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大谷寺洞穴(岩蔭)遺跡
2006.10.4 栃木県宇都宮市




 


	宇都宮へ行った。この夏wifeと日光・中禅寺湖へ行って、その際幾つかの遺跡等を見てきたのだが、その時栃木にも
	他にも遺跡があることを知って、いつか又訪れたいと思っていた。東京での仕事が終わって1週間ばかり暇になった
	ので、東京近郊の博物館・遺跡を調べていて、そうだ栃木だと思い出した。県立博物館にも行きたかったので、ネッ
	トでばたばたとコースを調べてやってきた。王子から京浜東北線で川越へでて、新幹線で宇都宮へ。秋の日の、日帰
	り遺跡巡りを楽しんだ。

 

宇都宮駅からバスで20分ほど。「大谷寺前」で降りる。バス停の前にも奇岩がそびえている。





大谷寺(おおやじ)全景。バス停から5分足らず。








	「その昔、峠越えの難所として知られる神奈川県の足柄箱根周辺を境にして、さらに東に広がる国々、つまり関東一
	円のことを「坂東」と呼んでいた。お遍路さんで名高い四国88ヶ所の霊場巡りはつとに有名だが、関東の「坂東33
	ヶ所観世音霊場巡り」となると、知る人は少ない。1番の杉本観音(神奈川・鎌倉市)から始まり、岩殿観音、田代
	観音、長谷・・・と続いて、最後の名古観音(千葉・館山市)まで1都6県を巡ることになる。東京・浅草寺の浅草
	観音(13番)、栃木・中禅寺の立木観音(18番)、あるいは茨城・楽法寺の雨引観音(24番)などは有名。
	その19番札所に定められている栃木県大谷寺。ここに、有名な大谷石の磨崖仏がある。大谷観音である。」

	という解説は別にして、私はここを霊場としてよりも、縄文遺跡として知っていた。人骨の発見された縄文遺跡の一
	つとして名前だけは知っていたが、そこにこんな磨崖仏があったとは知らなかった。




	今回訪れて観音石仏のすばらしさに驚いたが、遺跡はそれが刻まれている石の、壁面直下に営まれていたのであった。
	大きな岩陰にひっそりと、まるでみんなで寄り添って隠れるようにして遺跡は在ったのである。四国は愛媛県の、
	「上黒岩岩陰遺跡」を尋ねたときにも思ったが、岩陰というのはおそらく、野獣や敵から身を隠すのに格好の住処だ
	ったのだろう。背後は切り立つような岸壁で、まず背後から攻撃される事は無い。前は小さいが開けた平野で、すぐ
	近くを川も流れている。発見された人骨は、縄文時代と言うことしか知らなかったが、資料によると、昭和40年の
	発見当時には約7千年前の縄文時代早期の人骨と考えられていたものが、平成10年の再調査で、1万1千年前の草
	創期のものである可能性が高いという。草創期と言えば殆ど旧石器時代と言ってもいい。この人骨は縄文時代として
	は我が国最古のモノになる。「上黒岩岩陰遺跡」からも1万2千年前の石器や生活痕が発見されているが、人骨は早
	期のモノであった。勿論旧石器時代の人骨は発見されているので、ここの人骨は縄文時代としては、我が国最古とい
	うことである。

	上の写真で、ちょうど建物が立っている辺り一帯が遺跡である。この岩璧の真下に1万年以上に渡って縄文人が住ん
	でいたのだ。



1万1千年前の人骨。宝物殿に展示してある。









 

それにしても恐ろしい程の大岩である。下の観音堂などはつぶされてしまいそうな感じだ。






	<大谷磨崖仏(おおやまがいぶつ)>

	所在地 : 宇都宮市大谷町 
	管理者 : 大谷寺 
	制作時期: 平安〜鎌倉時代 
	アクセス: JR宇都宮駅より関東バス45番系統 大谷観音下車徒歩3分

	天台宗大谷寺には、本尊の石造千手観音菩薩立像(大谷観音)をはじめ、石造伝釈迦如来および両脇侍像(第2龕)、
	石造伝薬師如来及び両脇侍像(第3龕)、石造伝阿弥陀如来及び両脇侍像(第4龕)の合計10本の仏像が見られる。
	いづれも凝灰岩の岩山にできた自然の岩窟を利用し「石心塑像」ともいうべき手法によって製作されたものである。

