Music: 茶摘み

熊本の旅・第二弾
2012年3月21日

伊丹から板付へ・太宰府散策

	周りは危ないからジェット機にしたら、と言うのだけれども、私は機窓から見た光景の素晴らしさに惹かれて、可能な限りボンバルディア
	のプロペラ機に乗る。高度1万m前後の雲の上を飛ぶジェット機に比べたら、このボンバルディアは高度5,6千mを飛ぶので、晴れてい
	れば実に綺麗に地上の光景を楽しめる。ボンバルディアかどうかを確かめるには、例えばANAなら、飛行便の便名が1676便のように4桁
	になっていればまず間違いないが、路線によっては小型ジェット(系列会社の飛行機)機の場合もあるので、福岡−伊丹、伊丹−羽田以外
	の路線は確認した方が良い。予約する時、必ず窓際の席を予約するのを忘れないように。







上はたぶん神戸港だと思う。



地図と照らし合わせていけば、たぶんどこかがわかると思うが、私は忙しいので、暇な人は以下挑戦してみてください。







瀬戸内海の島々の上をゆく。誰か生まれ故郷があったりして。











これは広島あたりじゃなかろうかね。







こっちが広島じゃろうか。





中国山地を抜けて、



プロペラ機は博多湾へはいる。



「能古の島」の上を飛ぶ。昔車で一周したことがある。金印はここから出土した。







上の島が野村望東尼が流された姫島(だと思う)。その向こうかな。

	野村望東尼	出典:ウィキペディア

	野村 望東尼(のむらもとに、ぼうとうにとも、文化3年9月6日(1806年10月17日)- 慶応3年11月6日(1867年12月1日))は、幕末の女流
	歌人・勤王家。福岡藩士・浦野重右衛門勝幸の娘。贈正五位。文政12年(1829年)、福岡藩士・野村新三郎清貫と結婚。
	安政6年(1859年)、夫が亡くなり、剃髪して受戒。その後、福岡の南側の山村(現・福岡市中央区平尾)にあった自分の山荘に勤皇の士
	を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。彼女に便宜を図って貰った中には、勤王僧・月照、長州藩士・高杉晋作、熊本藩士・
	入江八千兵衛、対馬藩士・平田大江、福岡藩士・平野国臣、中村円太、月形洗蔵、早川養敬などがいる。
	慶応元年(1865年)6月、福岡藩で、尊攘派弾圧の動きが強くなり、孫の野村助作と共に自宅に幽閉され、10月に姫島(現・福岡県糸島市
	志摩姫島)へ流された。翌2年(1866年)9月、晋作の指揮により福岡脱藩志士・藤四郎、多田荘蔵らが姫島から脱出の手引きをし、下関
	の勤皇の豪商・白石正一郎宅に匿われ、後に三田尻(現・山口県防府市の古称)で死去した。
	密会場所として提供していた山荘は現在も保存されており、山荘の敷地は平尾山荘公園として整備されている。同公園内には彼女の銅像
	が設置されている。なお、福岡市中央区赤坂3丁目には生誕地の碑が立っている。



福岡市上空へ入る。丁度天神の上あたりを飛んで板付へ向かう。上の写真に福岡ドームが見えている。





100人前後乗る飛行機が、この細い脚2本で支えられているかと思うと若干こころ細い。





こういう写真はなかなか撮れません。



タッチダウン! やれやれ今日も生き延びた。





最近飛行場にはこういう若い女性のStuffが多い。ええこっちゃね。







若い女の子ばかり。パイロットも女の子やったら凄いね。









太宰府散策

大学同窓会の理事会まで時間があったので、久しぶりに(でもないか)太宰府へ寄ってみた。






	飛梅	出典:ウィキペディア

	飛梅(とびうめ)は、日本の福岡県太宰府市宰府(旧・筑前国御笠郡太宰府村)にある太宰府天満宮の、神木として知られる梅の木の
	名称である。樹齢1000年を超えるとされる白梅で、本殿前の左近(本殿に向かって右側)に植えられており、根本は3株からなる。
	太宰府天満宮に植えられた梅のなかではいちばん先に咲き始めるとされる。
	飛梅は元来、菅原道真の配所(府の南館)跡に建立された榎社の境内にあったが、太宰府天満宮が造営されると本殿前に移植されたと
	いわれている。このほか、後代に道真を祭神とする神社に株分けされたものが各地に現存する。
 
