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牽牛子塚古墳 発掘調査現地説明会 2010.9.12(日曜日) 奈良県明日香村

	<牽牛子塚古墳>	明日香村Web

	出土品:夾紵棺(きょうちょかん)の破片、七宝金具、など
	被葬者:不明
	所在:奈良県高市郡明日香村大字越

	牽牛子塚古墳は明日香村大字越に所在する終末期古墳で別名「御前塚」「あさがお塚古墳」と呼ばれています。昭和53年には環
	境整備事業の一環として発掘調査が実施されています。
	墳丘は対角長18.5m高さ約4mの八角形墳で版築によって築かれています。埋葬施設は二上山の凝灰角礫岩の巨石を刳り貫いた横
	口式石槨で中央に間仕切り壁を有しています。両側には長さ約2mの墓室があり、壁面には漆喰が塗布されています。
	床面には長さ約1.95m、幅約80cmの棺台が削り出されています。閉塞石については内扉と外扉の2石からなり、内扉は凝灰岩製で
	高さ約1.12m、厚さ約62cm、幅1.47mを測ります。
	内扉の四隅には方形の孔が穿たれており、扉飾金具が装着されていたものと考えられます。
	外扉については安山岩系の石材を用いており、幅2.69m、厚さ約63cm、高さ2.4mあり、現地で斜めに倒れた状態で残っています。
	飛鳥の刳り貫き横口式石槨墳については益田岩船や鬼の俎・雪隠古墳があり、牽牛子塚古墳と益田岩船は巨石を刳り貫いたタイ
	プで鬼の俎・雪隠古墳(石宝殿古墳(寝屋川市)では床石と蓋石が別々に構成されています。
	この二つのタイプの前後関係については石宝殿古墳に羨道が存在することから羨道を持つタイプから持たないタイプへと変化し
	ていったものと考えられます。
	また1石の巨石を刳り貫いたタイプよりも床石と蓋石が別々に造られたタイプの方が先行すると考えられます。
	更に使用されている石材については鬼の俎・雪隠古墳や益田岩船では硬質の石英閃緑岩が、牽牛子塚古墳では軟質の凝灰岩が使
	用されています。他の飛鳥地域の古墳をみると6世紀から7世紀中頃にかけて硬質の花崗岩等が使用され、7世紀後半以降になると
	軟質の二上山系凝灰岩へと変化していきます。
	このように考えると飛鳥の刳り貫き式石槨墳は鬼の俎・雪隠古墳から益田岩船、そして牽牛子塚古墳の順に築かれていったと考
	えることができます。
	出土遺物については夾紵棺片や七宝亀甲形座金具、ガラス玉等があり、夾紵棺の一部や閉塞石の内扉は明日香村埋蔵文化財展示
	室で常設展示されています。築造年代については出土遺物等から7世紀後半頃と考えられます。
	被葬者については古墳の立地や歯牙等から斉明天皇と間人皇女の合葬墓と考える説が有力です。


各社・報道記事



	牽牛子塚古墳は斉明陵、天皇陵特有の形状が判明 (2010年9月9日20時17分  読売新聞)

	

	 奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)が、墳丘の周囲に敷かれた切石(きりいし)の形状から、飛鳥時代
	後期の天皇陵に特有の「八角形墳」であることが判明し、村教委が9日、発表した。
	 この古墳は、大化改新で活躍した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の母、斉明(さいめい)天皇(594〜661年)の墓の有
	力候補とされてきたが、今回の発見で事実上確定した。
	 発表によると、墳丘北西のすそに、計約20メートルにわたって凝灰岩の切石(長さ約60センチ、幅、厚さ各約30センチ)
	が多数敷かれているのを確認。2か所の屈曲部の角度がいずれも135度で、正八角形の3辺分と判断された。縦横約22メート
	ルの八角形墳とみられる。切石の外側には花こう岩を並べた跡があり、その外側には拳大の石が敷き詰められていた。





	斉明天皇の墓、ほぼ確実 牽牛子塚古墳は八角形墳 奈良(1/2ページ)2010年9月9日22時43分 (asahi.com)

	
	墳丘の周囲に敷かれた切り石の並んだ形状から、八角形墳とわかった牽牛子塚古墳=奈良県明日香村、渡写す

	 大化改新で知られる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=天智天皇)の母、斉明(さいめい)天皇(594〜661)の墓との
	説がある奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(国史跡)が、当時の天皇家に特有の八角形墳であることが確認された。
	明日香村教育委員会が9日、発表した。墳丘全面が白い切り石で飾られ、内部の石室も巨大な柱状の切り石で囲われた例のない構
	造だったことも判明。斉明天皇は巨石による土木工事を好んだとされ、被葬者が同天皇であることがほぼ確実になった。
	 明日香村教委は、飛鳥地方の古墳群と藤原宮跡の世界遺産登録に向け、牽牛子塚古墳を昨年9月から調査。墳丘(高さ約4.5
	メートル)のすそは上からみると八角形状に削られており、北西のすそから3辺分の石敷き(長さ約14メートル)が見つかった。
	縦40〜60センチ、横30〜40センチの凝灰岩の切り石が石畳のように3列(幅約1メートル)にすき間なく並べられており、
	八角形になるように途中で約135度の角度で折れ曲がっていた。

	

	 墳丘は対辺の長さが約22メートルで3段構成だったと推定され、石敷きの外側に敷かれた砂利部分を含めると約32メートル
	に及ぶという。三角柱状に削った白い切り石やその破片が数百個以上出土し、村教委は、これらの石約7200個をピラミッド状
	に積み上げて斜面を飾っていたとみている。
	 また、墳丘内の石室(幅5メートル、奥行き3.5メートル、高さ2.5メートル)の側面が柱状の巨大な16の安山岩の切り
	石(高さ約2.8メートル、幅1.2メートル、厚さ70センチ)で囲まれていたことも確認された。
	過去の調査では、石室が二つの空間に仕切られていたことが判明している。斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)を合
	葬したと記された日本書紀の記述と合致するほか、漆と布を交互に塗り固めて作る最高級の棺「夾紵棺(きょうちょかん)」の破
	片や間人皇女と同年代の女性とみられる歯などが出土していた。

