Music: watching the wheals

纒向遺跡・発掘調査現地説明会 2009.11.14(土) 奈良県桜井市







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	巻向遺跡の 投稿者:筑前  投稿日:2009年11月15日(日)06時50分39秒   
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	現地説明会ですが、昨日と、今日とおこなわれるようですね。

	昨日は私は、浪人時代の仲間を案内して、京都駅から「新撰組コース」を廻ってきました。わたしの歴史活動を知って、「俺達も案内
	してくれ」と頼まれて、今までに「山辺の道」と「明日香」を案内しました。いずれも、例会で行った所です。一人新撰組の好きなの
	が居て、雨模様なので中止しようと思っていたのですが、「昼から絶対晴れるから」と強引にかり出されました。幸い、昼前にはカラ
	リと晴れ上がって、秋晴れのいい今京都散策でした。

	さて、本日の説明会ですが、私は昼前から出かけるつもりです。AM10−PM3:00との事ですので、朝一は大行列だと思います。PM3:
	00の終わり頃なら人も少なかろうと思います。どなたか行く人ありますか? 
	もしいらっしゃれば携帯に電話下さい。ご一緒しましょう。 
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巻向駅に着くと、ホームから説明会場が見える。昨年掘っていたところに隣接した、ちょうど東側の位置だ。
もう見てしまった人たちがホームから会場を眺めている。あいかわらず大人気の説明会である。





日本経済新聞















サンケイ新聞





mainichi news


	奈良・纒向遺跡:卑弥呼の祭祀空間か 3世紀最大級建物跡 mainichi
 
	巨大な宮殿にこもり、卑弥呼(ひみこ)は一人、神の声を聞いたのか−−邪馬台国論争の舞台、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)
	で見つかった3世紀最大級の大型建物。一帯が王権の中枢部で、大型建物は卑弥呼の宮殿だった可能性が出てきた。古代史最大の謎と
	される邪馬台国と卑弥呼の姿が、発掘の成果から浮かび上がってきた。
	魏志倭人伝(ぎしわじんでん)には、女王・卑弥呼が戦乱の倭国を治めるため、「鬼道(きどう)を行い、人々をひきつけた」とある。
	鬼道は、祖霊や神の言葉を聞く祭祀(さいし)と考えられている。卑弥呼は人々に姿を見せず、兵士や柵で厳重に守られた宮室(宮殿)
	などで祭祀を行い、政治を補佐する男弟(だんてい)に命令を伝えたとされる。

	辰巳和弘・同志社大学教授(古代学)は「大型建物は、政事あるいは祭事の『マツリゴト』が行われた場所」と指摘。西側には、祭祀
	に使う水をくんだとみられる「辻土坑(つじどこう)」という遺構があるほか、近くに纒向石塚古墳などの前方後円墳があることに注
	目。「『葬』『祭』『政』と当時重要な3要素がそろった。邪馬台国を認識させる大きな根拠だ」とみる。
	また、中国から北極星を信仰する考えが入った飛鳥時代や奈良時代には、建物を南北を軸として配置するようになるが、纒向は東西を
	軸にした配置。千田稔・奈良県立図書情報館長(歴史地理学)は「当時の人々が太陽の動きを重視し、最も重要な施設の配置に表現し
	た」と話す。さらに、「卑弥呼」は「日の御子(みこ)」という意味だったとみられることに注目。「太陽の動きを取り入れた纒向は、
	卑弥呼の宮殿と考えるにふさわしい。そこで中国から贈られた鏡を使って儀式をしていたのだろう」と考える。【高島博之】

	 ◇九州説研究者 大和説に慎重

	纒向遺跡の今回の成果について、邪馬台国九州説を主張してきた研究者らは、一定の評価をしながらも影響はないとみており、所在地
	を巡る論争が終息することはなさそうだ。
	発表に先立つ今月1日、吉野ケ里遺跡で、特別記念フォーラム「なぜ邪馬台国は九州か」が開かれた。高島忠平・佐賀女子短期大学長
	や作家の中山千夏さんら6人のゲストは全員が九州説。「纒向は発掘途上で、ぼんやりと見えてきたかという程度」「魏志倭人伝の記
	述では九州しかありえない」などの意見が出され、集まった約300人から何度も大きな拍手が起きた。
	高島さんは、建物が同一直線上で南北対称となるよう配置されていることについて「大きな発見だ」と評価する。しかし、「全体的な
	発掘調査が行われていない。大型建物の性格は、(未発掘の)他の遺構と比較して考えるべきで、今の段階では判断できない。大和説
	は決定的になっていない」と慎重だ。
	また、吉野ケ里遺跡を有力候補地と考える七田忠昭・佐賀県教委参事は「邪馬台国や卑弥呼の議論は、すべて魏志倭人伝の記述から始
	まっており、それらを発掘成果と照らし合わせることが大切」と強調。魏志倭人伝では、卑弥呼の宮殿を「宮室・楼閣・城柵」として
	いるが、七田さんは「この『3点セット』は、吉野ケ里の北内郭にそろっている。今回の発掘成果をもってしても、纒向にこれらがそ
	ろったわけではない」としている。【高島博之】



