Music: 遠き山に日は落ちて

大阪府枚方市・くずはのお台場 2012.4.6(金)


	大阪府枚方市楠葉にお台場がある事は昔から知っていた。我が家は昭和62年(平成になる2年前)までこの楠葉に住んでいたが、
	そのときはまだその事は知らなかった。知らずにこの「お台場」周辺を散歩していたのである。吹田へ引っ越した後で、「お台場」
	の事を知ったが、その時はさほど興味もわかなかった。「ヘェー、あんなとこにネェ」くらいの感覚だった。それが、最近幕末に
	興味を持ちだしたこともあって、再度、本格的に訪問してみようと思いたったのがこのレポートである。
	その件(くだり)は、巻末の[「風の中へ」第13号「くずはのお台場」]を参照いただきたいが、ともかく「お台場」が関西にも
	あって、しかも全国的にもきわめて珍しい、淀川という河川に向けて作られた「お台場」なのである。勝海舟が設計し、会津藩が
	建造した幕末の諸外国に向けての防御施設跡で、河川の台場としては日本唯一の現存遺跡で、現在国指定の史跡になっている。
 


阪急電車で四条まで来て、京阪三条まで高瀬川沿いに桜並木を上る。桜真っ盛り。





高瀬川に掛かる桜を見て三条京阪に到着。ここから京阪電車特急で「八幡」まで来て、各停に乗り換え「橋本」駅で下車。



橋本駅前には「西遊記」と読み間違えたお寺がある。「西で遊ぶ寺」なんてカッコイイ。船着き場もあったんだ。





駅から10分ほど歩くと、奈良西大寺の別院「久修園院」(くしゅうおんいん)がある。











久修園院の裏手は広い水田になっている。ここに「くずはお台場」があった。上は水田側から見た久修園院.



その南側の水田。ここが「くずはお台場跡」だ。高い堤防が淀川の堤防で、その手前の高架は京阪電車の線路である。



上下のくぼんだ部分が「南門」の部分で、お台場跡がそっくり一段高く残っている。こんなにくっきり残っているのは珍しい。



当時はあの堤防も低く電車も走っていないので、ここに据え付けた大砲から、淀川を遡ってくる異国船を撃てたのである。




	勿論、遡ってきた異国船はないし、この砲台がわずかに火を発したのは鳥羽伏見の戦いである。以下、前述「くずはのお台場」より。

	しかし当然ながら、この砲台が外国勢に対して用いられたことは一度も無い。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで、薩長軍を中
	心とした官軍は幕府軍を撃破したが、高浜砲台を守っていた津藩藤堂家は、幕府軍の不利をみて官軍に内応し、小浜藩酒井家が守る
	楠葉砲台に砲撃を浴びせた。これに「くずは砲台」も応戦したが、形勢不利で程なく「くずは砲台」は官軍に占拠される。



「くずは砲台」の全景。青い○で囲んだ辺りに火薬庫があったものと思われる。左手の住宅地の隅に説明板と顕彰石柱が立っている。
















	ここから京阪樟葉駅へ歩く。近所の婆さんに「橋本」と「くずは」とどっちが近いか聞いたら「そりゃくずはだがね」と答えたが、
	私は「橋本」のほうが近かったような気がする。後で地図を見ても若干「橋本」寄りのような気がするが、ま、真ん中あたりかな。



前方高層マンションの右側に「京阪電車樟葉駅」がある。



樟葉駅周辺は、我々が居た頃とは様変わりしていた。商店街は無くなり、近代的なモールが出現している。




	上左端にある高層マンションの一室に歌手「倉木 麻衣」の実家がある。

	倉木 麻衣(くらき まい)、本名は非公表。 出典:ウィキペディア
	1982年(昭和57年)10月28日 - )は、日本の女性歌手。千葉県船橋市出身。デビュー後大阪府枚方市に転居。LOOP・NORTHERN MUSIC
	所属。前所属はGIZA studio。父親は映画監督の山前五十洋(幼少時代、監督作品にも出演)。祖父は詩人の山前実治。聖徳大学附属
	高等学校(現・聖徳大学附属女子高等学校)から京都の立命館宇治高等学校編入・卒業を経て、2001年(平成13年)4月、京都市内に
	ある立命館大学産業社会学部人間文化学系入学、2005年(平成17年)3月に卒業。2012年(平成24年)2月、単独ライブ公演回数は250
	回を突破した。



