Music: 北上夜曲

鰻の昼食をとって船場川へ
2012年3月22日 宇土市船場町








	
	「昼食は何がいいですか?」と林さんが聞くので、このあたりは柳川に近いし同じように鰻が旨いかもしれないと考えて、つい「鰻なん
	かいいですね」と答えたら、立派な鰻屋さんに案内してくれた。予想通り旨かった。



	
	<宇土市>	出典:ウィキペディア

	今日の宇土市を含む宇土郡は古代から見られる地名であり、その由来は、宇土半島がもとは島で「浮土」と表したのが転じたという説と、
	細く長い谷の意味を持つとの説がある。日本の渚100選の1つ御輿来海岸は、4世紀に九州遠征の際に立ち寄った景行天皇が景色の美しさ
	に見惚れて、御輿を止めて、休んだという伝説が名前の由来である。また、網田には景行天皇がその手を洗ったという御手洗(みたらい)
	があり、現在も澄んだ水が湧き出ている。
	中世宇土城は1048年に築城されたと考えられている。中世初期に紀氏の一族が宇土氏を名乗る武士団を形成した。やがて、鎌倉時代末期
	に菊池氏の一族がやはり宇土氏を名乗り、宇土城の城主となった。
	1501年に宇土為光が菊池能運を破るが、後に攻め滅ぼされる。一方、為光側にあって八代を追われた名和顕忠が空白となっていた宇土領
	に侵入して宇土氏に代わって宇土城の城主となった。名物「小袖餅」の名前の由来となった昔話に名和伯耆左衛門尉という領主が登場す
	る。
	豊臣秀吉の時代に、名和氏に代わって佐々成政が入るが改易され、続いて小西行長が24万石の大名として入り、近世宇土城を築城した。
	しかし、小西行長は関ヶ原の戦いで西軍に属したため、斬首の刑となり、その領地は加藤清正に与えられた。小西行長はキリシタン大名
	としても有名で、一家全員が洗礼を受けている。
	加藤清正は宇土城を大改修し、完成させたが、「一国一城令」に基づき、廃城とした。なお熊本城内に現存する宇土櫓は熊本城築城当時
	からのものとされているが、近年まで宇土城の移築説も存在していた。加藤家が改易となった後、細川家が肥後国に入り、1646年、細川
	行孝を藩主とする宇土支藩(3万石)が置かれた。細川行孝は城下町の水質を改善するため、轟上水道をつくった。轟上水道に使われた
	技術は、神田上水・小田原水道に次ぐものとして、日本水道史上、特筆される。
	近代に入ってからも、九州商業銀行(肥後銀行の前身)や火力発電所・マッチ工場などが建設され、商工業の中心であり続けた。



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	宇土と言えば、古代史に興味のある人は何か思い浮かべるはずである。「阿蘇のピンク石」の名で呼ばれ、古墳時代の石棺に用いられる
	事が多く、特に近畿圏の大王墓の幾つかは、その材料が「阿蘇のピンク石」すなわち馬門石であることが分かっている。大阪府高槻市の
	今城塚古墳は、6世紀前半の継体天皇の陵墓という説が有力だが、ここの石棺も馬門石だし、日本最初の女帝で、聖徳太子の叔母である
	推古天皇の陵墓とされる奈良・植山古墳の石棺も、宇土地方にしか産しない馬門石で造られたものだった。

	数年前の夏、歴史倶楽部の西本さんと、今城塚古墳の石棺を復元して宇土から大阪の高槻まで運んでくるイベントに参加した事がある。
	6〜7トンもの重さの巨大な石棺を、遙か800km離れた難波の地まで、なぜ、どうやって運んで来たのか。実験では、宇土市で切り
	出した馬門石で7トンの石棺を造り、復元した古代船に乗せ、有明海から関門海峡を通って瀬戸内海、さらに大阪湾へと運び込むものだ
	ったが、どうして馬門石なのかの疑問は解決されていない。

	上下写真の「船場橋」も、「阿蘇のピンク石」すなわち馬門石で造られている。











	
	宇土市の市街地を流れる船場川両岸のエノキで、昭和53年(1978)10月9日に宇土市の天然記念物に指定された。当初指定
	された10本のエノキのうち、6本は右岸の石小路町に4本は左岸の船場町にあったが、船場町側の巨樹2本が平成3年(1991)
	の台風19号で倒れたために指定から解除され、現存するものは8本である。その中で,幹囲3mを超えるものは、現在石小路町側
	に3本しか残っておらず,最も古いもので樹齢は150〜200年程度と考えられている。馬門ピンク石で造られた船場橋とエノキ
	の古木が立ち並ぶ姿は、風情のある風景である。
 
























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	元禄古絵図の解説にあるように、このあたりは城下町の中でも武家屋敷が建ち並んでいた一角のようだ。地図を見ると、この界隈は
	そうとうな繁華街だったのだろう。そう思って船場川を眺めると、その時代の繁栄ぶりが彷彿としてくる。



上の船着き場の上が「御蔵屋敷」だった。細川家・宇土支藩(3万石)の物資をここから出し入れしていたのだろう。







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