Sound: grow old with me

根子谷台遺跡

うつのみや遺跡の広場(国指定史跡・根古谷台遺跡) 2006.10.4 栃木県宇都宮市




 


	宇都宮へ行った。後数日で東京を離れるので、今の内に東京周辺の遺跡や博物館を廻っておこうと思い、あちこち調べた。
	なるべく日帰りで帰れる所を探していたら、宇都宮市にこの遺跡があった。ほかにも大谷遺跡や栃木県博物館もここにあるの
	で、京浜東北線と新幹線を乗り継いでやってきた。
	宇都宮市(うつのみやし)は、関東地方の北部、栃木県の中部に位置する都市で、同県の県庁所在地である。旧河内郡池辺郷。
	河内郡(河内町、上河内町、上三川町)とともに宇河地区と呼ばれる。現在、この宇河地区内での自治体合併が進められてい
	る。人口は約46万人、工業製品出荷額・年間商品販売額ともに栃木県内第2位の小山市を大きく引き離して県内第1位であり、
	1996年(平成 8年)4月1日、国から中核市に指定されている。北関東唯一の中核市であり、栃木県はもとより北関東を代表す
	る経済・行政の中心都市である。




	根子谷台遺跡

	宇都宮市上欠町にある縄文時代前期の関東最大級の遺跡。集落の中心にある円形広場からは、約300基の墓穴とその中から
	多くの副葬品が発見されたほか、長方形の大型建物跡がいくつも発見された。根古谷台遺跡は、霊園墓地造成に先立つ発掘調
	査で発見されたもので、縄文時代前期の大型建物を含む集落跡である。この集落跡は東西約300m、南北約150mの広がりを持ち、
	その中央の広場には墓壙(墓穴)と思われる 339の土壙が発見された。このうち7基の土壙から出土した石製耳飾4個、石製
	丸玉2個、石製小玉5個、石製管玉13個の装身具類と石匙(いしさじ)5個、石鏃3本が指定されている。
	これらはいづれも土壙内から出土した。その状態は石製けつ状耳飾りが2個ずつ対になって、また石製丸玉・小玉が石製管玉
	と共に数個ずつ組み合って、それぞれ2基の土壙から出土するなど、装身具を装着したままの遺体埋葬の実態を示している。
	また石器類についても副葬品的な性格が想定できる。石製けつ状耳飾りや石製丸玉などの石器類は、厳選された石材を用い高
	度な技術によって製作されたもので、ものによっては石製装身具の製作技法の一端を良くあらわしている。墓壙からの出土品
	が稀な縄文時代にあって、本指定品は、当時の装身具及び副葬品を納める実態を復元する上で重要であるとともに、縄文時代
	前期の石器の製作技術を良く示しており、極めて重要なものである。 




遺跡公園の前に、こじんまりとした円墳があった。ここは縄文から古墳時代、そして現代までも脈々と続く墓域である。






	<根古谷台遺跡>(ねごやだいいせき)  国指定史跡   指定年月日  昭63・5・17

	所在地 : 宇都宮市上欠町字根古谷台 
	管理者 : 宇都宮市 
	時 期 : 縄文時代前期 : 史跡公園として公開 
    アクセス: JR宇都宮駅より関東バス楡木車庫又は運転免許センター行き上欠下バス停下車徒歩10分 

	本遺跡は、縄文時代前期の大規模な集落跡であり、昭和61・62年、宇都宮市営の霊園墓地建設に先立って発掘調査が実施され
	た。その結果、広場の中心部に 339基の墓壙(墓穴)群を配し、その周囲を多数の竪穴住居や長方形大型建物や方形建物、掘
	立柱建物などの特殊な建物跡群が弧状に取り囲むという集落の姿が確認された。中でも15棟検出された長方形大型建物は、本
	遺跡を特徴付ける建物跡の一つであり、全長が 14〜24mといづれも長大であること、構造に規格性がみられることなど、この
	時期のものとしては他に類を見ないものであった。また竪穴住居についても長さ8mを越え6本の主柱と多くの炉を持ち、頻
	繁に建て替えられる非常に大型のものが多数検出されている。方形建物跡は、主柱4本を方形に配置し、外周を溝状に続く隅
	丸方形の柱穴列がめぐる。長方形大型建物と構造などが類似するが、大きさは通常の竪穴住居に相当する。この建物も長方形
	大型建物同様全国でこれまで発見されたことがなかった。広場内の数多くの墓壙のうち、重要文化財に指定された石器を検出
	した7基の墓壙からは、当時の個人の状況や埋葬姿勢などが明らかにする上で貴重な資料となっている。本遺跡は墓域周辺に
	特殊な構造を持と大きさを持つ建物群を配置しそれを頻繁に建て替えしている。また日常品の出土が少ないことなどから、非
	日常的な、例えば葬送儀礼などの集団祭祀を行った可能性も考えられる。なお、現在は「うつのみや遺跡の広場」として整備
	され、4棟の復元住居や資料館が置かれており、多くの見学者で賑わっている。
 