商店街は様変わりしたが、



駅前はあまり変わっていない。右側は高島屋だったが、もう違うようである。



「樟葉の牧」についての説明塔。この形式は大阪府下あちこちにあるので、府の教育委員会が設置しているものと思われる。









ここからまた京阪電車で京都へ引き返し、阪急電車で自宅まで。都合、出発から4時間くらいの小旅行は終了。








大阪本町歴史倶楽部・機関誌 「風の中へ」第13号 投稿

	8.くずはの「お台場」                                  井上筑前

	1.	はじめに

	 前回号で、私は川路聖謨とプチャーチンについて書いた。あれを読んで、「川路聖謨なんて全然知らんかった」という人もあった。
	我が歴史倶楽部の会是は「日本人はどこから来たか」であり、月々の例会も基本的には、古代史(縄文・弥生・古墳・律令時代)の
	範疇に対象を絞っている。近畿圏はまさに、この時代を学ぶのに格好の題材が目白押しである。しかし勿論、歴史を学ぶ範囲として
	はそれに限定するわけでは無く、どの時代のどんな事象を研究してもいいわけだし、個人的な嗜好もある。南北朝時代の70年に及
	ぶ戦乱のエピソードに胸躍らせる方もあろうし、幕末・明治の日本におけるいわば「明治革命」とでも呼ぶ、封建社会から近代国家
	へと移り変わる劇的な時代の出来事に興味を覚える方もあるだろう。その題材もまた、近畿にはあふれている。
	 私もかっては古代史以外の範疇にはあまり興味は無かった。ただ、「天皇陵めぐり」に一生懸命になっていた頃は、天皇家の歴史
	のあまりの面白さに南北朝時代に関する書物を必死になって読んでいた時期もあったが、程なく熱も冷めて、今となっては一過性の
	興味だったなぁと思う。そしてまだ、一過性かどうかはわからないが、ここ二三年、幕末期に興味を引かれている。前回号で「川路
	聖謨とプチャーチン」を書いたのもその流れである。
	だが幕末と言っても、私の興味は「明治維新」ではない。坂本龍馬や、西郷隆盛や大久保利通などのように、明治時代を興して近代
	国家を築く礎となった人々には、勿論それなりの関心はあるが、あまり興味は無い。
	 私が興味を惹かれるのは、幕末期に生きた江戸時代の人々である。迫りくる時代変革の予感と、末期症状を見せている徳川幕府の
	凋落ぶりに悲嘆しながらも、侍としてその「大義」に殉じるほかなかった武士達、きわめて制限された条件の中で商活動に邁進し、
	それでもへたな大名達よりも遙かに国際情勢に通じ時代の流れに敏感であった大海運商人達、全国津々浦々で、武家相手の金貸しや
	土建業・問屋業などで財をなし、教養もあって時代の風を的確に読んでいた大庄屋達とその感化をうけた豪農・地主たち、等々の生
	き様や行いは、物質面でも精神面でも遙かに恵まれている現代の我々が、どう逆立ちしても及ばないようなところがある。
	 しかも私が思っていた以上に、この時代の人たちは賢い。教科書的にざっと文献の解説を読むだけだと、大きな時代の流れや出来
	事の概要はわかるが、個々の事件において誰がどのように発言し行動したかという事はなかなかわからない。そのような時には、興
	味ある出来事について、狭く深く調べることである。たとえば2月の例会で行った神戸・兵庫で起きた「神戸事件」。これを例にと
	ると、この事件に関する文献を片っ端から調べるのである。そうすると、誰が、どのように発言し、行動し、主張したかがわかる。
	そして我々は、事件の顛末にある人々の智性とその人間性に感動し胸を打たれる。

	 さて、今回の題目(テーマ)の「くずはのお台場」であるが、今日「お台場」と云えば、東京湾に面した商業都市の一角、「東京
	都港区台場」、およびその周辺の地域名であることはみんなが知っている。フジテレビやサンケイ・グループなどのマスコミの本社
	が所在する場所として、また若者やアベックのプレイ・スポット、デートスポットとして有名である。ここをどうして「お台場」と
	いうのか、歴史好きな人、あるいは学校でまじめに日本史を勉強した人なら知っているはずだ。幕末、ここに東京湾に向けた大砲を
	備えた人工島が作られ、それを「台場」と呼んだ。今の港区は大半が幕末には海の中だったのだ。

	 嘉永6年(1853)、ペリー隊が来航して幕府に開国要求を迫る。これに脅威を感じた勘定奉行川路聖謨らが動き、幕府は江戸の直
	接防衛のために、海防の建議書を提出した伊豆韮山代官の江川英龍に命じて、洋式の海上砲台を建設させた。品川沖に11基の台場を
	一定の間隔で築造する計画であった。工事は急ピッチで進められ、およそ8ヶ月の工期で1854年にペリーが2度目の来航をするまで
	に砲台の一部は完成し、品川台場(品海砲台)と呼ばれた。お台場という呼び方は、幕府に敬意を払って台場に御をつけ、御台場と
	称したことが由来である。埋め立てに用いる土は高輪の八ツ山や御殿山を切り崩して調達した。台場は石垣で囲まれた正方形や五角
	形の洋式砲台で、まず海上に第一台場から第三台場が完成、その後に第五台場と第六台場が完成した。第七台場は未完成、第八台場
	以降は未着手で終わった。第四台場は7割ほど完成していたが中止され、その後は造船所の敷地となる。また第四台場の代わりに品
	川の御殿山のふもとに御殿山下台場が建設され、結局、合計8つの台場が建設された。このとき台場建設の総指揮をとった江川英龍
	についても、実に魅力的な人物で、彼について書くだけで本が一冊書けそうなほどであるが、今回は省略する。

