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吉志部瓦窯跡
2011年10月13日 吹田市紫金山公園






	吉志部瓦窯跡は、延暦(えんりゃく)13年(794)に桓武(かんむ)天皇が着手した平安京の造営当初の瓦を生産した瓦窯跡である。
	これまでの調査で丘陵の南斜面上段に登窯4基、下段に平窯9基の計13基の窯跡と、平窯群の背後を走る排水溝が確認された。窯跡
	は等間隔に計画的に配置されたものと考えられる。また、近年、瓦窯の南側で掘立柱建物跡、井戸跡、回転台跡、粘土採掘坑等の遺構
	が検出され、大規模な造瓦工房を伴ったことが判明した。[吉志部瓦窯跡(工房跡)を参照されたし。]






















	国指定文化財等データベース   (文化庁)

	吉志部瓦窯跡

	名称: 吉志部瓦窯跡 
	ふりがな: きしべかわらがまあと 
	種別: 史跡 
	都道府県: 大阪府 
	市区町村: 吹田市吉志部北 
	管理団体: 吹田市(昭50・7・8) 
	指定年月日: 1971.06.23(昭和46.06.23) 
	指定基準: 史6 
	特別指定年月日:  
	追加指定年月日:  
	解説文: S45-5-115[[吉志部瓦窯跡]きしべがようあと].txt: 吉志部瓦窯跡は、淀川右岸に派生する紫金山丘陵の南斜面中腹にあり、
	紫金山瓦窯・岸部瓦窯とも称し、その所在は古くから知られているものである。
	窯は平窯9基、登窯4基が上・下二段に並び、上段に登窯、下段に平窯が築かれ、平窯の背後沿いには排水溝が設けられている。平窯
	は全長約5メートルの半地下式構造で、燃成部、焼成部ともその保存は良好で、半割平瓦と粘土を交互に積成した分〓(*1)桟道、窯壁
	などみるべきものがある。登窯は全長約6メートル、幅約1.3メートル、床面は1面に平瓦を敷きつめ、三又脚窯具なども存在する。
	ここからは平安時代初期〜後期の緑釉軒瓦が出土するほか、登窯からは緑釉陶器も検出され、瓦陶兼業窯であったことが知れる。とく
	に緑釉瓦の焼成は、第1次焼成を平窯で、施釉段階の第2次焼成を登窯で行なっていることが明らかであるなど、施釉瓦の焼成過程が
	よく知られる遺跡である。また出土瓦には初期平安宮造営軒瓦に同笵と目されるものがあり、官窯的性格が強く、初期平安宮造営にお
	ける瓦供給窯としては、これまでに知られる唯一の例である。 











平窯跡




	丘陵の南斜面に平窯15基以上と登窯4基が規則的に配置されており、通常の瓦以外にも緑釉瓦・陶器の生産も行なわれていた。また、
	瓦窯の南側で粘土採掘坑、掘立柱建物跡、瓦製作台跡等の遺構が確認され、工房の存在が明らかとなった。工房跡の一部は府史跡に指
	定され整備されている。吹田市立博物館では窯の実物大の模型や出土した瓦等を展示している。



窯の跡を、白い石列で表示してある。









吉志部火葬墓跡









登り窯跡





















溝跡






	吉志部瓦窯で作られた軒瓦には蓮華紋軒丸瓦が6種類、唐草紋軒平瓦が5種類ある。この他に丸瓦や平瓦、さらに緑釉瓦が生産されて
	いた。瓦の供給先は平安宮が主体だが、市内の垂水南遺跡や高浜神社、枚方市百済寺跡、茨木市新庄遺跡などでも吉志部瓦窯産の瓦が
	出土し、淀川・三国川(安威川・神崎川)とその支流域に点在している。








	吹田市立博物館講演 「吉志部瓦窯跡と平安京の瓦」要約 (京都文化博物館学芸員 植山茂氏)