	奈良・纒向遺跡:3世紀前半の大型建物跡 邪馬台国か mainichi
 
	邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と同時代の3世
	紀前半の大型建物跡が見つかり、桜井市教委が10日、発表した。柱穴が南北19.2メートル、東西6.2メートルに整然と並び、
	同時代の建物では国内最大級。過去の発掘調査で確認された3棟の建物や柵列と共に、東西方向の同一直線上で南北対称となるよう
	計画的に配置されており、卑弥呼の「宮室」(宮殿)の可能性がある。邪馬台国大和説を前進させる成果と言えそうだ。
	78年に柵と建物跡が確認された調査地点を、今年2月から区域を広げて再度調査。東西に計画的に並ぶ三つの建物群や柵を確認。
	大型建物跡は、その東側の区域で新たに見つかった。
	直径約30センチの柱跡が南北に4.8メートル、東西に3.1メートルの間隔で並んでおり、南北方向の柱の間には床を支える細
	い束柱の穴があった。
	市教委は、後世に柱穴が削られた西側も含め、東西幅は倍の12.4メートルだったと推定。復元図を作成した黒田龍二・神戸大准
	教授(建築史)は、地上約2メートルに床を設けた高床式・一層の入り母屋造りで、高さは約10メートルとみている。
	推定床面積は約238平方メートル。弥生時代最大規模の環濠(かんごう)集落で、邪馬台国九州説の候補地である吉野ケ里遺跡
	(佐賀県)で最も大きい「主祭殿」(2〜3世紀)の約1.5倍になる。
	また、同一直線上で南北対称となる建物配置は、同時期までには例がない。飛鳥時代(7世紀)の宮殿と共通する特徴で、当時の王
	権中枢の一角であった可能性が高い。
	現地説明会は14、15日の午前10時〜午後3時。雨天中止。JR巻向駅の北100メートル。駐車場はない。【高島博之】

	石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)の話 邪馬台国が纒向遺跡にあったという有力な根拠。建物は同時代には例のない大き
	さだ。住まいとしては大規模すぎ、祭祀(さいし)の場で、魏志倭人伝にある卑弥呼の「宮室」に相当するのではないか。

	【ことば】纒向遺跡

	奈良県桜井市の三輪山西側に広がる3〜4世紀の大規模集落遺跡。東西約2キロ、南北約1.5キロに、最古級の前方後円墳とされ
	る纒向石塚古墳や、卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳がある。各地の土器が持ち込まれ、邪馬台国の最有力候補地とさ
	れる。71年から発掘調査が始まり、今回で166回目だが、小規模な発掘が多く、全体像は分かっていない。




電車を降りた連中が我先にと広場の行列に並ぶ。1電車が着く度に行列が出来上がる。



ちょうど1時間並んで行列が動き出した。郭公さんは私の左の列にいた。











発掘現場全景。昨年より少し広いエリアを掘っている。


















	本日の弁士は、桜井市教育委員会の橋本さん。この直前、2009.11.08に太宰府で開催された、九州国立博物館での開館4周年記念特
	別展古代九州の国宝シンポジウム「邪馬台国はここにあった」でも発掘成果を披露していた。「邪馬台国だ、卑弥呼の館だと騒いで
	いる人たちがいますが、何も証明されてはいません。それよりも、古墳時代の初期に、ここにこんな大きな建物群を持つ集団があっ
	た、ということに思いを馳せて下さいと力説していた。そのとおり。ここは邪馬台国ではありませんから。
















	纒向遺跡は大集落と言われながらも、今まで人の住む集落跡が発見されていない。今回発見されたのも祭祀用と考えられる建物と土抗、
	そして土器類である。遺跡の性格は居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり、箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀
	のための聖地と考える学者も多い。 