	 この時のエピソードもおもしろい。ペリーはシーボルトが日本を追放されて帰国後、ドイツで著した「日本」という本を携えてい
	たが、そこに書かれた日本人についての記事をあまり信用していなかった。シーボルトは日本に妻子を残して帰国したので、日本に
	対する身びいきが強いと考えていたのだ。前回から5隻増えて計9隻の黒船(蒸気船)を従えたペリー艦隊は、駐留地のマニラから
	品川沖まで来たが、マストの上の見張りが航路を間違っているのではないかとペリーに告げた。ペリーが「いや航路は正しいぞ、な
	ぜだ」と問うと、前回来たときには海の中にあんな島はなかったはずだと云うのである。
	慌てて双眼鏡を覗いたペリーは、堅固そうな石垣で築かれ、大砲が自分の方に向いている、まぎれもない人工島が幾つも江戸湾の奥
	に出来ているのを確認する。ペリーは「ばかな!この前来たときから1年も経っていないぞ」と驚愕し、シーボルトの言葉に思い至
	るのである。シーボルトは書いていた。
	「この国の国民は皆小さく、見方によっては可愛いらしいとも言える。温和で従順な性質であり、親切で好奇心も旺盛で、人々の顔
	は明るい。・・・。しかしこの国民の底力を甘くみてはいけない。」
	ペリーはこの時「シ−ボルトめ、きゃつめの言葉は正しかった。何という民族だ。」とつぶやいたと記録されている。この砲台を見
	てペリー艦隊は横浜まで引き返し、そこでペリーは二度目の日本上陸を果たすことになった。


	2.くずは台場の紹介

	 今から約 150年前、京都は反幕府勢力の過激な尊王攘夷派が横行し、緊迫した政治状況の中にあった。そうした中、江戸幕府は京
	都守護職「松平容保」の建言に基づき、外国の脅威や尊皇攘夷派の活動から京都を防衛するため、元治元年(1864)、大阪湾から京
	都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸の楠葉(大阪府枚方市)と右岸の高浜(同島本町)に砲台を築く事を決定する。慶応元年
	(1865)、淀川左岸、淀川と男山丘陵に挟まれた、現在の楠葉中之芝に台場を造営した。その遺構が「くずは台場跡」である。

	
	樟葉台場(砲台)跡  すぐそばを京阪電車が走っている。

	

	


	 表向きには、淀川をさかのぼって京都に侵入する外国船の襲来に備えることを目的としていたが、京街道が台場内部を通るように
	付け替えられるなど、過激派の志士が京都へ侵入するのを取り締まろうとする松平容保の意図があったと考えられる。
 
	 私見では、外国船が淀川を遡って京都へ入るなどちょっと不可能だろうと思うし、それに本気で対処しようとしたとは思えない。
	外夷に怯えまくる孝明天皇に対しての、一種のポーズとして、幕府は砲台を築いたのだろうと思う。むしろ尊皇攘夷派の「長州藩士
	取り締まり」の方が、会津藩の主たる目的だったという見方に私も賛成である。
	 通常台場は外国船の襲来に備えて海岸線に造られるのに対し、「楠葉台場」は河川に面して造られているのが大きな特徴である。
	「稜堡(りょうほ)式築城」という西洋式技術を採り入れており、設計の総責任者は勝海舟である。築造には北河内の大工職人も動
	員され、慶応元年に完成した。その作業に当たった大工職人達の仕様書や作業日記も近年発見されており、楠葉台場に関する研究は
	今後次第に進んでいく事だろう。

	

	


	 土塁と堀で囲まれた約3万平方メートルの台場は、3(または4)カ所の砲座や番所、火薬庫を備える大規模な施設で、京街道を
	台場に取り込み関門を設置して、街道の関所としての機能を併せ持つなど、軍事施設と交通施設が同居する珍しい構造を持っていた。
	幕末の幕府の軍事状態、緊張状況を知る上で貴重な遺構とされ、近年その資料的価値が高まっている。いずれ我々も例会で見にいか
	ずばなるまい。
	 勝海舟は、先月(2月)例会で我々が見学しようとした神戸市兵庫区の和田岬砲台も、昔例会で見学に行った現西宮市芦屋浜の西
	宮砲台も設計しているが、これは勝海舟が一人で設計したわけでは無く、抱えていた多くの有能な若きブレーンがいたのだろうと考
	えられる。勝が責任者に任命されるとき、忙しいので補佐役を付けると記録されている。補佐役として、実務を担った蘭学者・広瀬
	元恭(げんきょう)らと海舟が立地調査に訪れたことも記録にある。有名な「五稜郭」でも採用された西洋式築城方式を用い、現在、
	川沿いに残る台場としては国内で唯一のもので、平成23年2月に国史跡に指定された。
	しかし当然ながら、この砲台が外国勢に対して用いられたことは一度も無い。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで、薩長軍を中
	心とした官軍は幕府軍を撃破したが、高浜砲台を守っていた津藩藤堂家は、幕府軍の不利をみて官軍に内応し、小浜藩酒井家が守る
	楠葉砲台に砲撃を浴びせた。こういう小早川秀秋のような奴らはいつの時代にもいるが、ま、それはまた別稿に譲るとして、これに
	より、淀川を挟んで両台場は交戦することとなった。

	楠葉台場は、伏見、淀から敗走した幕府軍で混乱を極め、台場の守備兵は砲弾を撃ちつくしたのち、砲を破壊して退去した。鳥羽・
	伏見の戦いで勝った新政府軍は、楠葉台場を占拠後、ここを大阪進軍までの一時的な拠点として使っている。



