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科学する邪馬台国 銅製品古代の製造技術


	弥生時代中期の北九州や近畿の遺跡からは、青銅製品の鋳型が多数出土している。その鋳物工場(?)跡と思われる遺跡
	も相次いで発見されている。原料の鉛や銅は大陸からの輸入であったが、青銅器製品を日本で生産していた事は間違いな
	い。では古代の人々はどんな方法で青銅製品を製作していたのだろう。実験考古学と呼ばれる分野で検証を続ける人達が
	いるが、過去何人もの人達がこの実験に挑んでいる。その結果判明した、古代の青銅製品製作の概要は以下のようになる。
	(1).鋳型は現在、土型と石のものしか発見されていないが、土型の遺跡は実際に用いられたとは思えない様相だし、
	石の鋳型だけでは製作が非常に困難な製品もある。従って現在でも用いられている砂型や燃焼土型(いわば土器)での製
	作も行われていたと推測できるが、これらの鋳型は遺物として現存していない。もしかしたら銅矛などを、我々現代人が
	もう忘れ去ってしまった方法で石の鋳型だけで製作した可能性も否定できない。

	(2).鋳型の原料となる石は何でもいいという訳ではない。ただ石を彫り、それに溶けた銅を流し込んでも石は破裂し
	てしまう。石に含まれた水分の結晶が水蒸気爆発を起こすからである。その為、鋳型の石はあらかじめ加熱して水分を取
	り除いておかなければならない。薪や木炭で 1,000度近くまで加熱し、石と言うよりセラミック状態にしたものを冷却す
	る。そうしてはじめて鋳型として使用できる。又、石の種類も限られる。福岡、佐賀の両県から出土した鋳型の多くは、
	アプライトと呼ばれる石であるが、これは花崗岩のなかに多く含まれる石である。しかし、工場跡と思われる地域からこ
	れらの石は見つからないのである。
	福岡・佐賀の県境には背振山地と呼ばれる山塊があり、花崗岩が多いそうだが鋳型となる石は見つかっていない。古代の
	冶金家たちも鋳型になる石を求めて各地を旅したのかもしれない。青銅器の鋳型は、九州よりも近畿地方において多く出
	土する。この事実は、青銅器を日本で生産できるようになった時期には、すでに権勢の実権は近畿に移っていた事を窺わ
	せる。或いは、青銅器制作者達の集団は、九州を素通りして直接近畿に根付いたのであろうか。


(3).古代の銅製品製作技術は、現代の方法と比べてもそんなに見劣りがする訳ではない。むしろ、高度な技術的基盤に支えられていた。その源流が大陸にあるのはほぼ間違いないが、現在我が国に残る銅製品の内、どれが日本で製造された物かは今のところ特定できない。前述の鉛同位体元素による測定でも、 判明するのは、その材料である銅や鉛の年代・原産地のみであって、それを用いた製品が舶来品なのか邦製なのか判断するのは不可能である。三角縁神獣鏡が、国産か否かを巡って論争が絶えないのはその為である。

過去幾つかの鋳造所で、研究機関や大学等の依頼で、古代銅製品の製作復元実験が行われている。1年に1度位、これらの実験がTV放映されたりする。また、博物館やその他の展示品のレプリカ作成のため、現代でも銅鐸や銅矛などが製作され続けている。最近の歴史雑誌では、これらのレプリカを通信販売で直接購入できるし、 大きな博物館でも販売を斡旋している。(ただし、恐ろしく高価。)






それでは、現代におけるこれらのレプリカ製作過程を見てみよう。おそらく古代においても同じような行程で青銅器は製作されていたはずだ。製作するのは銅剣である。

A.まず鋳型を製作する。
用意した石材(石英)を藁灰で焼き、冷めた後砥石で表面を滑らかに磨く。次に長さ30cmの銅剣の輪郭を描き、鉄製ノミで慎重に彫っていく(写真左)。
上下二つの鋳型を作成したら、ズレがないように慎重に合わせ棒と縄で縛る。溶けた青銅が流し込めるよう立てて据える。

B.溶けた青銅を流し込む。
この銅剣製作の為に用いた青銅材料は右側の写真に見られるように、銅、スズ、亜鉛である。
これを溶解し、混ざり合った頃ルツボで掬って鋳型に流し込む(写真左下)。
流し込む時間はアッという間、10秒程度である。流し込んで数分たつともう固まっているが、まだ真っ赤である。

C.鋳型を開ける。
鋳型をあけるとまだ熱気ただよう銅剣がバリのついたまま姿をあらわす。


取り出された銅剣は、このまま数時間放置し自然に冷却するのを待つ。

D.仕上げ・研磨
ここからの作業は、現代と古代では時間的に相当の開きがあると思われる。このレプリカ製作は、古代出雲文化展に呼応して出雲で行われたものをモデルにしているが、仕上げに26時間を要している。まずバリを落とし荒削り研磨と続くわけだが、現代にはグラインダーや各種ヤスリがある。それでも1日以上かかるのである。弥生時代に一体どのような工具を用いてこれらの作業を行っていたのであろうか?

