Music: 雨降りお月さん
向野田古墳
2012年3月22日 熊本県宇土市
向野田古墳 宇土市松山町向野田 「宇土市デジタルミュージアム」より転載
宇土市指定史跡(昭和44.10.1)。前方部を北に向ける全長約86メートルの前方後円墳です。しかし,採土工事によって前方部
が失われ,また,後円部墳頂平坦面も削られてしまっています。
古墳の時期は古墳時代前期後半と考えられ,後円部中央の竪穴式石室から,30代後半〜40代の女性の人骨が発見されるなど,当古墳
では貴重な発見が多数あり,出土遺物は国の重要文化財に指定されています。当古墳の被葬者は女性であることが明らかとなり,女性の
地域権力者の存在が確認されました。これは,古墳時代前期社会における首長権力のあり方を考える上で非常に重要な発見であり,当古
墳は,熊本県地域だけでなく,日本における古墳時代前期を語る上で欠かせない古墳です。
熊本南自動車学校南の丘陵上に前方後円墳が残っている。
後円部西側に登り口がある。
♪ うぅ〜しろぉ # すがたぁの あの人はぁ〜 ♪ 今は 帰らぬぅ 遠い人ぉ〜♪ <渚夕子 京都慕情>
熊本県宇土市松山町に所在する前方後円墳。宇土半島基部の雁回山麓からのびる丘陵上に北面して築かれ、墳長86m、後円部径53.
7m、高さ8m、前方部幅33.5m、高さ4mを測る。
宇土半島の根元にはいくつかの前方後円墳が残っているとされるが、この古墳は葺石を持ち、円筒埴輪や壺が墳丘から出土した。
1969年に、宇土市教育委員会を中心として後円部が発掘された。その結果、板石積みの竪穴式石室に舟形石棺をおさめた埋葬施設
が検出された。この古墳は盗掘されておらず、一端に石枕を据えた石棺の内部には、人骨、副葬品がきわめてよく往時の状態を保って
いた。
人骨は女性の完全な骨で、副葬品には花模様が入った鏡や勾玉、首飾りなどの装飾品などが入れられており、被葬者は高位の女性だっ
たことが推定できる。熊本県の各地には「火君(ひのきみ)」という豪族の伝承が残っており、宇土半島一帯もかって火君一族が治め
ていた地域であるともいわれ、この女性は「火君の女王」だったのではないかと騒がれた。見てきた塚原古墳群も火君一族の最初の集
落があった場所という説もある。また、古代の九州では女性首長を立てていた証拠だという学者もいるそうな。
後円部墳頂。ここに竪穴式石室があり、石棺内には女性の遺骨が残されていた。
一眼とバカチョンのデジカメ合戦。バカチョンの方が色合いは現実に近いが、これはカメラの特性か、それとも設定やろうかね?
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つまらん親父ギャグばかり飛ばしている林さん
女王が祭られた墓という向野田古墳。前方後円墳だが前方部は既に失われ、後円部のみが残る。その後円部に竪穴式石室があり,その内部
に長さ4.2m(全国2位)、推定重量4トンの巨大な舟形石棺が納められていた。未盗掘の石棺には女性が単独で埋葬されていた。4世
紀後半の古墳時代前期に築造されたと考えられている。
巨大な陥没坑が残っている。石室を埋め戻した後の坑のようだ。出土した石棺は全国2位の長さだそうである。
「おぉっ−とっと、こけそうやなこりゃ。」下は林さんの愛車。これで一日案内して貰った。感謝です。
上をクリックして貰うと、林さんの願望写真が見れます。ガハハハ。
車の右手、これが向野田古墳への(正式な?)入り口です。これだけ重要な古墳なんだから石段くらい造ればいいのに。予算無しかな。
宇土市立図書館郷土資料室の向野田古墳出土品
向野田古墳出土品 宇土市松山町向野田 「宇土市デジタルミュージアム」より転載
古墳時代前期後半の前方後円墳である向野田古墳を調査した結果,重要な遺物が多数出土しました。後円部中央には,舟形石棺を納める
竪穴式石室1基が存在します。刳抜(くりぬき)式の石棺の長さは395センチで,中から30代後半〜40代の女性の人骨が発見され
ました。
地域首長墓とみられる前方後円墳の埋葬施設から,完全なかたちで人骨が検出されることは非常に珍しく,貴重な発見です。石棺内から
は鏡3面のほか,碧玉製車輪石という腕輪やヒスイ製の勾玉,ガラス小玉などが出土し,石棺外には鉄刀や鉄剣,ヤリ,鉄斧などの武器
類が置かれていました。これらは女性被葬者と副葬品の内容及びその配置の関係を考察するうえで重要です。出土遺物は,「肥後向野田
古墳出土品」の名称で国の重要文化財に指定され,宇土市立図書館1階の郷土資料室に展示されています。
