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熊本・塚原古墳群
2012年3月22日 熊本市





	上の写真で一目瞭然なように、この古墳群はその下を高速道路が一直線に貫いている。こんな古墳群は今までに見たことが無い。脇を
	かすめたり、一部古墳の周囲が欠けたりしているものはあったが、古墳群の地下ど真ん中を道路が通っているのだ。全く驚く。しかし
	そもそもこの古墳群は、高速道路の建設工事に伴ってその規模の大きさが再確認されているので、道路も通し古墳群も保存するとなれ
	ば、こういう方法しかなかったのだろうと思う。こんな古墳群は、全国でもここくらいではなかろうか。

	ここに古墳群があることは前から知られていたようで、地名も「塚原」となっているのを見れば、相当昔から古代人の「奥津城」とし
	て畏敬され続けていたものと見える。工事が進むにつれて、今まで考えられていたよりも大規模な古墳群であることが判明して、道路
	公団もだいぶ悩んだに違いない。
	またこの古墳群の中には様々な形状の古墳が存在し、なんと方形周溝墓もあって、長期にわたって墓域として利用されたことが分かっ
	ている。説明板によれば、最終的には500基程と推定されているようだ。九州においては最大級の古墳群である。


	塚原古墳群  文化庁「文化遺産オンライン」より

	熊本県下益城群城南町
	指定年月日:19761227
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	熊本平野の南端、浜戸川と支流が形成する塚原台地上に営まれた古墳群である。九州縦貫自動車道の建設に伴い熊本県教育委員会が事
	前発掘調査した結果、厖大な数の方形周溝墓、前方後円墳、円墳などを検出して注目をあびた。
	自動車道用地内では、塚原台地は、南・北の2つの丘陵に岐れているが、その南側の丘陵の上にも北側の丘陵上にもこうした古墳が営
	まれている。調査の結果では、方形周溝墓39基、円墳・小円墳34基、前方後円墳1基、石棺18基、石蓋土拡1基が用地内で発見
	されている。方形周溝墓は比較的大規模なものが北丘陵上の南に集中しており、北には小規模なものが集中している。また円墳・小円
	墳中、大規模なものは、北丘陵の南・北部に点在しているが、南丘陵では専ら南縁に大規模なものが、北縁に小規模なものが集中する
	傾向がみられた。
	前方後円墳は、3基が所在したと伝えられているが、現在琵琶塚古墳、花見古墳が見られる。調査地は、九州縦貫自動車道用地に限定
	されているが、なお、この種の遺構が広く東西にひろがることは十分に推察されるところであり、その厖大な遺構の在り方は他に例を
	見ないものとして注目されるところである。なお、昭和50年、この塚原台地全域を試掘調査し、その遺跡のひろがりを明確にし、こ
	の丘陵の低みに集落が営まれていることを確認している。
	自動車道用地内調査の結果、この地域における古墳時代前期末から後期後半にわたる墓制が方形周溝墓、円墳ともに共存しながら展開
	することが知られている。


	国指定史跡「塚原古墳群」  つかわらこふんぐん  熊本市「満遊くまもと」HPより
 
	高速道路の上にある古墳群 塚原古墳群

	昭和47年(1972)、九州縦貫自動車道開通に伴う発掘調査によりベールを脱いだ塚原古墳群は、県民上げての保存運動の結果残されま
	した。保存方法は、遺跡の下をトンネルで通る、という全国で初めてのものです。
	現在、野球場が約5つも入る広々とした古墳群は、77基の復元された古墳や、櫻や紫陽花、コスモスなど季節の花が咲くきれいな古墳
	公園に整備されました。公園には、季節をとわず多くの人が訪れ、人々の憩いの場になっています。
	塚原古墳群は、前方後円墳や方形周溝墓、円墳などがあり総数は約 500と推定されます。併設されている歴史民俗資料館には、出土し
	た土器や資料が展示してあります。その他公園内には、熊本県民天文台や遊園地などもあります。 
 




歴史民俗資料館のすぐ脇から古墳群が続いている。というか、古墳群がここにあるから資料館をその脇に立てたものだと思う。









デカい陶器の説明板に塚原古墳群の説明がある。これを一通り読めば、この古墳群についての概要はまずつかめる。

















ほんとによく整備されている。我々が廻っている間にも、どこかの土木業者と思われる小型トラックが盛んに作業を行っていた。





九州縦貫自動車高速道路。トンネルを掘っている時は、古墳の被葬者達は煩くて安眠できなかったのではなかろうか。


















41号方形周溝墓



	方形周溝墓(方形低墳丘墓) 出典:ウィキペディア
 
	弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達した。その後中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がった。近畿地方
	で木棺埋葬地の周囲を一辺6〜25mほどの方形に区画するように幅 1〜2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場した。平坦な
	丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落のちかくに営まれることが多く、これを方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という。平面形
	に多様さや石列は見られない。供献の土器類は、地域によって異なるが、一般に壺・高杯に器台・甕、鉢、その他などが加わる。
 
	1964年に大場磐雄が東京都内にある宇津木向原遺跡で調査したものに命名したものが学界に報告されたのが初出であるが、それ以前にも
	各地で性格がつかめないまま確認されていた。最近では、方形低墳丘墓(ほうけいていふんきゅうぼ)と呼ばれることも多くなっている。
	また、従来、古墳時代初頭まで続く墓制とされた方形周溝墓について、近年の土器編年などの研究の進展によって、初期古墳や前期群集
	墳としてとらえる考え方が出てきたのに伴って、方形墳(ほうけいふん)と呼ぶ研究者も現れるようになった。
 
	方形周溝墓は特定の個人墓ではなく、複数の被葬者が見られることから、家族の墓だったと考えられる。しかし、着装品の有無や赤色顔
	料の使用の有無などから序列化ができあがっていた。また、いくつもの方形周溝墓が密接して営まれることが多かったようである。溝に
	埋葬されることもある。
	弥生中期には、周囲の土を削りだし、山や丘陵、尾根の上に造られた方形台状墓も現れ、中部地方・関東地方へ伝播した。弥生前期の中
	部・関東では、一度遺体を土壙して骨化させてから小型の甕や壺に埋納する再葬が行われていたが、方形周溝墓が伝わると墓制の主流と
	なった。
	墳丘墓は、水稲耕作などと共に朝鮮半島南部から伝えられたものと考えられているが、北部九州では方形周溝墓は極めて少ない。福岡県
	東小田峰遺跡で弥生時代前期初頭の例がある。






















史跡・塚原古墳群地形復元模














何を指さしていたのかもう忘れてしまったが、「ここらの小さな円墳は子供用ではなかろうか?」てな事を言っていたのかな。












三段塚古墳





















丸山2号墳








ほんとに家型石棺だが、近畿圏のものとは相当形状が異なるようだ。










その他の古墳へ


上の写真で中央の、丸い屋根を持った建物は「熊本県民天文台」で、その先に遊園地もある。子供達に来て貰うにはいいアイデアかも。







名も無い(説明板がない)方墳、円墳がごろごろしている。



私を写している林さん。クリックで大きくなります。



これがその写真(林さんが写している)だと思われる。






琵琶塚古墳




















石之室古墳












花見塚古墳





















撮りっこ、撮りっこ。ここでもカメラの違いが歴然。


























小円墳














円墳の内部(模造品)























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