SOUND:Penny Lane
月夜野・矢瀬遺跡

群馬県みなかみ町月夜野
2007.8.13 





	お盆休みに、東京に住む娘夫婦のところへ預かっていた猫の「タビ」を届けに行って、翌日、群馬県のこの遺跡へwifeとやってきた。
	「月夜野町の遺跡」のことは昔から知っていたし、華麗な装飾で知られる土製のイアリングや、腕輪などの装飾品も写真で見ていた。
	このチャンスを逃したらもうここを見に来る事などないかもしれないと思ったらむしょうに行きたくなって、シブるwifeをせき立てて
	関越道を走った。練馬から乗った関越道は、お盆のラッシュで前橋あたりまで断続的な渋滞だったが、何とか予定通りに到着すること
	ができた。

	ここで掲示している配置図や地図、および解説は、遺跡近くに居住されている増田さんの「矢瀬遺跡」HPから転載させていただいた。
	記して感謝の意を表明する。増田さんのHPは個人的に製作されたとの事だが、とても個人のHPとは思えない程すばらしいものであ
	る。「制作/エム・クリエイティブルーム」となっているので、或いはその方面のお仕事をされているのかもしれない。「資料提供/
	月夜野町教育委員会」ともなっているので、月夜野町の教育委員会にも感謝しなければなるまい。是非ご覧いただくようお薦めしたい。



葉っぱに隠れている部分は「縄文」の遺跡である。






	月夜野・矢瀬遺跡(つきよの・やぜいせき)  −縄文時代− 国指定史跡(平成9年3月17日指定)

	<遺跡の概要>

	矢瀬遺跡は、群馬県みなかみ町月夜野の上越新幹線上毛高原駅の北東約700mに位置し、利根川河岸段丘の小さな高台(標高396m)
	に立地している。今から3500年から2300年前の縄文時代後期から晩期にかけての遺跡である。平成4年(1992)の土地改
	良事業と都市計画道路建設事業に先立って行なわれた発掘調査によって、縄文時代の住居と祭祀遺構、水場などの遺構分布が発見され、
	その広さ約5,000平方mの範囲が確認され、その情報はトップニュースとして全国に発信された。その後国指定史跡に指定されて
	遺跡は全面保存された。人工の水場を中心に祭壇石敷と巨木柱群による祭祀場や墓地が広がり、その外側を取り囲むように配置された
	住居群があり、比較的狭い範囲にこれらの施設がそろって発見されたことで、縄文時代の集落構造がよくわかる遺跡として有名になっ
	た。ムラの中央に配水路と作業場を持つ水場が在り、石敷きの祭壇や木柱列による祭祀の場所を作り、これらを取り囲むように墓と住
	居を計画的に作っている。当時の人々の生活の基本となる祭祀のあり方を理解するうえでも重要な遺跡である。遺跡は現在埋め戻され
	ているが、住居跡や水場が復元されており、付近一帯は「親水公園」として整備され、集落、水場、祭祀場などでひとつのムラを形成
	している縄文時代の集落景観がイメージできるようになっている。遺跡のすぐ近くにある月夜野町郷土歴史資料館には、矢瀬遺跡から
	発見された土器や石器、耳飾り、木柱根などの出土遺物の一部が展示されている。JR上越新幹線上毛高原駅から徒歩10分。
	上毛高原駅周辺にはここの他にも、

	縄文早期〜前期:前中原遺跡(まえなかはらいせき)
	縄文中期:梨の木平(なしのきだいら)遺跡敷石住居址(県指定史跡)
	縄文後期:深沢遺跡配石遺構(ふかさわいせきはいせきいこう)