	3.くずは台場・設置前の状況

	 前号で書いたように、川路聖謨とプチャーチンは日露条約締結を巡って何度となく会談を重ねていた。進展しない長崎での交渉に
	不満を持っていたロシアのプチャーチンは、ペリーが日米和親条約を締結した(嘉永7年(1854年)3月3日) のを知ると、新鋭艦デ
	ィアナ号で安政元年(嘉永7年と同じ)8月30日に函館に入港し、9月には大坂湾の「天保山」沖に姿を現して京阪神地方の人々を驚
	かせた。京都御所に近い大阪湾への進入をやすやすと許した、大阪湾防備体制の貧弱さが露呈した。これを受けて川路聖謨は大阪湾
	防備計画を立てるが、その計画はなかなか実行に移されなかった。具体的に動き出したのは安政4年(1857年)になってからで、松
	江藩が安治川口、高松藩が木津川口の警備を担当することになった。安政5年には防備が強化され、新たに、萩藩・岡山藩・鳥取藩
	・高知藩・柳川藩が大阪湾防備を命ぜられた。これに伴って松江藩は、安治川口から、山城口にあたる淀川両岸八幡・山崎に担当が
	変更となったが、文久3年(1863)に警備からはずれ、山崎は郡山藩、八幡は福山藩がそれぞれ担当する事になった。

	 その前年(文久2年)、豊後岡藩主中川久昭は自藩の尊皇派を弾圧したが、以前に中川久昭は島津久光を介して、天皇より「尊皇
	の志高く、感謝する」旨の書状を受け取っていた。これを知っていた土佐藩士平井収二郎は、勅意に反するとして中川久昭を激しく
	糾弾した。責められた中川久昭は、同年11月7日朝廷に書面にて謝罪を乞い、許されると「上京して朝廷の御用を務めたい」と申し
	出た。だが朝廷からはその回答が無かったため、同月28日に中川久昭は、上京して「琵琶湖から京都へ抜ける運河を築きたい」とい
	う大胆な建白書を提出する。これに対し朝廷は12月5日、「琵琶湖運河の築造は容易ではなかろう」と、暗に小藩である岡藩には不
	可能だろうと匂わせ、「かわりに、外国船の渡来に備えて近々八幡・山崎あたりに台場を新築するので、それを手伝うよう」申し渡
	している。この意見は誰の発案かは不明だが、これが「淀川台場(樟葉・高浜)」構想の文献上の初見である。

	 これをみると、淀川台場建設が幕府の発案では無く朝廷から出たものである可能性が高い。幕府は朝廷の意を受けて台場を建設し
	たという可能性の方が濃厚だ。樟葉台場の研究では現在第一人者である、枚方市教育委員会の馬部隆弘氏は、もともと淀川に台場を
	築く計画は朝廷内の国事御用掛の設置を推進した人物、正親町三条実愛辺りから出たものだろうと分析している。勿論「攘夷」の目
	的で、淀川に外国船が入ってくることを危惧した孝明天皇の勅意を受けたものであるのは間違いない。
	 この当時の孝明天皇の外夷に対する恐れは尋常では無く、外国人を妖怪のように想像していたふしがあるが、生まれて一度も御所
	から出たことが無く、まして御所の周りには砲台どころかただの一兵の護衛すら無く、海を見たことも無い三十過ぎの青年にとって
	は当たり前かもしれない。巷間伝わってくる風評と、「攘夷」と「開国」の間をうろうろして慌てふためいている江戸幕府の姿しか
	見えないのであるから、外国人は獣のように足に踵が無いと信じていても不思議では無い。

	 岡藩に対して具体的にどのような「お手伝い」指示をするかについて、12月12日、薩・長・土ほか9藩の藩士が朝廷に呼び出され、
	国事御用掛を務めていた正親町三条実愛・中山忠能らとともに意見を求められた。台場構想について意見を尋ねられた諸藩では、そ
	れから数日の間に順次回答しているが、その諸藩の意見を幾つか見てみよう。

	(1).土佐藩
	 「摂海ニ砲台ヲ設ケ海軍ヲ備ヘ、陸地ニハ山崎・枚方両駅区々連珠砦ヲ築キ澱川ヲ夾ミ十字砲架ヲ置遮撃之手配」として、徹底的
	 な防御体制を訴えた。

	(2).安芸藩
	 必要性は認めながら、「此川筋御備之儀最寄諸侯ヘ御人選ニテ被仰付度、最寄之儀ニ御座候得ハ地理・形勢等熟知罷在候」として、
	 自分の藩では地理に疎いので、近在の諸侯に仰せつけられた方がと、逃げ口上を打っている。

	(3).筑前藩
	 「八幡・山崎之要路ヨリハ、何卒摂泉之海岸可然要地御吟味之上屹度対応可仕程之御台場御築立」と、淀川よりも大阪湾の方が防
	 護を強化すべきである、というしごくまともな意見を述べている。

	(4).津藩
	 「防禦打止之箇所手配等ハ種々可有御座ト奉存候得共、当今之処ニテ斯相成候テハ何分ニモ皇国之御為不可然ト奉存候」と、これ
	 以上の防備増強はしばし控えた方がという否定的な意見である。

	(5).阿波藩
	 「兵法之儀銘々之意見モ有之、無窮之論ニ御座候間、区々之存寄申立候テハ却テ諸説紛然不一定儀」となってしまうので、淀川台
	 場については岡藩に全部まかせれば良いと云っている。また、「小舟ニテ許多之人数彼淀川筋斬[ぎ:左扁はさんずい]上仕候儀決
	 然有之間敷」とし、小舟ならともかく、淀川を外国船が遡上してくることはあり得ないと考えている。

