏志倭人伝に求め、正始8年(AD247年)または正始9年(248年)に起こった日食を特定し、この2つの日食についてその運動をPCソフトを用いて図示した。以下がその図である。




     



この作図は、USA Zephyr Service社のTOTAL Eclipseというソフトを用いてのものであるが、図1は、AD247年日食の経路図。図2はAD248年日食の経路図である。 図1は日入帯食であり、九州西方海上で皆既食甚が終わったようになっている。真中の皆既帯という部分が皆既日食が観察できる地域である。皆既帯の南北には広い範囲で部分食が観察でき北限と南限が示されている。 図2は日出帯食であり朝鮮半島東側から食甚日食が始まっている。そして能登半島と奥州を横断している事が見てとれる。
斉藤氏は、これが絶対のものではないと、コメントしている。現代の値を用いればこのソフトはほぼ正確に作図するが、2000年前の月の運動や地球の自転速度などが研究者によって異なり、微妙にズレが生じると言っている。しかし、その誤差は極めて僅かであり ほぼ似たような図になりそうである。
と言う事は、卑弥呼の死の前後に皆既日食はあったのである。博士は更に、福岡と奈良でのこの日食の見え具合についても考察し、図1の場合福岡の方が全皆既日食となって壮絶な日の入りであったろうと述べ、奈良ではそれほどでもないとしている。 図2は、福岡、奈良ともに同じくらいの見え具合だそうである。

下の図は、歴史作家で古代史研究家の加藤真司氏がアスキー社の天文ソフト『ステラ・ナビゲーター』を使って描いた、西暦247年3月24日の福岡と奈良で起きた日食のシュミレーション画面である。(『古事記が明かす邪馬台国の謎』学研歴史群像新書) 斉藤氏もこの考察に触れ、自分の研究結果と一致すると述べている。



☆西暦247年3月24日の福岡☆            ☆西暦247年3月24日の奈良☆



このソフトは、パソコンショップに行けば誰でも買える。20,000円程である。



毎日新聞の1995年7月29日の朝刊(大阪版)と8月5日朝刊(同)に、編集委員の岡本健一氏がこれら一連の関連記事を載せている。それによればこの二人の研究結果を、安本美典教授と東京理科大学勤務の橘高章(きったかあきら)氏 が検証し、珍しい皆既日食が二年続けて起こった事、又奈良ではこの日食は見えず北九州地方で人々に強烈な印象を与えた事が立証された、という安本教授の話を紹介している。


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