	

	 これまでの発掘成果と合わせ、「一般の豪族を超越した、天皇家の権威を確立するという意思を感じる。斉明天皇陵と考えるほ
	かない」(白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長)など、専門家らの意見はほぼ一致している。
	 一方、宮内庁は同古墳の西に約2.5キロ離れた円墳の車木(くるまぎ)ケンノウ古墳(奈良県高取町、直径約45メートル)
	を、文献や伝承などから斉明天皇陵に指定。「墓誌など明らかな証拠が出ない限り、指定は変えない」(福尾正彦・陵墓調査官)
	としている。現地見学会は11、12日の午前10時〜午後4時。近鉄飛鳥駅から徒歩15分。
	問い合わせは村教委文化財課(0744・54・5600)へ。(渡義人)





	斉明陵は確定的 - 天皇家示す八角形【明日香・牽牛子塚古墳】2010年9月10日 奈良新聞

	
	墳丘外周を八角形に巡る敷石帯などが出土した牽牛子塚古墳=8月25日、明日香村越

	八角形墳の可能性があるとされていた明日香村越の牽牛子(けんごし)塚古墳(7世紀後半)の発掘調査で、正八角形になる墳丘のす
	そと外周敷石の一部が見つかり、明日香村教育委員会が9日、発表した。石室は、二重造り構造だったことも分かった。
	八角形墳は7、8世紀の天皇陵に採用された墳形で、大化の改新で知られる中大兄皇子(天智天皇)の母・斉明天皇とその娘、間人皇
	女の合葬陵であることが、考古学的見地で確証的レベルに達した。
	 牽牛子塚古墳の発掘調査は昭和52年以来で、墳丘の本格的調査は初めて。昨年9月から墳丘の北西部とその外周計約350平方メー
	トルを発掘調査した。
	 調査区域の墳丘すそは3辺にまたがり、内角135度のコーナー二つを検出。1辺は約9メートルで、墳丘の底面は対辺約22メートル
	の八角形となることが分かった。墳丘は土を押し固めて築かれ、斜面は石で装飾していた。高さは4.5メートル以上になると推測
	される。
	 墳丘の周囲は、直方体に加工した凝灰岩を規則的に配置した幅約1メートルの敷石帯が墳丘と同じ角度で巡り、約16メートルを
	検出。さらにその外側に小石を並べた敷石が幅約3.6メートル以上にわたって広がることを確認した。
	 石室は、1個の巨大な凝灰岩をくり抜いて東西2室を造った横口式石室で東西約5メートル、南北約3メートル、高さ約2.5メートル
	の大きさ。羨道(せんどう)はない。
	 さらに、厚み約70センチの石材が石室本体を取り囲む堅固な造りになっていた。安山岩を直方形に加工し、約2.7メートルの高さ
	にそろえて立ち並べている。石室本体との接合面の隙間は漆喰(しっくい)で塗り込めていた。

	 墳形や、特異な石室構造が明らかになり、学界の牽牛子塚古墳の斉明天皇陵説は一気に確度を上げた。これまでのところ否定的
	意見はみられない。古墳築造や埋葬の年は特定できていない。
	 一方、宮内庁は文久年間以降、高取町車木の越智丘上陵を斉明天皇と間人皇女、建王(天智天皇の皇子)の合葬陵に定めている。
	同庁書陵部は「墳形だけで天皇陵とは見なせない。現段階では決定的とはいえず、現在の越智岡上陵を管理していく」としている。
	 八角形の古墳は群馬県や広島県など全国に約20例あり、天皇陵八角形墳の系譜との判別などは今後の課題となりそうだ。
	また、棺の一部や黒色土器などがわずかに出土した。村教委の同村文化財課の西光慎治技師は「牽牛子塚古墳の解明につながる多
	くのデータを提供でき、飛鳥地域の終末期古墳を考える上で重要な成果となる」としている。

	 現地見学会は11、12日午前10時〜午後4時。駐車場はない。近鉄飛鳥駅から南西へ徒歩約15分。少雨決行。



















現地説明会資料 明日香村教育委員会














	<史跡 牽牛子塚古墳>
	「万葉集」に多く詠まれた真弓丘陵の一画に位置している。墳丘は版築によって築成されている。墳丘の北西部に花崗岩の切石
	3個が露出しており、これを外護列石とする二段構成の八角形墳の可能性が強い。墓室は巨大な凝灰岩をくり抜いた横口式石槨
	で、中央部に間仕切部を削り出す二室の複室構造をしており、当初から追葬を意識して石槨を制作したものと考えられる。それ
	ぞれの石室の床には長さ1.9m、幅0.8m、高さ0.1mの低い棺台を削り出す。 夾紵棺の破片や七宝金具などが出土し重要
	文化財に指定されている。




	車中から説明会参加者風のおじさんたちがチラホラで、「あ、こりゃ結構多いかも」と覚悟した。飛鳥の説明会は、他と違って
	参加者が山ほどいる。マイナーな発掘調査は、説明員が気の毒になるほど参加者不足のときもあるのに、飛鳥は何の発掘でも超
	満員である。やはり「飛鳥」という場所の持つメジャー度はたいしたものだ。






	飛鳥駅前には親切にも「現地説明会はこちら-->」と看板が出ているし、「<--- 順路」と書いた張り紙が道に沿って張られてい
	るので迷うことはないが、それよりも人の群れが古墳へ続いているのでその後を追えばよい。





