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翠鳥園遺跡 旧石器時代の石器工房跡 2008.6.28(土)大阪府羽曳野市







	翠鳥園遺跡公園 (すいちょうえんいせきこうえん) 	古市駅下車 西へ徒歩約15分
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	大阪府羽曳野市の、「古市古墳群」と呼ばれる古墳だらけの町の中に、およそ2万年前の石器作りの跡が発見された翠鳥園遺跡がある。
	現在は遺跡公園として整備され公開されている。石器を作るために打ち割った石を表した、大きな卵形のモニュメントを通り抜けると、
	目の前には旧石器時代の石器作りの光景が広がっている。
	平成4(1992)年春、羽曳野市のほぼ中心にあたる市街地の中で行なわれていた発掘調査によって、それまで予想もされていなかった
	旧石器時代の大遺跡が発見された。主として製作途中の石器が約2万点も出土した。現在の地面から60cm下には、およそ2万年前
	から1万年前にかけて積もった黄灰(おうかい)色の粘土層があり、その下はさらに古い時代にここを流れていた川が運んできた砂と小
	石からなる基盤層になっている。旧石器類がみつかったのは固い基盤層のすぐ上で、粘土層におおわれて保護されていたために、小さ
	な破片までがおよ2万年前の状態そのままに残されていたのである。 

	この遺跡のことは前から知っていた。捏造の「藤村製品」とは違って、真正の、関西の結合石器で有名だったし、国府(こう)遺跡や
	長原遺跡と並んで関西を代表する旧石器遺跡として知られていた。しかしこんな形で公園として整備されているとは最近まで知らなか
	ったので、「どうせまた、もう家かビルの下だろう。」と顧みなかったのだが、最近公園化されているのを知ってがぜん行きたくなっ
	た。梅雨の合間の蒸し暑い日に訪れた。



近鉄「古市駅」



駅前の交差点も「白鳥」である。ヤマトタケルの墓とされる「白鳥陵」はすぐ側。歩いていく途中に見えている。



イズミヤの前を曲がって、府営の翠鳥園住宅の中に遺跡がある。デカい、玉子を輪切りにしたようなモニュメントがすぐ目に付く。





	<モニュメント>
	「石器を作るために打ち割ったサヌカイトを表した大きなモニュメント。中に入ればサヌカイトの不思議なサウンドが響き、足元には
	鋭くとがった石器が浮かび上がってきます。」とあったが、音楽はもう鳴っていなかった。
 




上右の番号は、下の絵の番号と対応している。





おそらく、床から石器が浮かび上がってくる仕掛けなのだろうが、ここももう動いていないようだった。







	<見学テラス>
	アトリエが分布するようすを見渡すことができる。遺跡の立体模型や磁器板製の解説パネル、サヌカイト製石器の実験製作品、サヌカ
	イトの原石などが設置されている。ここでの解説やレプリカを全部見るだけで、ここがどういう遺跡なのかほぼ理解できる。

	<流路跡(りゅうろあと) >
	ここで石器作りが行なわれる以前、小さな川の流れが地面を削り取った跡。テラスのすぐ向こうに見えている砂地の部分がそれである。 













水が流れて地面が削られた低い場所をさけ、安定した高いところに石器作りの跡が分布している。(人が立っている場所)
















	翠鳥園遺跡では2万点をこえるおびただしい数の石器類が見つかった。この中には300点以上の石器が含まれているが、ほとんどは
	石器を作る時に出た石くずや割れ残った石のかたまりと、折れたり予想外の割れ方をしてしまった失敗品である。石器の材料として使
	われたのは、二上山の周辺で採れるサヌカイトというガラスのように鋭く割れる石で、打ち割る前の原石の状態で5kmほどの距離を
	運んできたものと考えられる







学習解説施設(下)から見た遺跡の光景



	<学習解説施設>
	「遺跡の発掘調査の模様、石器の作り方、旧石器時代の人々のくらしなどを、解説ビデオでくわしく見ることができます。」とあった
	が、ビデオは故障中だった。展示ケースには、翠鳥園遺跡で行なわれた石器作りのようすをイラストや模型で再現している。 

















	<メタセコイアの木>
	公園の真ん中にそびえるメタセコイアの木。旧石器時代から現代までの悠久の時の流れを感じさせてくれる公園のシンボル。 




	<アトリエ>
	精巧な立体模型や実物大の写真で、石器作りの跡を再現している。旧石器人の石器工房のようすを実感できる。石器を作った場所(ア
	トリエ)は、奇跡的に残っていた石器群で埋め尽くされていた。しかしその後の研究では、定住して石器作りをしていた「工房」では
	なく、不定期に石器製作に励んでいた場所ではないか、という事のようである。
	石器類は遺跡のあちこちに散らばっているのではなく、1mから2mほどの限られた範囲にまとまっている。石器類が集中する場所の
	中には、打ち割られた石片や石くずが飛び散ったようすがそのままに保たれているものもあり、そこが石を割った場所、すなわち石器
	作りの場所(アトリエ)であったことがわかる。3千点以上ものたくさんの石器類が残る規模の大きなアトリエでも、石の飛び散り具
	合でわかる作り手の位置は1か所で、身体の向きや位置をかえた形跡はない。1つのアトリエは一人の人間の、半日か1日程度の短い
	時間の作業場であったと考えられている。遺跡全体では30か所以上の石器作りの跡があるが、それぞれは重ならずに間隔を置いて分
	布し、規模の大きなものは2つか3つが並んでいるようである。おそらくここは、何人かの人間が、短期間に集中して石器を作った場
	所だったのだろう。