	歴史上数多くのものが作られてきたが、材料・かたち・性質が1400年間、ほとんど変化のないものは瓦だけである。しかし時間経
	過とともに少しずつは変化している。
	瓦は江戸中期以後は民家にも使われるようになったが、それ以前は、寺・宮殿・役所に限られていた。従って、発掘で瓦が出ればそこ
	は寺・宮殿・役所のいずれかだと推察できる。そして吉志部のような生産現場である。

	考古学上で瓦が重要なのは、

	(1)瓦が生産された時代の政治の動きを反映している。
	(2)軒先用の瓦に施された模様のついた瓦は型にはめて作られ、同じ形の瓦が多数生産されている。工場跡にある瓦の紋様と発掘現
	   場から出た瓦を比べることで生産地が特定できるのだ。土器の場合生産地と使用地が離れている場合、瓦のように生産地を特定
	   することは困難だ。瓦の場合吉志部と平安京のように30km離れていても生産地の特定は容易である。
	(3)瓦の紋様の重要さは、その紋様(の崩れかげん)を比較することで生産された年代の前後がわかることだ。この方法で1400
	   年を通して生産の時代がわかるのだ。

	平安京は794年に新しく作られたがすべてが新築ではなかった。大極殿(だいこくでん)など主な建物は長岡京などにあったものを
	解体して、部材は新しい都で使ったとわかってきた。地面に穴を掘り、柱を立てた掘立柱(ほったてばしら)も引き抜いてリユースさ
	れている。
	一方、長岡京宮殿の調査では難波宮(なにわのみや)で使われていた瓦が出土した。これは七尾瓦窯でつくられたものであることが紋様
	からわかった。
	瓦を作る鋳型を考古学(の業界)では笵(はん)という。同じ鋳型から作られた瓦を同笵品(どうはんひん)、同笵瓦(どうはんがわ
	ら)という。平安京の調査はしつくされているように思われてるが、戦前では1〜2件のみだった。平安京に関する文献はたくさんあ
	るので発掘調査がなくてもOKと思われていて調査が遅れた。平安京全体の調査は戦後おこなわれ昭和60年代の市内の開発とともに
	発掘調査が進んだ。
	現在の御所は鎌倉末期から室町時代のころ現在地に作られた。平安宮の場所は現在の御所とは違ってた。御所の少し西、千本通と丸太
	町通の交差点(上京区千本丸太町)付近で、住宅地なので十分な調査ができないし、(平城京や長岡京のように)史跡公園化もできな
	い。
	794年に作られた都の中心、大極殿(だいこくでん)の屋根の瓦は、難波宮+平城京+藤原京の瓦も使われた。木材のみならず瓦も
	リユースされていたのだ。しかし以前の都からのリユースだけではなく大極殿の西に建てられた豊楽院(ぶらくいん)のように新築さ
	れたものもある。大極殿だけで瓦は10万枚は必要だ。これらの瓦はどこで作られたか。

	主力工場は平城京の北、上賀茂神社の西にあった西賀茂瓦窯(A)だったが同時代に吉志部瓦窯(B)が作られた。最近(5年前)大
	山崎瓦窯跡(C)が発見された。(A)と(B)の間にを同笵品(どうはんひん)が認められることから鋳型も交換されていたようだ。
	(B)と(C)にも同笵品が見つかっている。平安京の宮殿や周辺の(官営の)寺からは同笵品(どうはんひん)が出ていることから、
	これら三ヶ所は官営工場と考えられる。一ヶ所の瓦窯での製品は複数の建物に配られたと考えられる。
	同笵品は素材の土と砂の違いで生産工場(A)西賀茂瓦窯と(B)吉志部瓦窯の鑑別ができる。しかし(C)大山崎瓦窯の発見からま
	だ5年なので(B)と(C)の鑑別はむつかしい。(A)西賀茂瓦に比べ(B)吉志部の粘土は均質で混入させた砂も均質で(A)よ
	りきめ細かい。三ヶ所の窯は直線状に配置されていた。

	

吉志部瓦窯跡のスゴイところは瓦窯とともに作業場、粘土採掘現場がセットで残っているところである。燃料は周辺の山からだけの採 集では間に合わなかったと考えられ、どこからか運送されてきたと考えるのが順当。

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