旧摂津・河内・和泉の三国における朝鮮系移住民族の分布は、「新撰姓氏録」によると摂津国三十氏、和泉国二十四氏な のに対して、河内国は七十一氏とすこぶる多い。そのため旧河内国内には朝鮮系豪族に関する遺跡が実に多い。淀川を北 限として現在の大阪府の東半分(旧河内国)の、北から南まで点々と分布している。この百済寺はその中でも淀川に面し た北限に位置している。淀川にほぼ併行して走る京阪電車の、枚方駅東方「宮之阪駅」から5分ほど、中宮西之町の標高 約30メートルの高台に百済寺跡がある。 前から行きたかった百済寺跡。百済王(くだらのこにきし)氏の氏寺だった百済寺跡。歴史に興味を持ち出した頃から一度 行ってみたいとは思っていたのだが、なぜかチャンスがなく、とうとう今日行くことになった。数日前新聞記事を読んで、 いい機会だと思った。百済寺跡は現在公園に整備されていて、まさか発掘など今もやっているとは思ってもいなかったの で驚きだった。もともとは8世紀の終わり頃、百済王敬福が一族の氏寺として建てた寺の跡で、昭和27年に国の特別史 跡に指定されている。大阪府には64件の国指定史跡があるが、国の特別指定史跡はたったの2件しかない。一つは百済 寺跡であり、今一つは大阪城である。
<特別史跡 「百済寺跡」> 大阪府枚方市中宮西之町1-60 東大寺大仏建立に際し、天平21年(749)百済王「敬福」は陸奥国産出の金を献上した功により、翌年宮内卿兼河内 守に任ぜられ、以後百済王氏は中宮に住み、百済寺を建立したと考えられている。伽藍配置は日本では他に例を見ない形 式で、新羅の寺院建築との関連が注目される。昭和27年特別史跡に指定され、43年には全国で初めて史跡公園として 整備された。伽藍の配置は、南大門 → 中門 → 東西両塔 → 金堂 → 講堂 → 食堂 の順で回廊を中門から 左右にのばし、両塔を囲み金堂までつなげるという新羅の廃感恩寺に類似する様式となっている。今に残る礎石などの遺 構からは、かつて七堂伽藍の甍を並べた華麗な姿が偲ばれる。境内からは百済王以前の白鳳時代蓮華文の瓦も出土してい る。
史跡公園内は小さな玉砂利が敷き詰められている。樹齢数百年の松の木が方々で静かな木陰を作り、市民が選んだ枚方八 景の一つ「百済寺跡の松風」に選ばれている。 「枚方」、関西に住んでいる人でもなければこれを「ひらかた」と読むのは難しい。この地名が史書に初めて登場するの は、『日本書紀』の継体天皇24年(530)10月の条に記された近江臣毛野(おうみのおみ・けな)の妻が読んだ歌だそ うだ。もっとも、当時使用されていたのは万葉仮名であり、今日用いられている「枚方」ではない。「枚方」という表記 の例は、霊亀元年(715)3月頃完成したとされる『播磨国風土記』の揖保郡枚方里の条に、「河内国茨田郡枚方里の 漢人(あやひと)が到来」したと記しているのがもっとも古いという。語源については、蓮如上人の「石山日記」の永禄 2年6月9日の日記に、枚方を「平らな潟の入江」と記しているそうなので、これがその呼び方の始まりかも知れない。 この地は淀川に面しており、古くから京都と大阪を結ぶ交通の要衝であった。当時は、下れば河内湖や住吉津・難波津に つながり、さかのぼれば木津川・宇治川・鴨川・桂川と結ばれる淀川水系の枚方は、まさに水陸の便に恵まれた要衝の地 だった。継体天皇(男大迹王)が、茨田郡の北の「樟葉」の地を新しい王城の地と定めて即位したのも、淀川水系を支配 する事が、古代いかに重要だったかを物語る。
百済王家とは、百済滅亡の時、我が国に亡命した百済王の子の禅広(ぜんこう)一族のことである。天智天皇は、禅広の ため、摂津の国に百済郡を創設して、一族をそこに住まわせた。禅広のひ孫にあたる敬福(きょうふく)は天平15年 (743)に陸奥守(むつのかみ)に任ぜられた。その敬福が天平勝宝元年(749)、黄金900両を献じた。東大寺大仏に鍍金 用の金が不足していたときだったので、聖武天皇はいたく喜んで彼に従三位を授け、宮内卿に任じ、河内守を加えた。 このとき、枚方の地が与えられ、一族は摂津の百済郡からこの地に移り住んだ。 <百済郡> 古代の難波には、西成郡・東成郡(東生郡)・住吉郡・百済郡があった。天智三年(664)以前に「五十戸」を一つの行政 単位としていて、689年の浄御原令では「評」と表記し、「郡」は大宝令( 701年施行)以降という。「百済郡」の古い用 例としては、長屋王邸跡から出た木簡があり、霊亀元年(715)の物と考えられる。百済からの渡来人が多かったために百 済郡ができたのはまちがいないだろう。 やがてこの地で洪水が起こって、百済王氏は、百済王敬福の時に枚方・交野へ移 住し、「百済郡」はいつのまにか姿を消した。(『古代を考える 難波』直木孝次郎氏編)