	 土佐藩を除けば、諸藩の間では台場の築造不要との意見が大勢を占めている。勅命が下れば自腹で工事をしなければならないので、
	どの藩ものらりくらりと逃げたがっているようにも見える。阿波藩の答えが一番率直な意見であるかもしれない。会議には呼ばれな
	かったが会津藩は、その後朝廷から単独で意見を求められている。松平容保は、京都守護職を拝命し江戸から京都への途上にあった
	ので、京家老田中土佐が藩士に山崎・八幡を調査させている。そして、調査の結果として台場の築造については積極的に必要性を主
	張しなかったようで、結局、この会津藩の回答がダメ押しとなって、文久3年2月、淀川台場構想は沙汰やみとなり、その旨岡藩へも
	通達され、2月25日、岡藩主中川久昭は帰国の途についた。



	4.会津藩の淀川台場構想

	 いったんは沙汰止みとなった淀川台場築造計画であったが、それから約1ヶ月後の文久3年3月29日、会津藩主にして京都守護職の
	松平容保が、八幡・山崎に「関門」を築くべきとの建白書を、二条城に登城して提出した。2月に沙汰やみとなって、しかも会津藩
	自身も消極的だった淀川防衛の構想を、会津藩自らが再燃させたことになる。ただ、朝廷が提案した台場を主とした構想ではなく、
	陸上の関門だという点が会津藩の独自性である。
		ではなぜ会津藩は、わずか1ケ月でいったんは却下された「淀川台場構想」を再浮上させたのであろうか。松平容保の京都
	守護職就任当初、会津藩は浪士も含めた勤王の志士たちに対して温和路線を採ることにしていたようだが、文久三年2月22日に
	「足利事件」と呼ばれる、足利将軍木像の首が落とされ三条河原で晒し者にされるという事件が起きる。

	 足利三代木像梟首事件(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)とも呼ばれるこの事件は、京都等持院にあった室町幕府初
	代将軍足利尊氏、2代義詮、3代義満の木像の首と位牌が持ち出され、賀茂川の河原に晒された事件である。犯人は平田派国学の門人
	である三輪田元綱、師岡正胤とされ、会津藩士も関与しており、足利将軍3代を逆賊とする罪状が掲げられた。それまでの天誅は、
	開国派や公武合体派であった個人を狙ってのものが大半であったが、この事件では足利将軍の木像を梟首することで暗に倒幕の意味
	を持つものとして重視された。事件は江戸で公募された浪士組(後の新撰組)の上洛直前にあたり、挑発的行為とも考えられている。

	 京都守護職として京都へ赴任したばかりの松平容保は、この事件に激怒した。犯人捕縛を命じ、浪士の一斉蜂起も懸念されたが、
	4月には犯人は逮捕され、8月には処罰される。事件後は浪士取締りが大幅に強化された。容保は、それまで倒幕派の者とも話し合っ
	ていく「言路洞開」と呼ばれる宥和政策を考えていたが、一転して、新選組などを使って市中取り締まりを強化する方針に転じた。
	木造の首が落ちただけで180度方針を変えてしまうものだろうかとも思うが、おそらく容保は、京都市中での浪士組の狼藉が、自分
	の想像をはるかに超えたものになっている事に思い至ったのでは無かろうか。

	 そもそも会津藩は、三代将軍家光の弟、松平正之が藩の始祖となって以来の徳川擁護派であり、正之が書き残した家訓にも「ただ
	ただ、徳川家のために尽くせ」と書かれているほどである。「徳川家の御為に」という思想は御三家などよりはるかに強かった。そ
	の徳川家を倒そうという浪士組に対して、赴任して報告を受け、話し合い路線など不可能だと判断した容保は、全面対決も辞さない
	構えになったものと思われる。参考までに、会津藩の家訓を現代語に訳して紹介しておく。

	1.我が会津藩は将軍家に絶対の忠義を尽くせ。
	2.たとえ他藩がことごとく徳川宗家(そうけ)を裏切ったとしても、我が藩だけは絶対その真似をしてはならない。
	3.この遺訓にもし背くような者があれば、それは予の子孫では無い。
	4.くれぐれも云う。会津は何があろうとも最後まで将軍家を守れ。