肥後向野田古墳出土品 文化庁「文化遺産オンライン」」より転載
熊本県宇土市
古墳
一括
宇土市浦田町51
重文指定年月日:19790606
国宝・重要文化財(美術品)
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古墳は宇土半島の基部に位置する前方後円墳である。出土品は、良質な内行花文【ないこうかもん】鏡、方格規矩【ほうかくきく】鏡を
はじめ、類似の少ない禽獣鏡、また古式な碧玉車輪石、鉄製利器類など豊富である。九州地方における、古墳文化初期の実態をみるうえ
に欠くことのできない貴重な遺品といえる。 32.68588 130.6574
禽獣鏡
出土時の石棺。長い! 朱も塗られていたのか。まさかピンク石と言ってもこんなに赤くはないよな。この葬られ方は、確かに平民の葬
送儀礼ではない。そうとうに身分ある首長クラスでなければこうまで立派に埋葬しないだろう。肥後に女王がいたというのは何の文献に
も無いが、或いは狗奴国の狗古智卑狗(ククチヒコ)の後を継いだのが女王だったのかもしれない。
ここには勿論三角縁神獣鏡などはない。4世紀の九州では、まだ近畿から廻ってきていないのだ。あれば絶対副葬しているはずである。
一部の畿内説論者たちは、大陸(魏)から直接近畿へ来たというが、近畿圏でも△だけが入っていない前期古墳が出現している。△だけ
を100年も残して家宝にする訳が無いのだ。「伝世鏡」などという詭弁を考え出した小林先生はお亡くなりになっているから無理だと
しても、それをまだ支持している一部の考古学者たちは、程度の低い詭弁などを唱える前に「考古学の原点」に立ち返って、4世紀には
九州にも近畿にも△は無かったと認めるべきである。
5世紀に入って、△は近畿圏でじゃかすか造られ始める。だから近畿の古墳からどんどん出土するのだ。無かったものを「あった」と言
い張る愚は、とても学者とは思えないし、こういう輩がまだ考古学会にいることが、考古学という学問のうさんくささを払拭できない原
因のひとつでもある。「藤村新一・旧石器ねつ造事件」から、全く何も学んでいない。こういう輩は、まじめに考古学を学んでいる学究
の徒にとって、害虫以外の何物でも無い。
狗奴国はどこへ消えたのか? 「古代史の謎」より転載
「倭」という語が現れる最古の文献は、紀元前6世紀頃作られた『山海経』という書物の中だそうである。
これ以来中国,朝鮮の史書にたびたび「倭」という文字が現れるが、必ずしも日本列島を指しているとは思えない部分がある。明らかに
日本についての記述と思われるもので最古のものは、「前漢書」「後漢書」である。それによれば、紀元前後の日本は百余りの国に分か
れていて朝鮮にあった楽浪郡と交流があったとか、西暦57年に日本の奴国が光武帝に貢物をして金印を貰ったなどと書かれている。
しかしこれらは、いずれも日本についての断片的な記事であり、まとめて日本について記述した最初の文献は、周知の如く「魏志倭人伝」
(「三国志」の魏書東夷伝にある、倭人条という一文)という事になる。約二千文字で、3世紀前半の日本の状態が記録されている。
ここに「邪馬台国」「卑弥呼」という語が出現する。そして「狗奴国」という国名も出現し、伊都国と並んで魏志倭人伝では重要な国で
ある。それは、「邪馬台国の南にある」という記述と、「元から卑弥呼と仲が悪く戦争状態であった」と書かれているからだ。
『自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國
....次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。』
『其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。』
『其八年、太守王[斤頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、
遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。』
倭人伝全体の内容については、この「邪馬台国大研究」の中の「魏志倭人伝(全文)」や巻末の読み下し文、或いは「資料集」の中の
「訳文 魏志倭人伝」を参照していただきたいが、「訳文 魏志倭人伝」から「狗奴国」に関係ある部分だけを以下に抜き出してみる。
「倭人は帯方郡(今のソウル付近)の東南にあたる大海の中にあり、山島が集まって国やムラを構成している。
(略)
