Music: 赤とんぼ

花岡山公園
2012年3月22日 熊本市

	このコーナーの写真は、殆どが林さん撮影のものである(他のコーナーもそうかな?)。私のデジカメで写した写真はあまりにも見劣り
	がしたので、同じ景色の写真は全部林さん撮影のものにした。林さん、送っていただいた写真は殆ど使わせて貰います。ありがとう御座
	いました。この違いを見たら真剣に一眼レフ購入を検討したくなる。ま、腕の違いもあるけど。
	




どないして写したのかな?と一瞬思ったが、ホームから望遠で撮ったんですな。一体何両あるのかな。4両、5両?



大阪から乗ったときは長い車両の「さくら」だったが、博多から乗ると九州内だけの新幹線だから短いのだろう。



6両でした。この中に私が乗ってます。林さんの写真日記はここから始まるんやね。違った、時刻表から始まるんや。



なんと九州新幹線の座席は木製だった。しかも2席ずつの一列4席で、実にゆったりしている。



上下は私のバカチョン・デジカメで撮った写真。同じ1300〜1400万画素なのに、解像度がこうも違うのはやっぱ一眼レフだからやなぁ。









駐車場から見た「花岡山仏舎利塔」。その上のホームからの写真とは大違い。







日蓮聖人像の横での林さん。バカチョン・カメラで全然綺麗に撮れていない。


	HPをuploadした後、林さんからのmailで以下のように間違いを指摘された。

	「と、花岡山のページ中に「日蓮聖人像」とありましたが、あの像は、「藤井日達」師といって阿蘇出身で仏舎利塔を各地に建設した
	 人(故人)です。

	http://nipponzanmyohoji.net/

	日本山妙法寺という、日蓮宗系?の新派のようですね。ガンジーとかに影響を受けているのかな... 」

	「日蓮聖人像」ではなく、「藤井日達像」でした。お詫びして訂正します。



上下の写真のできばえのあまりの違い。一眼レフとバカチョンはこんなに違うもんかね。




	仏舎利塔。世界平和の祈願をこめて建設された。1947年(昭和22年)9月21日に地鎮祭が行われ、約6年後の1953年(昭和28年)3月に完成。
	同年4月2日、完成後初の法要が行われた。 仏舎利はインドのジャワハルラール・ネルー首相から、尖塔の黄金コタはスリランカのコテラ・
	クラ首相から送られた。 



逆光もあるけど、林さんも良く写ってないし。これじゃ写真撮ってあげない方がましな感じやな。












	花岡山	出展:ウィキペディア

	花岡山(はなおかやま)は、熊本県熊本市西区にあり標高 132.2メートルの山である。山頂からは熊本市街が見渡せる。JR熊本駅の北西側
	に位置する山で、金峰山の末端部が断層によって切り離されて形成されたと考えられている。南側には万日山があり地形的には繋がってい
	る。かつては朝日山や勢高山などと呼ばれていた。979年(天元2年)に祇園神社(現在の北岡神社)が鎮座してからは祇園山と呼んだ。
	さらに1869年(明治2年)には桜を植樹したことから花岡山と呼ぶようになった。
	山頂を中心とするエリアは公園として整備されている。熊本市の特殊公園(風致公園)として1972年(昭和47年)4月1日に開設された。面
	積120,827m2。周辺は2018年(平成30年)までの予定で熊本駅周辺整備事業が進行中である。

	花岡山にはこの他にも、加藤清正が合図の鐘を掛けたとされる松の跡「鐘掛松跡」や、中腹には阿蘇氏当主が豊臣秀吉に命じられ切腹させ
	られた「阿蘇殿松跡」、神風連の乱(神風連の変)に倒れた官軍の兵を弔う墓所「花岡山官軍墓地」、西南戦争の際に薩軍が陣を築き、砲
	台を設置した「花岡山薩軍砲座跡」などの旧跡もある。戦争の舞台でもあったのだ。1869年(明治2年)に、幕末の志士を弔う「招魂祠」
	が建てられ、同時に桜も植えられた。 