	 嘉永五年(1852)二月、会津藩八代当主松平容敬(かたたか)が会津藩江戸屋敷で48年の生涯を終えようとしているとき、会津か
	ら駆けつけた容保に対して死の床で、この家訓を絶対に守ってくれと言い残し、容保も養父に対しその遵守を堅く誓った。その瞬間、
	会津藩23万石の行く末は、満17歳の少年の双肩にゆだねられたのである。そして、この時容保は、自分が最後の会津藩主になろうと
	は夢にも思っていない。
	 ついでながらその時の会津には、熊本肥後藩の浪士・宮部鼎三(みやべていぞう:昨年暮の例会で、京都護国神社の「坂本龍馬の
	墓」の隣に彼の墓碑があったがご記憶だろうか。)を伴って、東北(みちのく)旅行をしていた長州脱藩者の吉田寅次郎(松陰)が
	いた。会津藩士・黒河内伝五郎、藩校日新館の子供たちとともに、塔寺八幡宮において容敬の病気治癒を祈願していたのである。
	二人の旅行は見聞を広げるための研修旅行であったが、会津・長州ともに尊皇思想においては人後に落ちないと黒河内伝五郎と意気
	投合し、会津に七日間滞在したのち、ともに今後の交流を誓って二人は会津を去って行く。しかし、歴史の歯車は、彼らの願いを押
	し潰して回転してゆく。やがて樟蔭・寅次郎は多くの志士を育てて没し(斬首)、三年後松平容保が京都守護職に任命され、ほどな
	く会津藩士・新撰組が取り囲む池田屋(ここも訪問済み)のなかで、宮部鼎三は長州の同士とともに討ち死にし、会津と長州は国を
	二つに分けて真っ向から対立していく事になるのである。
	ちなみに、この旅行で吉田寅次郎は東北のアチコチで高山彦九郎(同例会時、京阪三条駅傍らに座像があった。)の痕跡を発見し、
	また古老たちからその人物像・振る舞いを聞かされ、その尊王活動に感激して、この九十年前の勤王思想家・高山彦九郎を深く敬愛
	するようになる。彦九郎の足跡は広く東北一円から、奥羽の下北半島にまで及んでいた。彦九郎は最後に福岡・久留米で没するので、
	文字どおり日本中を股にかけて歩き回っているのだ。寅次郎は江戸へ戻って、師である佐久間象山にそのことを話し、彦九郎の戒名
	から「松陰」を採って、自分は今後「吉田松陰」と名乗りたいと申し出ると、佐久間象山は「あんな馬鹿の名前をつけるのか」と笑
	い飛ばした。
	またまたついでながら、九代目会津藩主・松平容保は、美濃国高須藩主・松平義建の六男として生まれ、叔父である会津藩8代目藩
	主・容敬の養子となるのだが、兄の慶勝も養子となって尾張藩にもらわれ、やがて尾張藩14代藩主・徳川慶勝となる。
	兄弟に尾張15代藩主・徳川茂徳、桑名藩主・松平定敬がおり、慶勝を含めて高須四兄弟と併称されるのだが、徳川慶勝はバリバリの
	開国論者であった。彼は御三家で徳川筆頭とも云うべき立場にありながら、日本の将来のためには、徳川幕府を潰して開国しなけれ
	ばならないと考えるほどの進歩派で、会津に行った容保と桑名の定敬二人とは、実の兄弟同士で全面的に争うことになるのである。
	この徳川慶勝もまた、なぜ開国論者になったのか興味は尽きないが、紙面がいくらあっても足りないので、割愛する。
	維新後慶勝は、まるで真田昌幸のように、茂徳とともに朝敵となった容保、定敬の助命に奔走し、明治11年(1878)、東京でこの四
	兄弟は再会している。

	高須四兄弟(明治11年9月撮影)
	左から松平定敬、松平容保、徳川茂徳、徳川慶勝(ウィキペディアより)


	 「淀川台場」に戻ると、そういうわけで、会津藩が設置を望む関門というのは攘夷の目的ではなく、西国から来る尊王攘夷派浪士、
	特に長州藩士の入京を制限する目的になった。
	やがて、8月18日の政変が起きたことで、長州藩士はこの関門に京への出入りを阻まれる事になる。かくして関門は、会津藩の意図
	したとおりに作られることになり、それが楠葉台場ということになる。「関門」なのに「台場」の形態を採用しているのは、攘夷対
	策のための台場を作りたかった朝廷の意を汲み取ってのことで、また、現実に攘夷に役立つかどうかはともかく、ともかく攘夷対策
	の台場を作ったという政治的アピールを、朝廷に対してする必要があったと前出・馬部氏は推測しているが、私も全く同感である。
	さらに馬部氏によれば、アピールは朝廷に対してだけではなく、広く一般に向けてもされていたのだろうと云う。つまり、京都・朝
	廷を守るのは京都守護職・会津藩および幕府なのだということを、世間に知らしめる目的があった、その目的のため、楠葉台場は台
	場を関門(関所)として利用するという形態になった。その為、現在では「楠葉台場」と「楠葉関門」が別の施設であるかのように
	誤解される場合もあって、長い間、研究史上の混乱を招いていた。



	5.くずは台場の遺構

	以下は京都市立総合資料館所蔵の樟葉台場の設計図である。これを次頁の樟葉台場現況図と見比べてほしい。
 
	

	

	@、が設計図での南門にあたり、A、が見張り台、B、が火薬庫、C、は北門横のL字型の防禦ラインである。A、B、の土塁はす
	でに削平され土盛りはないが、全体として設計図どおりの原型をほぼとどめている。かっては「久修園院」(京阪電車・橋本駅南)
	の南西方に砲台跡の土塁が残っていたが、明治末期の京阪電鉄の敷設に伴い、多くの土砂が運び去られた。現在の台場跡は、西端が
	京阪本線建設で削り取られているほかは田畑で、大半が建設当時の地形をほぼ保っている。

	なお台場に設置されたのは、カノン砲3門であったと考えられているが、4門という説もあり、現段階では確定していないようだ。
	また、島本町にあったとされる「高浜砲台」跡も、その所在地や遺構について候補地はあるが、現時点ではこれも確定されていない。