女王国より北の方角についてはその戸数・道里は記載できるが、その他の周辺の國は遠くて交渉が無く、詳細は不明である。次に斯馬国
があり、次に已百支国あり、次に伊邪国あり、次に都支国あり、次に弥奴国あり、次に好古都国あり、次に不呼国あり、次に姐奴国あり、
次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に為吾国あり、次に鬼奴国あり、次に邪馬
国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国あり。これが女王の(権力の)尽きる所である。
その南に狗奴国があり、男子の王がいる。その長官は狗古智卑狗であり、(この國は)女王國に隷属していない。
(略)
その六年(245年)、倭の難升米が黄幢 (こうどう)を賜わり、 (帯方)郡経由で仮授した。
その八年(247年)、太守王[斤頁]が到着した。倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)とうまくいってな
かった。倭は、載斯烏越等を派遣して帯方郡を訪問し、戦争状態の様子を報告した。(魏は、)塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を派
遣して、詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に授け、檄文を為(つく)って戦いを激励した。(告喩す)
卑弥呼以て死す。大きな冢(ちょう:つか)を作った。直径百余歩で、徇葬する者は奴婢百余人。程なく男王を擁立したが、国中の混乱
は治まらなかった。戦いは続き千余人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女(一族の意味か?)壹与(いよ)年十三才を擁立して女王となし、
国中が遂に治まった。政等は、檄文を以て壹与を激励した。壹与は、倭の大夫率善中郎掖邪狗等二十人を派遣して、政等が(魏へ)還る
のを見送らせた。そして、臺(魏都洛陽の中央官庁)に詣でて、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹
を献上した。」
狗奴国の所在地
「狗奴国」、読み方は通常は「くなこく」と言う。女王の境界の尽きた其の南にあり、男子が王である、とする。
そして官名として『狗古智卑狗』(きくちひこ、或いはくこちひこ)がおり、女王に属していないと記述されている。更に正始八年卑弥
呼、狗奴国の男王『卑弥弓呼』(ひみここ)と和せず、戦争状態にある事を(魏に)報告し、激励のための詔書等をもらっている。
記述としては以上であり、これの文章から狗奴国の所在は、「邪馬台国」の南と言う位置付けと、発音から熊本県菊池地方、和歌山県熊
野地方等が候補地として挙げられている。九州説、大和説のいずれに立つかによって「狗奴国」の所在地も大きく異なってくるのは言う
までもないが、この「倭人伝」の記述から、狗奴国の所在地を割り出すのは無理である。
邪馬台国九州説では、概ね狗奴国の比定地は現在の熊本県という説が根強い。『狗古智卑狗』という語から菊池川流域に求める説と、音
韻によって狗奴国をクマと読み、「狗名=クマ=熊」即ち、熊本、球磨、熊襲に比定する説などがある。必然的に「邪馬台国」は熊本県
北部もしくは福岡県、或いは佐賀県の一部、大分県の一部、という辺りになる。
反して大和説では狗奴国の比定地は数多い。先述の和歌山県熊野地方から、尾張・東海地方を中心とした勢力説まで幅広い。変わったと
ころでは狗奴国=出雲説もあるようだ。又、後漢書にある「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」と言う一文を読ん
で、北九州から海を度(渡)った四国だと言う説や、瀬戸内海沿岸だというような意見を言う人もいるが、後漢書では女王国の南を「自
女王國南四千餘里至朱儒國」としている。「魏略」には「女王之南、又有狗奴國、女男子爲王、其官曰拘右智卑狗、不屬王女也」となっ
ている。
狗奴国の状況
この国の北に邪馬台国が存在したことは明白であり、狗奴国が卑弥呼に服属しておらず、正始八年頃には互いに攻撃し合う状況にあった
こともわかる。政治的には女王国連合と対峙している王国で、「男王卑彌弓呼素不和」とあるので、ヒミココ或いはヒミクコという名の
男王と以前から対立(素不和:もとより和せず。)していた。なぜ、女王国と狗奴国とは前から不仲であったのか?