線路を過ぎてすぐ説明会の受付テントがあり、ここで説明会資料のパンフレットをくれた。

	飛鳥の古墳群は相当廻ったが、この牽牛子塚古墳には今まで行った事が無いし、今回の発掘でこの古墳が「斉明天皇陵」と確定
	されたという記事を読んで、「よし、どんなもんか見に行こう!」と思い立った。もともと私は、前からこの斉明天皇という女
	帝には非常に興味があった。わが故郷、福岡県の朝倉宮で死んでいるし「乙巳の変(大化の改新)」をめぐる一連の動きは、息
	子の中大兄皇子(天智天皇)の即位問題とも絡んで大変興味深い。




	「皇極天皇」時代には、この女帝は殆ど何もしていない。仏教式に雨乞いをして何も効き目がなかったので、道教式にやってみ
	た所、たちまち雨が降ったという記事があるくらいである。
	これに反して、弟の孝徳天皇の後で「斉明天皇」として即位してからの活躍振りはまるで別人のようである。斉明天皇は石を使
	った広大な庭園や、後に「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)といわれる運河を、のべ3万人もの人々を動員して造っている。
	昔、この二人は別人で、入鹿の愛人だった皇極を中大兄が殺し、我が愛人を斉明として皇位に付け、自分が裏から操ったという
	storyを考えてみたが、どうも井沢元彦煎じになりそうなので、その考えは捨てた。




	隋の煬帝(ようだい)は大運河の建設や高句麗との戦いで人々を苦しめたためにやがて国が滅んでしまうが、「狂心の渠」と書
	かれた事からしても、この時代、人心は斉明天皇から離れていたと見ることができよう。
	斉明天皇はこの運河を利用して200艘の船で石上山(いそのかみやま:天理市石上神宮付近)の石を宮の東の山に運んで石垣
	を造ったが、(「日本書紀」の斉明2年(656年)の条に「宮の東の山に石を累ねて垣とす」とある。)この石垣の造営には
	のべ7万人が動員された。




	斉明天皇はまた道教を好んでいた。後飛鳥板蓋宮に移ったころ,多武峰(とうのみね)の2本のケヤキの大木がある辺りに道教
	の「道観(どうかん)」(日本書紀では「観(たかどの)」と記述、仏教では寺院のこと)を建て「両槻宮(ふたつきのみや)」
	とした。この宮を天帝の宮殿である「天宮(あまつみや)」ともよんだ。道教では「天宮」を仙人たちが住んでいる天上の宮を
	意味し,仙人の宮は不老不死の理想郷である。「槻(つき)」はケヤキの木で、特にその大木は神が宿ると考えられていた。
	多武峰に2本のケヤキの大木があり,その近くに宮を造ったと推測される。多武峰は、仙人が住んでいる特別なところだったの
	だろう。




	2000年2月に奈良県高市郡明日香村の酒船石遺跡から亀形や小判形石造物が発見された。亀は長寿のシンボルでもあり道教
	の神仙思想につながる。不老長寿の仙薬がある三神山の一つ「蓬莱山(ほうらいさん)」は亀の背中に乗っていると言われる。
	元国際日本文化研究センター教授で、現在は奈良県図書情報センターの館長千田稔は、著書「飛鳥・藤原京の謎を掘る」の中で、
	「多武峰は天宮であるから蓬莱山になぞらえることができ,その麓にそれを支える大亀を配置した」と言う。つまり,亀形石造
	物が発見された場所一帯を神仙境に見立てたと考えるているのだ。このオッサンにしては、珍しくまともなことを言っている。




	斉明天皇は他に吉野にも宮を造営しており,土木工事や建設工事を好んで行ったが、現在明日香村にある様々な石造物のいくつ
	かは,この斉明天皇が建設した都を構成するものと考えられている。 
	吉野は聖なる地−神仙境とされ,斉明天皇はここに離宮を建てた。吉野近くの宇陀から東吉野にかけては水銀の産地であり,吉
	野でも水銀朱が採れた。水銀朱を加熱すれば水銀ができる。水銀朱は道教でいう不老長寿の薬とされ,聖なる水−水銀朱の混ざ
	った水を飲むことで若さが保たれると考えられていた。朱の赤色は中国では皇帝の色。日本では古墳時代より身分の高い人物に
	使われている色でもある。 




	皇極天皇(飛鳥時代) 	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	皇極天皇 第35代天皇 	在位 642年2月19日 - 645年7月12日 
	皇居 : 飛鳥板蓋宮 
	先代 : 舒明天皇 
	次代 : 孝徳天皇 

	斉明天皇 第37代天皇 	在位 655年2月14日 - 661年8月24日 
	皇居 : 飛鳥板蓋宮
	先代 : 孝徳天皇 
	次代 : 天智天皇 
	諱  : 寶(宝)女王 	別名 天豊財重日足姫尊 
	出生 : 594年 
	崩御 : 661年8月24日 
	陵墓 : 越智崗上陵(宮内庁定)
	夫  : 高向王 舒明天皇
	子女 : 漢皇子	天智天皇	間人皇女	天武天皇 
	父親 : 茅渟王 
	母親 : 吉備姫王 


	皇極天皇(こうぎょくてんのう、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)は、日本の第35代天皇(在位:
	皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日))。重祚して第37代 斉明天皇(さいめいてんのう、齊明
	天皇。在位:斉明天皇元年1月3日(655年2月14日) - 7年7月24日(661年8月24日))となる。

	推古天皇から一代おいて即位した女帝である。諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)。和風諡号は天豊財重日足
	姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。なお、諱の表記については宝皇女(たからのひめみこ)という
	表記が一般化しているが、これは後世の尊称によるものと思われる。

	敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王(ちぬのおおきみ)の第一皇女。母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)という。
	はじめ高向王(用明天皇の孫、父は不詳)と結婚して、漢皇子を産んだ。後に舒明天皇の皇后[1]として、中大兄皇子(天智天皇)
	・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(天武天皇)を産んだ。

	舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇として即位した。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って
	政を行なった。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。在位4年目(645年)に中大兄皇
	子が蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼす(乙巳の変・大化の改新)と、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った(史
	上初の譲位)。孝徳天皇により、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号を奉られた。

