Music: 冬の夜


2011.12.11(日)山梨県北杜市






	久しぶりに東京へ行った。NHK−BSの「熱中スタジアム」という番組の「博物館特集」に出演したのだ。初めてTVに出たし、TV
	局・スタジオにも初めて行ったが、ま、あんなもんだろうという感じだった。それよりも終わってから関東地方の遺跡・博物館巡りがで
	きると思ったら、そっちのほうが嬉しかった。娘が引っ越したのでそのマンションに一泊し、信州の縄文遺跡「金生遺跡」へ行ってみた。
	ここは全国でも珍しい「壁建住居」という、縄文時代に壁を持った住居があったとされている遺跡である。私はそれに疑義をはさんでい
	るので、その真偽を確かめたいと思ったのだ。



朝7:00。まだ寝ている娘夫婦をおいて荒川を渡り「池袋駅東口」行のバスに乗った。日曜日で人もまばらだった。



新宿から甲府まで特急に乗り、そこから各停で「長坂駅」まで30分ほど。小淵沢まで行って引き返した方が早かったかもしれない。



甲府近辺まで来ると、実に風光明媚な光景が展開している。富士山、南アルプス、秩父連峰が綺麗に見え、やがて八が岳も見えてくる。



上は南アルプスで下は秩父連山(?)だったと思う。





長坂駅到着。海抜が740mもある。



名所案内に「金生遺跡」が載っていないのは、遺跡発見の前にこの看板が立てられたからだろう。古いし。



バス停を探したが走っているのかどうか判らないようなバス停だったので、駅前からタクシーに乗った。2千円弱。




	金生遺跡	 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	金生遺跡(きんせい いせき)は、山梨県北杜市(旧北巨摩郡大泉村谷戸寺金生)にある遺跡。国指定の史跡である。縄文時代の集落跡
	や祭祀施設と中世の城館跡や集落跡が複合した遺跡。県北西部、標高760-80メートルの八ヶ岳南麓の尾根上に立地し、旧大泉村域最南部
	に位置し、縄文遺跡が集中する北側をA地区、中世の遺跡が集中する南側をB地区として区分されている。
	A地区の縄文遺跡では、住居址群と配石遺構や石組など埋葬施設や祭祀施設が複合した遺跡であることが特色。八ヶ岳山麓は縄文時代の
	遺跡が濃密に分布する地域で、富士山や奥秩父連山をはじめ、後世に信仰の対象となった山々を望むことができる立地にあり、旧大泉村
	域でも縄文前期後半の天神遺跡をはじめ大規模な集落遺跡が見られ、祭祀的遺構も多い。金生遺跡は気候が寒冷化し遺跡数も減る縄文後
	・晩期の遺跡で、山梨県内でも同時期には集落跡と祭祀施設が複合した遺跡が出現している。

	<発掘調査と検出遺構・出土遺物>
	1980年(昭和55年)、圃場整備に伴い山梨県教育委員会による発掘調査が行われ、38棟の住居址、5基の配石遺構が確認されている。
	住居址は縄文後晩期が中心で、竪穴式住居や敷石住居、石組住居など。石組は方形や円形で立石、石棒、丸石などが配置された形態で、
	石棺状遺構からは焼けた人骨片や耳飾などの装身具も出土しており、墓前祭祀行為が行われていたとも考えられている。

	出土遺物は200点を越える土偶のほか石棒、石剣、独鈷石、祭祀用土器などの祭祀遺物のほか、日用品や土製耳飾などの装身具が出土。
	動物遺体では縄文時代のツキノワグマ、イノシシ、ニホンジカ、ニホンカモシカの大型動物化石が出土しており、特に大半が幼獣の焼け
	たイノシシの下顎骨が138個体分確認されており、これらは縄文時代にイノシシの飼養が行われていた可能性があるものとして注目されて
	いるほか、狩猟儀礼や農耕儀礼が行われていたとも考えられている。
	B地区からは縄文後期や平安時代の住居跡も見られるが、中世の遺構が主体となっている。15世紀のものと考えられている49基の地下式
	土坑群や人骨が検出された墓坑や、16〜17世紀の住居跡が10棟以上、溝状遺構や内堀、水溜と考えられる石組遺構が検出されている。
	地下式土坑は墓所や貯蔵穴、隠れ穴などの説がある。位置的に隣接する旧長坂町域にあたる深草館跡の外郭部遺構と考えられている。
	出土遺物は土器や陶磁器類、石臼など石製品や金属製品などの日用品、銭貨など。

