Music: 悲しき雨音



蘇我入鹿邸宅跡か? 2007.2.11(日)



		<甘樫丘東麓遺跡>(あまかしのおかとうろくいせき)
		
		「大化の改新」( 645年)のクーデターで、中大兄皇子・中臣鎌足たちに滅ぼされた蘇我入鹿の邸宅跡とみられ
		る遺構が、明日香村川原の甘樫丘の東麓でみつかった。7世紀前半の石垣が見つかり、奈良文化財研究所が発表
		した。大規模な整地が行われて多大な労力が投入されたと推定されることから、当時最も権力を持っていた蘇我
		氏に関連した遺構の可能性が高いと報道されたが、地形を見る限りでは、こんな狭い谷に屋敷があった可能性は
		低いのではないかとも思えた。しかし日本書紀には、蘇我入鹿の邸宅を「谷(はざま)の宮門(みかど)」とし
		ているので、別宅や屋敷の付帯設備だった可能性はある。書紀には、皇極4(644)年に「蝦夷・入鹿父子は、
		甘樫丘に家を並び建てた。蝦夷の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門と呼ぶ」と記述しており、翌年、入鹿は中
		大兄皇子らに暗殺され、蝦夷は邸宅を焼いて自殺したとされる。

		新聞記事を見て歴史倶楽部の掲示板で呼びかけたら、橋本さん、西本さんが参加。3人で小雨そぼ降る飛鳥路を
		歩いてきた。








		
		甘樫丘東麓遺跡 長大な石垣と建物跡 蘇我氏造成か	 奈良	2月2日毎日新聞

		
		多数の建物跡が発見された甘樫丘東麓遺跡(手前が北)調査区中央から南に延びる石垣が確認された
		=奈良県明日香村で1月26日午後2時19分、本社ヘリから西村剛撮影
 
		 7世紀前半に権勢を誇った蘇我(そがの)蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子の邸宅跡の可能性が指摘され
		ている甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡(奈良県明日香村)で、長大な石垣と敷地造成の跡が見つか
		った。1日発表した奈良文化財研究所によると、7世紀前半に築かれ、7世紀中ごろに埋めて廃絶しており、6
		45年に大化改新の始まりとされるクーデターで蘇我父子が滅ぼされたことと時期的に重なる。飛鳥の宮殿の周
		辺で石垣を伴う大規模な敷地造成の跡が見つかったのは初めてで、「日本書紀」に記された7世紀の権力抗争の
		様子を探る手がかりにもなりそうだ。
		 05年に見つかった7世紀代の建物跡の北東約920平方メートルを発掘調査したところ、土器の年代から7
		世紀代の3時期と分かる遺構が見つかった。
		 まず、7世紀前半、丘陵のすその谷筋を大量の土で埋め立てて整地しながら、人頭大の河原石を積み上げて、
		南北に石垣(現存の高さは約50センチ〜約1メートル、長さ約15メートル)が築かれていた。石垣の東に造
		成された平たん地からは、石垣と並行する塀と、建物跡1棟(8メートル×3.8メートル)、石垣の下部から
		排水する東西方向の暗渠(あんきょ)が見つかった。
		 7世紀中ごろには石垣と造成地の全面が埋められ、6棟の建物跡と石敷き、石組み溝が設けられていた。7世
		紀後半には再び土を盛って、鉄工のための炉が設けられていた。
		 現地は645年の乙巳(いっし)の変で、中大兄皇子(後の天智天皇)が入鹿を斬殺(ざんさつ)したとされ
		る飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の伝承地(飛鳥京跡)の西北西約750メートルの権力中枢地の一画。大権力
		を必要とする大規模な工事が行われており、「日本書紀」に、644年、蝦夷と入鹿が甘樫丘に家を並べ建て、
		城柵(きかき)や武器庫を設けたと記された邸宅の一部の可能性があるが、建物はいずれも中小規模だった。
		また、蝦夷が邸宅で「天皇記・国記・珍宝」を焼き、自害したとする記述につながる焼け跡は見つからなかった。
		現地見学会は11日正午〜午後4時。【林由紀子】

		▽河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)の話 
		石垣を築いて土地を安定させ、区画するなど計画性がうかがえる。自ら「宮門」と呼ばせた蘇我氏の邸宅にふさ
		わしいが、中心部ではない。蘇我氏滅亡後は天皇家が接収し、利用したのだろう。  



発掘現場へ行く前に甘樫丘へ登ってみる。





		
		甘樫丘(あまかしのおか)は、奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘陵のことをいい、飛鳥寺の西にある。標高は
		148mで1キロほどの広がりがある。万葉集には、甘樫丘と名前で出てくる訳ではなく、歌に詠まれた「神岳」
		が甘樫丘(あまかしのおか)ではないかと考えられているが、一説には、すぐ北にある雷丘(いかづちのおか)とい
		う説もある。









		
		当時権勢をふるった蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があったと伝えられる甘樫丘は、古代より上代の人々の国見や歌
		かがい、盟神探湯(くがたち)が行われた場所として有名である。展望広場(標高148m)からは遠く金剛山
		系から大和三山、藤原京、飛鳥京など大和国原の美しい風景を望むことができる。また園路の一部は万葉の植物
		園路として万葉集、古事記、日本書紀にうたわれた40種類の万葉植物を観察しながら楽しめる。この日も、遺
		跡見学ではなく、この植物群を探して歩く一団もいた。



