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科学する邪馬台国
青銅器・年代測定/産地推定の最新方法





銅そのものから年代や産地を特定する方法は今のところまだない。しかし古代の青銅製品はまず間違いなく鉛を含んでおり、この鉛から年代や生産地を割り出す事が出来る。鉛(Pb)は4つの質量(204,206,207,208)をもつ原子の混合体である。 つまり、鉛という同じ元素(Pb)に属するが質量の違う原子が4種類ある。これを同位体と呼び、質量数の変化が無く一定なものを安定同位体と呼ぶ。鉛は4つの安定同位体から成る。太陽系が誕生した46億年前頃は、鉛に占める安定同位体の比率は一定であった。 しかし現在、質量数204の鉛を除く3つの原子は、46億年前より少し増加しているのである。ウラン(U)やトリウム(Th)などの元素はその放射性原子を放出する事によって、長い間に質量数206,207,208の鉛になる。従って、ある青銅製品の中の鉛の生成同位体比(混合比率)を 調べる事によって、何処で産出した鉛なのかがおおよそ分かる。例えば、ある鉱山で産出する鉛の同位体比(混合比率)は、その鉛がもともと含まれている鉱床の年齢と、鉱床内の鉛、ウラン、トリウムの含有比率によって決める事が出来る。換言すれば、鉛の同位体比は、 各鉱山によって決まった固有値を持っているという訳である。
この方法、古代の青銅製品に含まれる鉛の同位体比を調べる事によってどの鉱山から出た鉛なのかがわかり、ひいては青銅器の製造地も判明する可能性がある。この原理に基づく手法は、第二次大戦後地球科学の分野で岩石の組成や年代測定に用いられたのが始まりである。質量分析器 なるものも考案された。この手法を考古学に応用したのは、米国のコーニング・ガラス博物館のブリル博士であった。1963年の事である。日本では、名古屋大学の山崎一雄名誉教授が正倉院の鉛ガラスの研究に用い、以後幾つかの研究機関で古代史研究に応用されている。

1984年7月、出雲平野の南部、島根県簸川郡斐川町では宍道湖南部農道の建設計画に伴う事前調査が行われていた。大規模な開発の前には必ず行われるもので、予定ルートの中に遺跡が含まれていないかどうか数カ所のトレンチ(小さな範囲に区切って発掘する試掘溝)を掘るものである。 斐川町の神庭荒神谷(かんばこうじんだに)のトレンチでも発掘作業が行われていたが、どのトレンチでもさしたる成果が無く調査員もここも何も出ないだろうと思っていた。ところが、林作業員の次の一言で、この谷は日本の考古学会の常識を大きく覆す最重要遺跡となった。 「先生!何か変なもんが出ました。」 この変なもんこそ、ドッと塊で発見された358本の銅剣の最初の1本であった。翌年(1985年7月)、すぐ近くから6個の銅鐸、16本の銅矛が発見される。
島根県は、各大学や国立の研究所に協力を仰ぎこの遺跡の本格的な発掘に取りかかったが、東京国立文化財研究所の保存科学部長であった馬淵久夫氏は、鉛同位体比法による青銅器の産地推定に取り組んだ。
その結果は次のようなものであった。B、C,D列の銅剣に含まれる鉛はその全てが中国の華北地方のものと推定できる。A列34本の内1本の銅剣のみが、朝鮮半島の鉛であった。A列の10本の銅剣はこのどちらにも入らない、即ち華北と朝鮮の鉛が混ざったものと考えられる。 鉛も銅も同じ産地のものを使用したと考えると、これらの銅剣は二つの系列の材料により製造されたという事になる。
馬淵氏は、それまでにも日本の青銅製品約2,500点について同様の調査を行い、一連の研究成果を論文・著作に発表されている(『考古学のための化学10章』東京大学出版会等)。その結論から言うと、我が国弥生時代の青銅器の鉛原材料供給地は、初期に朝鮮半島から供給され、やがて中国華北地方に移る。 末期になると、華北の中でもある一定の鉱山が日本への鉛供給地になるという。華中や華南の鉛は古墳時代に入ってからで、この頃になると華北産の鉛は全く姿を消す。ちなみに、日本産の鉛が検出された最古の銅製品は、奈良国立文化財研究所にある7世紀半ばの製品と考えられている漏刻(ろうこく: 水時計)に使われている銅管である。

荒神谷銅剣のA列の1本だけに、古い朝鮮半島の鉛が使われている事について馬淵氏はこう述べている。「朝鮮半島の銅で作られた1本は、他を作るためのモデルだったと考えたらどうでしょうか?九州から出雲へ持ち込まれ、大量に生産するためのオリジナル原版だったと言ってもいいでしょう。全ての 製造が終わった後一緒にして埋めたと言う訳です。」更に馬淵氏は、「製造順は、D,C,B,Aの順番で、A列だけの銅剣に朝鮮産と華北産の鉛が混ざった形跡があるのは、製造の最終段階で材料不足をきたし、前からあった銅製品を溶かして新しい材料に混ぜて使ったため、と考えると説明が付きます。」と言う。 又、これらの銅剣は使用された痕跡が無く、測定した鉛同位体比と銅剣の並び方にわずかながら一定の法則性が認められる事から、銅剣は荒神谷近くで製造され貯蔵されたものではないか、と言う。

馬淵氏らの研究は銅鐸・銅矛・鏡など古代の銅製品全般に渡っている。一連の研究から、これらの青銅製品についても荒神谷銅剣と同じパターンがある事が指摘されている。即ち、鉛は朝鮮半島 → 中国華北 → 中国華中・華南という地域から年代順に材料として供給されてきた、と言える。 青銅器では、銅と並びスズもその量の変化が鉛同位体比の変化と相関する事がわかっており、これらの成果からも我が国古代の青銅製品は、その原材料産出地と製造年代がほぼ特定できる、と考えられる。



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