	と縄文時代の遺跡が多く残されている。



道路を挟んで遺跡看板の向かいにある、道の駅「月夜野はーべすと」。この裏あたり一帯が「矢瀬遺跡」と「矢瀬親水公園」だ。







広場の奧が遺跡で、その前に遺跡の石碑(下)が立っている。




	<遺跡の時代区分>

	炭素14年代測定法によれば、矢瀬遺跡の年代は今から約3560年〜約2340年前に遡り、縄文時代を6時期に区分した、「草創
	期、早期、前期、中期、後期、晩期」の、後期から晩期にかけての集落で、紀元前1500年くらいから紀元前200−300年頃の
	弥生時代が始まるまでの約千年以上にわたって隆盛を極めたと考えられるが、千年以上続いたムラの生活も、やがて弥生文化の中に消
	滅する。矢瀬の地は、北に谷川連峰、南に赤城山を望み、東西を三峰山、大峰山の斜面に挟まれた谷状地にあり、段丘下に利根川が流
	れている。縄文人達は、地形・水利・景観に適した場所を選び、領域にある山林・草原・河川を生活の場として活動してきた。このム
	ラは、周囲にあった小さなムラをとりまとめて大きな祭祀行為を行っていたと考えられ、この地域の中心的なムラとして栄えていたも
	のと考えられる。



公園の裏を利根川が流れている(上)。かってはここにサケやマスが群れていたのだろう。




	矢瀬遺跡が発掘された月夜野町は、群馬県北部の沼田市と水上町の間にあり古くから関東と北陸を結ぶ重要な交通ルートの要衝として
	発展してきた。北に谷川岳、南に赤城山を望み、西に大峰山、東の三峰山に囲まれ、中央に利根川が南北に流れ、その利根川を頂点と
	し、「V」字型の谷状盆地で両岸には河岸段丘がよく発達している。




	<遺跡の構成>

	千年以上にわたり人々が生活していたその独特な縄文文化を誇っていた集落は、祭祀場(さいしば)域と水場(みずば)作業域を中心
	に、居住域、墓域の4つのエリアで構成されている。中央附近に掘られたたくさんの柱穴の中には、平均35cm程の木柱根が54点
	残り、そのほとんどがクリの木で、径75cmの巨木も出土した。これらは、丸太ばかりではなく丸太を縦半分に割った半截材(はん
	さいざい)が半数以上で、四角形に配列されて立てられた部分(方形木柱列)も見られる。丸材の方形の木柱列は径50センチ級の巨
	木による高床の建物であり、半截材の方形木柱列は割面が向き合う6本の立柱で、4回の立て替えが確認された。その脇には大きな石
	を3つ立てた5m程の特殊な石敷があり、共に儀式場や祭壇等ムラ内の特別な場所であったと考えられる。



下は9号住居跡のスケルトン復元住居。この後ろに「四隅袖付炉」の展示施設がある。







7号住居跡の「四隅袖付炉」の上を覆屋が覆っていて、その中にスクリーンがあってボタンを推せば遺跡の解説をしてくれる。



以下、そのスクリーンの解説画面から。





上の2写真はスクリーンではなく、保存してある「四隅袖付炉」。なぜ炉に袖が付いているのだろうか。






























	<遺跡出土品>

	この遺跡からは、食物調理や貯蔵用の土器、狩猟漁労や加工生産作業用に使用された石器等の日常生活道具が膨大な量で出土している。
	また首飾りや耳飾り等の装身具類、様々な祭祀行為用の道具類も数多く出土した。近隣のみならず、東北・北陸・南関東・中部高地等
	・遠く数十kmも離れた地域集団間の交流交易を裏付ける資料も得られている。人の顔や目の字の文様を貼り付けた土器、弓矢を持つ
	人物を描いた線刻石、特殊な作りの香炉形土器、二千点を超える石鏃、アスファルト接着剤が付いた石器、先端を尖らせた骨角器、精
	巧に作られた漏斗状耳飾り、他地域にはみられない細長い管玉、ヒスイで作った勾玉、白く軟らかい石による岩版、赤色塗料を入れた
	ミニチュア土器、切れ長の目を描いた土偶、ていねいに磨かれた石冠・石棒・独鈷石(どっこいし)・縄掛けの溝を加工した木柱根等
	の貴重な遺物が発掘された。遺物の一部はすぐ近くの「月夜野町歴史民俗資料館」にあるとのことだったが、本日は月曜で休館日にあ
	たり、出発前から覚悟していたがやっぱり遺物は実見できなかった。まぁ、またどこかでお目にかかれる日もあるだろう。



