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「京都市西京区・上里遺跡」発掘調査現場 2007.2.23(金)







		朝、新聞でこの記事を読んで、「ありゃ、説明会明日やんけ。」と弱った。明日は東大阪へ銅鐸・銅鏡の復元作
		業を見に行く予定なのだ。知人の「郭公さん」に頼み込んで行くので断れないし、「うぅ〜ん弱ったなぁ」。
		近畿で2例目の大規模縄文集落となれば是非見に行きたいが、こっちの現説は10時から1時間だけで、とても
		掛け持ちできそうな距離じゃない。残念だが諦めるか、と思ってTVの「24時」を見た。見終わって、ふと、
		そうだ今から行こうと思い立った。少し風邪気味で地理もわからないし若干心配だったが、近畿の縄文遺跡を見
		たいという気持ちには勝てなかった。今年の気候では珍しく冬風が吹きすさぶ中、長岡京を歩いてきた。
		なお、ここに掲示している現説の資料(白黒写真、遺跡図等)は、後日「財団法人京都市埋蔵文化財研究所」の
		HPから拝借したものを掲載した。記して謝意を表したい。
  


阪急京都線「西向日駅」で降りて、駅員に場所を尋ねたら「歩いたら相当ありますよ。」
と脅かされた。めげずに住宅街を抜けて国道へ出て、向日町警察署の横を歩いていく。



15分ほど歩いたら「小畑川」へでる。NETから印刷した地図によればもうまもなくのはずだが。






		「上里南ノ町」という住所だけを頼りに歩いたのだが、遺跡探しには自信の有る私も、今回は現場を見つけられ
		なかった。新上里橋を過ぎて上里小学校のところへ来てもそれらしいものがない。鼻水は出てくるし、廻りは住
		宅が立ちこめてはいるが、殆ど人も通らない。思いあまって新聞記事にあった「現場事務所」へ電話してみた。
		「上里小学校、あぁ相当行き過ぎてますよ。あなた、遺跡の側を通ってこられたんじゃないですかねぇ。」



田圃の中に、工事現場の金網柵が見えている。{あすこだ!」。遺跡の側にはなにやら石塔(下)があった。






		上里遺跡発掘調査現地説明会資料

						2007年2月24日(土曜日) 財団法人 京都市埋蔵文化財研究所


		所 在 地 : 京都市西京区上里南ノ町、長岡京市井ノ内北裏
		調査期間: 2006年6月12日〜継続中
		調査面積: 940u

		はじめに
		 この調査は、2002年度から継続して行っている道路(伏見向日町線)新設工事にともなうものです。
		 調査では、まず長岡京期の道路・建物などを発見しました。その下の層から、弥生時代の
		墓などを発見し、さらに、その下から縄文時代の集落や墓を発見しました。

		調査の概要
		 縄文時代の遺構は調査区の東半分で発見しました。検出した遺構は、竪穴住居跡・柱跡・墓・土壙などです。
		遺構の年代は、出土した土器から縄文時代晩期中頃(今から約3,000年前)とみられます。
		 竪穴住居跡は、6棟発見しました。住居跡1は、円形で直径約4m前後(床面積12.5u)、深さ約0.6m。床の
		中央には、炉が設けられています。壁際には、柱がめぐります。また、この住居跡内からは、石皿や磨(すり)
		石が出土しました。住居跡2は、方形と考えられますが、東側は検出できませんでした。住居跡3は、不定形
		で柱跡が認められます。住居跡4は、楕円形で南北が5mあり、床面積は約14uあります。住居跡5はほとんど
		削平されていましたが、柱跡を円弧状に検出したことから住居跡と考えました。住居跡6は、現在調査中です。
		調査区の東端北側で3基、南側で2基の土器棺墓を発見しました。墓は、径0.5m前後の穴の中に深鉢(甕)を
		斜めに据え、深鉢(甕)の破片や鉢で蓋をしていました。これらの土器棺墓は、子供を埋葬したものとみられ
		ます。土壙墓は4基発見しましたが、規模や方向はばらつきがあります。土壙墓1・3・4からは土器が出土
		しています。

		出土遺物
		 出土した縄文土器は、粗製の深鉢(甕)がほとんどですが、表面を磨いた精製のものも少量ですが出土して
		います。さらに、朱を塗った土器も数片出土しています。また、石製品には石斧、石鏃、石棒、石剣あるいは
		石刀、砥石、磨石、石皿、敲き石あるいは凹石などがあります。また、石器を作るさいに必要な石片を取るた
		めの石核や石屑が多数出土することから、集落の中で石器を作っていたことがわかりました。