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	巻向遺跡へ行って来ました。 投稿者:筑前  投稿日:2009年11月15日(日)21時44分18秒 
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	本日166次発掘調査の現地説明会に行って来ました。1時間待ちでしたね。巻向の駅のホームから発掘現場が見えました。昨年掘ってい
	たところのすぐ東側です。あまり人数も多くなさそうだったので、「これなら早いワイ」と駅を出たら人人人。何と、待機場所の広場
	にはテントが幾つか立っていて、端っこに見物人の待機行列が。「うわー」と思いましたが、「もうここまで来たし、並ぶか」と覚悟
	を決めて、左から3列目に並びました。1列は4人の横並び50列ほど(つまり200人ほど)がひとかたまり。これの3列ならんでいる終わ
	りの方に並ぶと、すぐに携帯が鳴りました。また嫁半かなと見ると郭公さんから。「どしたん、どこにおるん?」と聞くと、「横、横、
	隣の列!」「エー」。左の集団を見ると、後ろの方で郭公さんが手を振っておりました。

	昨年掘ってた所のすぐ東隣を掘ってました。昨年はたいした成果はなかったようでしたが、今回は大きな柱の建物跡が出てきて、いわ
	ゆる「邪馬台国近畿説」の人たちは、「これで邪馬台国は纏向だ!」とか、「ここが卑弥呼の宮殿だ!」と騒いでいます。しかし発掘
	に従事している櫻井市教育委の橋本さんなどは冷静で、「卑弥呼の宮殿などと言うことはわかりません。それよりもその時代にここか
	ら古墳時代が始まったようにみえる、その重要性に注目して下さい。」と力説していました。けだし、慧眼です。
	この橋本さんは、先日九州国立博物館で、私が喋る前の第一部で高島さんと二人で「基調講演」をしていた、あの橋本さんでした。
	あの時も、纏向遺跡の発掘現場の写真をいっぱいスライドで見せて、「弥生時代の纏向」を強調していましたが、特に邪馬台国と結び
	つけて話すことはしていませんでした。
	なにか出るとすぐ、邪馬台国だ、卑弥呼だと騒ぐ、一部の「郷土史家的考古学者」先生達には、「纏向遺跡=邪馬台国」の図式以外は
	もう何も見えないんでしょうね。学者であればもっと冷静に対処して欲しいものです。最近の近畿説の「妄信的な」「郷土史家的」学
	者先生たちは何か焦りすぎているように見えます。まだ何もわかっていないのに、邪馬台国がどうしても近畿に無いといけないかのよ
	うに無理矢理世間に押しつけようとしています。「別に、今すぐ分からなければやがて将来の学者たちが発見してくれるさ。」程度に
	構えていればいいものを、何が何でも自分が生きてるうちに、邪馬台国を巻向にしてしまおうと必死です。哀れさを通り越して悲しさ
	を感じます。

	しかしながら、今日の現場は結構大きな柱跡が出土していました。いままで建物跡が全くでなかっただけに、「宮殿だ!宮殿だ!」と
	騒ぐ気持ちも分かります。しかしちょっと軽々ですね。ほんの一棟見つかっただけでこの騒ぎです。九州の原の辻や吉野ヶ里や平塚川
	添に比べれば、猫の額のような遺跡にこれだけ喜ぶのは、やはり「九州説」に対する「負い目」かコンプレックスがあるのではないか
	と思います。ちょうど、阪神タイガース・ファンの巨人に対する敵愾心のようなものを感じました。ここも、もっと広がりをもって発
	掘できればいいのでしょうが、もう線路と住宅が立ちこめていますので、これ以上何か出ることは無いかも知れません。

	いずれにしても、邪馬台国の時代にここに大型建物らしき住居があった、という事は事実ですので、果たして邪馬台国だったかどうか
	は今からの研究にゆだねるしかありません。
	俳優の刈谷謙介も、見物客整理に一役買ってました。「とまらずーっ、進んで進んで−」と叫んでました。あいつは大分県出身のくせ
	に近畿説をとなえる、私の友人の矢野君のような「裏切り者」です。ハハハ。(下の写真は、柱の坑跡を写している郭公さんです。)  
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	僕も行ってきました。 投稿者:郭  投稿日:2009年11月15日(日)23時01分0秒   
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	あんまり行く気もなかったのですが、古代史にはちっとも興味のない嫁が、いかにも卑弥呼のそれが出たかのような気分で、「説明会
	あるみたいや」なんてことを言いますので、いちいち説明するのも面倒なので「ほなちょっと」と、僕も行ってきました。
	写真アップしましたので、必要なものがあれば遠慮なくどうぞ。

	・倉ではなく宮殿と断言口調
	・真北へは5度ほどずれているが、東西に並ぶ建物群の主軸は同一線上にあり、計画的な建物。
	・メインの宮殿は南北に長い長方形。(ここがちょっと面白いところ。だって、ふつう東西に長く建てますよね)
	・庄内古期から庄内3期まで存続。以後廃絶。柱は抜き取られリサイクルされた模様。
	・かつての川に隣接。
	・トイレらしきものは見当たらなかった。たぶん、別にあったんでしょう、と。
	・微高地とは言え、線路の西はまだ水田が多く、宮殿を建てるにはもすこし山側の水はけのいいところを選ぶんじゃないかな?