一番簡単な理由は、「民族」或いは「部族」の違いに起因するものとの考えだろう。渡来して来た民族間で、或いは土着の純日本人部族
との間で、居住地と定めた土地が隣接していた事によるいざかいである。
渡来してきた民族の末裔である「卑弥呼」とそれを中心とした「女王国連合国家」の勢力と、土着の日本人民族(或いは渡来人と融合し
た)狗奴国を中心とした勢力との対立という図式も考えられる。或いは狗奴国自身も遥かな縄文時代のどこかでやはり渡来してきた民族
なのかも知れない。南九州へは、太平洋諸島の南方人の渡来が続いていたと思われるし、かれらは九州の原住民との間に長い期間に渡っ
て混血・融合を繰り返して、言わば「南九州連合国家」の原型が出来上がっていた可能性も否定しきれない。
最近の日本人血液型の研究によると、日本列島に初めて太平洋諸島の民族【O型】が渡来し、そこに北方系の民族【B型】が朝鮮を経て
渡来して、さらに他の渡来系【A型】があると言われる。又DNA研究の成果では、現代の韓国人に一番近いDNAを持っている人達が
住む地域は、圧倒的に近畿地方で、中国地方、四国地方に少し、そして北九州と中九州にごく僅か、という結果になっていて、南九州に
は殆ど存在しないとされている。
不仲の別の理由として「国家間対立」がある。邪馬台国は大帯郡を通じ「魏」と交渉を持っていたが、対立する「呉」は狗奴国と通じて
おり、直接狗奴国を援助していたという説だ。諸国が乱れ、未だ統一に至っていなかった混乱期に、倭国で「魏」と「呉」の代理戦争が
行われていたというものである。
しかし「三国志」の「呉書」によれば、遼東の公孫淵が敗北した後、呉は東方から撤退する。邪馬台国と狗奴国の戦いが行われていた頃
の呉は、孫権の後継をめぐって権力闘争が激化し、やがて混乱の中で孫権も死亡する。とても狗奴国を支援している余裕などなかったに
違いない。もし「呉」と狗奴国の同盟関係があったとしたら、倭人伝はもっと違う表現になっていたのではないだろうか。
狗奴国のその後
1.狗奴国消滅説
狗奴国は邪馬台国との闘争に敗れ、そのまま歴史の中に滅んでいったとする説である。しかし倭人伝を読むと何処にも狗奴国が滅んだ記
事はないし、邪馬台国との闘争で邪馬台国に負けたとも記されていない。長い間緊張状態にあった二国間の争いに関しては、卑弥呼が使
者を使わして魏に援助を頼んだことが記録されている。即ち、正始元年から4年、6年、8年と卑弥呼と魏の間で遣使の行交がある。しかし
半島の難しい情勢からなかなか日本に来れなかったようで、実際に魏の使者・張政が日本にやってくるのは正始8年(247)の事であった。
倭人伝はその事を
「その八年、太守王斤頁官に到る。倭の女王卑彌呼、狗奴國の男王卑彌弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻
撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書、黄幢をもたらし、難升米に拜假せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。卑弥呼以
て死す。大いに冢を作る。」
と記録している。
むしろこの記事からは、狗奴国との闘いで卑弥呼が死んだとも解釈できる。或いは塞曹掾史張政等が到着したとき既に卑弥呼は死んでい
たとも解釈できるのだ。「卑弥呼以死」の「以」を「もって」と呼べば「もって死す」となり、狗奴国との闘いのせいで死んだとなるし、
「すでに」と呼べば「既に死んでいた」と言うことになって張政等は卑弥呼に会えなかった事になってしまう。「以」を「すでに」とす
る使用法は、中国の他の史書にも見られるのでその可能性は高いが、現代の中国の学者に言わせると「以」にはなんの意味もないと言う
意見もある(王栄仲氏)。単に「卑弥呼が死んだ」と書かれているに過ぎないと言う。
いずれにしても、247 年か、或いはその数年後には卑弥呼が死んだことは確実で、ここに「邪馬台国」の女王「卑弥呼」は歴史から消え
ていったのである。卑弥呼が狗奴国との闘争で死去し、邪馬台国もそこで滅んだとする見方に立った説が次の東遷説である。
