Music: watching the wheals





	以下の新聞記事を見て「大型建物」「国内最大級の鉄工房跡」という見出しに引かれて、彦根まで一寸遠かったが
	きてみた。案の定、「大型建物」の「小型さ」、「工房跡」の「不透明さ」にがっかりしたが、「鉄」は出土して
	いる。これまで邪馬台国時代の近畿には鉄が無いとされ、滋賀県からも「鉄」の出土は皆無に近かったが、今回鉄
	が出土したのは注目に値する。近畿にも鉄はあったのだ。しかしそれが邪馬台国と結びつく証明にはならないし、
	もし奈良に邪馬台国があったとしたら、遠く離れた彦根が「三十国」に含まれるかは疑問である。

	彦根職員の、「邪馬台国は奈良」というのを前提とした説明にも不愉快さを感じるし、第一、税金で発掘している
	組織の者がそういう偏った見方で見学者に自分の意見を述べるのはおかしい。こういう場ではただ事実だけを述べ
	るに留めるべきである。むしろ、邪馬台国問題などとは離れて、「近畿にも鉄があった」という事実に重きを置き、
	邪馬台国時代の近畿が一体どんな様相を呈していたのか、その再現構築に力を注ぐのが研究者としての勤めのよう
	に思う。「邪馬台国」とは離れた視点で、純粋に学問上の調査結果を、畿内説論者も九州説論者も聞きたいはずで
	ある。マスコミの記事のように、発掘結果に一喜一憂し騒ぎたてる風潮に研究者が媚びてはならないのだ。
	この説明会は特にその感を強くした。




	平成28年度「稲部遺跡発掘調査現地説明会」の開催について

	彦根市教育委員会では、市道芹橋彦富線・稲部本庄線道路改良工事に伴う発掘調査を実施しています。平成25年度
	から実施された調査で発見されたのは、2世紀から4世紀(弥生時代後期中葉から古墳時代前期)の大規模な集落跡
	です。稲部遺跡が最も栄えた時代は、3世紀前半、弥生時代から古墳時代へ移り変わる時代、つまり、邪馬台国と
	同じ時期にあたります。中国の歴史書「魏志倭人伝」には、このころ、倭(=日本)には、魏もしくは出先の帯方
	群と外交している国が30ヶ国あったとあります。おそらく、稲部遺跡も、この国々の一つの中枢部だったと思われ
	ます。
	稲部遺跡からは、180棟以上の竪穴建物に加え、王が居住するにふさわしい大型建物、独立棟持柱建物が発見さ
	れ、当時、保持することが勢力に大きな影響を与えた鉄器の生産が行われた鍛冶工房群、青銅器の鋳造工房も発見
	されています。祭祀都市・政治都市であるうえ、工業都市でもあった稲部遺跡は、ヤマト政権成立期における近江
	の巨大勢力の存在を物語る大集落です。現地説明会では、この「イナベのクニ」とでも呼ぶべき遺跡の内容と、近
	隣にそびえる国指定史跡荒神山古墳へのつながりについても、調査担当者がお話しします。彦根市が誇るべき、大
	遺跡の調査を体感できる貴重な機会です。ぜひ、ご参加ください!

	開催日     平成28年10月22日(土)午後1時30分から午後3時まで(小雨決行)
	開催場所    彦根市稲部町・彦富町 稲部遺跡発掘調査現場 
			※本ページ下部に掲載の地図のとおり。
	内 容     実際に遺跡と出土遺物を前に、担当者がご説明します。
	駐車場     稲枝東幼稚園駐車場・みづほ保育園駐車場・稲枝東小学校駐車場
			※本ページ下部に掲載の地図のとおり。
	集合場所    稲枝東幼稚園駐車場・みづほ保育園駐車場前(集合場所から発掘現場へ係員が案内します。)
	申し込み    不要
	参加費     無料
	備 考     ※現地の駐車可能台数には限りがございます。できるだけお乗り合わせの上、お越しください。