上左に、11号住居址保存遺構。当時の建築材が残る形で復元。






	集落を取り囲むように造られた墓群と、その脇に建っていた木柱。三峰山と利根川を背景にして。


	この地の縄文人たちは利根川河岸を切り拓き、狩猟採取によって生活をしていた。縄文人の常で自然への畏敬の念は強く、四隅袖付炉
	をもつ家屋や、巨石による特殊石組みは共同祭祀の場であり、ムラ人達を潤し続けた湧水は聖なる泉、獣骨の焼砕片等が散乱する墓地
	は葬送再生の場とも考えられれ、このムラは単なる住処や共同生活の場ではなかったと思われる。天を突き上げるように林立する木柱
	群は、東日本の縄文遺跡に共通する、「神との対話」の場所としてのシンボルではなかったのだろうか。






	矢瀬ムラでは、他のムラではあまりみられない水場・祭壇・巨木柱・四隅袖付炉などと、縄文の一般的な遺構である住居・高床建物・
	配石墓など、すべての要素がセットで確認できる。最近の縄文時代に関する研究では、縄文時代は、狩猟と採集が主たる活動分野では
	あったが、やじり、弓矢、漁網など狩漁道具類が発展・充実し、土器の煮炊きにより多くの物が食べられるようになり、生活様式は大
	きく変化していったと考えられている。稲作の登場は時代を経るが、地域によっては栽培・飼育などの管理農業も導入されていたと思
	われ、多数の人々が長期間、同一場所に居住できる経済力を得た。縄文社会は、およそ1万年以上にわたり続くが、人々は常に工夫し、
	生活様式を積極的に改良し、社会はゆっくりと発達していったと考えられる。自然と共生していながらも、自然への畏敬の念は、独特
	な祈りや祭りによる祭祀行事を生み出し、社会には逞しい生命力がみなぎっていたものと想像できる。





半截材の方形木柱列を、割面が向き合うようにして6本立てた高床の建物。おそらくは儀礼用か。






	巨木による高床の建物のすぐ隣では、いまでも水が湧き出す人工の水場が見つかった。湧水点の周囲を深さ1メートル程掘りくぼめ、
	さらにその周囲を石組みで固めている。この水場は聖水や浄水を汲むのに利用されていたらしいが、その横には石皿等を配置した作業
	場もあり、水場から多くのトチの実等が出土したことから、堅果類のアク抜き製粉の加工も行なわれていたことがわかった。また、埋
	立てや改修工事、その廃棄形態までが確認された。祭祀場と水場のまわりには、22軒の住居跡と百基を超える墓が展開している。
	住居はおよそ南と北の2群に分かれ、水場の西側には1辺9mの大型住居があり、ムラの両端には祭祀的色彩の濃い住居が配置されて
	いる。北側の住居は「目」の字状配石の四隅袖付炉(よすみそでつきろ)をもつ全国唯一の独特な家屋、南側の住居は特殊構造で祭祀
	に使った遺物が数多く散在する。墓は、遺体を埋葬した周囲を人頭大の石で円形や楕円形に囲った配石墓で、大小いくつかのグループ
	に分かれて分布している。しかしながら、これらの施設はすべて同一時期に存在していたわけではない。同時に存在したのは、2〜3
	軒の建物及び数本の立柱と水場程度と考えられる。

 


	水場からは、石皿とともに、とちの実、オニグルミ、ケヤキなどの種子や木材が出土していることから、種子のあく抜きをするための
	水さらし場としても使われていた。






	祭祀場域と水場作業域はそれぞれ隣接した占地でありながら終始独立し、立柱範囲と墓域も一線で区画できる。しかし、住居の廃棄埋
	没後に配石墓が造られていることから、墓の新設増加に伴って住居域が外側に広がり、ムラが拡大化していったことがわかる。三内丸
	山遺跡にも見られるが、当時は、ムラの中央広場に墓を作り、それを取り囲むように家が配置されていた。死者の再生や先祖の霊と共
	に暮らす生き方をしていたのである。遺跡の全体像は一見コンパクトにまとまっているが、これは各時期・世代ごとに手間暇かけて造
	られたムラの中で、縄文人が長期的、計画的に生活を営んだ結果として、すべての遺構が積み重ねられた姿なのである。