	表面の凸凹を滑らかにするのには、現代でも相当の注意と忍耐を要する。輝く黄金色の完成品を生み出すまでに、相当の
	日数を要したであろう事は想像に難くない。
	東京芸術大学の戸津圭介教授が行った銅剣製作実験の結果によると、用いる金属(銅・錫・鉛)の混合比を変化させる事
	によって完成品の強度や輝きが異なる事が判明している。その実験に先立ち教授が、神庭荒神谷遺跡から出土した銅剣の
	1本に穴を開け金属資料を採取したところ、表面は青く錆びていたが内部は金色に輝いていたそうである。
	完成品はまさしく神々しい輝きを持っていたのだ。


	上左の鋳型は、大阪府茨木市から出土。中央は流水紋銅鐸の鋳型で復元製作したもの。まだ仕上げ前だが、製作直後はこ
	のような輝きを持っている。上右の写真は出雲の八雲立つ風土記の丘に展示してある復元銅鐸と、それを製作するのに用
	いられた材料。		(写真提供:八雲立つ風土記の丘資料館)

        

出土している様々な青銅製品・銅製品・ガラス製品の鋳型。





(写真提供:大阪府立弥生文化博物館)





	以下の写真は、滋賀県野洲の大岩山古墳から出土した、日本最大の銅鐸を復元制作した時の作業である。現代でもこんな
	大作業を、古代のろくろく道具もない時代によく制作できたものだ。この復元された銅鐸は、大阪府立弥生文化博物館に
	展示されている。





 



 



 










	弥生人は青銅器を用いてさまざまな祭祀具を造った。銅鐸もその一つで、これまでに近畿地方を中心に500個余りが見
	つかっている。銅鐸は本来、鈕(ちゅう)にひもを通し、つり下げて用いていたようである。原型は大陸の動物の首に掛
	ける鈴だと私は思うのだが、日本へ伝わってきて、その本来の目的とは違う用途を与えられたようだ。
	身の内側に突帯(とったい)が作られている事や、舌(ぜつ)と呼ばれる棒が一緒に出土した例もあることから、身を揺
	すって中に吊した舌が音を立てるのを、何らかの目的に使用していたものと思われる。鈕に注目すると、時期による銅鐸
	の変遷がわかる。
	最古のものは断面が菱形で、これを菱環鈕(りょうかんちゅう)と言う。その次に現れる形式のものが、菱環の外側に平
	らな部分を取り付けた鈕で、これを外縁付鈕(がいえんつきちゅう)と呼ぶ。さらに新しくなると、菱環の外側にも内側
	にも平らな部分を付け加えるようになり、これを扁平鈕(へんぺいちゅう)と言う。最後に出現するのが鈕の外周や身を
	飾る文様帯(もんようたい)に、突出した線を付け加えたもので、これを突線鈕(とっせんちゅう)という。弥生文化博
	物館が復元した「平成の銅鐸」は、滋賀県出土の突線鈕式銅鐸を現代の技術で再現したものである。つまり、時期がくだ
	るにつれて鈕は「吊り下げる」という本来の役割には相応しくない形になり、同時に鋸歯文(きょしもん)や綾杉文(あ
	やすぎもん)で飾られるようになっていく。こうした変化は身についても同様で、最初は高さ20cm程度だったものが
	次第に巨大化し、最後には1mを超えるまでになる。表面は文様や絵画で華やかに飾られ、視覚に訴えるものへと変化し
	ていく。国宝に指定されている、神戸市桜ヶ丘4号銅鐸には、トンボやカマキリ、弓を持った人物などの絵画が描かれて
	おり、その絵画を巡る研究も盛んである。