 







 





 

復元された長方形大型建物(下)、と大型竪穴住居(上)。

 

 


	市の職員とおぼしき人が建物群をチェツクしていた。上の1号大型建物の解説を読んでいたら「古代の日本で一番大きい建物」
	とあったので、青森の三内丸山とどっちが大きいか質問してみたが、「いゃー、あっちのほうが大きいんじゃないですかねぇ」
	とはっきりしない。1991年現在日本最大の平面面積を持つ復元建物とあるので、「1991年なら三内丸山の大型建物は
	もう発見されてますよね。そしたらホンマにこれが一番おおきいんかなぁ。」と追い打ちをかけると、もうかんべんしてくれ、
	わしゃそんなことは知らんよ、とでもいいたげに、そそくさとどっかへ行ってしまった。どうやら彼は、学芸員の仕事ではな
	くて、単に建物の具合を調査していただけのようだった。管理室で聞いても、この遺跡のパンフ一つなかったし、これだけ整
	備するのなら、有料でもCOPYでもいいから、なにか解説資料を置いといて欲しかった。















	墓穴があった場所。並べてある石は墓穴があった位置を示す。それぞれの墓穴は盛り土はなく、ただいくつかの石が穴の上
	に載せられているだけであった。











毎年5月には西側斜面を可憐なニッコウキスゲが埋めつくし、この期間に「キスゲ祭り」も行われている。






	「うつのみや遺跡の広場」は宇都宮市の第2墓園(聖山公園)が造成された上欠町の台地上にある。この台地は、以前から
	古墳時代の遺跡として確認されており、墓園造成にあたって記録保存を目的とした発掘調査が実施(昭和57年〜62年)され
	た。しかし、昭和61年に予想もしなかった縄文前期の大集落跡が発見されたため、当初の墓園計画の一部を変更し、同地を
	「根古谷台遺跡」と称して現状保存されることになった。
	昭和62年11月、根古谷台遺跡の恒久的保存を決定するとともに、その積極的な活用を図るために同遺跡の隣接地を含め史跡
	公園「うつのみや遺跡の広場」として3か年計画で整備された。この遺跡の広場は、キャッチフレーズを「よみがえる太古」
	とし、その整備の重点は日本最大規模(1号長方形大型建物)を誇る復元建物と、埋葬の諸形態などを展示した資料館の2
	つとして、平成3年3月開園した。その間、根古谷台遺跡は国の史跡に指定(昭和63年5月17日)されただけでなく、装飾
	品などの一部の出土品も国の重要文化財に指定(平成2年6月29日)された。

	「うつのみや遺跡の広場」
	■開園時間 午前9時〜午後5時(11 月1日〜3月31日 午後4時30分まで)、ただし入園は閉園30分前まで 
	■休園日  月曜日(この日が休日の場合はその翌日)
		  祝日の翌日(土・日・祝日の場合は開園)年末・年始(12月29日〜1月3日) 
	■所在地  宇都宮市上欠町151−1 
	■交通   自家用車=鹿沼ICより約10分 
		  バス=関東バス楡木車庫又は運転免許センター行き「上欠下」バス停留所下車徒歩約10分 
	■入園料  無料 



根子谷台遺跡・資料館





	遺跡は「聖山公園」という広大な墓苑のなかにある。武子川と姿川という二つの小さな川に挟まれた丘の上で、東北本線と
	東北自動車道にはさまれた、宇都宮市のはずれである。墓苑の造成工事のおりに、このエリアの一部にかなり大きな縄文時
	代の集落の跡地遺跡が発見された。発掘当時の宇都宮市長の声、「墓地はほかに求めることができるが、遺跡はほかにもと
	めることができない」ということばが、資料館に残されている。資料館は、ここにあった長方形大型建物を模している。