	孝徳天皇の死後、655年に再び皇位に就いた(史上初の重祚)。 政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。 『日本書紀』によれ
	ば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの
	失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで
	丘にしたのが三である。

	対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、唐にも使者を遣わした。蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送
	った。
	在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済
	王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に居て
	戦争に備えた。遠征の軍が発する前に当地にて亡くなった。

	越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に葬られたとされ、宮内庁により奈良県高市郡高取町大字車木にある車木ケンノウ古墳
	(円墳、直径約45メートル)が皇極・斉明天皇陵に指定されている。但し、研究者の間では明日香村の牽牛子塚古墳(けんごしづ
	かこふん)が陵墓として有力視されており[2]、そのほか同村の岩屋山古墳、橿原市の小谷古墳も候補としてあげられている。




	日本書紀の記述によると,斉明天皇は白村江の戦いの時九州への遠征を行っているが,朝倉の宮を建てる際に、神社の神木を切
	ったため朝倉の神の怒りに触れ、それがもとで朝倉宮に来て2か月後の7月24日、朝倉の地で急死している。現在の福岡県朝
	倉市恵蘇宿に、「御陵山」(福岡県朝倉郡朝倉町大字山田字恵蘇宿) と呼ばれる小高い山があり,ここに葬られたとされている。
	その後奈良に改葬された。
 




発掘前の牽牛子塚古墳。









周辺も何カ所か発掘している。







	以下は、「天皇陵めぐり」の「皇極天皇/斉明天皇陵」コーナーに書いた文章である。再掲する。


	【第35代皇極(こうぎょく)天皇/第37代斉明(さいめい)天皇】
		異名: 宝皇女(たからひめ)、天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
		生没年: 推古天皇2年(594?)〜 斉明天皇7年(661)(68歳)
		在位: 皇極天皇元年(642) 〜 皇極天皇4年(645)/ 斉明元年(655)〜 斉明天皇7年(661)
		父:  敏達天皇の孫・茅渟王(ちぬおう/ちぬのおおきみ)
		母:  吉備姫女王(きびつひめ)
		夫:  舒明天皇
		皇女子: 葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(天武天皇)    
		宮居:  飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや:奈良県高市郡明日香村)
		御陵: 越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ:奈良県高市郡高取町)
 

	舒明(じょめい)天皇は即位13年目で崩御する。皇位継承は皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)になるはずであったが、
	16才では若すぎるというので、皇后の宝皇女(たからのひめみこ)が皇位に就いた。これが「皇極(こうぎょく)天皇」である。
	舒明天皇と宝皇女との間には、中大兄皇子、間人皇女(はしひとひめ)、大海人皇子(おおあまのおうじ)がいて、舒明天皇と皇妃
	法堤郎媛(ほほてのいらつめ)との間には、古人大兄皇子(ふるひとのおおえ)がおり、皇位継承権のある皇子としては、中大兄皇
	子、古人大兄皇子、山背大兄王(やましろのおおえ)がおり、争いをさけるため皇極天皇が即位したとも考えられる。
	この女帝の就任は、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)に気がねする蘇我蝦夷によるものだったが、病気がちで次第に登朝
	しなくなってきた蝦夷に代わって実権を握りつつあった、蝦夷の子・入鹿は、より露骨に山背大兄皇子を退け、ついに一家を皆殺し
	にしてしまう。それを知った蝦夷は、入鹿の将来の身を案じて憂えたとされる。
	蘇我の血が流れていない皇太子の中大兄皇子にしても状況は山背大兄皇子と同じであった。専横の限りを尽くす入鹿がいる限り、天
	皇となれる可能性は薄かった。或いは命の危険も感じていたかもしれない。

	そして、中大兄皇子・中臣鎌子は「乙巳の変」を引き起こし、蘇我氏勢力を朝廷から一掃した。世に「大化の改新」として知られる。
	宮廷での入鹿殺害という惨劇を目の辺りにして、皇極天皇は中大兄皇子を詰問するが、皇子は蘇我氏の悪行の数々を並べたて糾弾し
	た。古人大兄皇子は一目散に自宅へ逃げ帰り、蘇我蝦夷も自宅に追手をかけられて自刃した。

	その後、大化改新を引き起こした中大兄皇子・中臣鎌子は皇極の弟「孝徳天皇」を擁立して難波の宮へ遷都するが、仲違いを起こし、
	孝徳天皇一人難波に取り残される。その孝徳天皇が崩御した後も、中大兄皇子は即位しない。そこで母の皇極女帝が重祚(ちょうそ
	:再び即位する事)し、「斉明(さいめい)天皇」となる。我が国初の「重祚」である。ちなみに、「皇極天皇」から「孝徳天皇」
	への譲位も、我が国史上初の「譲位」となる。

	斉明女帝は、各地の土木工事を推進、東北の蝦夷侵攻なども積極的に行った。今年(2000年)になって、奈良飛鳥の地から、亀石形
	の流水施設を含む宮廷施設等が発掘されたが、この女帝の時代に行われた土木工事の痕跡は多数発見されている。そのあたりの事情
	については「学ぶ邪馬台国」のコーナー、「亀形石造物出土! −斉明天皇の土木事業− 2000.12.31」として特集しているので、
	ご興味にある方は是非ご覧いただ	きたい。

	また対外政策では、新羅が唐と謀って百済を滅ぼしたため、天皇・皇太子(中大兄皇子)らは百済の救済のため九州に赴いた。太宰
	府から奥へ入った朝倉の地に、「橘広庭宮」(たちばなのひろにわのみや)という仮宮を建造し指揮にあたったが、倭軍は唐・新羅
	連合軍に敗退し、斉明天皇も朝倉の地で急死する。