		まとめ
		 この集落は、小畑川の河岸段丘に営まれていました。これまで、乙訓地域では縄文時代の住居跡が散見され
		ていましたが、今回の調査では、まとまって発見することができました。しかも、住居跡1は極めて残存状況
		が良く、発見例が少ない縄文時代晩期の住居のようすを明らかにすることができたことは大きな成果です。
		さらに、朱を塗った土器の発見は、他地域との交流を示しています。
		 なお、住居や墓が同時期にあったかどうかは、出土した土器などを今後さらに詳しく調べる必要があります。












炉跡があったのは「住居址1」である。下の写真で真ん中のやや広い穴ぼこがそれだ。



上は東側から見た遺跡全体。以下5枚の写真は、それを左から順に写したもの。








		見学客は私の他には一人もいなかった。誰かが説明してくれるのではないかと淡い期待を抱いていたが、学芸員
		はいないようで、誰も私にかまってくれる人はいなかった。奈良や大阪の現説では、こういう時は誰かが寄って
		きて、質問すれば必ず長々と説明してくれるもんだが、京都はちょっと違うようだ。聴こうと思って寄っていく
		とささっとどっかへ行ってしまうし。ほんとに作業員だけだったのかもしれない。










		やっぱり近畿にも縄文人達はおったんや。しかも晩期とはいえ定住してるし。この廻りにも住居跡がもっとある
		可能性が有るというので、ここは大規模な縄文ムラだったかもしれない。小畑川のすぐ側で、遠くに春日丘陵か
		ら小塩山、ポンポン山へ続く西京の山々を控えて、長い長い縄文時代を人々はここで謳歌していたのだろう。









	上里遺跡発掘調査現地説明会資料				2007年12月1日 

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	<目次>

		はじめに
		遺構
		縦穴住居
		土器棺墓
		土坑
		大溝
		炉跡
		出土遺物
		縄文土器
		石器
		その他
		まとめ
		図1 調査位置図
		図2 遺構略図(1/300)
		写真 昨年度調査地(西より)
		所在地 京都市西京区大原野上里南ノ町地内 
		期間 2007年5月−継続中(12月末終了予定) 
		調査面積 約1,500m2 
		調査機関 財団法人京都市埋蔵文化財研究所 
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	はじめに

	この調査は道路建設(伏見向日町線)に伴うもので、2003年から開始し、順次調査を進めてきました。本年度の調査地は、
	長岡京跡	の右京二条三坊一町・八町、そして縄文時代から古墳時代の集落遺跡(上里(かみざと)遺跡)にもあたってい
	ます。本年6月に実施した現地説明会では、長岡京時代の状況を見ていただきました。 
	その後弥生時代の調査を経て、現在、縄文時代晩期(今から3,000から2,500年前)の調査を行っています。昨年実施し
	た西隣の調査では、同じ縄文時代晩期の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)7棟、土器棺墓(どきかんぼ)(土器を棺として
	用いた墓)6基、土壙墓(どこうぼ)(穴を掘って埋葬した墓)3基などが見つかっています。今回の調査でも、竪穴住居、
	土器棺墓、土坑(どこう)(人工的に掘った穴)、大溝、炉跡(ろあと)などが見つかりました。 


	遺構

	竪穴住居目次竪穴1294は、東西3.8m、南北4.5mの楕円形で、床面の中央東寄りに炉跡があります。また、調査区の西端
	の落ち込みは、昨年度調査で検出している竪穴149の一部と考えられます。 


	土器棺墓

	土器棺墓は、調査区の西部と東部で見つかりました。西部には土器棺墓967・968・1064・1271・1452があります。東部に
	は土器棺墓340・349・354・436・845・978・1010・1078、ややはなれて土器棺墓855があります。土器棺墓には、一個の
	土器をまっすぐに立てて埋めるもの(土器の底があるものとないもの)、斜めに埋めるものや複数の土器を組み合わせる
	ものがあります。 


	大溝

	調査地の東半と西半に一条ずつ見つかりました。東半の大溝1215は、北西から南東へ、途中で東へ向かいます。幅8?10m、
	深さは1m	近くあり、東へ向かって浅くなっています。西肩には多くの土器や石器、炭などが堆積しています。
	西半の大溝1067は西から東へ、途中から南へ湾曲してさらに東へ向かっています。幅は、西側で3?3.6m、深さ0.5m、
	東では幅約2m、探さ0.8mあります。全体が土器・石器・炭を多く含む土で埋まっていました。 


	炉跡

	炉跡は、1133・1311・1280・1326・1459などがあります。とくに炉跡1326は、直径0.8mで周囲に石を置き、底部の土は
	高温で焼け、赤色から橙色に変色し固まっていることから、土器を置いて煮炊(にたき)きをした炉跡と考えられます。
	炉跡1280も同様の石囲いのものです。 