	宮殿であることを前提にあるストーリーを考えてみると、
	1.庄内3で廃絶したわけだから、宮殿の主がなくなって布留0期のお墓に葬られた。
	2.宮殿は一代かぎりだったのか、廃絶。次代の王はまた自らの宮殿を建てる。柱が抜き取られていることを考えると、次代の王の宮
	  殿に転用されたのかもしれませんね。
	3.年輪年代法などで、思ったより古い年代が出てしまうのも、この転用が常識だったのかもしれません。伐採して乾かして柱に使う
	  ことを考えればしばらくは寝かせておかないといかんでしょうから、転用だとすぐ使える。    
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	卑弥呼の柱”別の宮殿にリサイクル? 奈良・纒向遺跡 	2009.11.11 
 
	奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった邪馬台国の女王、卑弥呼の宮殿ともいわれる大型建物跡(3世紀前半)は、廃絶に
	伴って柱だけ抜き取られていたことが11日、市教委の調査で分かった。次の女王・壱与(いよ)の時代(3世紀後半)になると、遺
	跡の中心は約600メートル東に移ったとされており、新しい宮殿の柱にリサイクルされた可能性もあるという。
	大型建物跡では、一辺約1メートルの柱穴が十数本分見つかり、いずれも柱は直径約30センチと推定されている。そのうち数カ所の
	柱穴では、柱を引き抜くために掘り返された痕跡が確認された。
	奈良時代の都・平城京(710〜784年)でも宮殿築造の際、直前まで都だった藤原京(694〜710年)の宮殿の柱や瓦などを
	持ち出して使っており、「卑弥呼の宮殿」でも再利用が進められた可能性が浮かび上がった。
	纒向遺跡は3世紀後半、今回の発掘現場から東側に中心が移動し、最盛期を迎えたとされている。木樋(もくひ)を組み合わせた導水
	施設などが見つかったほか、この時期に箸墓(はしはか)古墳(全長280メートル)が築かれたことから、卑弥呼の時代より発展し
	たといい、壱与の宮殿地域との見方もある。
	一方、今回の大型建物跡では、土器の出土量が周辺と比べて少なかったことから、宮殿一帯はつねにゴミなどが取り除かれ、清潔に管
	理された空間だったことも分かった。
	調査担当の橋本輝彦・市教委文化財課主査は「今回の大型建物跡は、常に管理された状態で数十年間使われたことが分かる。柱は新し
	い中枢建物に転用されたかもしれない」と話した。



























俄考古学者の苅谷先生も長靴姿で大活躍。役者のスケジュールはほったらかして堀りに来ている。













上左のテントのなかに、今回の出土物の一部を展示している。以下がその展示品。














	纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す重要な遺跡であり、また、現在では邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではない
	かとして注目を浴びている。3世紀前半の遺構は必ずしも多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。
	農業用の大型水路や無数の土坑のなかには、三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられており、石塚古墳の周濠からは吉備
	系の祭祀遺物である弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。



すっかり日もかげってきたというのに、広場ではまだ見学の行列が並んでいた。



ホームから見た見学会会場と行列。電車が行った後は一瞬ホームに誰もいなくなる。






	大型建物は南北19.2メートル、東西12.4メートル、床面積は約238平方メートルと推定されている。柱穴13個(直径32
	〜38センチ)が確認され、その間には、一回り小さい柱穴9個(直径23〜25センチ)があった。桜井市教育委員会は、南北の柱
	間(約4.8メートル)を支える束柱(つかばしら)だったとしている。

	邪馬台国の女王・卑弥呼が君臨した時期の建物としては 「国内最大の面積(asahi.com)」などという報道や、「邪馬台国の中枢施設
	の可能性がある」という報道もある。さらには「これで邪馬台国論争は集結した(白石太一郎)」という学者もいて、「いったい君た
	ちの頭の中はどうなってるんだい?」といいたくなる。この遺構を見て「大型建物跡」と言うほど、この遺跡には建物跡が無かったの
	だから仕方がないと言えば仕方がないのだが。
	今回見つかった大型建物跡は1棟で、桜井市教育委員会によると、周辺で以前に発掘された3棟とともに中心軸が東西の同一線上に並
	ぶなど例のない計画的な配置が施されていたという。しかしどう観ても、この遺跡を「卑弥呼の館」と呼ぶには貧弱すぎる。吉野ケ里
	遺跡(佐賀県)の高床式建物跡などを見たら、とても今回の遺跡が「邪馬台国」に関わるものだとは考えにくい。
 