百済王神社(くだらのこにきしじんじゃ)・・・ 小錦ではない「こにきし」 住 所: 枚方市中宮西之町1−68 京阪宮之阪駅から東へ300m 祭 神: 百済王神 須佐之男命 本 殿: 南向。妻入 現在の祭神は百済国王と須佐之男命(江戸時代までは牛頭天王)である。百済滅亡後、日本に残留した百済王族・善光(禅 広)は、朝廷から百済王(くだらのこきし)の姓を賜り、その曾孫である敬福は陸奥守に任ぜられ、749年陸奥国小田郡 で黄金900両を発見して朝廷に献じた。その功によって敬福は従三位宮内卿・河内守に任じられ、百済王氏の居館を難波 から河内に移した。当地には氏寺として百済寺、氏神として百済王神社が造営された。その子の南典が死去した時、朝廷は 百済王の祀廟を建立させた。数度の火災により百済寺・百済王神社は次第に衰退した。後に奈良の興福寺の支配下に入り、 再興が図られた。現在の本殿は、興福寺と関係が深い春日大社の本殿を移築したものである。百済寺跡に隣接している。 <百済王敬福の略歴> 天平10年(738)、正六位上・敬福は陸奥介(むつのすけ)に任ぜられる。この年、初めて敬福の名が『続日本紀』に 登場(41歳) 天平11年(739)、従五位下の位を授けられる(42歳) 天平15年(743)、陸奥守(むつのかみ)に栄進する(46歳) 天平勝宝元年(749)2月、敬福が黄金900両を献じる。聖武天皇、はなはだ喜び従三位を授け、宮内卿に任じ、河内守 を加える(52歳) 天平勝宝4年(752)4月9日、大仏開眼の法要が営まれ、5月28日、敬福を常陸守に任ぜられる(55歳) 天平宝字3年(759)、敬福、伊予守に転任(62歳) 天平宝字5年(761)、新羅征伐の議が起こると敬福は南海道節度使に任命される(64歳) 天平宝字7年(763)敬福、讃岐守に転任(66歳) 天平宝字8年(764)9月、藤原仲麻呂の乱が起きると、敬福は藤原仲麻呂の支持で即位していた淳仁天皇を外衛大将と して幽閉(67歳) 天平神護元年(765)、敬福、刑部卿に任じられる。称徳天皇の紀伊国行幸時には騎馬将軍として警護に当たる。その帰 途天皇が河内国の弓削寺に行幸した際、敬福らは本国の舞(百済舞)を奏した(68歳)。 天平神護2年(766)6月28日、刑部卿従三位・百済王敬福が逝去(享年69歳)
<百済王神社> 祭神は百済王・須佐之男命(牛頭天王) 百済国王、義慈王の王子・禅広(ぜんこう=善広)は、新羅・唐連合軍によって祖国が滅亡した際、日本に亡命してきた。 やがて朝廷に仕えることとなり、百済王氏という姓を賜り、難波の地に居住した。 陸奥守として赴任していた禅広の曾孫にあたる百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)は、聖武天皇の東大寺大仏鋳造 に際し、陸奥国で産出した金を献上し、その功により、従三位河内守に任ぜられた。敬福は中宮の地を賜り、氏寺として百 済寺、氏神として百済王神社を造営し、一族ともどもこの地に住みついたと考えられている。やがて百済王氏一族は、皇室 や高級貴族と姻戚関係をもち、朝廷内での地位を高めていった。特に垣武天皇は交野ヶ原の地をしばしば訪れ、百済王氏と 親交を深めた。その後、度重なる火災により壮大な伽藍は灰燼に帰し衰退した。やがて奈良興福寺の支配を受け、再興が図 られた。今ある本殿は、奈良春日大社の本社本殿を移築した「春日移し」である。なお、拝殿にかかる「百済国王 牛頭天 王」の木版額は、当社が百済王氏の祖霊を祀る神社であることを明らかにする。 (枚方市教育委員会)
室町時代の古文書『百済王霊祠廟由緒』によれば、敬福の叔父にあたる百済王南典の没後、聖武天皇の勅によって百済王氏 の祖先と南典の霊を祀るため、百済王神社と百済寺が創建されたと記されている。 天平21年( 749)、陸奥守だった百済王敬福は、任地の陸奥国(今の茨城県)から産出した黄金900両を大仏の鍍金のた めに献上し、聖武天皇をいたく喜ばせた。聖武天皇は、敬福の位階を渡来氏族としては最高の従三位に進ませ、河内守に任 じた。これを機に、難波に居住していた百済王氏の一族が河内国交野郡中宮(なかみや)すなわち現在の地に移住してきた。 おそらく淀川に近いため水利がよく、台地なので水害の心配もなく、さらに当時の都・平城京へ交通の便も良かったため、 一族は中宮を本拠としたのだろう。そして、一族の先祖を祀ったのが、百済王祀廟と百済寺だったのだ。
百済寺は鎌倉時代に焼失し廃寺となった。しかし、百済王神社は百済王氏の没落にもかかわらず中宮一円の氏神として地域 住民の崇敬を集めて、現在まで存続してきた。現在の本殿は、江戸時代の文政10年(1828)、奈良春日神社の作り替えの とき、旧社の一棟を譲り受けて移設してきたものである。石の鳥居や、石灯籠、狛犬なども江戸時代中期以降のものだとさ れている。