	近鉄「橿原神宮」駅からTAXIで行くか、JR和歌山線「掖上」駅からTAXIもしくは歩いて20分程で御陵に着く。人家の尽きたところ
	の広場から登っていく。5分程登る。
	斉明天皇陵へ登っていく途中に、孫の天武天皇妃大田皇女陵がある。大田皇女は天智天皇の娘で、持統天皇の姉。大津皇子の母。
	天武天皇妃大田皇陵の陵から1,2分で斉明(皇極)天皇陵が見えてくる。

	同じく孫の建王(たけるのみこ)と一緒に葬られている。斉明天皇4年(658)の5月に、建王は8才で薨じている。特にかわいがって
	いた孫の死に、天皇は号泣したと「日本書記」にある。また自分が死んだら必ず建王と一緒に葬るようにと命じてもいる。孫を偲ん
	で歌を詠み、時々その歌を口ずさんでは泣いていたと書かれているし、和歌山の白浜温泉に行幸した際にも孫を思いだしては歌を詠
	んで、この歌を後世にまで語り継ぐようにと命じているから、相当かわいがっていた孫だったのだろう。

	大化改新の黒幕は皇極天皇ではないか、という説がある。日本書紀にはこの女帝と入鹿暗殺を結び付ける記事は何もない。大化改新
	の直接の源因となった「乙巳の変」について考えてみると、皇極天皇4年6月12日は三韓朝貢の日という事になっていた。蘇我入
	鹿はそのため宮中に赴いたのである。入鹿周辺は、宮廷内に不穏な空気があるのを察していたとも言われる。しかし三韓朝貢となれ
	ば参内せざるを得ない。勿論、三韓朝貢などは虚構である。当時、唐の太宗は高句麗に派兵し朝鮮半島は緊迫状態にあったのに、揃
	って我が国へ朝貢してくる事などあり得ない。
	又、政治の最高権力者の位置にいた入鹿がそれを知らないわけもない。しかし、「天皇の命令」となれば入鹿も受けざるを得ないだ
	ろうし、皇極天皇抜きで、中大兄皇子と鎌足が勝手にそのような虚構を設定できるはずがないと言うのだ。
	つまり、皇極天皇は「乙巳の変」を事前に知っていたというわけだ。そしてそれを容認したという事になる。
 
	大化改新の過程においても、孝徳天皇を一人難波宮に置き去りにしたのは皇極天皇の発案ではないかと言う説もある。「乙巳の変」
	後も、孝徳天皇崩御後も中大兄皇子は即位しない。一般には、皇太子のままで居た方が都合がいいと判断したからだと言われている
	が、実は皇極(斉明)天皇の力が強く、中大兄は即位したくても出来なかった可能性もあると言う。
	斬りつけられた入鹿は、斬りつけた中大兄ではなく皇極天皇に向かって「自分に何の罪があるのか」と問いかける。女帝は「何も知
	らない、一体これは何事ぞ」と答えるが、入鹿が女帝に向かって問いただす事がそもそも女帝がその首謀者と知っていたからだとい
	うのである。又、俗説では皇極天皇と蘇我入鹿は愛人関係にあったとも言う。
 
	朝倉の地での葬儀にあたって、入鹿の怨霊が山の端から葬列を眺めていたとか、陣営で鬼火が舞ったとかの伝説が残されている。
	福岡県朝倉郡恵蘇宿(えそのしゅく)にいくと、「御陵山」と呼ばれる古墳が斉明天皇の墓として残されており、恵蘇宮八幡宮がこ
	れを護っている。しかし、勿論発掘はされていないので確証はない。「橘広庭宮」跡についても、今まで九州の学者を中心として何
	度か調査が行われたが、未だ判明していない。地元には推定地に「橘広庭宮跡」の石碑が建っている。


	


	斉明天皇埋葬墓	2000・8・14 福岡県朝倉郡恵蘇宿(えそのしゅく)

	夏、帰郷した折り、朝倉の「斉明天皇陵」を訪れた。歴史に興味がある同い年のいとこ夫婦と、史学科卒のその兄夫婦(当然彼もい
	とこである。)と一緒に、蝉時雨の中苔むす円墳を見学した。筑後川を眼下に見下ろす高い山の上に御陵はある。地元では古くから
	「斉明天皇陵」と言い伝えられているが、発掘されていないのでその真偽は定かでない。しかし、文献と伝承から考察するに、ほぼ
	間違いないものと思われる。
 
	案内板によると、木の丸御殿はほんとにみすぼらしい寓居であったらしい。滞在した中大兄皇子(天智天皇)がそれを嘆いたとあっ
	た。天智天皇が奈良で造ったと言われる漏刻(水時計)の模型もあった。木漏れ日の向こう、眼下に筑後川がゆったりと流れている。
	みんなで(実家を継いでいる私の弟も含め6人で)ぐるりと円墳の廻りを回ったが、まさしく円墳である。直径10mほどであった。

	百済の救済に西へ向かった斉明天皇の一行には、中大兄皇子、大海女皇子、太田皇女、鵜野讃良皇女(うののさらさ:後天武天皇皇
	后となり、その後持統天皇となる。)らが参加していた。瀬戸内海を西進し、博多を経由して朝倉の行宮・橘広庭宮へ入ったが、こ
	こにはわずか75日間の滞在だった。ここの木を勝手に伐って宮の造営にあてたため朝倉の神の怒りに触れ、雷神が建物を壊し、宮殿
	の中にも鬼火が出没し、付近に病気が蔓延しついに天皇もこの地で崩御する。
 
	朝倉町では、平成3年度から平成5年度にかけて、その代表的な史跡を公園化し、斉明天皇がまつられている恵蘇八幡宮の裏には、中
	大兄皇子が喪に服したと言われている木の丸殿跡があり、この一帯は木の丸史跡公園として整備されている。 
	仮宮が置かれていたとされる橘広庭宮跡一帯(推定)は、橘広庭史跡公園に整備。また、宮地嶽山頂と湯の隈古墳を遊歩道で結んだ
	一帯は、宮地嶽史跡公園として整備している。宮地嶽は、斉明天皇と中大兄皇子が山頂に神々をまつり、戦勝を祈願したと伝えられ
	る場所である。 