 











 


	発掘調査の結果、この遺跡の幾つかの特徴が明らかになった。

	1.遺跡中央の広場の中心部分を避けてその周囲に多くの墓穴がつくられており、その数は合計339基にも達していること。
	2.この墓穴群のある広場のまわりに、広場を囲むように多くの竪穴住居(27棟)や長方形の大型建物(15棟)などが建て
	  られていたこと。長方形大型建物は幅が約10メートル、長さが約24メートル、高さが約9メートルにも達し、遺跡発掘
	  当時では日本最大の縄文建物遺跡といわれたこと。
	3.しかも、その長方形大型建物には、そこで生活をしたという痕跡がまったくなく、炉の跡などもないこと。
	4.さらに、この大型建物は墓穴のある広場の周囲の決まった位置に長編を広場に向けて建てられており、何回も建て直さ
	  れた形跡があること。
	5.また、竪穴住居についても、柱が6本からなる巨大なもので、一つの棟のなかに数多くの炉の跡が発見されている。

	このほか、8本の柱が円形に配置されたと考えられる建物跡も発見されている。












この長岡百穴にも行ってみたかったが時間がなかった。この周辺はバスの便が少なくて移動ばかりに時間を費やした。









 









根古谷台遺跡土壙出土品( ねごやだいいせきどこうしゅつどひん )縄文時代前期 重要文化財(考古資料)
「・抉状耳飾・管玉・丸玉・小玉」 国指定史跡「根古谷台遺跡」から出土。縄文時代前期 宇都宮市教育委員会








	<縄文時代の宇都宮>

	○今から1万年ほど前になると、土器を作り、本格的な弓矢をもった新しい時代が登場します。世界でも珍しい縄目の文様を
	 もった縄文土器が使われたのでこれから紀元前300年頃までを縄文時代と呼びます。
	○この時代は、動物や魚、植物をとってくらす生活が中心です。しかし、これらを生か焼いて食べる方法しか知らなかった旧
	 石器時代とくらべ、土器を使った調理や保存の方法が非常に発達しました。弓矢は、それまでの投げやりにくらべ、遠くへ
	 正確に命中させることができるようになり、個人の力だけでけものを捕らえることができるようになりました。
	○一口に縄文時代といっても、約8000年もの長い期間に、気候や動植物の様子もさまざまに変化したようです。縄文時代は古
	 い順から草創期(1万〜8000年前)・早期(8000〜6000年前)・前期(6000〜5000年前)・中期(5000〜4000年前)・後期
	 (4000〜3000年前)・晩期(3000〜2300年前)の6つの時期に大きく分けられます。
	○草創期には、大谷寺洞穴遺跡のように狭い洞くつや岩陰を利用して生活する場合と、広い台地の縁辺に竪穴住居を建てて住
	 む場合とがありました。
	○早期になると,気候が温暖になりつつあったためか,広い土地に集落を作るようになり,生活の安定にともなって集落の規
	 模が拡大していったようです。
	○前期までは、さらに気温が上昇して氷河がとけて海水が増加したため、海岸線は栃木県南部にまで押し寄せていました。こ
	 れを縄文海進といいます。藤岡町や野木町では貝塚が発見されていますが、そこからは海の貝が見つかっています。
	○生活環境に恵まれたこの時期は、人口も増加して大きな集落が生まれる一方、根古谷台遺跡のように、いくつかのムラが集
	 会やまつりを行ったと考えられるような、特別な集落も発達しました。
	○中期になると、縄文人の生活は安定し人口はますます増加したので、竹下遺跡や御城田遺跡などのように大きな集落が形成
	 されました。この時期は、豪華な文様がついた芸術的な土器が多く、土器の黄金時代ともいわれます。
	○縄文時代も後期から晩期になると、中期ごろから始まった気候の寒冷化と、増えきった人口を養うだけの食料を求めること
	 ができなかったためか、集落は次第に小規模になる傾向が見られます。
	○しかし、宇都宮周辺は山の幸・川の幸が豊かであったため、石川坪遺跡や刈沼遺跡のような集落がたくさん見られます。ま
	 た、土偶や石棒など、まじないに用いていたと考えられるものが見られるのもこの時期の特徴です。
	<宇都宮市教育委員会>


邪馬台国大研究HP/ 遺跡めぐり/ 根子谷台遺跡