	出土遺物

	縄文土器
	深鉢(ふかばち)・浅鉢(あさばち)など、縄文時代晩期の中頃(滋賀里(しがさと)III a式?III b式)の土器が多量
	に出土しています。土器の中には、生駒山(いこまやま)の西側地域に特有の粘土を用いたのものも含まれています。 

	石器
	石鏃(せきぞく)、石錐(せきすい)、石斧(せきふ)、磨石(すりいし)、凹(くぼ)み石、石皿(いしぎら)、砥石
	(といし)、台石(だいいし)、敲石(たたきいし)、石錘(せきすい)、石棒(せきぼう)(石刀(せきとう))など
	があります。とくに石鏃が多く、他のものはほとんどが破損した状態で見つかっています。石鏃はほとんどがサヌカイト
	製で、産地は大阪府の二上山(にじょうざん)のものと香川県の金山(かなやま)のものがあるようです。 


	その他

	特異なものとしては、翡翠(ひすい)製の小玉(直径0.5cm)が1点、滑石製(かっせきせい)の勾玉(まがたま)が1点
	見つかっています。窮翠の原産地としては、新潟県糸魚川市(いといがわし)の姫川(ひめかわ)などが知られています。
	そのほか、朱を塗った木製品などもあります。 


	まとめ

	今回の調査では、縄文時代晩期の集落の様子がさらに良くわかってきました。集落は竪穴住居、土器棺墓、土坑などから
	なっており、昨年度に調査した竪穴住居群を含めて一つのグループであったと考えられます。その東側を画するように大
	溝1215があります。大溝には排水の用途だけではなく、たくさんの不用になった土器や石器が捨てられていたことから、
	ゴミ捨て場としても利用されていたようです。また、その量の多さから、比較的長い期間にわたり集落が営まれていたこ
	とがわかります。 
	さらに東部にも大溝1067があり、同じように多くの土器や石器が捨てられていたことから、すぐ近くに別の住居群があっ
	たと考えられます。 
	これだけ縄文時代の集落の様子がわかったのは京都市内では初めてのことです。今後さらに遺物などの整理が進めば、縄
	文時代の生活の様子がより具体的になるものと考えられます。 

	図1 調査位置図 クリックして下さい。

	図2 遺構略図(1/300) クリックして下さい。

上里遺跡発掘調査現地状況 2007年12月1日


































	縄文晩期の土からコメ出土 西京の上里遺跡		
	2008年6月10日23時39分配信 京都新聞


 	 上里遺跡から出土した炭化したコメ
 
	 京都市西京区の上里遺跡から出土した縄文晩期の堆積層から、3粒のコメと数十粒のマメが炭化した状態で見つかり、京
	都市埋蔵文化財研究所が10日発表した。
	国立歴史民俗博物館(千葉県)に依頼し放射性炭素(炭素14)年代測定を行ったところ、コメは弥生前期の紀元前510−
	390年、マメは縄文晩期の同1190−1000年と異なる結果が出た。
	 同じ層から出土した土器は縄文晩期で、この時期の炭素14年代は数百年の誤差があることが知られており、コメの実年代
	が縄文晩期にさかのぼる可能性も指摘されている。専門家は「日本で最古級のコメの可能性もある」と話している。  

	最終更新:6月11日10時39分


	上里遺跡:豆、米が出土 京都市埋文研、貴重な農耕資料−−西京 /京都	   
	2008年6月11日17時1分配信 毎日新聞

	 ◇豆(縄文晩期)、米(弥生初期)が出土
	 京都市埋蔵文化財研究所は10日、縄文晩期から室町時代の集落跡である西京区大原野の上里遺跡から、縄文晩期の炭化
	した豆や弥生時代初期の米が複数見つかったと発表した。集落周辺での出土は極めて珍しく、当時の農耕を探る貴重な資料
	という。
	 発見されたのは豆30〜40点、米3点、どんぐり20点のほか、農耕具としての利用も可能な石斧(せきふ)など。
	ゴミ捨て場に使われたとみられる集落を囲む流路のたい積土から出土した。豆1点、米1点を炭素年代測定した結果、豆は
	紀元前1130〜1000年(縄文晩期中ごろ)、米は同430〜390年(弥生初期ごろ)と判明。豆の栽培種は野生種
	よりサイズが大きいといい、研究所は今後、栽培種かどうか確認を進める。
	 京都大大学院の泉拓良教授(考古学)は米についても「縄文時代晩期中ごろの土器と同じ層から見つかっていることや炭
	素測定の誤差を考えれば、縄文期のものである可能性はある」とみている。

	 
		コメ			マメ

	 豆や米などは12〜29日、上京区の京都市考古資料館で展示される。【谷田朋美】 6月11日朝刊  








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