	まず岩壁面に荒彫りを施した後、塑土(粘土)で像容を整え、漆下地を行って補強し金箔を置いたり彩色を施したも
	のだ。残念ながら江戸時代の火災で塑土が剥落し、石心部が露出してしまっている。千手観音菩薩立像は像高 389cm、
	平安時代の初期の作である。唇や腰あたりに当時の彩色の跡を見ることが出来る。全体として下から仰ぎ見るものの
	目を意識した造りとなっており、そのプロポーションや全体のバランスは見事である。
	第2龕の3体は、最も前に傾いた岩壁を利用して作られている。像高(中尊)は 354cmで平安時代末期頃の作と考え
	られる。脇侍は観音地蔵であると思われる。第3龕は岩壁を彫り込んで、垂直に作った龕形の中にある。もともと
	木の扉が取り付けてあったと考えられる。薬師三尊と伝えられているが、摩耗が甚だしく確証はない。像高(中尊)
	は 115cmで平安時代の作。第2龕及び第4龕の像よりも古いと考えられる。第4龕は第2龕に比してより垂直の岩壁
	に彫られている。
	本尊には蓮台座があり上方には6体の化仏が彫りだされるなど、全体が装飾的になっている。像高(中尊)は260cm、
	鎌倉時代初期の作と思われる。なお、石仏の保護と剥落防止のため、昭和37年から40年まで、岩肌にアクリル・エポ
	キシ樹脂を吹きつけ・注入する作業が行われた。この大谷観音は昭和29年に特別史跡、同36年に重要文化財に指定さ
	れ、わが国初の二重指定を受けた遺跡である。国指定特別史跡(昭29・3・20)。重要文化財(昭36・6・30)。




	入場料を払って観音堂へ入ると、この寺の本尊である千手観音の石仏がある。ここが第1区で、ここに本尊の千手観
	音が、さながら羽を広げたクジャクのように四十臂の手を放射状に広げている。「日本最古の石仏で、平安時代前期
	の弘仁元年(810 年)弘法大師の作と伝えられる」ということだが、はっきりとはわからない。観音像の前に遙拝所
	がしつらえてあって、ここで拝むようになっている。大谷寺の観光案内によれば、その像容から推察すると、奈良時
	代に作られた木心塑造、つまり奈良・法隆寺仁王門の仁王像や東大寺戒壇院の四天王像などと同系統であるという。
	木心の代わりに凝灰岩を心(土台)にして、その上側全体に朱を塗り、さらに塑土を何回かに分けて塗って四十二臂
	及び数百本の小さな手を作り、像容を整えてから漆を塗り、最後は金箔を全体にはいて仕上げた、とのことである。
	今では金箔はすっかり剥げ落ちて、往事の面影は見られないが、さぞや薄暗い岸壁を背にして煌びやかな光を放って
	いたに違いない。




	ここに磨崖仏が造られたのは、やはり大谷石が軟質で彫刻に向いていたからだろう。凝灰岩の山裾に岩盤を削りとっ
	たような大きな洞穴があり、その岸壁面に10体の石仏が立体感溢れる厚肉彫りで彫られている。


 


	さらに奥に進むと、第2区に釈迦三尊(平安後期)、第3区に薬師三尊(平安初期)、第4区に阿弥陀三尊(鎌倉期)
	が現れる。上右の写真が、第1区(千手観音)を出てから見たところで、手前に第2区の釈迦三尊、奥に第3区の薬
	師三尊が見える。第4区の阿弥陀三尊はこの2つに挟まれた場所に彫られていて、上の写真ではちょうど釈迦三尊の
	陰になっている。岩壁全面は合成樹脂の吹き付けなどによって一応の保存修理が施されているが、もとより凝灰岩は
	多孔質なので、すでに表面の一部が剥落しているところも幾つかある。しかし、いずれの石仏も時代の経過を感じさ
	せないほど霊気に満ちていて、石とわかっていても、つい両手を合わせてしまう。

 


	これが阿弥陀三尊。第4区となっている。ぶっちゃけた話、千手観音を除けば、釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊と
	なっているが、どうしてそう名付けられているのかはよくわからない。何か仏様を区別する特徴があるかと写真をよ
	く見てみたがどうもわからない。こんど仏師の seizanさん に聞いてみるか。