	6.くずは台場の構造

	以下のCGは、花園大学文学部史学科の学生が卒業制作の一貫として制作したもので、今もYouTubeで公開されている。なかなかの
	優れものなので、是非ご覧頂きたいと思う。
	[転載許可をいただこうとしたが、Youtubeにはmail-addressがないし、花園大学では「わからない、答えられない」との事で、もし
	制作者の方が、これをご覧になっていたら、是非ご連絡を頂きたいと思う。 himiko@capricorn.zaq.jp ]

 
	

	楠葉台場は、南北300メートル、東西200メートルの西洋式要塞で、角張った堀と土塁に囲まれ、川に向かって大砲3(4?)
	門を設置できた。東に火薬庫、中央に建屋を設けていた。 
 
	

	実はこの寄稿文を書こうと思ったのは、ネットでこのCGを発見したのがきっかけである。樟葉台場のことは昔から知っていたし、
	京阪電車に乗ったときはよく車窓から現地を眺めていたが、なかなか具体的なイメージは湧かなかった。しかしこのCGは、非常に
	理解の助けになるので、是非皆さんに紹介したく、締め切りに間に合うよう必死でScanした。


	

	<南側虎口部分>
	ここが台場の正門にあたり、門の遺構も確認されている。右脇には衛兵用の箱番所があり、正面には見切り塁と呼ばれる土塁で塞ぎ、
	通行人は左折するようになっていたと考えられる。
 

	

	<北門部分>
	南門とおなじく箱番所があり、土橋を渡り京街道に再び業龍するように作られていたと推測されている。
 

	

	<番所>
	台場内で唯一の居住施設であり、ここで通行人を監視する。内部は畳敷きであったと考えられる。

	

	いわば関所である。大阪から京都へ入るには、淀川の右岸もしくは左岸を通るしか無いが(遠回りして京都・亀岡あたりから、ある
	いは奈良・伊勢路を通って大津方向からという進路も無いことは無いが、あまりにも遠回りで現実離れしている)、淀川北岸には山
	崎(島本町)という要衝に高浜台場があったし、京街道はこの関所(関門)の中を通るようになっていた。会津藩の目論見は正しか
	ったと言えるが、当初の取り締まり対象であった長州等の尊皇攘夷派、ひいては官軍に、最終的には占拠されてしまったのだから、
	歴史の皮肉としか云いようが無い。


	

	<砲台>
	大砲は3門もうけられ(4門という説もある)、その内2基は淀川を、1基は街道に向けて設置されていたとされる。


	

	この見張り台にも大砲を設置できるので、ここにも置いていたかもしれないということで4門説があるようだ。見張り台の中には銃
	眼があって、ここから射撃できるようになっていた。南の京街道に向いているので、淀川などは眼中に無かったのがよくわかる。

	

	<火薬庫>
	周囲は分厚い土塁で火薬庫を囲み、火薬が爆発したときに被害を最小にする構造であったと考えられる。

	




	7.おわりに

	 以上、くずは台場について紹介した。私事であるが、私は吹田へ引っ越してくる前、長男が生まれたときから小学校に入るまでの
	7年間、この樟葉に住んでいた。休日は小さかった子供たちと過ごすことの方が多かったのであるが、それでもその役目から解放さ
	れた休日には、よく周辺を散策した。九州から出てきた人間にとっては、枚方や八幡などは全く未知の地であり、石清水八幡宮、木
	津の流れ橋、枚方八景など、この地方の名所・旧跡・歴史を楽しんだものである。しかし当時は、このくずは台場については全く知
	らなかった。八幡宮から橋本へ降りて、橋本の旧遊郭街などを散歩したこともあるので、この台場跡の横を歩いた事があるのは確か
	である。
	 いつの頃かは忘れたが、もう吹田へ引っ越した後だったかもしれないが、樟葉に台場があったのを知った。私の知っているその場
	所は、ただ堤防横の田んぼの中だったので、なんでそんな処にという疑問だけが湧いた。そしてその砲台が淀川に向いており、淀川
	を遡ってくる外国船を打ち払うために、幕末に築かれたという記事を読んで、「そんなアホな!」と思った。「淀川を黒船が遡って
	くる?馬鹿な!」と、私は幕末の侍たちはそんなにアホだったのかと哀れんだ。
	その後近年になって、大阪歴史学会発行の機関誌『ヒストリア』(当時は年4回発行、現在年5回)に、ちょくちょくこの樟葉台場
	の記事が載るようになった。枚方市教育委員会が台場跡を発掘調査しているという記事や、その現地説明会の案内などが載っており、
	そのうち「大阪歴史学会」が台場の保存を訴えて枚方市長に要望書を提出したという記事が載った。私はそれを見て、「何、そんな
	に貴重な遺構なのか。江戸時代の馬鹿な建造物じゃなかったん?」と、過去のバックナンバーを引っ張り出してきて読んでみた。
	私の認識は甘かった。江戸時代の侍たちも、淀川を外国船が遡れないことぐらいとっくに知っていた。そして、孝明天皇が攘夷を強
	く唱える背景には、天皇を全く「無知」な立場に追いやったのが江戸幕府の採ってきた「禁中法度」をはじめとする、皇室締め付け
	政策のせいであるという事も十分認識しているのだった。
	開国の勅許を朝廷に要望して、頑固に「攘夷」を唱える孝明帝に手こずっていた幕末期、「どうして帝はそんなに外国人を恐れるの
	でしょうね?同じ人間なのに、外国人には踵が無いのかと聞いたそうですよ。これでは全くの無知では無いですか。」という幕閣の
	嘆きに、老中阿部正弘は、「我々がそうしたのだ。三百年にわたって、我々が皇室が無知になるようにしたのだ。孝明帝を責められ
	るか馬鹿者!」と答えている。