	初めから追葬を考えて巨大な花崗岩をくりぬいて作られている。追葬が行われた墓は飛鳥地域だけでもいくつかある。天武・持
	統合葬陵(野口陵)や丸山古墳、植山古墳などがあげられ、夫婦あるいは親子を葬った墓であるが、いずれも最初から追葬を前
	提として作られてはいないよういだ。夾紵棺や七宝金具など優れた品を出土していることから、被葬者は高貴な身分であったと
	想像される。






	墳丘の周りをぐるりと廻って見学するようになっているが、「説明会」というくせに誰も説明してくれなかった。説明は新聞を
	見ろ、というところかな。「後がつかえてますから、どんどん前へ進んで下さーぃ」と言うばかりだった。昨日は3千人ほどだ
	ったそうだが、今日は5千人とかで、説明員もバテているのかもしれない。



八角形の石敷があった溝。ここからは、もう石は運び出されて溝だけが残っている。







上は古墳丘。この小山の中に先ほどの「刳り貫き石室」が埋まっている。こっちは裏側にあたる。


































	<八角形の古墳>

	現在ははっきり八角形と確認できない古墳も多いが、飛鳥には他の古墳には見られない八角形の形をしている古墳が幾つか存在
	している。今回の「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」。京都山科の天智天皇陵。飛鳥の天武・持統天皇陵〔野口陵)。束明神
	(つかみょうじん)古墳:草壁皇子陵とされる。中尾山古墳(文武天皇陵)などである。これらは全て斉明天皇にはじまる系譜
	であるが、これは斉明天皇が好んだ道教の宇宙観の表れと見る意見もある。
	(尚、全国的には群馬県など他にも八角形の古墳は存在しており、全部で20例ほど報告されている。)






	古代中国では八方位を重要視していた。八方位は宇宙を象徴するものであり,その中心にある北極星は天皇大帝(てんこうたい
	てい)という宇宙の最高神とみる。わが国で「天皇」という語が用いられるようになったのは天武天皇からだという説が一般的
	だが、その源は斉明天皇かもしれない。この頃に「大王」(おおきみ)は神につながる人物として意識されるようになり、「天
	皇」と呼ばれるようになったのかもしれない。
	道教では最高神を「天皇大帝」と称した。これがもとになって「天皇」という称号が生まれたとされる。日本書紀が書かれた時
	代はすでに「大王」ではなく「天皇」と称されていたので,一般的には天武天皇からとされている。
	日本書紀では天武天皇以前の大王の記述の際も「天皇」という称号を使っているが,斉明天皇と道教とのつながりが深かったこ
	とを考えて、実際は天武天皇の母、斉明朝から使われていたのではないかと考えられる。







古墳の説明会場をでて小さな小径を飛鳥駅へ戻ってゆく。すぐそばに「カンス塚古墳」もあるのだが、今日は「見学中止」だった。












	疲れたので、近鉄特急電車に乗って、Wifeが作ってくれた弁当を食べながらゆっくりと大阪へ戻って来た。二上山が綺麗に見えた。


説明会終了後の報道記事




	これが女帝の八角形墳か…見学会にファン大勢	読売新聞 9月11日(土)17時27分配信

	
	奈良県明日香村の牽牛子塚古墳の見学会、長い列を作るファン=読売ヘリから森田昌孝撮影

	 大化改新で活躍した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の母、斉明(さいめい)天皇(594〜661)の陵とほぼ確定された
	奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)で11日、現地見学会があった。 古代史ファンら約2200人
	(午後1時現在)が、大規模な土木工事を好んだとされる女帝にふさわしい壮大な古墳を見て回った。
	 見学会は午前10時からの予定だったが、朝早くから約200人が並んだため、午前9時過ぎから始まった。見学者は村教委
	が配ったパンフレットを手に、発掘現場の周囲に設けられた仮設通路から、天皇陵に特有の八角形を示す墳丘周囲の凝灰岩の切
	り石や、巨石をくりぬいた石室(推定約70トン)などに見入っていた。 最終更新:9月11日(土)17時27分



	斉明天皇の牽牛子塚古墳、見学会に長蛇の列	産経新聞 9月11日(土)16時15分配信

	 奈良県明日香村教育委員会の発掘調査で、天智・天武両天皇の母、斉明天皇の墓であることが確実となった同県明日香村越の
	牽牛子(けんごし)塚古墳(国史跡)で11日、現地見学会が開催された。開始予定の午前10時前から大勢の考古学ファンら
	が詰めかけ、古墳にいたる農道には長い行列ができた。
	 訪れた人たちは、天皇クラスの墓に限定される八角形墳であることを示す135度に折れ曲がった敷石の列や、明かりで照ら
	された石室内部に見入っていた。

	
	 古墳めぐりが好きという兵庫県川西市の河地正俊さん(76)は「石の加工が精巧で、ただすごい。まさに天皇陵」と感心し
	たようすで話していた。牽牛子塚古墳は近鉄吉野線飛鳥駅から西へ徒歩約15分。現地見学会は12日も午前10時から午後4
	時まで開かれる。



	女帝の面影追って - 牽牛子塚古墳見学会に3000人	2010年9月12日 奈良新聞

	
	八角形を示すように整然と残る石敷きなどを見学する歴史ファンら=11日、明日香村越の牽牛子塚古墳

	 明日香村教育委員会の調査で7世紀後半の八角形の古墳と分かった同村越の国史跡・牽牛子塚(けんごしづか)古墳で11日、現
	地見学会が開かれた。全国から約3000人の考古学ファンが集まり、天皇陵共通の八角形墳に歴史ロマンを感じていた。
	 この日午前9時ごろに約200人の行列ができたため、見学会は予定を約1時間早めて始まった。八角形であることを決定付けた
	墳丘を取り囲む珍しい石敷きや、約80トンにもなる巨石をくりぬいて墳丘内に造られた石槨(せっかく)などを、特設の階段や通
	路を通って見学。考古学ファンらは、整然と並んだ石敷きなどに驚きながら盛んに写真を撮っていた。