	<史跡指定>
	縄文時代の精神文化がうかがえる貴重な遺跡として、発掘調査の行われた翌1983年(昭和58年)に国の史跡に指定された。付近は住居が
	復元され、公園として整備された。出土遺物は甲府市(旧東八代郡中道町)の山梨県埋蔵文化センターや山梨県立考古博物館などが所蔵
	している。







遺跡の南側には南アルプスが見えて(上)、北側には、八が岳の権現岳・北岳が見えている(下)。



遺跡は1983年国指定史跡となり、現在は史跡公園として整備されている。



遺跡の入り口に聳えている「男根状石棒」の巨大なモニュメント。この遺跡内の「石組み遺構」のなかに実物があった。


	■金生遺跡:基礎デ−タ
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	・位置/山梨県北杜市大泉 標高770m〜780m
	・交通/JR長坂駅より大泉村行きバスにて「城南」下車又は中央自動車道長坂ICより5分 
	・見学期間/年中開放 自由見学可 
	・遺跡の時代/縄文後期〜晩期(3000年〜2500年前) 
	・発掘経過/1979年 県営圃場整備事業に先立つ確認調査で発見 
     1980年 発掘調査開始 3400uの保存決定 
     1982年 国史跡指定 
     1984年 大泉村歴史民族資料館オ−プン 出土資料多数展示 
     1987年 環境整備事業開始 
     1991年 歴史公園としてオ−プン 
	・問合せ先/北杜市教育委員会
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	従来から、縄文後期から晩期に人口が激減したとされる山梨県を含む高地中部地方では、縄文中期に文化的隆盛期を迎え、以降次第に衰
	退し、その後独自の文化は無かったとされていた。この考古学の定説が、金生遺跡の発掘によって覆されたのである。昭和55年(1980)、
	圃場整備に伴って調査された発掘で、東西80m、南北15mにおよぶ配石遺構が多数の住居跡と共に発見された。
	ここでは、住居跡38軒、配石遺構5基、集石遺構3基、石組み遺構16基など豊富な遺物が発見されている。焼けた猪の顎の骨が138
	頭分同一箇所から出土したので、通常の集落ではなくて祭祀場所だったのだろうという説が有力だ。水田の下にあった遺跡は保存状態が
	良好で、夥しい石組の間からは土器・石器・石棒・石剣・独鈷石・土偶・耳飾り・ヒスイ製垂飾などの祭祀用具・装身具が検出された。 
 



	遺跡の奧に見えている現代アフリカの住居のような、或いはモンゴルのゲルのような住居が、問題の「壁建住居」である。八ケ岳南麓の
	斜面には縄文時代の遺跡・遺構が多く、祭祀遺構と考えられる石組み遺構も沢山発見されているが、このような「壁」を持った住居はこ
	こだけである。北海道八雲町の「栄浜1遺跡」からは屋根を持ち、壁を持った家型の石製品が見つかっているが、これは住居跡が見つか
	ったわけでは無いので、物証としては弱い。

	

	ここの建物は、全国唯一の縄文時代「壁立ち構造」での住居復元である。発掘の際に、通常竪穴式住居にある「掘り込み」や「周堤」が
	見られなかったこと、又、主柱穴のほかに壁柱穴と思われる穴が見つかったことから「壁立ち構造」と判断したと旧大泉村教育委員会の
	資料にはあるが、どうもしっくりこない。






	中を覗いてみると、屋根を支える主柱とは別に、いくつもの壁柱を組んでその間に茅をびっしり編み込んである。外側を粘土質の土で固
	めて壁を作っている。解説書によると、石灰を混ぜた漆喰だそうだ。土壁だと冬季にひび割れてボロボロになったので、耐久性を持たせ
	るため石灰を混ぜて上塗りをしたとある。それで白い壁になっているのだ。




	日本の古代において、住居の形態はどのような変遷をたどってきたのであろうか。一般に旧石器時代の人々は、洞窟や岩陰に住んでいた
	と思われているが、それは特殊な場合であり、開けた台地上に住むことのほうがむしろ多かったのである。岩陰遺跡の例としては愛媛県
	美川村の 上黒岩遺跡 を、「遺跡めぐり」のHPでとりあげている。
	岩陰や洞窟遺跡に対して、開けた場所での遺跡を「開地遺跡」と読んでいるが、日本の古代においては、住居はこの「開地遺跡」にある
	ことが一般的だった。では、台地上にどのようにして住居を確保していたのだろう。それは周知の如く「竪穴式住居」である。つまり地
	面を掘り下げ、その上を木と植物の葉や枝で覆い、雨露をしのぐというものである。地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を
	建て、梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、葦などの植物で屋根を葺く。「竪穴住居」(たてあなじゅうきょ)、
	「縦穴住居(たてあなじゅうきょ)と表記することもある。