	 淀川台場が造られた前後、江戸幕府は諸藩に、特に海岸線を有している藩に、台場を築くように命じている。遅きに失したとは言
	え、家康以来の禁を破って大型船の建造も許可したし、大砲や鉄砲の鋳造も認めている。急ピッチで諸外国に対抗できる軍事力を国
	内に備えようとしたのだが、もうそれだけの経済力を持っている藩などどこにもなかった。
	「武家諸法度」や参勤交代、「お手伝い」と称する普請事業などに金を使わされ、日本中の藩で借金していない藩などほとんどなか
	ったと云ってよい。ある藩では大砲を買う金がなく、丘の上に白い垂れ幕を張り、そこに大砲の絵を描いて海に向けたという、笑い
	話のようなことをやっている。これはアメリカの捕鯨船が目撃して、航海日誌にそう記録されているので実際にあった話なのである。
	ことほど左様に、日本中貧乏藩ばかりの中で、薩長土肥をはじめとしたわずかな雄藩だけが、豊富な経済力を蓄え明治維新の原動力
	となり得たのである。
	 この樟葉台場に関しても、前述したように朝廷と幕府、幕府と各藩、各藩と朝廷という立場の違いを踏まえての調整の中で、実に
	様々な記録が残されている。どこでどういう会議がなされたか、誰がどう発言しどう行動したか、一介の歴史マニアである我々には、
	その逐一を読んでいくわけにはいかないし、学者先生にしても、日本中に残存している古文書を余さず読んでしまうなどと云うこと
	も出来はしない。
	しかし断片的に垣間見るそれらの記録の中に、我々は、時代時代に生きてきた人々の英知や勇気や誇りを見いだすことが出来る。
	そして、「あぁ、我々はこれらの先人たちの生きてきた土台の上に立っているのだな」ということを実感するのである。日本人で良
	かった、歴史を好きになってよかったと思うのは、まさにこういう瞬間である。
													平成24年3月30日

	参考:馬部隆弘氏「京都守護職会津藩の京都防衛構想と楠葉台場」大阪歴史学会発行『ヒストリア』第206号(2007年9月)











	孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、文久3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束した。幕府は攘夷を軍事
	行動とはみなしていなかったが、同日長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施した。下関戦争の始まり。


勿論コテンパンに負けたが、戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、


	米英仏蘭に対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。一方列強の力を思い知った長州藩は、これ以後一転して
	「開国」への道を突き進む事になる。薩摩も薩英戦争に負けた後、一転して開国へ向かうから、やっぱ一度は負けてみないと
	わからんのやろうね。



やっと外国勢の武力を思い知った徳川幕府は、急遽品川沖に台場(砲台)を建設する。
上は、台場建設の総指揮をとった伊豆代官・江川英龍が、黒船艦隊を見守るの図(品川沖・お台場)



1858年(安政五年)6月19日、江戸幕府は江戸小柴沖停泊中の米艦上で、日米修好通商条約に調印する。完全に鎖国が終わった。



	ご連絡あり!いやぁ、書いとくもんです。

	本文に、CG制作者の方へ呼びかけていたら、本日(2014.2.20)ご本人からmailを頂いた。花園大学文学部史学科卒業生の
	中西 昭成さんであった。CGは「元々楠葉台場跡が注目された時期と並行して、楠葉台場跡の遺構保存の一助となることを
	目的として卒業論文と同時に作成したものです」との事で、HPへの掲載を許可して頂いた。 HPに名前が登場する枚方市
	の学芸員だった馬部氏ともご面識があるとの事。ご本人は謙遜して、
	>
	> 粗末なものではありますが、お褒めの言葉を頂き大変うれしく思います!
	> 勿論、今更ではありますがHPに使っていただくのは大歓迎です。
	>
	と仰っているが、私は視覚的に樟葉台場の理解に、すこぶる有用なCGだと思う。平面図や解説だけではなかなかイメージは
	掴めないが、このCGを見れば全体像が瞬時に把握できるし、現地へ行ったときもCGに当てはめればイメージがより一層高
	まるのでは無いかと思う。
	>
	> こうした反応があると、少しは自身の学業も意義があったかなと思います。
	>
	とも仰っているが、どうしてどうして、しっかり学業にお励みになったのでは無いかと推察します。中西さんの話では、
	「楠葉台場跡も史跡公園化に向けて整備されており、平成27年頃には史跡公園として、京阪電車の車窓からも今後多くの方
	 に認知頂ける」
	との事なので、非常に楽しみである。遺跡・史跡は少ない樟葉地方の大きな目玉になってくれればいいが。かって我々一家も
	住んでいた樟葉が発展するのは喜ばしい限りである。

	中西さん、ありがとうございました。また何かありましたら是非宜しくお願いします。

	井上筑前

	
	 中西 昭成さん製作のCG「樟葉のお台場」(You Tube版)



邪馬台国大研究・ホームページ/ 遺跡巡り/ くずはのお台場