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内田遺跡 発掘調査現場 2012.2.4(土)大阪府豊中市桜の町



	新聞記事を読んで、「ヘェー豊中にも縄文遺跡があったのか」という驚きと、千里丘陵が大昔どうなっていたのかを知りたくて、現地
	説明会に出かけてきた。飛鳥や有名どころの遺跡と違って、今日の説明会会場には数人しかおらず、またみんな専門家たちばっかりの
	ようだった。
	(後で教委の記事を読むと「今回の説明会には135人の見学者があり」と書いてあるので、朝一番で来た見学者が多かったのだろう。
	ちなみに私は午後遅く来たので、もう説明会としては終了していたのだ。)

	豊中市・内田遺跡 縄文後期の集落と古墳時代後期の須恵器生産場所を確認

	豊中市桜の町の内田遺跡で、縄文時代後期の土坑2基と古墳時代後期の竪穴住居2棟、掘立柱建物4棟が見つかった。内田遺跡(東西
	400m、南北350m)は古墳時代後期〜終末期(6世紀後半〜7世紀初頭)に千里川の河岸段丘上を中心とした集落遺跡。発見さ
	れた土坑2基はごみを廃棄するために掘られた穴で、一定期間居住した集落跡であると推定され、縄文時代後期には同遺跡周辺で集落
	が営まれていたことが確実となったとしている。 同市内では、野畑遺跡(西緑丘)以外に集落として特定された遺跡がなかった。
	古墳時代の須恵器生産に関わると考えられる建物群が見つかり、短期間に多くの建物が立ち並ぶ集落であったことが確認された。昭和
	61年の初調査では、同遺跡周辺から古墳時代の建物群と須恵器を廃棄した土坑が多く発見されていた。同市内の5世紀〜6世紀に須恵
	器の生産や流通に大きく関与していた新免遺跡・本町遺跡の集落が、6世紀後半に千里川の上流に生産場所を拡大・移動したと考えら
	れ、これに関連する遺跡とみられている。現地説明会は、2月4日(土)午前10時〜午後3時に開かれる。

	[参考:1月30日千里タイムズ、2月2日産経新聞]





千里中央から大阪モノレールに乗って「蛍池」で降りる。この駅で阪急宝塚線と連絡している。




	電話で豊中市教育委員会の人に聞いたとおり、モノレールに沿って大阪側へ戻る。当初、上左の案内に沿って歩いていたら住宅販売の
	現地へ案内されて、桜の町とはえらくかけ離れた処へ行ってしまい慌てた。大分うろうろしていたら、やっと上右の案内にたどりつき
	ホッと一安心。しかし住宅街のど真ん中でわかりにくい処に遺跡はあった。



マンション建設に先立つ発掘調査で「内田遺跡」は出土した。「−様」には個人の名前が入っていたので、個人の集合住宅なのだろう。




	豊中市は、大阪市に接する典型的なベッドタウンとして、昭和30年代から北東部の千里ニュータウンの開発が急速に進められた。市域
	は、阪急宝塚線豊中駅・岡町駅を中心とする旧豊中地域、千里ニュータウン、住工混在する南部の庄内・豊南地域により形成され、ほ
	ぼ全域が市街地である。地形的には、北部が高く南部に行くに従って低地になっており、高速道路、大阪国際空港の玄関、大阪モノレ
	ール、阪急電鉄宝塚線などが、大阪府の結節点の役割を果たしている。また産業は、急激な人口の増加にともない、商業、サービスを
	中心としている。
	明治22年4月、地方自治制が施行され、摂津国豊島郡新免村、南轟木村、山ノ上村、桜塚村、岡町村の5ヵ村を合併し、豊中村になった。
	豊島郡の中央にあることから「豊中」と名付けられたという。