	
	銅鐸は墓や住居跡から出土することはなく、その殆どが、集落を眼下に望む丘陵の斜面や、村から離れた山中や小高い丘
	に埋められた形で出土する。これを巡っての見解は微妙である。この現象をどう解釈するかで、その人の古代史観が決ま
	るような部分があるからである。すなわち、巷間唱えられている説を見てみると、(1).祭り用に保管。・・普段は地
	中に埋めておき、特別な祭りの時だけ掘り出して使用した。(2).依代(よりしろ)に使用。・・集落や部族に何か異
	変や変事が起きたとき、部族の身代わりとして地中に埋められた。(3).隠匿説。・・・何か変事に際してあわただし
	く地中に隠した、となる。他にも宇宙人とのコンタクト道具だとか、古代のオーケストラだとか、トンデモ説は山ほどあ
	るが、銅鐸の出土場所をめぐる考察に関しては、ほぼ上記の(1)〜(3)に集約されると言って良い。邪馬台国近畿説
	を唱える人たちは、(1).(2).はしきりに強調するが、(3).についてはあまり言及しない。これを認めると、
	近畿圏の弥生人達は、外部勢力に攻め込まれ、あわてて銅鐸を山中や人里離れた場所に隠したという事を認めなければな
	らなくなるからである。つまり、おそらくは西から来た新興勢力に、銅鐸を信奉していた近畿弥生人は滅ぼされてしまっ
	たという事になるのである。「邪馬台国東遷説」や「神武東征」を認めねばならなくなる。
	しかし、これまでもこのHPのアチコチで考察してきたように、(3).の説が、一番信憑性が高いのは明らかである。
	銅鐸は、それを信仰しない新しい集団の到来・支配により、大急ぎで隠匿されたと考えるべきである。





銅製品古代の製造技術シミュレーション


	佐賀県文化財課では、九州産業大学九州産業高校と協力して銅剣の鋳造実験を行った。鋳物砂の鋳型を用い、蓋地の鋳型
	を組み合わせてその隙間に合金を流し込んだもの。写真は佐賀県教育委員会の提供で、この模様は IPA「教育用画像素材
	集サイト」に掲載されており、この写真もそのサイトから転載した。
	「教育用画像素材集サイト」

 
	
	【原料の溶解】この実験では銅剣の鋳型を石で作ること	【溶解後の原料】青銅は主に銅、錫、鉛からなる合金で
	 がかなり難しいため、鋳型が容易に製作できる鋳物砂を	 ある。本来の青銅器の色は白金色、または金色に近い色
	 用いて行った。青銅は主に銅と錫、鉛からなる合金であ	 で、我々が普段見る青銅色は表面に浮かんだ錆の色であ
	 る。熱した炉にルツボを置き、その内部に青銅の材料で	 る。写真は青銅器の鋳型に流し込む金属を溶解している
	 ある銅、錫、鉛を溶かす。				 様子である。

 
	
	【銅剣の鋳型づくり】弥生時代、銅剣の鋳型は石で作ら	【鋳物砂の箱詰め】写真は鋳物砂を箱に詰めている様子
	 れていたが、実験では比較的容易に製作できる鋳物砂が	 である。箱の底には青銅器の原型が埋め込まれている。
	 用いられた。					 

 
	
	【鋳物砂の転圧】 写真は箱に詰めた鋳物砂を転圧してい	【鋳型の反転】写真は鋳型を反転している様子である。
	 る様子である。					 反転後の鋳型の上面には青銅器の原型が埋め込まれて
								 いる。
 
		
	【鋳型表面の整形】鋳型を反転後、上面の板を取り除き、	 【離型剤の塗布】鋳造では、同じ方法で作られた2つの
	 鋳型を丁寧に整形する。				  鋳型を貼り合わせ、内部の空洞に溶けた金属を流し込む
								  が、写真は合わせ面に離型剤を塗布している様子である。


 
	
	【湯道の作成】鋳造では、同じ方法で作られた2つ		 【原型の取り外し】写真は片方の鋳型から青銅器の 
	 の鋳型を貼り合わせ、内部の空洞に溶けた金属を流	  原型を取り外している様子である。	
	 し込む。写真は金属を流し込む通路となる湯道を、
	 丸棒を用いて作成している様子である。

 

	
	【鋳型片面】鋳造では2つの鋳型を貼り合わせ内部		 【鋳型の貼り合わせ】写真は製作した鋳型を組み合わ
	 の空洞に溶けた金属を流し込む。写真は片方の鋳型	  せている様子である。ただし上側の鋳型には金属を流
	 から銅剣の原型を取り外した様子である。		  し込むための湯道が設けられている。