墓群







2号廃屋址(上)。



上右端の復元施設(1号住居址。下)の中には、縄文人達の暮らしぶりを再現した展示室が造ってあった。こういうのは始めて見た。
























	遺跡の端に、この遺跡に関する説明があった。パネルと模型でわかりやすく解説してある。これを全部読めばこの遺跡のほぼ全容が
	理解できるようになっている。なかなか面白い試みだ。


































		東日本の主要な縄文遺跡 50選 

		1	北海道	 	常呂遺跡		(中〜晩期)
		2   	 	入江貝塚		(前〜後期)
		3   	 	北黄金貝塚		(前期)
		4   	 	大船C遺跡		(中期)
		5   	 	中野B遺跡		(早期)
		6	青森県	 	是川中居遺跡		(前〜晩期)
		7   	 	三内丸山遺跡		(前〜中期)
		8   	 	小牧野遺跡		(後〜晩期)
		9   	 	亀ケ岡遺跡		(晩期)
		10	秋田県	 	大湯万座・野中堂遺跡	(後期)
		11   	 	伊勢堂岱遺跡		(後期)
		12   	 	岩井堂岩陰		(早〜晩期)
		13	山形県	 	長者屋敷遺跡		(前〜中期)
		14   	 	押出遺跡		(前期)
		15	岩手県	 	御所野遺跡		(中期)
		16   	 	萪内遺跡		(後〜晩期)
		17   	 	樺山遺跡		(前〜中期)
		18	宮城県	 	山王囲遺跡		(晩期)
		19   	 	里浜貝塚		(前〜晩期)
		20	福島県	 	宮畑遺跡		(中〜晩期)
		21	新潟県	 	藤橋遺跡		(後〜晩期)
		22   	 	長者ケ原遺跡		(中期)
		23   	 	小瀬ヶ沢・室谷洞窟	(草創〜早期)
		24	富山県	 	不動堂遺跡		(中期)
		25   	 	北代遺跡		(中〜晩期)
		26   	 	桜町遺跡		(草創〜晩期)
		27	石川県	 	真脇遺跡		(草創〜晩期)
		28   	 	チカモリ遺跡		(後〜晩期)
		29   	 	御経塚遺跡		(後〜晩期)
		30	福井県	 	鳥浜貝塚		(早〜前期)
		1	群馬県	 	矢瀬遺跡		(後〜晩期)
		32   	 	茅野遺跡		(後〜晩期)
		33   	 	滝沢遺跡		(中〜後期)
		34	栃木県	 	根古谷台遺跡		(前期)
		35   	 	寺野東遺跡		(中〜後期)
		36	茨城県	 	大串貝塚		(前期)
		37   	 	上高津貝塚		(中〜後期)
		38   	 	陸平遺跡		(早〜後期)
		39	埼玉県	 	水子貝塚		(前期)
		40	千葉県	 	姥山貝塚		(中〜後期)
		41   	 	加曽利貝塚		(中〜後期)
		42	東京都	 	中里貝塚		(中〜後期)
		43   	 	大森貝塚		(後
		44	神奈川	 	勝坂遺跡		(中期)
		45	山梨県	 	釈迦堂遺跡		(早〜後期)
		46   	 	金生遺跡		(後〜晩期)
		47	静岡県	 	蜆塚遺跡		(後〜晩期)
		48	長野県	 	井戸尻遺跡		(中期)
		49   	 	鷹山遺跡		(後期)
		50   	 	尖石遺跡		(中期)

		(*)このうち青字は既訪問。遺跡巡り/博物館めぐりにレポートがある。赤字は是非行ってみたいと思っている遺跡。



	ここから約400mに「梨の木平敷石住居跡」(なしのきだいらしきいしじゅうきょあと:竪穴住居に敷きつめた敷石の原形が保存さ
	れている。縄文中期。) もあったのだが、東京へ帰る時間が迫っており、断念して戻ってきた。



東京を出る時、娘のPCから写した上のメモだけをもって月夜野まできた。よくこんなものだけでと、我ながら呆れる。





月夜野 びーどろ・パーク





	遺跡から関越道「月夜野IC」へ向かっていると、道の側にガラス製造所があった。ガラス工房に通っていて吹きガラスの作品も
	いっぱい造っているwifeがこれを見逃す筈はなく、娘にも幾つかお土産を買っていた。私は5時に新宿で「国分寺友の会」の久保
	田さんたちと待ち合わせがあったのでヤキモキしたが、帰りは行きのような渋滞もなく、なんとか間に合ってほっとした。