	 研究者は、同古墳の被葬者は大化の改新で知られる中大兄皇子(天智天皇)の母、斉明天皇で、娘の間人(はしひと)皇女との合
	葬墓との見方でほぼ一致して…





皇極・斉明天皇の年譜

	<皇極・斉明天皇の年譜>
 
	不明 				 - 高向王と結婚。
	舒明天皇2年(630年)  1月12日  - 舒明天皇の皇后に立てられる。
	舒明天皇13年(641年)10月 9日   - 舒明天皇が崩御。
	皇極天皇元年(642年) 1月15日   - 即位。
			    1月29日 	 - 阿曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。
			      4月 8日 	 - 追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来日。
			      7月25日    - 蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経典を転読させたが、効果がなかったため29日にやめる。
			      8月 1日 	 - 天皇が天に祈ると、雷が鳴って大雨が降る。雨は五日間続いた。
			      9月 3日    - 百済大寺の建立と船舶の建造を命じる。
			      9月19日    - 宮室を造ることを命じる。
			     12月21日    - 小墾田宮に遷る。
	皇極天皇2年(643年) 11月 1日 	 - 蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、数日後に王は自殺。
	皇極天皇4年(645年)  6月12日 	 - 中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を殺す。(乙巳の変)
			      6月13日	 - 蘇我蝦夷が自害。
			      6月14日 	 - 軽皇子に譲位。新しい天皇により、皇祖母尊の称号を奉られる。
	白雉2年(651年)      3月15日 	 - 十師たちを呼んで設斎。
	白雉4年(653年) 		 - 中大兄皇子と共に、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に移る。
	白雉5年(654年)     10月 1日 	 - 中大兄皇子と共に、病に罹った孝徳天皇を見舞うべく難波長柄豊碕宮に赴く。
			     10月10日 	 - 孝徳天皇が崩御。
	斉明天皇元年(655年) 1月 3日 	 - 飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)。
			      7月11日 	 - 北の蝦夷99人・東の蝦夷95人・百済の調使150人に饗応する。
			      8月 1日 	 - 河辺麻呂が大唐から帰国。
			     10月13日 	 - 小墾田に宮を造ろうとしたが、中止。
				冬 	 - 飛鳥板蓋宮が火災に遭ったため、飛鳥川原宮に遷る。
					   この年 高句麗、百済、新羅が使を遣わして調を進める。百済の大使は余宜受、副使は調信仁
					   で、総員は100余人であった。蝦夷と隼人が衆を率いて内属し、朝献する。
					   新羅は弥武を人質にし、別に12人を才伎人にしたが、弥武は病死。
	斉明天皇2年(656年) 8月 8日 	 - 高句麗が大使に達沙、副使に伊利之、総計81人を遣わし、調を進める。
			     9月 	 - 高句麗に、大使に膳葉積、副使に坂合部磐鍬以下の使を遣わす。
					   この年 飛鳥の岡本に宮を造り始める。途中、高句麗、百済、新羅が使を遣わして調を進めた
					   ため、紺の幕を張って饗応する。やがて宮室が建ったので、そこに遷って後飛鳥岡本宮と名付
					   ける。岡本宮が火災に遭う。香山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで垣を造る。
					   吉野宮を作る。西海使の佐伯栲縄と吉士国勝らが百済より還って、鸚鵡を献上する。
	斉明天皇3年(657年) 7月 3日 	 - 覩貨邏国(とからのくに)の男2人・女4人が筑紫に漂着したので、召す。
			     7月15日 	 - 須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行なった。暮に覩貨邏人を饗応する。
			     9月 	 - 有間皇子が狂を装い、牟婁温湯に行き、帰って景勝を賞賛した。天皇はこれを聞いて悦び、行
					   って観たいと思う。
					   この年 - 使を新羅に遣って、僧の智達・間人御厩・依網稚子らを新羅の使に付けて大唐に送っ
					   てほしいと告げる。新羅が受け入れなかったので、智達らは帰国。
	斉明天皇4年(658年) 1月13日	 - 左大臣巨勢徳太が死去。
			   4月 	 - 阿倍比羅夫が蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で
					   渡島の蝦夷を饗応する。
			     5月 	 - 皇孫の建王が8歳で亡くなる。天皇は甚だ哀しんだ。
			     7月 4日 	 - 蝦夷二百余が朝献する。常よりも厚く饗応し、位階を授け、物を与える。
			     7月 	 - 僧の智通と智達が勅を受けて新羅の船に乗って大唐国に行き、玄奘法師から無性衆生義(法相
					   宗)を受ける。
			    10月15日 	 - 紀温湯に行く。
			    11月 5日 	 - 蘇我赤兄が有間皇子の謀反を通報。
			    11月11日 	 - 有間皇子を絞首刑に、塩屋?肴と新田部米麻呂を斬刑にする。この年 - 沙門の智喩が指南車を
					   作る。
	斉明天皇5年(659年) 1月 3日 	 - 紀温湯から帰る。
			     3月 1日 	 - 吉野に行く。
			     3月 3日 	 - 近江の平浦に行く。
			     3月10日 	 - 吐火羅人が妻の舎衛婦人と共に来る。
			     3月17日 	 - 甘檮丘の東の川辺に須弥山を造って陸奥と越の蝦夷に饗応する。
			     3月	 - 阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、
					   津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振[金且]の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に
					   郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
			     7月 3日 	 - 坂合部石布と津守吉祥を唐国に遣わす。
			     7月15日 	 - 群臣に詔して、京の内の寺に盂蘭盆経を説かせ、七世の父母に報いさせる。
	斉明天皇6年(660年) 1月 1日 	 - 高句麗の使者、賀取文ら百人余が筑紫に着く。
			     3月 	 - 阿倍比羅夫に粛慎を討たせる。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを
					   求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。
			     5月 8日 	 - 賀取文らが難波館に到着。
			     5月 	 - 勅して百の高座と百の納袈裟を作り、仁王般若会を行う。皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻を
					   作る。阿倍比羅夫が夷50人余りを献じる。石上池のほとりに須弥山を作り、粛慎47人を饗応する。
					   国中の百姓が、訳もなく武器を持って道を往来する。
			     7月16日 	 - 賀取文らが帰る。覩貨邏人の乾豆波斯達阿が帰国のための送使を求め、妻を留めて数十人と西海
					   の路に入る。
			     7月 	 - 百済が唐と新羅に攻められて滅亡。
			     9月 5日 	 - 百済の建率の某と沙弥の覚従らが来て、鬼室福信が百済復興のために戦っていることを伝える。
			    10月 	 - 鬼室福信が貴智らを遣わして唐の俘百余人を献上し、援兵を求め、皇子の扶余豊璋の帰国を願う。
					   天皇は百済を助けるための出兵を命じ、また、礼を尽くして豊璋を帰国させるよう命じる。
			    12月24日 	 - 軍器の準備のため、難波宮に行く。
	斉明天皇7年(661年) 1月 6日 	 - 西に向かって出航。
			     1月 8日 	 - 大伯海に至る。大田皇女が女を産み、大伯皇女と名付ける。
			     1月14日 	 - 伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。
			     3月25日 	 - 娜大津に着き、磐瀬行宮に居す。
			     4月 	 - 百済の福信が、使を遣わして王子の糺解の帰国を求める。
			     5月 9日 	 - 朝倉橘広庭宮に遷る。
			     5月23日 	 - 耽羅が初めて王子の阿波伎らを遣わして貢献する。
			     7月24日 	 - 朝倉宮で崩御。
			     8月 1日 	 - 皇太子が天皇の喪に付き添い、磐瀬宮に着く。
			    10月 7日 	 - 天皇の喪が帰りの海路に出航。
			    10月23日 	 - 天皇の喪が難波津に着く。
			    11月 7日 	 - 飛鳥の川原で殯した。9日まで発哀。