	発見された多量の旧石器類。完成した石器の数に比べて、製作の際に出るさまざまなかけらや、作る途中の失敗品などが多いのが特徴。
	ここでは石器作りが集中して行なわれ、出来上がったものは他の場所で使用されたのだろう。



















































上はトイレ。サヌカイトを産んだ二上山のすがたをかたどった屋根には、一面にササが茂っている。











上右の二つコブの山が二上山。サヌカイトはあの山から翠鳥園(赤丸)まで運ばれてきた。



するどく先の尖ったナイフ形石器と呼ばれるもの(上左)。棒の先に取り付けてやりのようにして使った狩りの道具と考えられる。上右は結合石器。
	原石の状態にまで復元された石器の接合資料。空白の部分は石器として完成し、他の場所へ持ち出されたところ。平均1.5kgほど
	の重さの原石から作られた石器は多くても10個前後で、大半は石くずになってしまっている。  
	翠鳥園遺跡の石器類で特に重要なのは、石のかけらどうしがひっつき、割る前の原石の状態を復元できるこの接合資料が数多くあるこ
	とである。これをくわしく分析すると、石を割って石器を作り上げる経過を具体的に確かめることができる。さらにその結果を石器類
	が残されていた位置と合わせて検討すると、旧石器人がアトリエで行なった石器作りのようすをそっくり再現することもできる。  










誉田白鳥遺跡・誉田白鳥埴輪製作遺跡公園






	
	同じく市役所の前で、古墳の横の住宅地一帯が「誉田白鳥遺跡」と呼ばれるところのようである。小さな公園がその名残のようであるが
	説明板も何もないので詳細はよく分からない。しかし170号線を挟んで向かい側に「誉田白鳥埴輪製作遺跡公園」があり、誉田白鳥遺
	跡はここで埴輪製作に関わった人々の集落跡のようだ。




	誉田白鳥遺跡 (こんだはくちょういせき)	所在地:羽曳野市白鳥及び誉田
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	羽曳野市のほぼ中央、旧大乗川氾濫原(だいじょうがわはんらんげん)の西側に作られた遺跡。現在ほとんどが宅地化されており、旧
	地形や遺物の散布など遺跡の面影を見ることはできない。当遺跡は、旧石器時代より生活の痕跡が現れ、古墳時代には埴輪製作遺跡と
	して大きく繁栄した。埴輪生産が終了し飛鳥・奈良時代になると、遺跡の北東部を中心に大きな開発が始まった。
	古墳時代には埴輪生産に関わる施設があったと推定されている場所で、大阪府教育委員会の発掘調査によって大規模な掘立柱建物や溝
	状遺構が検出された。この地域は、古墳時代より埴輪の管理を行っていた公的施設があると推定され、6世紀末から新たに出現する掘
	立柱建物は群衙跡(役所)に転化したとの意見があるがその根拠については定かではない。










	史跡 誉田白鳥埴輪製作遺跡公園(こんだはくちょういせきはにわせきさくこうえん)  古市駅下車北西徒歩10分
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	羽曳野市の中央にある誉田白鳥遺跡の中で、特に市役所南東側に隣接する一帯には、埴輪窯11基と埴輪を作った工人が住んでいた
	建物跡が見つかっている。
	昭和44(1969)年、国道170号線の改修工事のときに、市役所の南東でみつかった埴輪工房の掘立柱建物と窯跡、粘土採掘
	跡などの一部である。この遺跡の埴輪窯は、これまでに11基確認されていて、その構造は須恵器とおなじ窖窯(あながま)である。
	出土した人物・馬・鹿・家・盾・軟・円筒などの埴輪の特徴は、5世紀後半から6世紀前半までの時期のものである。ただし、すぐ
	近くには墓山古墳や誉田御廟山古墳があり、それらの築造に際して編成された埴輪工房とみるのが自然なので、本来は5世紀前半〜
	中葉までその開始時期が遡るのではないだろうか。なお、誉田御廟山古墳のような巨大古墳の築造時には、当時の優秀な技術者を動
	員するため、それを契機に新たな生産システムが考案されることがある。このときには、埴輪の暁成に窖窯が本格に採用され、埴輪
	生産のなかで大きな画期となった。










	円筒埴輪のほかに朝顔形埴輪や家・人物・動物などの形象埴輪がたくさん発見され、大小様々な古墳が集中する古市古墳群のなかに
	あって、埴輪を作る工房としての重要性から昭和48年(1973)6月2日に国の指定史跡になった。市役所前のフラワーロード整備
	に際し、この重要な史跡地についても公園として整備し、フラワーロードのオアシスとして緑を多く取り入れ、埴輪を焼く風景を模
	型で野外展示している。






















170号線を5、6分南下すると「白鳥陵古墳」が見えてくる。近鉄古市駅はその前である。1時間ほどで1周してきた事になる。




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