関越道に入ってすぐの光景。上は赤城山系(かな?)と、利根川(下)。








	以下の項は、「日本史の謎」コーナーの「消えた縄文人」から抜粋・転載した。


	●小山修三(元国立民族学博物館教授、吹田市博物館館長)

	・ 私は1978年の論文の中で、現在確認されている遺跡数から縄文5期の人口をコンピュータを使用して推算した。縄文時代を5
	  つに区切って算出すると、前期から中期にかけて急に増加してピークに達するが、後期から晩期にかけて激減する。
	  そして弥生時代になって再び立ち上がるという波が出てきた。直線的ではなく、非常にダイナミックな動きがある事が明らか
	  になった。
	・ 地域による人口格差も発見の一つだった。時期が上がるに従って東西の差はひらく一方で、縄文中期にいたっては、東日本が
	  過密で西日本がガラ空きという状態になっている。
	・ 北海道をいれれば、約30万が縄文時代最盛期の人口と考えられる。30万人の人口は、晩期には75,800人にまで落ち
	  込んでいる。そして時代は弥生へと移行するのだが、驚くべきことに、10万人以下だった人口が、弥生時代になると60万
	  人近くに増加する。

	<縄 文 時 代 推 定 人 口>参考資料

	・縄文草早期 1万2千年〜6千年前  人口不明     ・縄文時代の基礎時代 
    ・縄文前期  6千年〜5千年前    約10万5千人 ・文化の中心は東日本 
    ・縄文中期  5千年〜4千年前    約26万1千人 ・人口が最高となる・縄文文化の最盛期 
    ・縄文後期  4千年〜3千年前    約16万人   ・気候の寒冷化・人口激減 
    ・縄文晩期  3千年〜2千5百年前  約7万6千人  ・出生率の低下・弥生人の渡来始まる


	縄文・弥生の人口に関する小山教授の研究成果については勿論敬意を払うものであるが、数字的には縄文人の数はもっと多かった
	のではないかと思っている。教授自身も、「これは一つのシミュレーションであって、この数字が正しいと私が保証している訳で
	はない。」と述べているが、古代の人口について、現時点では教授の取った方法論以上のものは無いので、多くの学者が教授の推
	算した数字を用いている。しかしデータとなる縄文遺跡は未発見のものも含めてもっと多かったのではないか。定住化へ向かって
	いたとはいえ、竪穴式住居に住めた縄文人はそう多くなかったのではないか。少なくとも半数はまだ洞穴や自然の構造物を利用し
	た住居に住んでいたのではないかと思う。計量できるデータが手元にある訳ではないので、あくまでも推論であるが、そう考えな
	ければ今我々が日本語を話している理由がわからない。
	北や南へ移動した者、疫病や戦いで死んだ者、これらは消え去った縄文人の一部で、大多数の縄文人は渡来してきた弥生人と融合
	していったと考えたい。ある土地で、10:1の割合で違う民族が並存する場合、10が1の民族の言葉に合わせるだろうか? 
	結果的に10:1になったかも知れないが、ある時点、ある場所においては、渡来系:縄文系の比率は5:5或いは6:4くらい
	だったのではないだろうか。渡来人達も、無理矢理自国語を話すより現地人の日本語を話したほうが容易に生活にとけ込めると判
	断したのではないだろうか?

	渡来の神々も、日本に以前からいる神々と積極的に融合していった節がある。権力者もそうでない者も、戦いを避け相互に融合す
	ることで、急速に「弥生人」になっていったと考える。その点では小山教授の意見も私と同じである。小山教授はこう述べている。

	「縄文時代は決して停滞した社会ではなく、非常に動きがあり、活力にあふれた社会だった。換言すれば、縄文人たちは日々、異
	質なものや異なる地域の人々に接していた。縄文社会は異質な人、モノを融合させることで成立していたのである。縄文時代のこ
	の伝統は、弥生期になっても生きていた。だからこそ異質な弥生人との間に大きな闘争は起こらなかった。」「見方を変えれば、
	縄文時代が弥生時代を取り込んだともいえよう。」