	※公共交通機関を利用される場合には、JR稲枝駅で下車していただいて徒歩10分です。
	※平成28年10月27日から平成29年3月24日の期間中、稲枝地区公民館において、「稲部遺跡群の発掘調査-邪馬台国
	時代の近江の巨大勢力-」としてパネル展示を行いますので、ぜひともご覧ください。

	
	地図(駐車場・集合場所等)


稲部遺跡 大規模な鉄器工房遺構 「邪馬台国」時代  毎日新聞2016年10月17日 17時10分(最終更新 10月17日 21時32分) 3世紀前半の巨大集落が見つかった稲部遺跡=本社ヘリから加古信志撮影空撮 「日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」 彦根市教委発表 滋賀県彦根市教委は17日、市内の「稲部(いなべ)遺跡」(同市稲部、彦富両町)で弥生時代終末から古墳時代 初め(3世紀前半)の鉄器工房群の遺構が見つかったと発表した。同時代では他にない規模という。大規模な建物 の跡も確認された。当時、鉄製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の 史書「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。 【写真特集】遺跡上空を別な角度から見ると…… 【写真 矢尻が出土】 【写真 鉄片の数々が】 【写真 大型建物跡も】 【写真 現地での発表の様子】 鉄器工房は30棟以上ある竪穴建物群で、各棟は一辺3.5〜5.3メートルの方形。うち23棟の床面から鉄片 や鉄塊が見つかった。一部に土なども含んだ状態だが、全体の重さは計約6キロに上るという。同時に鍛冶や鉄を 加工する際に使ったと思われる台石や、鉄製矢尻2個なども見つかった。国内には当時、製鉄技術がなく、鉄の延 べ板を朝鮮半島から取り寄せ、武器や農具、工具を造っていたと考えられる。 一方、鉄器製造が始まった直後に大型の建物が現れた他、鉄器製造が終了した3世紀後半には、一辺十数メートル 規模の大型の建物2棟が相次ぎ出現。首長の居館や巨大な倉庫として利用され、他の国との物流拠点だった可能性 があるとしている。邪馬台国畿内説の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)では、より大規 模な同時代の建物跡が確認されている。 「魏志倭人伝」では、倭人は現在の韓国・ソウル辺りにあった帯方郡の東南の大海の中にいて、もとは「百余国」 あったが、同書が書かれた3世紀には「使訳(使者や言葉)通ずる所三十国」と伝えている。福永伸哉・大阪大教 授(日本考古学)は「稲部遺跡は東西日本の結節点にあり、近江勢力の大きさを物語ると共に日本の国の成り立ち を考えるうえで貴重」と話す。 現地説明会は22日午後1時半?午後3時。小雨決行。【西村浩一】 稲部遺跡 滋賀県彦根市南部の田園地帯にあり、弥生時代から古墳時代(2〜4世紀)を中心とする大規模集落遺跡。総面積 は約20万平方メートルと推定される。宅地造成工事による1981年の調査に始まり、2013年からの市道改 良工事に伴う調査では竪穴建物180棟以上、大型建物、鉄や青銅の金属器工房などを確認した。稲部遺跡が最も 栄えた時代は、中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる邪馬台国時代と重なる。
滋賀・稲部遺跡で鍛冶工房跡 邪馬台国期の拠点集落か 大野宏、編集委員・今井邦彦 2016年10月18日02時27分 滋賀県彦根市の稲部(いなべ)遺跡で、弥生時代末(3世紀初め)〜古墳時代初め(同中ごろ)の鍛冶(かじ) 工房群や大型建物の遺構が確認された。市教委が17日発表した。建物は何度か建て替えられたとみられ、邪馬 台国の時代からヤマト政権の成立期にかけて、この地域の拠点的な集落だったと推定している。 この遺跡では1981年に発掘調査が始まり、直径数百メートルの範囲内に弥生時代後期(2世紀ごろ)〜古墳 時代中期(5世紀ごろ)の遺構が発掘されている。 古墳時代初頭ごろとみられる30棟以上の竪穴建物跡からは、鉄の破片や鉄を加工する際に出る不純物の鉄滓 (てっさい)が計約6キロ見つかった。この時期では国内最大規模の鍛冶工房群と考えられるという。




