「吉崎・次場(すば)遺跡」 この遺跡の発見は古く、昭和27年(1952)に羽咋川の河川改修工事中に出土した数々の遺物が話題になったことに始まる。 地元の羽咋高校地歴班が分布調査を行い、昭和31年には同班と石川考古学研究会による本格的な発掘調査が実施されてい る。その後十数次にわたる調査の結果、弥生時代全般を通じての大規模な集落跡である事が確認され、一部は現在史跡公園 として整備され、復元された竪穴式住居、大型建物、大溝などが羽咋川沿いに出現している。出土遺物としては、打製・磨 製石器、弥生土器、木器、櫂や舳先など舟の各部位製品、管玉、玉類、籾、クリなど栽培作物、木の実などの弥生人の食生 活を示す資料、そして日本で初めての青銅鏡も出土している。
【吉崎・次場遺跡】 種 別 : 国指定 史跡(弥生時代の拠点集落) 面 積 : 10,057u 年 代 : 弥生時代 中期〜後期 所在地 : 吉崎町・次場町他 管理者 : 羽咋市 指 定 : 昭和58年12月15日
【吉崎・次場弥生公園】 復元された高床倉庫 今から約2千3百年前、日本では本格的に稲作が始まったといわれているが、能登半島で稲作が盛んに行われるようになっ たのは弥生時代中期だと考えられている。ここ吉崎・次場遺跡は能登半島にととまらず、北陸でも屈指の規模の集落で、多 くの建物跡、土器、木製品が発掘されており、能登・北陸地方のみならず、近畿・東北・山陰地方などと、広く交流があっ たことが分かっている。 昭和58年に国指定史跡となり、遺跡公園整備が進められてきた。平成11年に完成した公園に は、3棟の建物が復元されており、集落のようすを簡単に理解できるような施設・説明板なども完備している・。 入園料 無料 園内施設 タイムトンネルや復元建物の利用は午前9時〜午後5時 冬期間(12月1日〜2月末日)は閉鎖 アクセス 能登有料道路千里浜I.Cから車約10分 JR羽咋駅から徒歩20分 お問合せ 羽咋市教育委員会文化財室 0767-22-5998
吉崎・次場遺跡は、羽咋市街地から北東約1kmの羽咋川河畔の微高地(子浦川が造成した自然堤防とみられる。)上に、 弥生時代中期から古墳前期にかけて形成された大規模な集落跡である。 約20ヘクタールにも達する広大な遺跡で弥生中期初頭(最下層)、中期中葉(下層)、後期後半(上層)からなり、集落 が最大規模となるのは上層の段階である。この遺跡から出土した土器は、次場最下層式、次場下層式、次場上層式の三つに 分類され、北陸地方の弥生時代の編年を組み立てる上で重要な標準遺跡となった。 数次にわたる発掘調査で、大小の溝状遺構や平地式建物跡、掘立柱建物跡、溝、土壙墓群、配石遺構、井戸跡と倉庫とみら れる小規模な掘立柱建物跡が検出されている。しかし、現時点では竪穴式住居跡とすべき確実な遺構は発見されていない。 各遺構は、豊富な内容と良好な状態を保っていた。一部には平安時代集落も複合している。各期の多量の出土土器は、北陸 の弥生土器編年上、きわめて重要な内容をもっている。 出土物は、弥生時代中期・後期の土器を中心に、各種石製品、木製品(農耕具、木織具、建築部材など)、小型製鏡、自然 遺物などさまざまな種類にわたっている。木器には鉄斧着装用の柄や鍬・エブリ・庖丁形木製品などの農具があり、石器に は石斧やアメリカ型を含む石鏃、環石、有樋式磨製石剣(断片)、未成品を含む玉類などがあった。とくに注目されるのは ほう製小型内行花文鏡1面と懸垂用とみられる四鏡片の出土である。 能登半島における代表的な遺跡であることはいうまでもなく、出土土器の様相は近畿地方に発達した櫛描文土器や東北地方、 山陰地方の土器の影響が認められ、他地域との交流があったことを示しており、北陸地方の弥生時代全期間を通観できる数 少ない集落跡である。 【参考文献】 ・石川県立埋蔵文化財センター『吉崎・次場遺跡T・U』1987・88年 ・羽咋市教育委員会『吉崎・次場遺跡 第16次・17次発掘調査報告書1998・2000』