	<飛梅伝説>

	平安時代の貴族・菅原道真は、平安京朝廷内での藤原時平との政争に敗れて遠く大宰府へ左遷されることとなった延喜元年(901年)、
	屋敷内の庭木のうち日頃からとりわけ愛でてきた梅の木・桜の木・松の木との別れを惜しんだ。そのときに梅の木について詠んだのが
	次の歌である。
	
	東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春な忘るな

           ───初出。寛弘2- 3年(1005- 1006年)頃に編纂された『拾遺和歌集』巻第十六 雑春。

	東風ふかば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ

           ───「春なわすれそ」の形の初出と見られる。治承4年(1180年)頃の編纂と考えられる『宝物集』巻第二。

	現代語訳:主人(こと、私)がいなくなっても、春が来るたび忘れること無く、梅の木よ、芳しい花を咲かせておくれ。 

	伝説の語るところによれば、道真を慕う庭木たちのうち、桜は、主人が遠い所へ去ってしまうことを知ってからというもの、悲しみに
	暮れて見る見るうちに葉を落とし、ついには枯れてしまったという。しかして梅と松は、道真の後を追いたい気持ちをいよいよ強くし
	て、空を飛んだ。ところが松は途中で力尽きて、摂津国八部郡板宿(現・兵庫県神戸市須磨区板宿町)近くの後世「飛松岡」と呼びな
	らわされる丘に降り立ち、この地に根を下ろした(これを飛松伝説と言う)。一方、ひとり残った梅だけは見事その日一夜のうちに主
	人の暮らす大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったという。
	飛梅伝説の現実的経緯としては、一説に、道真に仕えて大宰府にも同行した味酒保行が株分けの苗木を植えたものとも、道真を慕った
	伊勢国度会郡(現・三重県度会郡)の白太夫という人物が大宰府を訪ねる際、旧邸から密かに持ち出した苗木を献じたものともいわれ
	ている。
	道真を慕った梅が飛来したと言い伝えられ、道真が自ら梅を植えたとも考えられるこの飛梅伝説は、他の地方にも見られ、若狭国大飯
	郡大島(現・福井県大飯郡おおい町大島半島の大島)の宝楽寺、備中国羽島(現・岡山県倉敷市羽島)、周防国佐波郡内(現・山口県
	防府市松崎町)の防府天満宮などが知られている。


	味酒保行・・この人の子孫はいま太宰府天満宮の神主さんである。西高辻宮司に次ぐNO.3の地位にあって、洋画家の青沼茜雲先生
		  を通じて知り合い何度か一緒にお酒も飲んだ。1000年前の先祖が文献に載っている、極めてまれな家系である。いまでも
		  味酒(みさき)さんと呼んでいる。





ふつう神社には、御所の紫宸殿を真似て「右近の橘・左近の桜」が植わっているものだが、飛梅にちなんでここでは境内も梅一色。











浮殿なんて初めて見た。何十回とここへは来ているが、昔はタダの広場だったと思う。




	上が「博多ウェスティン・ホテル」。昨夜は理事会の後飲んだので、とても実家までは帰れずここに泊まったのだが、よく考えると今
	夜も飲むので、一泊の予約を二泊に延長し、荷物は部屋に残して軽装で熊本へ向かうことにした。フロントのお姉ちゃんは「延長した
	い」と言うと喜色満面で「ありがとうございま〜す。」



ホテルから博多駅まで歩いて行く朝、ビルの下に建っていた神社跡の碑。









邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部ANNEX/ 再び熊本を訪ねる