JR稲枝駅を降りると、彦根市の職員が説明会現場への地図を配っていた。



狭い道へ折れ曲がると、頭にぶつかる陸橋が。立って歩くとホントに頭をぶつける高さだった。



またオジサンが立っていて、「こっちでっせぇ」と笑いかける。



あの盛り土は、と思ったらやっぱり掘った盛り土だった。もう見かけることの少なくなったセイタカアワダチ草がまだある。



コスモスも今が盛り。


	資料を貰うと側に行列が。出土品を眺める行列だった。見学は後にして、まず遺跡の写真を撮っておこうと発掘
	現場へ向かう。12時半頃に着いて、説明は13時半からなので、あと30分もすれば経験上、人がわんさか押
	し寄せて来て、とても現場の写真撮影など無理になるはずなのだ。

第六次調査区





















上の報告書と、下の現場を照らし合わせて、どこが「大型建物の跡」か考えて見てください。









第七次調査区









下の報告書に照らすと、どうやら上の写真の円の中あたりが工房のようである。




























上は、クリックで大きくなります。







まだ説明開始まで30分以上あるので、現場から少し離れた小さな
橋の上で持参した弁当を食べた。食べ終わった頃人が増え出した。





「資料を600部しか用意していなかったので、行き渡らなかった皆さんはHPからダウンロードしてくださ−い。」
「ちなみに県外の人はどのくらいいますかぁー。いやぁーこんなに来るとは。全国紙に載るって凄いねぇー」

おいおい、そんなんマイクで喋るなよ。楽屋で話せ。







	このお兄ちゃんは、ここが「邪馬台国傘下の三十ケ国」の一つである可能性が高いとか、日本書紀とかの話ばかり
	していた。ほんとに考古学者なのかな。(ではないのかな?)
	鉄の鏃はどこら辺のものに似ているとか、今後の鉄の分析はどうするとか、土器は何処の地方のものが一番多いと
	か、或いは滋賀県内の他の遺跡との関係とか、考古学らしい、そういう話を聞きたかったねぇ。この説明にはがっ
	かりした。質問しようにも遠く離れてたからなぁ。ま、その内もっと詳しい研究結果が出るのを待つか。

























	これらの鉄製品が、「邪馬台国周辺三十ケ国」の一つであるこの地方で製造されていたのなら、その製品である
	鉄製武器や農耕具が、どうして中核都市である邪馬台国(奈良)へ運ばれてきていないのだろうか。これだけの
	鉄があって工房まであったのなら、当然「邪馬台国」の為にもその製品を供給していたはずだ。
	奈良からそれらが出土するまでは、これらの鉄製品はやはり、この地方のために作られ使用されたと考えた方が
	良い。しかしそうするとこの鉄原料の入手先は? 搬入ルートは? という新たな疑問が湧く。

	奈良や大阪に鉄の供給先を見つけられない以上、朝鮮から日本海を経由して来たか、或いは内陸を九州から運ば
	れて、河内湖を避け琵琶湖北側へもたらされたとも考えられる。この地方は、奈良の勢力とは関係ない可能性が
	高い。いずれにしても、「近畿の鉄」はいまようやく研究が緒に就いたと言える。









魏志倭人伝! どうしても邪馬台国と結びつけなければ資料の意味づけも出来ないようだ。発想の転換は無いのかね?

















韓式土器って、これ須恵器じゃないの? 古墳時代じゃないかい?









これって中部系? 尾張の土器かな?




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「お疲れ様でした。有り難う御座いました。」と丁寧なお言葉。











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彦根市埋蔵文化財発掘調査報告書 第3集「稲部遺跡」

ま、結果的にはこう言うことやね。





JR吹田駅へ戻ってくると、「すいたオータムフェア」という祭りをやっていて、JAZZの演奏が行われていた。













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