兜岩。熊本城築城の際、石を切り出す指揮を執った加藤清正が、兜を脱ぎ腰掛けたといわれる岩。











熊本バンド結成の碑。当地で熊本バンドが結成されたことを記念する碑。「熊本バンド? え、ロックンロール発祥の地かな?」




	熊本バンド	出展:ウィキペディア

	熊本バンドは、札幌バンド、横浜バンドと並んで日本の明治のプロテスタント派の3つの源流の1つである。花岡山バンドともいう。1871年
	熊本洋学校が設立された。招かれたアメリカ人教師L.L.ジェーンズの信仰と情熱が青年達を動かし、多数の入信者を産んだ。ジェーンズは
	平信徒であったので、長崎在住の宣教師と相談の上、洗礼の礼典を行った。ジェーンズの教育方針は、道義的国家の確立のために、神の信
	仰に生きる自主的な個人を形成することにあった。こうした教育観が、士族の子として生まれながら、藩制の解体で忠誠の対象を失った青
	年達に、新しい目標を与えた。
	1876年(明治9年)1月30日(29日説もある)、洋学校の生徒35名は熊本城外花岡山で集会を開催し、賛美歌を歌い黙祷と聖書朗読を捧げた
	後、「奉教趣意書」に誓約した。こうした契約によって結ばれた人々をバンドと称した。この趣意書は「遂にこの教を皇国に布き、大に人
	民の蒙昧を開かんと欲す。」とあるように、個人的な誓約や教会形成を意識したものというよりは、キリスト教と国家との関係を意識した
	宗教国家樹立を宣言したものであった。
	洋学校は1876年に閉鎖されたが、金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰ら青年達の多くは、新設間もない同志
	社英学校に転校し、同志社の大きな位置を占めるようになっていく。
	熊本バンドは、ジョーンズの影響により、リベラル(自由主義神学)で、国家主義的であった。彼らは1880年代にドイツから流入してきた
	リベラル神学の影響を受け、日本組合基督教会の教職者になったので、日本の会衆派教会はリベラルが主流派になった。
	熊本バンド出身者は後に牧師、教職、官公吏、政治家などになった。また、日本のYMCA設立にも関与し、小崎弘道は1880年(明治13年)設
	立の東京YMCA初代会長に就任した。彼はYMCAの日本語訳を考える際に中国の『史書』にある「青雲の志」から「青年」という呼称を生み出
	した。また、原田助も1886年(明治19年)に神戸YMCA会長に就いている。
	「熊本バンド」の名称は、メンバーらが名乗ったものではなく、同志社において「特異な存在」である彼らを指して在職中の宣教師ら周囲
	が呼んだ呼称である。「特異」とは、この一団が熊本県人気質を強く持っていた点、精神のみならず行動の逐一までがキリスト教信者色を
	強く押し出していた点、そして熊本洋学校時代に一般教育課程を既に修めていたために成績が良く、それを鼻にかけて時に教師さえ軽んじ
	る態度を取る者がいた点がある。したがって、この名称は熊本時代ではなく、彼らが京都にいた時に出来た言葉である。




	<メンバー>

	熊本バンドのメンバーを定義する範囲には6つの説がある。35名(説1)とは花岡山で「奉教趣意書」に署名した人数だが、この時山に登っ
	た人数は40名(説2)だった。彼らを中心に趣意に賛同した者たちを「花岡山バンド」と呼んだが、そこには若干の人数差があり、これを
	考慮してメンバーを約40名(説3)ともする。この「趣意書」原本は同志社に保管されているが、うち14名の署名には抹消線が引かれてお
	り、残りは21名(説4)となる。実際に同志社に転校した人数は明瞭ではないが約20名(説5)と言われ、卒業した者は17名(説6)である。
	ジェーンズは、メンバーの一時的な離散などもあったが最終的に信仰を貫いた者は予想以上に多かったと述懐しており、これを受けて熊本
	YMCAは(説3)を取っている。小崎弘道、山崎為徳、吉田作弥、和田正修、赤峰瀬一郎の5人は後からバンドに加わっているが、実は花岡山
	の時に反キリスト教(耶蘇教排斥)を訴える「正義派」を水前寺にて旗揚げしており、このような成員が一定ではなかったことを示す事例
	がある。
	
	主なメンバー
	「奉教趣意書」署名 
	(署名順)宮川経輝、古荘三郎、岡田松生、林治定、不破唯次郎、由布武三郎、大島徳四郎、蔵原惟郭、金森通倫、吉田萬熊、辻豊吉、
	亀山昇、海老名喜三郎(海老名弾正)、浦本武雄、大屋武雄、両角政之、野田武雄、下村孝太郎、北野要一郎、加藤勇次郎、原井淳太、
	柴藤章、松尾敬吾、金子富吉、古閑義明、上原方立、徳冨猪一郎(徳富蘇峰)、森田久萬人、伊勢時雄、浮田和民、阪井髟瘁A市原盛宏、
	川上虎雄、鈴木萬、今村慎始  近見真由子

	その他のメンバー 
	赤峰瀬一郎、小崎弘道、徳冨蘆花、長田時行、原田助、山崎為徳、横井時雄、吉田作弥、松田大三郎、和田正修 





いやぁー、しらんかったねぇ。同志社の礎かい。ここでキリスト教の集会を開いとったんか。来てみらな分からんもんやねぇ。



桜の花真っ盛り





















熊本城を築いた加藤清正は「清正公」を縮めて熊本では「せいしょこさん」と呼ばれているらしい。なんと親しい。







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