大田皇女の墓、発見!


	大田皇女の墓か石室を新たに発見 牽牛子塚古墳 2010.12.9 20:01 サンケイweb
 
	 
	牽牛子塚古墳(奥)のすぐ隣で発見された石室 
	=6日午前10時44分、奈良県明日香村 (門井聡撮影) 

	天皇クラスの墓に限定される八角形墳であることが今年9月にわかり、被葬者が斉明天皇(在位655〜661年)であると
	ほぼ確定した奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳のすぐ前から、存在が知られていなかった7世紀後半の石室が
	新たに発見され、同村教育委員会が9日、発表した。667年、斉明天皇陵の前に孫の大田皇女(おおたのひめみこ)を埋葬
	したと記している日本書紀の内容と一致し、被葬者を決定づける超一級の資料となった。

	 大田皇女は天智天皇の娘で、大海人皇子(おおあまのおうじ=のちの天武天皇)の后(きさき)となったが、20代で亡く
	なったとされている。見つかった石室は「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」という構造で、牽牛子塚古墳の約20メー
	トル南東で出土。地名から越塚御門(こしつかごもん)古墳と名付けられた。
	 石室は、石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)をくり抜いた4メートル大の上石(うわいし)を床石にかぶせる構造で、
	総重量は推定約80トン。上石は後世の盗掘で4分の3程度失われたが、内部は長さ2・4メートル、幅90センチ、高さ60
	センチ分がくり抜かれ、木棺が納められていたという。

	 
	牽牛子塚古墳(後方)の隣で見つかった日本書紀の記述と一致する古墳の石室。
	破線で囲まれた部分にひつぎが置かれていた=奈良県明日香村

	石室付近からは、土に付着した漆や木質が残る鉄釘が見つかり、棺は外側が黒、内側が赤の漆塗り木棺と推測されるという。
	副葬品は見つからなかった。
	 墳丘は上部が大きく削られて規模や形状は不明だが、牽牛子塚古墳と近接していた。牽牛子塚古墳造営に伴う整地層を掘り
	込んで新たに墳丘を築いており、越塚御門古墳の方が後の造営と判明した。また石室南側に、人頭大の石を両脇に並べ、路面
	に小石を敷いた墓道(長さ4メートル以上、幅1メートル)も検出された。
	 斉明天皇陵と大田皇女の墓について宮内庁は、それぞれ南西約2・5キロにある別の2つの古墳(奈良県高取町)に治定し
	ているが、研究者からは見直しを求める声も上がりそうだ。
	現地見学会は11、12両日の午前10時〜午後4時。近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩約15分。駐車場はない。



	牽牛子塚古墳】識者「大田皇女とみて間違いない」	2010.12.9 20:03 サンケイweb

	
	牽牛子塚古墳(後方の墳丘)の隣で見つかった越塚御門古墳の石室=奈良県明日香

	河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)の話 「日本書紀の記述からみると、被葬者は大田皇女とみて間違いない。牽牛子塚古
	墳の前から、これまで全く知られていなかった石室が見つかるとは大変驚きだ。日本書紀は、飛鳥時代についてかなり正確に
	記されていたと考えられる」

 	
	斉明天皇らの墓と事実上特定された古墳の周辺。隣で新たな古墳や石室が発見された
	牽牛子塚古墳(1)、高松塚古墳(2)、欽明天皇陵(3)
	=奈良県明日香村で本社ヘリから(沢野貴信撮影)

	  
	牽牛子塚古墳(後方)の隣で見つかった越塚御門古墳の石室(中央右)。左手前から右奥に延びる砂利敷は墓道
	=奈良県明日香村










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