		
		丘は東西に数百m、南北に1kmほど広がっていて、丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっている。丘の
		北側に展望台があり、大和三山、藤原京などの風景を望むことができる。













		
		案内板に沿って飛鳥川の横を歩いていくと、すでに100人くらいの行列ができている。まだ正午前なのにもう
		説明は始まっているようで、出口とおぼしき処から何人も出てきて、次の説明会場「飛鳥浄御原宮跡」へ向かう
		ようだ。行列にはアベック、子連れも多い。堺や藤井寺などではあまり若い男女や子供はこないが、飛鳥での説
		明会となると、近畿一円からどっと集まってくる。若い女性の一人姿を見かけると、つい声をかけて我が歴史倶
		楽部への参加を勧誘したくなるが、気の小さい私としては、痴漢に間違われる事を恐れてそれも出来ない。



		
		関西の考古学ファンは、朝早くから雨の中でも立ちつくして説明を聴いているし、奈良、京都、大阪と、説明会
		場で知人に出会う事も多い。まったく熱心な事である。今日の現場は、蘇我馬子の邸宅跡だと騒がれた昨年ほど
		ではないが、石垣や3次にわたる覆土造成、独特の炉などが発見され、NHKスペシャルで特集されたこともあ
		ってか、また新たな謎が出現してそれを一目見ようと言う人たちであふれている。






中央、谷の真ん中あたりで遺跡の概要説明をやっている。報道された記事以上の説明は無かった。弁士は女性である。





		
		資料図は、今までに発掘した成果も加えて時代区分されずに描かれているので、ごちゃごちゃと見づらい。
		黄色い線内が今回の発掘現場と言っていたような気がするが、現場は廻りにも広がっているし、ううんこの線は
		何だったかなぁ。中央に目玉の石垣がある。遺構は、大きく3期に分かれて造成が行われているそうで、T期が
		7世紀前半、U期が7世紀中頃〜後半、V期が藤原宮期という。最下層から最上層までは、3mほどあるそうな。



左側の小さなテントの中で出土物の展示をやっているが、これを一人一人ならんで見るので、ここでエラく時間を食っている。











上右はナベである。逆さまにして置いてあり、両側に小さな突起が付いていた。









「瓦やしびが出土!」と驚いたが、これらは後から盛り土をした土砂の中に紛れ込んでいたものだという。ホンマかいな。









見学客が訪れる前(上)と説明会が始まった後の現場(下)。





		
		天皇をしのぐ権力を振るったと言われる蘇我入鹿の邸宅跡とされる遺跡。ここから飛鳥時代の石垣や、掘建て柱
		建物跡7棟などが見つかった。この3期の遺構の中で、2期の古い段階までが蘇我氏の邸宅の一部である可能性
		があるという。


		
		奈良文化財研究所は、国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区の造園に伴い、約920平方mを調査した。石垣は谷筋に沿
		って、南北方向に長さ約15mが確認された。直径20〜50cmの丸石が高さ50cmから1m積み上げられ、
		南に行くにつれて高くなっていた。石垣の東側は一段高く土を盛って整地されている。石垣は傾斜地の法面の崩
		土を防ぐとともに、威信を示すための視覚的な効果も果たしていたと考えられる。
		石垣東側からは、縦約8m、横約3.8mの建物跡と長さ約4.8mの塀跡の同時期の遺構が出土。また、建物
		跡に直結する暗渠の排水口もあった。


上の女性が説明していた。今日の弁士は女性ばかりだ。
最近女性が説明する説明会が多い。東大阪の「鬼虎川遺跡」でもそうだったなぁ。





		
		発掘現場は南北方向に谷筋が入っている。この谷筋のほぼ中央に石垣を築いて東側に一段高く造成し、建物を建
		てている。石垣に平行して塀も建てられていたようであるが、残念ながら、藤原宮期の炉の跡とそれに関連する
		建物や敷石跡がその上に重なっている。















		
		7世紀前半の大規模な整地や石垣の存在は、敷地の造成に多大な労力が投入されたことを示しており、蘇我氏の
		邸宅に関連づけられても不思議ではない。しかし我々は、「他にも名前の無い豪族で、この辺りに住んでいた奴
		の家ちゃうか?」とか「こんな狭いところが入鹿の家とはちょっと考えられんなぁ。」「そもそもここ薄暗いで、
		当時天皇をしのぐ程の権勢を持っていた奴の家がこんなチンケな訳ないわ。」とか勝手なことを喋っていた。















		
		帰り際に、橋本さんがNHKのカメラに捕まって感想を聞かれていた。「入鹿の屋敷かどうかはわからんね。」
		てな事を喋っていたが、この模様は当日のNEWSで流すと言っていた。しかし歴史倶楽部のメンバーでそれを見た
		人はいなかったようだ。





橋本さんはずいぶん長いこと喋っていて、列に並んでいた時とはまた違うヘリも飛んできた。






		翌日の新聞によると、説明会参加者は、朝日新聞とサンケイが5000人、読売新聞が9200人(細かい)、
		毎日新聞は約9000人としているそうだ。さて実態は、一体何人が来たのだろう。某地元新聞紙の「奈良び
		いき」のいいかげんさは新聞界で有名だが、これらの数字も結構いい加減である。新聞などあまり当てになら
		ない。特に○日新聞の最近の歴史関係記事は、素人が書いているのが丸わかりの記事が多い。



















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