建物を出て入り口へ戻るとそこから宝物殿へ行けるようになっている。ここに遺跡からの出土物などが展示されている。








	<大谷寺洞穴>  宇都宮市大谷町 縄文草創期〜晩期・弥生  人骨・土器・石器・獣骨 

	この磨崖仏の周辺一帯は、昭和40年に発掘された。正式名称は「大谷寺洞穴(または岩蔭)遺跡」。昭和40年
	3月から9月まで、特別史跡・重要文化財大谷磨崖仏防災工事に伴い、主として3月4月にかけて、窟前の土を除
	去する際に併行して行われたもので、発掘調査は宇都宮大学名誉教授辰巳四郎、栃木県教育委員会副主幹大和久震
	平、作新学院教諭塙静夫の各氏と、宇都宮大学生10余名の協力で行われた。

	まず表土の層を排除(この部分の一部より、昭和25年の試掘の際に、古銭、掛仏、経石等が出土している。)し、
	多数の五輪の供養塔が出土した。続いて自然堆積の黒土層からは、多くの土器の破片が出土した。それまで関東地
	方における縄文土器は、「井草式」(約9千年前)とよばれるものが最古と考えられていたが、それよりも古い、
	あたらしい形式のものが3種も発見され、それぞれ大谷T式、U式、V式と命名された。そのほか、約7千年前の
	縄文早期末、茅山式土器の頃の人骨が発見され、20才前後の男性、身長154.6cm と判明した。この人骨も
	含めて、当時の早期縄文人人骨は我が国で4体しか発見されていなかったので、学術的にも非常に貴重な資料とな
	った。この人骨が、33年を経た再調査で、更に4千年も古い縄文時代草創期と判明し、日本で一番古い縄文人骨
	と言うことになった。
	この調査の結果、縄文草創期から、早期、前期、中期、後期、晩期、そして弥生時代に至る土器片が発見され、石
	器、獣骨(猪、鹿)、貝殻(カワニナ、イシガイ、ハイガイ、アカニシ等多数)も出土した。そのほか歴史時代の
	遺物も多数出土し、1万年以上に渡って人々が居住した遺跡であることが確定し、「大谷寺洞窟遺跡」と命名され
	たのである。磨崖仏下からは縄文最古の人骨は、手足を折り曲げて横臥(横向きの姿勢)で埋葬された屈葬人骨で、
	遺跡側の大谷寺宝物館に収蔵されている。土器片、石器、獣骨など、遺物の一部も展示されていたが、写真撮影は
	禁止でここにはお見せできない。

	実は私は、アチコチで述べているようにこういう場所での「写真撮影禁止」には断固反対の立場なので、ここでも
	かまわず写そうとしたのだが、どこかで見ていたらしく、スピーカーから「写真撮影は禁止されております。ご遠
	慮ください。」とやられてしまった。他にも2,3見学客が居たので論争はやめたが、全く理解に苦しむ。HPで
	でも宣伝しない限り、こんな古い遺跡のことなど誰も知らないだろう。もっと見学客を呼ぶためにはどんどん写し
	て貰って宣伝した方がいいと思うし、遺跡・遺物を私蔵して宣伝しないというのは、何より歴史学の普及の妨げで
	ある。遺物が「宝物」という理解なのだから、もうそれはそれで仕方がないのかもしれないが、せっかくの貴重な
	資料が、皮肉にも「宝の持ち腐れ」になっているような気がする。二日酔いの農協のおっさんおばさんの観光客に
	見て貰うより、internetで探し当ててくる若き「温故知新」の学徒を呼んだ方がよっぽどマシだ。

	ちなみに、愛媛県の「上黒岩岩陰遺跡」では、年末で閉まっていた資料館を開けてくれて、写真取りやすいように
	とカ−テンまで開けてくれた。ここはお寺さんなのになぁ。







大谷寺を出て通りを横切ると、昭和になって彫られた巨大な観音様が立っている。これも大谷石の岩盤を削って掘り出したものだ。



しかしデカい。

 

	
	付近にはいくつも大谷石を切り出した場所があって、奇異な風景になっている。また大谷寺から10分ばかり歩い
	た所に大谷岩盤公園(だったかな?)がある。川の側に切り立った断崖絶壁がそびえていて、こういうのを名所と
	いうんだろうな。さらに奥へ行くと、本格的な大谷石の採掘場のあとを資料館にした「大谷資料館」があったが、
	まだ栃木県立博物館へ行く予定があったので、割愛した。ちなみに大谷石は、今は採石禁止となっている。





大谷岩盤公園(?)。



仏像も宝物館も撮影禁止だったので、ここに掲げた石仏等の写真は、帰りに大谷寺で買った絵はがきから転載した。




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