	大型建物跡の一部は、方形周溝墓とみられるL字形の溝で壊されていた。溝から3世紀中ごろの土器が出土したため、大型建物の時期
	を3世紀前半と判断したようだが、市教委では、これまでの調査面積は、遺跡全体の約5%にすぎず、今後の調査によって、さらに東
	側などに建物などが確認される可能性が期待されると言う。それはそれでかまわないが、出現してもいないものを、さもその存在が事
	実のように報道するマスコミの最近の低脳ぶりにはホトホト呆れる。昔は自分の頭で考え、学者にもヒケを取らない文化部記者が沢山
	いたものだが。 

	今の所、私の纒向遺跡にたいする考え方は、以下の新聞記事が妥当な線ではないかと思っている。この地は、やはり日本書紀に記され
	ている、崇神天皇、垂仁天皇の、4,5世紀の大和朝廷発足時の舞台になった場所なのではないかと思う。








サンケイ新聞 特集「卑弥呼いずこに」











	また巻向を掘っていて、以下の様な記事が新聞に載った。アホらしくて、もう説明会に行く気はしない。

	卑弥呼の祭祀用建物跡? 奈良・纒向遺跡で柱穴100個超出土 2013.2.2 13:44 MSNサンケイweb

	
	宮殿エリア西側で出土した100個以上の柱穴群=奈良県桜井市の纒向遺跡

	 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼(ひみこ)が君臨した時期にあたる
	3世紀前半の小型建物の柱穴が100個以上見つかり、市教委が1日、発表した。約60平方メートルの狭いエリアに集中し、
	小型建物を建てたり壊したりした跡とみられる。遺跡の中心部で柱穴が集中して確認されたのは初めてで、専門家は「年に数回、
	卑弥呼が特別に執り行った祭祀(さいし)用の建物跡ではないか」とみている。
	 市教委は過去の調査を踏まえ、遺跡の中心部は、卑弥呼の宮殿とも指摘される3世紀前半の大型建物を含む4棟の建物が東西
	に並んでいたと推定。今回、昭和53年に柱穴の一部が確認されていた最も西側の建物の推定地を調査し、この建物に関連する
	柱穴は確認されなかったが、周辺で直径10〜60センチの柱穴を100個以上確認した。
	 市教委によると、建物群の入り口にあたるとみられ、「特別な空間」として利用された可能性が高いという。古代祭祀に詳し
	い辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は「卑弥呼が年に数回、食物の収穫を感謝する祭祀のたびに建てられ、祭祀後に取り壊
	された複数の小型建物の痕跡ではないか」と推測している。
	 一方、今回の調査では、4世紀中頃に整備された豪族居館の周濠(しゅうごう)跡の一部も確認された。過去の調査を踏まえ、
	周濠の規模は東西約65メートル、南北約54メートル、幅は最大5・8メートル、深さ最大60センチ以上と判明した。
	 市教委は「3世紀の宮殿エリアを囲むような周濠で、この周辺のエリアが、世紀をまたいで政治や祭祀の神聖な土地として利
	用されていたのではないか」とみている。
	 現地説明会は3日午前10時から。JR桜井線巻向駅の西方徒歩約5分。

	こういう小さい遺跡でも「卑弥呼、卑弥呼」と叫ばなければならない近畿説論者はかわいそうである。「吉野ヶ里」や「平塚川
	添」を見たことが無い、或いは見てももう頭に入っていない人たちの精神構造は、「狂信的な郷土史家」以外の何物でも無い。
	魏志倭人伝をまともに読んだことも無く、自分が掘った遺跡を「ここが邪馬台国だ!」と思い込む考古学者たちに、歴史の構築
	を任せておいていいものだろうか。近畿圏の「狂信的な」一部考古学者達によって、日本の古代史はどんどんゆがめられつつあ
	る。
	こういう人たちにはもう給料を支払ってまで研究者で居て貰わなくてもいいと思う。膨大な研究費を税金から払って、あのねつ
	造事件を引き起こした責任は誰もとらないし、むしろ同じ事を繰り返そうとさえしている。そろそろ誰かが鉄槌を下さないと、
	「考古学」は学問の世界では誰からも相手にされなくなって死んでしまうし、「考古学者」は「ねつ造人間」とレッテルを貼ら
	れてしまう。これから考古学を学ぼうとしている若者をおかしな世界へ導こうとしている現況は、なんだか第二次世界大戦前に
	似ているような気がする。








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