遺跡全景、東西400m、南北350mの区域。

	豊中市に人が住み始めたのは旧石器時代といわれる。野畑春日町遺跡、野畑遺跡、内田遺跡、新免遺跡、服部遺跡、穂積遺跡、原田西
	遺跡、柴原遺跡、蛍池北(宮の前)遺跡、などの先史遺跡や、桜塚を始めとする古墳群も幾つか分布しており、かつてこの地域が古代か
	らよく開発されていたことを物語る。前面に低地をひかえた水の得やすい洪積台地の末端は、自然発生的な集落地に選ばれ、海抜10
	m以下の低地が水田地帯へ発展したのは弥生時代後期以降のことである。
	刀根山(海抜48m)丘陵南端の大阪層群の地層から、大きな象の牙の化石が1本出土し、日本がアジア大陸と地続きだった第2間氷
	期から第3間氷期にかけて、南方地域から哺乳動物とともに、人類も移住したことが知られているが、豊中市域に人間が住みはじめた
	のは石器を使った旧石器時代以降とされている。紀元前4〜3世紀に大陸から伝わった、金属器を伴う農耕文化はこの地方にも及び、
	急速に発展し人口もふえ、多数の集落ができた。それは、共同体の象徴としてつくられた銅鐸が、桜塚の原田神社旧境内から発見され
	たことでもうかがえる。
	旧名「豊島」(てしま)の名が文献にみられるのは712年のことで、この地域は豊島地方の中心地であり、大陸から来た人々も多数
	移住したようだ。同時に大陸から伝わったとされる金属器を使用した農耕文化もこの地域に広がり、邑が急速に発展した。
	銅鏡を副葬した前期の待兼山古墳、北摂の古墳文化の隆盛を物語る大規模な中期桜塚古墳群、また、日本最大の規模をもつ、堺市旧陶
	邑につぐ須恵器の窯跡が、旧桜井谷村を中心に、後期古墳群とともに分布している。





	内田遺跡は古墳時代後期〜終末期(6世紀後半〜7世紀初頭)に千里川の河岸段丘上を中心とした集落で、東西400m、南北350mに広が
	る遺跡だ。昨年10月に同地への共同住宅の建築に先立って行われた試掘調査で、古墳時代の遺構などが確認されたことから、発掘調査
	を行うことになった。






	今回の調査で、縄文時代後期の土坑(穴)2基と、古墳時代の遺構として竪穴住居4棟、掘立柱建物5棟が検出され、市内でも有数の
	集落遺跡であることが確認された。2011年12月から行われていた第10次調査で発見され、縄文時代後期には同遺跡周辺で集落が営まれ
	ていたことが確実となった。また古墳時代の須恵器生産に関わると考えられる建物群が見つかり、短期間に多くの建物が立ち並ぶ集落
	であったことも確認された。




	この遺跡は、千里川の中位段丘の上に広がっている。縄文人が住んだ形跡があり、千里川流域に縄文時代の人の活発な活動域があった
	ことが明らかとなった。土抗には縄文土器があり、野畑遺跡についで、縄文時代後期のムラと確認された市内で2例目である。






	古墳時代の竪穴住居は、掘立柱建物も見つかっている。古墳時代の須恵器の一大産地桜井谷窯跡群が近くにあり、須恵器の窖窯が40
	基以上あった事が確認されている。








	豊中市内では縄文時代の遺物は出土していたが、住居など人間の暮らしの痕跡が残されていることは少なく、野畑遺跡(西緑丘3丁目)
	以外に集落として特定された遺跡がなかった。今回発見された土坑はごみを廃棄するために掘られた穴と見られ、一定期間居住した集
	落跡であると推定される。














	また昭和61年の初調査より同遺跡周辺から古墳時代の建物群が見つかるとともに、須恵器を廃棄した穴も多く見られ、須恵器生産に関
	連する集落であることも分かっている。








	須恵器を焼くためには燃料のまきが大量に必要なため、新たに窯を築く場を求め、次第に山奥に入っていったと考えられている。同市
	内でも5世紀〜6世紀に須恵器の生産や流通に大きく関与していた集落(新免遺跡・本町遺跡)が、6世紀後半に生産場所の移動に伴い、
	千里川の上流に拡大・移動したと考えられ、今回の調査で点在していた同遺跡内の調査成果が線で結ばれ、この説を裏付ける遺跡とし
	て注目される。














	昨年12月12日から約2か月間実施されたこの調査では、縄文時代の土杭と呼ばれる穴の中から土器や石の矢じりなどが出土し、調査地
	一帯に縄文時代後期の集落が営まれていたことが確実になった。














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