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	矢瀬遺跡(やぜいせき) 群馬県利根郡月夜野町月夜野字下矢瀬
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	標高393m、現利根川とは距離70m、比高15m。平成4年(1992)に土地改良事業と道路建設に伴って月夜野町教委が
	発掘調査した。平成6年までの調査により、縄文時代後期から晩期の集落の全貌が明らかにされ、平成9年(1997)には国史
	跡に指定された。集落の一部は利根川により流失しているが、集落内での縄文祭祀の実態が分かる大変重要な遺跡である。水場は
	集落内の湧水地点を4.5m×3m、深さ1mほど掘り下げて周囲に河原石を貼り付け、満水位置に足場を設けている。
	底部泥炭層からはトチノキ、オニグルミ、ケヤキなどの種実や枝が出土した。部分的な縮小工事も行われている。この南側には石
	組みの排水路や立石列が続いている。水場の東に接して、扁平礫を敷き並べて石皿を配置した作業場がある。祭壇の石敷は4m×
	3mの大きさで、立石や、扁平な石を横方向に立てて並べ、目の字状配石と特殊な構造であり、埋甕も伴う。この祭壇や水場と配
	石墓群に囲まれた間から木柱根が54点出土した。 
	木柱はクリ材が94%を占め、平均直径35cm以上の巨木であることが注目される。柱と穴のすき間に石を詰め込んで補強した
	ものもある。丸材群と半截材群が祭壇を挟んで別々の範囲に立てられ、それぞれ中心的な木柱列が見られる。半截材の方形木柱列
	は、同一地点で4回建て替え、柱をそれぞれ6本用いた1辺3mから4.5mのほぼ亀甲形で、最終期には規模を縮小しているが、
	半截材の割面は常に東西に対峙させている。丸材の方形木柱列は4.3m×3.4mの長方形で、四隅に巨木を用いた棟持柱付き
	の形態である。そのほか、直径75cmの単独半截巨木柱と、縄掛け溝の加工柱が特記できる。 
	竪穴住居は22棟が見つかり、炉のない10本柱の大型住居を中央に、多様な竪穴住居が南北に分かれて分布する。石囲炉をもつ
	方形もしくは円形で4本主柱の竪穴住居が多い中で、目の字形付属施設をもつ全国唯一の四隅袖付炉など祭祀色の濃い竪穴住居も
	見られる。集落の中央付近および南側の一定区域には、円礫を雑然と並べた形態の100基以上の配石墓群が小グループごとに造
	られている。配石墓の中には廃絶した竪穴住居の上に造られたものがあり、集落内の居住域から墓域への部分的な土地利用の変遷
	がある。 
	遺物は、日常生活用の土器や石器とともに装身具や祭祀用具などが膨大な量で出土している。墓域の上には各種遺物破片のほかに
	イノシシやシカの焼獣骨砕片が多量に散在する。土器は後期後半から晩期末まで連続的に見られる。特に、人面文や目の字文を貼
	付した土器、特殊な香炉形土器、2000点を超える石鏃とアスファルト付着の鏃、ベンガラを入れたミニチュア土器、400点
	ほどの耳飾の中でも漏斗状透彫りの逸品と3対のセット、遮光器状の目の土偶、弓矢を持つ人物を描いた線刻石、細型の管玉、翡
	翠の勾玉、白色軟質の岩版など貴重な遺物が挙げられる。地形や動植物生態系の古環境解析も行われている。 
	推定すれば、遠く赤城山や谷川岳を望む山間の河川わきの土地を切り開き、累々と散在する石組みの造作、林立する木柱群、湧き
	続ける泉、家屋などの建造物の各種施設を独特なデザインで、手間ひまをかけた生活空間として造りあげたのである。その中に、
	眼前の川と背後の山林を経済基盤として、縄文祭祀を基調とした社会の精神文化や人々の生きざままでもイメージすることができ
	る。縄文ムラの復元修景整備により、体験学習および交流の場としての活用事業を実施している。出土遺物は月夜野町教委に保管
	されている。〈三宅敦気〉
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	『概報矢瀬遺跡』 月夜野町教委 1998 
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