	「縦穴・竪穴」という用語は、横穴という表現の対照として生まれ、ほぼ世界の考古学界で通用する。英語表記の一つ「pit-house」は、
	厳密には、竪穴式住居のうちで、屋根以外は、竪穴自体で構成されている、つまり竪穴に屋根を被せた形の家屋ないしは住居のことをい
	うが、竪穴自体が浅く、地上部分のある竪穴式住居についてもこのように呼ぶ研究者がいるので、日本語の「竪穴式住居」とほぼ同じと
	見てよい。
	ヨーロッパでは、旧石器時代からこの住居の形態が出現している。やがて、世界各地で、新石器時代に盛行するようになる。中国では、
	仰韶文化(やんしゃおぶんか)の代表的遺跡である西安の 半坡遺跡(はんばいせき) で発掘されたものがよく知られている。これは、
	南側に階段のある出入り口を持つ約5m×4m、深さ80cmの隅丸方形のもので内部に炉が見られるものである。
	また、アメリカ南西部のモゴヨン(Mogollon)文化やホホカム(Hohokam)文化の人々は、9世紀頃まで、入り口部分を張り出し状にし
	た竪穴住居に住んでいたことが知られている。金生遺跡に復元してある3軒の住居の内、一軒がこれである(下)。






	日本では竪穴式住居は、後期旧石器時代ごろから造られたと考えられており、北海道から九州にかけて10数カ所の遺跡で確認されてい
	る。北海道標津(しべつ)町に一辺長さが4m〜10mもある汁鉢状の大きな窪みが数え切れないくらい密集している。この窪みが大昔
	の「穴居」(けっきょ)の跡である。深さが2.5mもあり、掘った土に周りに盛り上げてある。また縄文時代の、北海道南茅部町の
	「大船C遺跡」では、穴の深さが4〜7mに及ぶものがあり、これは西日本各地で見られる竪穴式住居とは大きく異なっている。普通の
	竪穴住居の深さはせいぜい70〜80cmなので如何に深いかが理解できるが、範疇としては「竪穴式住居」に含まれる。

	日本の竪穴住居は伏屋式と壁立式とに区分され、後期旧石器時代頃から造られ始めたと考えられており、縄文時代には盛んに造られ、弥
	生時代に伝わり、伏屋式が主流で「壁立式」は拠点集落の大形住居に限られ、首長居館として権威を示す形式として弥生・古墳の両時代
	に築造されたと考えられている。そして日本の農家や民家のもととなっていった。「後期旧石器時代頃から造られ始めた」という論拠の
	一つがこの「金生遺跡」の存在なのである。
	竪穴住居自体は平安時代ごろまで造られ、さらに時代が下がった例で東北地方では室町時代まで造られていた。特に近畿地方では平安時
	代にはほとんどが平地住居へ移行したとされる。




	前述したように、日本においては地面を掘り窪めた穴の平面形状は、時代と地域によって大きく異なっている。縄文時代前期では、概ね
	方形、台形、楕円形で、6本の主柱をもち、壁面周辺に支柱穴とも推察されるピットが並んでいる状況が見られる。また、前期には東北
	・北陸地方を中心に超大型住居が現れる。




	炉は、地床炉(ぢしょうろ)が多いが石組炉もあり、保有率は時代が下るに従って増加する傾向にある。中期では円形および楕円形が多
	く、4本から5本の柱をもつものが主流であり、地床炉や石囲炉、また炉体土器を伴う炉が見られ、中期後葉の東北地方南部では複式炉
	をともなう住居が現れ、中部地方とくに長野県などではこの金生遺跡のように、石敷の住居も現れる。後期になると、地域によっては
	「柄鏡型」とよばれる、入り口部分を外側に張り出した住居が出現し、この金生遺跡でも見受けられる。円形のものも続き、方形に近い
	住居跡も復活する。晩期になると、柄鏡部分がつぶれて短くなる構造に変化する。


確かにこれらの配石は、単なる伏屋式の竪穴住居には不要である。壁を支えていたとしか思いつかない。


	炉は古墳時代前期まで続くが、古墳時代中期になると北側や東側の壁にカマドを設ける住居が出現する。カマドは時代が下るごとに発達
	し、「壁」の外へ向かって張り出していくようになるが、実際には竪穴住居の堀りくぼめた部分が狭まって、そのぶんカマドが発達して
	いると考えられる。このような住居は関東・中部地方以北では平安時代まで続くが、東海地方では一部残しつつも、近畿においては飛鳥
	時代から掘立柱建物に移行していき、鎌倉時代以降は、関東で竪穴状遺構として一部名残をのこすものの、ほぼ全面的に消失する。