2.狗奴国東遷説
「神武東征神話」そのものは『古事記』や『日本書紀』による虚構であるとする学者たちの中にも、モデルとなった何らかの歴史的事実
があったのではないかと考えている人は多い。狗奴国は、鹿児島・熊本・宮崎あたりの南九州を領域にしていたとし、狗奴国が邪馬台国
を滅ぼして九州を統一し、その勢いで東征したという可能性を考え、畿内勢力を打倒したとする。これによれば、狗奴国が「邪馬台国」
との闘争に勝利し、その勢いで畿内にも進出して大和朝廷を成立させたという事になる。
『晋書』「四夷伝」倭人条には、266年に邪馬台国が西晋に朝貢したことは記述されているが、それ以降、西晋に朝貢した事実がなく、
邪馬台国はその後滅亡したと考えるものだ。266年と言えば、魏王朝が倒れ司馬氏の晋朝が成立した翌年、武帝の泰始2年のことであ
る。当時邪馬台国に対抗していたのは狗奴国のみなので、狗奴国が邪馬台国を滅ぼしたと考えるのが一番合理的なのだろう。この壱与の
使節派遣を最後に、「邪馬台国」は中国の史書から姿を消してしまう。
その後我が国が中国の史書に登場するのは421年、南朝の宋の時代、永初2年の事で、使節を送ったのはいわゆる倭の五王の一人「讃」
(さん: 仁徳天皇?)である。讃は「倭国王」として記録されているので、泰始2年(266)から永初2年(421)の約150年間の間に、
日本全土の統一が成り、名実ともに統一王朝が出現したのである。
この150年間は、これまで日本史上「謎の4世紀」とか呼ばれて来たが、史書に記録がないだけで、別に「謎」ではない。考古学上の
知見はたくさんあるし、我が国の史書「古事記」「日本書紀」と照らし合わせれば、激動の時代であった4世紀が見えてくる。
先年物故された、早稲田大学名誉教授の水野祐氏(歴史学)はかって、「奴国が伊都国にほろぼされ、その敗残勢力が筑後川を越え九州
山地を横切って九州南部に拠点を移し、頭に「狗」をつけて「狗奴国」になった。その後、この勢力が「神武東遷」として大和に入った
のが大和朝廷である」と言う説をとなえていた。(「古代王朝99の謎」角川文庫:角川書店 昭和60年11月10日発行)
狗奴国を、南部九州と考えているわけで、水野祐氏の説では、狗奴国の「狗」は、半島の言葉では「大きい」という意味で、「狗奴国」
とは「大奴国」ということらしい。そこで、後漢に朝貢して金印をもらった奴国の首長層は、奴国が邪馬台国に屈服したときに、筑後川
沿岸まで逃げてそこから南の地方に、新しい奴国「狗奴国」をつくったというものである。最終的に水野氏は、仁徳王朝がこの狗奴国の
流れを継ぐ王朝であるであるとしていた。
事ほど左様に、「謎の4世紀」については記録がないのでいかようにも「自説」を展開できる。「狗奴国東遷説」もただちに肯首できる
と言うわけではないが、さりとて全面的に否定できない面も多く持っている。
3.狗奴国発展説
この説は、簡単に言ってしまえば狗奴国はそのまま存続し、やがて後世「熊襲」と呼ばれる勢力に発展したというものである。邪馬台国
が東遷して近畿で闘いが続いていた間、或いは近畿に発生した初期ヤマト王朝が覇権争いを繰り返し、各地で倭国大乱の様相を呈してい
た間、狗奴国は南九州にとどまり、そこで独自の勢力を保ち続け、やがて畿内を統一した勢力とぶつかることになる。
「古事記」「日本書紀」には、初期の頃ヤマトの大王にまつろわぬ民族として熊襲と蝦夷がたびたび登場する。神功皇后の夫、第14代
仲哀天皇は熊襲征伐の途中、「新羅を打て」という神の撰託を無視したため、琴を挽いている時、或いはふてくされて寝たとき、俄に死
んだことになっているが、日本書紀は一書に曰くとして、矢を受けて死んだとも記録している。
これをもって仲哀天皇は熊襲に殺されたと見る人もいる。また第12代景行天皇も息子のヤマトタケルを熊襲征伐に派遣している。26
代継体天皇の時代には筑紫で磐井が叛乱を起こすが、これは筑紫ではなく筑後川南から熊本一帯に勢力を持っていた豪族という見方もあ
る。つまり熊襲である。
このように、一応の日本統一が成った後でも南九州には何か北九州圏や近畿勢とは違う勢力がいたのである。どうしても、新しく日本を