 
	
	【鋳型の完成】鋳造では2つの鋳型を貼り合わせ、		 【銅の流し込み】写真は完成した鋳型におもりを乗せて
	 内部の空洞に溶けた金属を流し込む。写真は完成し	  湯道(上部の穴)に溶かした金属を流し込む様子である。
	 た2組の鋳型で、上部の穴は金属を流し込むための
	 湯道である。

 
	
	【銅の流し込み直後】完成した鋳型におもりを乗せ		 【鋳型の取り外し】鋳型に溶けた金属を流し込み、十分
	 て、鋳型の湯道(上部の穴)に溶かした金属を流し	  に冷却した後、貼り合わせた2つの鋳型を取り外す。
	 込み、冷えるのを待つ。

 
	
	【鋳型を取り外した直後】鋳造では2つの鋳型を貼		 【鋳型から取り出した銅剣】写真は佐賀県文化財課と九
	 り合わせ、内部の空洞に溶けた金属を流し込む。写	  州産業大学九州産業高校が協力して行った鋳造実験によ
	 真は、青銅器の鋳造後に取り外された2つの鋳型で	  って製作された銅剣である。
	 ある。

 
	
	【仕上げの研磨】写真は鋳型から取り出した銅剣を		 【銅剣の完成】鋳造された銅剣は金色(真鍮色)に仕上
	 研磨している様子である。				  がった。
		


	御覧頂いた上記の作業は、道具・用具が揃った現代の作業である。鉄具もなく、動力を用いた研磨機も当然無い。遥か2
	千年前の人々が、一体どれだけの労働力を費やしてこれらの金属器を製作したのだろうと考えると、おそろしく大がかり
	な一大プロジェクトだったのではないかという気がする。また、この作業に見られる銅剣や巴型銅器などは比較的製作が
	容易な気がするが、例えば厚みが数ミリしかないような銅鐸や、御覧頂いたような巨大な銅鐸の製作には、労力・財力は
	もちろんだが、高い技術力を必要としたに違いない。当時の匠たちは、現代でもどうしてあの時代にこんなものがと思わ
	れるような製作技術を持っていたのである。その技術力の分析については以下のレポートを参照されたい。









	
	平成16年7月23日(金)に、NHK大阪放送局が製作した、「ふるさと発ドキュメント(関西地域向け)『“卑弥呼の鏡”
	に挑む』▽東大阪の職人が挑む鏡の謎」という番組が放映された。(総合TV午後7:30〜7:55)

 

	
	この放送があることは、我が歴史倶楽部の栗本さんが会員専用掲示板に書いてくれたのでかろうじて見ることが出来たの
	だが、ここに登場する上田合金株式会社の上田さんという人は、以前から古代の青銅製品復元で何度かTVや雑誌に登場
	していて私はよく知っていた。以前は銅鐸の復元を試みていて、確か製品を販売もしていたのではないかと思うが、えら
	く高かった(数十万円?)ような記憶がある。今回は大学教授の依頼で三角縁神獣鏡の復元に挑戦している。

 

 

	
	最初は、前項の佐賀県文化財課の実験と同じく、容易に製作できる鋳物砂(生型:なまがた)で鋳型が作られた。しかし
	見て頂くように、仏の顔、鋸歯文(きょしもん)と呼ばれる鏡の周辺のギザギザが不明瞭で、これは型をとった現物の鏡
	を砂から離す時にどうしても型がすこし壊れてしまう事がわかった。

 

 

 

	
	そこで今度は粘土を直接鏡に押しつけて型を取る方法で鋳型(真土型:まねがた)が作られた。

 

	
	さらに、鋸歯文のギザギザを鮮明にするため、その部分だけ特別にコテを当てて深さを整えた。

 

 

 

 



	
	鋸歯文はくっきりと再現できたが、仏の顔の部分の不鮮明さは変わらなかった。2000年の昔に、いったいどうやって
	鋳型を作ったのかという疑問は残った。形の大雑把な銅剣や銅矛などはいざしらず、鏡や複雑な銅鐸の文様などを、石の
	鋳型にどうやって刻んでいったのか。今のところ、古代人の知恵には現代の匠工たちも一目置いているといったところか。

 

 

	
	上田さんは、近所の工業高校の実習も引き受けている。その高校生達が鏡の表面を磨く。ピカピカに磨かれた鏡は、古代
	と同様卑弥呼の顔を綺麗に映し出すことだろう。

 







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