	地面を掘り下げた底の深さも、地域や時期で異なる。前述、知床半島に近い標津町の伊茶仁(いちゃに)カリカリウスの住居は、竪穴の
	周りに掘りあげた土から底まで、2mから2.5mもの深さがあり、天井から出入りしたものと推測される。床の中央か一方に片寄って
	炉がある場合が普通であり、古墳時代以降は壁際にカマドを設ける事例が一般化する。
	排水のため床の周りに溝を巡らしていることも多い。竪穴(縦穴)建物の屋根の軒先は地面付近まで下がることが多かったと推測され、
	外からは屋根しか見えなかったものと考えられる。屋根はアシやカヤなどの茎、土葺、草葺の屋根も多かった。










遺跡発掘当時の様子














	ここからの出土品は祭祀に関するものが多い。石棒、石剣、耳飾り、垂飾り、石冠、独鈷石、酒器或いは神々に供えるためのものと思
	われる土器類等。そして他に類を見ないおびただしい数の石で作られた祭壇状の配石遺構と敷石遺構。配石遺構は本来石を用いた墓で
	あり、その後祭祀施設として用いられ、縄文後・晩期の祭りを象徴する遺構として、八ヶ岳南麓に最後まで残った縄文集落跡となる。






	金生遺跡は縄文時代後・晩期を中心とした遺跡で、38軒の住居跡の他大規模な配石遺構が発見されたが、これら配石遺構は縄文後期
	から晩期にかけて延々と石が運ばれ続けて築かれたと見られる。
	敷石遺構の中には小さなスト−ンサ−クルも見られる。配石に使われた石の中には、八ケ岳では産出しない花崗岩の巨石(これは1ト
	ンの重さがあり、10キロ離れた釜無川から運ばれた事は確認されているという。)もあり、又、垂飾り(ペンダント)には、新潟の
	糸魚川地方にしか産出しないヒスイ製のものも出土したという。広く東北から関東に掛けて見られる「縄文時代の交流」が、ここにも
	及んでいたことになる。




	配石(はいせき)遺構とは、表面のなめらかな河原石などの自然石を目的をもって配置したり、組合せたりした遺構である。ピラミッ
	ドのような石組みの建造物は通常は含まれない。配石の全体の形はさまざまあり、その性格も集落内の土地区画など日常生活に関わる
	標識から、埋葬や祭祀など信仰に関わるものまで多岐にわたると考えられる。
	単独のものは組石(くみいし)とも呼ぶ。配石のうち、石を円形に(ドーナツ状)に配置させるものは環状配石や環状列石と呼ぶ。
	立石をともなう場合もある。礫を土坑の中や外に配置した埋葬施設を特に配石墓と呼び、配石によって作られた住居を敷石住居と呼ぶ。




	ヨーロッパには巨石を並べた配石遺跡があり、ストーンヘンジはその代表例である。類似のものは、原始・古代に渡ってほぼ全世界的
	に分布しており、西欧、北欧、北方アジア、シベリア、アフリカ、インド、東南アジア、中国、日本に至る。アラスカのエスキモー遺
	跡にも配石遺構は存在しており、その原初の形はいずれも墳墓と考えられているようだ。モンゴルから北朝鮮、南朝鮮を経て日本に至
	る東北地方の配石遺構は、その形態に類似のものが多数見受けられ、古代人の葬送思考の類似性、或いは民族の大移動といった研究テ
	ーマを提供している。

	日本では縄文時代前期に顕著となり、中期には急増する。環状列石をともなう著名な遺跡には、秋田県鹿角市の大湯環状列石や青森県
	青森市の小牧野遺跡、秋田県北秋田市の伊勢堂岱遺跡があり、これらはいずれも縄文時代後期の遺跡である。また、石材資源の豊富な
	中部地方の山麓地域においても盛んに作られる



規模は小さいが立派なスト−ンサ−クルである。
	ストーンサークルは、石を環状に配置した古代の遺跡である。環状列石(かんじょうれっせき)、環状石籬(かんじょうせきり)とも
	いう。イギリスには巨石を使ったストーンサークルが多数あり、ストーンヘンジもストーンサークルである。世界遺産に登録されたア
	フリカのセネガンビアの環状列石では一部で発掘調査が行われており、その結果、8世紀から12世紀にかけての配石墓であることが
	判明している。