統一した勢力とは相容れない集団があったと考えると、それは狗奴国から発展していったものと考えると無理がないような気がする。
おわりに
卑弥呼が死んだ後倭国は再び混乱の時期を迎える。男王を擁立したが国中納得せず、再び殺し合って1000余人が死んだと倭人伝は記し、
さらに卑弥呼の血縁の壱与を王女にして混乱は収まったと記されている。卑弥呼から壱与の間が何年くらい経っているのかはわからない
が、「政等、檄を以て壹與を告喩す。壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って臺に詣り、男
女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二牧、異文雑錦二十匹を貢す。」とあるので、卑弥呼からそんなに間は空いていないと思
われる。また軍勢が帰っていったので、これをもって邪馬台国は狗奴国との闘いには勝利したのだ、という見方もある。魏志倭人伝はこ
の文章で完結しているのである。
私の意見としては、邪馬台国と狗奴国との間の闘争は一応の停戦状態になり、邪馬台国も狗奴国もしばらくはともに存続していたのでは
ないかと思う。以前は、その後邪馬台国が東遷し近畿勢を打ち負かしてヤマト王朝をうち立てたという「邪馬台国東遷説」の立場に立っ
ていたが、最近どうも違うのではないかと思うようになった。
全国に散らばる古墳からの出土物を見ると、日本の社会は卑弥呼以後の150年間に本格的な軍事政権の到来を見るのである。夥しい馬
具に武具、鉄剣に弓矢といった闘いの日々の中に古墳の埋葬者たちは生きていた。とても1女子を女王として擁立し、それで国中が平和
に収まるというような生やさしい社会ではなかっただろう。刺し殺し、首をはね、目玉をえぐるというような残虐な闘いが 100年以上続
いたのではないかと思われる。
「宋書」には、倭王讃以下五人の王が登場する。珍・済・興・武である。このいわゆる「倭の五王」たちは王そのものが武力に秀でた絶
対君主のような存在であった。「王自ら甲冑を纒い山河を駆けめぐって、寧所(ねいしょ)に暇(いとま)あらず。」とあり、済などは
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・募韓六国諸軍事」「安東大将軍」の称号を貰っている。これは我が国のみならず、朝鮮半島
をも倭国の支配下に置く事を中国が認めているのである。
この時代になると馬が大量に日本にも移入され、軍事力は邪馬台国の時代とは比べものにならない規模に発展していたと考えられる。
シャーマンとしての卑弥呼、年端もいかない壱与。邪馬台国時代の統治を考えると、とてもこの連合国家が日本を武力で統一したとは考
えにくい。武力を保持しない女王をたてる事で、あえて国中を治めようとした倭国連合の人々の感性は、この激動の4世紀には通用しな
かったのではないだろうか。邪馬台国は、台頭してきた渡来系の新興集団によって滅ばされ、あるいは取り込まれて歴史から消えていっ
たという可能性も大である。4世紀には大和を中心に各地に古墳が築造され、明らかにそれまでとは異質な民族たちの大量移入を思わせ
る証拠が山ほど残されている。それは「邪馬台国時代」とは異なる文化である。
私は、過去、日本に置ける劇的な変化がこれまでに三度起きたと思う。一度は明治維新、そして一つは第二次大戦の終了。そしてもう一
つがこの古墳時代である。現在の日本の中央集権制の基礎、大和王朝の基礎、日本語の基礎、武力体制の基礎、あらゆる社会としての基
盤の確立は、4〜6世紀のこの時代に固まったと考える。
さて、このHPのテーマであるが、狗奴国は生き残ったと思う。私の心情としては、現時点では、(3)の狗奴国発展説を支持したい。
南九州は狗奴国から熊襲へ発展し、やがて隼人と呼ばれる人達とも融合し、現代まで、まつろわなかった民族の血を脈々と受け継いでい
るように思えてならない。(2000.12.30)
邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部ANNEX/ 再び熊本を訪ねる