<講堂跡 食堂跡> 昭和40年(1965)になって、国の補助で史跡公園として整備する計画が持ち上がり、5月から7月にかけて再び発掘調査が 行われた。その結果、食堂跡や東院跡、東門跡が発見され、また回廊が金堂に取り付いていることも確認された。境内を区 画する築地塀も160mに達することも分かった。昭和43年(1948)には、全国初の史跡公園として整備され、跡地には基 壇と礎石が復元された。 上の写真でみんなが立っているところはかっての金堂の上である。昭和40年(1965)から40年を経て、三度目の発掘調査 が昨年11月に着手された。過去に二度調査された史跡が、また発掘調査されるのは珍しい。その理由を説明者が話してい たが、日韓交流のシンボルとして百済寺跡を再整備することになったが、過去の発掘成果に不明な点がいくつか判明した。 たとえば、講堂の左右に延びる遺構が見つかっているが、発掘は途中で中断している、東院跡の建物跡や築地跡の調査が完 了していない、などの問題点が指摘されている。そのため今一度発掘調査を行なって確認することになったとのことだ。 昨年、今年と続けて発掘調査されていて、40年前の状況を見た人は今では殆どいないので、これを機に市民にも見て貰お うと言うことになったそうだ。
<東塔跡 金堂跡> 金堂、講堂などを中心に東塔と西塔を配する伽藍様式は、一見したところ薬師寺伽藍配置に似ている。だが、薬師寺の場合 は中門から延びる回廊は講堂に取り付いているが、百済寺では金堂に取り付いている点が異なる。そのため、新羅の感恩寺 との類似が指摘されている。私は歴史倶楽部の例会で、この感恩寺にも数年前行ったことがある。確かに似ている。 百済寺は、平安時代後期に焼失し、鎌倉時代に一度復興したが、再び焼失した。その後は、莫大な費用を要する再建は、政 治的、経済的に不可能だったらしく廃寺となったが、礎石だけはそのまま残っていた。そこで、昭和7年(1932)の7月から 11月にかけて礎石の位置を調査して、伽藍の平面的な位置の確認が行われた。非常に良好な状態で伽藍跡が残っていたた め、昭和16年(1941)1月に国の史跡に指定された。さらに昭和27年(1952)3月には国の特別史跡に昇格した。
百済寺跡は、天野川を見下ろす標高30mの台地の上に位置している。今でこそ、周囲に住宅やビルが建ち並び、見通し はよくないが、創建当時は眼下の天野川はもちろん、遙か彼方の淀川の先まで見通せた景勝地だったに違いない。その台 地に、160メートル四方の広大な寺域を占める寺院が建立された。建立したのは、義慈王から数えて4代目の百済王敬 福と伝えられているが、しかし、これほどの寺院が一朝一夕に建立されたとは思えず、奈良時代中頃から建てはじめ、七 堂伽藍が完成したのは平安時代の初期と考えられているようだ。
上の写真の、松林の裏に見えている建物がこの遺跡の出土物収納庫である。今日は今回の出土品と、今までの発掘の出土 品も並べてあった。
百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫である高野新笠(たかののにいがさ)を母とする桓武天皇は、敬福の孫娘・明信(み ょうしん)との関係で、この枚方の地を重視するようになった。彼女は、桓武天皇がまだ山部王と呼ばれる日の当たらな い皇子だった頃の初恋の女性だったとされている。彼女は桓武天皇の時代、後に右大臣まで昇進した藤原継縄(ふじわら のつぐただ)の妻となっていたが、尚侍(ないしのかみ)として天皇の秘書役とも言うべき重要な役職をこなした。 桓武天皇の世になり平安時代に入ると、百済王家から急に多数の女性が宮中に召されるようになり、そのうちの幾人かは 皇子・皇女を儲け、三位以上にも叙せられた。さらに、天皇はしばしば交野に行幸し、山野で狩りを楽んだという。天皇 の交野行幸は12回を数える。このように百済王家に繁栄をもたらしたのは、百済王明信の力によるものとされている。 現在枚方市域にある百済寺跡や百済王神社は、こうして交野に営まれた百済王氏の繁栄の跡をとどめるものなのである。 百済は4世紀頃起こって、7世紀660年に滅びた。当時、朝鮮半島には加耶・高句麗・新羅があったが、古代の日本は 百済を支援していた。韓国語ではベクチュと呼ぶ「百済」が、なぜ日本で「くだら」と呼ぶのかについては諸説ありはっ きりしない。
以下は昨年度の説明会資料。300円だったので買ってきた。今回はこんなきれいな資料ではなかった。時間かお金のどっち かがなかったんだろうな。