	日本における環状列石は、現在までに主に東北の青森県と秋田県北部、北海道渡島半島を中心に道北を除いて道の各地に検出されてい
	る。血縁・地縁をもった氏族の連合が40〜50キロほどの距離をおいた領域を占有し、その中心に祭の場を築造したのではないか、と考
	えられている。この遺跡が日本ではじめて公表されたのは1886(明治19)年小樽市の忍路環状列石である。
	東北地方から北海道にかけてのストーンサークルは縄文時代中期後半から後期にかけて作られている。大きさは直径30m以上のものと直
	径10m以下のものがあり、大きいものは祭祀の場として作られ、小さいものは竪穴住居の周囲に石を置いたものが多い。直径が30m以上
	のものは、まず縄文時代中期の終わりごろに静岡県、山梨県、群馬県付近で作られる。続いて縄文時代の後期前半に秋田県北部や青森
	県、北海道西南部で作られる。同じころ、岩手では石を直線状や弧状に並べるものが作られている。




	配石遺構は、日本においては縄文中期後半から後期に掛けて盛行するが、晩期末から弥生時代に掛けて作られなくなり、弥生時代にな
	ると殆ど姿を消す。これは他の国々においても同様の傾向を示し、当初墓だったものが、次第に祭祀的な性格を帯び、やがて集落のモ
	ニュメント的な遺構へと変貌する様も世界的に共通している。





上は「石棺」と資料館の模型に記されていた。






	「壁建住居」の正当性に疑義を挟み、わざわざ現地まで見に来た遺跡ツアーだったが、どうやら「壁建て住居」というのはかなり確立
	が高そうである。住居内で壁の根元にめぐらされた礫群と、その後ろにある壁の「壁柱跡」がほんとにあったのだとしたら、竪穴式住
	居にある「掘り込み」や「周堤」が見られなかったことと符合して、今のところ「壁」以外にはその形態を説明する方法がなさそうで
	ある。縄文時代の「壁建て住居」、ひとつ認識をあらたにせずばなるまい。



八っが岳が、雄大に眼前に聳えている。一番右端が富士山の次ぎに高いという北岳である。見事に晴れた暖冬の一日。NHKに感謝、感謝。
[訂正] 富士山の次ぎに高いのは南アルプスの北岳でした。これは赤岳でした。wifeに指摘されて訂正。



これが南アルプス。右の方(写真には写っていない)の奧に北岳があります。











	国内最古の「大壁建物」跡出土 滋賀・天神畑遺跡	2011.5.12 20:10 sankei-web


	
	天神畑遺跡で見つかった、国内最古とみられる大壁建物跡=滋賀県高島市(藤原直樹撮影)

	 滋賀県高島市鴨の天神畑遺跡で、朝鮮半島からの渡来人が建築に深くかかわった「大壁建物」の古墳時代前期(4世紀後半〜
	5世紀初め)の建築とみられる2遺構が見つかり、県文化財保護協会が12日発表した。大壁建物は渡来人がもたらしたとみら
	れ、国内で約100カ所見つかっているが、ほとんどが古墳時代後期(6〜7世紀)のもので、国内最古とみられる。同協会は
	「早い時期から渡来人が広範囲に活動していたことを示す貴重な資料」としている。

	 和風建築は柱と柱の間に壁を造るが、大壁建物は細い柱を骨材とし、壁の中に土で塗り固める。これまでは、5世紀前半のも
	のとみられる南郷柳原遺跡(奈良県御所市)の遺構が最古とされていた。
	 今回見つかった2カ所の大壁建物跡は、それぞれ縦約10メートル、横約12メートル。四方の外壁部に溝(幅約60センチ)
	が残り、深さ約30センチの多数の穴があったことから細い柱を立てたとみられる。
	 溝から4世紀後半〜5世紀初めのものとみられる土器が見つかり、古墳時代前期の可能性が高いと判断した。神聖な場所とさ
	れた川の合流地点で、渡来人が祭祀(さいし)を行ったと推測される。

	 日韓交流史に詳しい林博通・滋賀県立大名誉教授(考古学)は「朝鮮半島でもここまで古い大壁建物跡はほとんど見つかって
	いない。渡来人が早い時期から日本で、首長らの信頼を得て祭祀を行っていたことがうかがえる」と話している。

	 現地説明会は15日午後1時から。問い合わせは滋賀県文化財保護協会((電)077・548・9780)。



邪馬台国大研究・ホームページ /遺跡の旅/ 金生遺跡