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粥見井尻遺跡 2011.4.12 三重県松阪市阪南町





	伊勢の旅からの帰り、松坂市にある粥見井尻(かゆみいじり)遺跡を訪ねた。なかなかわかりにくく、この名前で尋ねても、土地
	の人にはわからなかった。最後に聞いたオバサンが「あ、井尻遺跡ね。それなら・・・」と、どうやら地元ではいじり遺跡の方が
	通りがいいようだった。
	粥見井尻遺跡は、国道368号線の国補道路特殊改良工事(バイパス工事)に伴って、平成8年(1996)に発掘調査された。櫛田
	川を見下ろす丘陵地にあり、縄文時代草創期(約 12,000 〜 9,000年前)に形成された集落跡である。この時代のほぼ円形の竪穴
	住居跡は全国的にもきわめて珍しい。旧石器時代が終わり、やっと土器を発明し弓矢などが使われ出した頃の遺跡なのだ。大量の
	石器や石くずが見つかっており、石器製作工房跡だった可能性もある。
	この遺跡を訪ねる気になったのは、女性の上半身を形どった、全長 6.8cm、幅4.2cm、厚さ2.6cmの小さな土偶がここから出土して
	いるからである(冒頭、下の写真)。
	「日本最古の土偶」とされ、滋賀の相谷熊原遺跡で平成22年(2010)5月に、同時代の第二号(後述)土偶が発見されるまでは、
	日本で最古の「女性の上半身をかたどった」土偶だったのだ。
	またこの遺跡からは、縄文時代草創期(約1万2千年〜9千年前)の「竪穴住居群」が発掘された。竪穴住居は、直径が4〜6m
	位の円形で4棟が接近、重複している。この時期の住居は全国的にも発見例が極めて少ない。土偶はその住居跡から発見されたの
	だが、それまで最古とされていた亀山市大鼻遺跡出土の土偶よりさらに古いものだった。全長約7cm、幅約4cmとたいへん小
	さく、装飾のない女性の姿をした土偶である。このほかこの遺跡では、竪穴住居跡などの遺溝とともに、矢柄研磨器や隆線文土器
	片など縄文時代草創期を特徴づける遺物が発掘されている。現在、この遺跡跡は「粥見井尻遺跡公園」として竪穴住居が2棟復元
	されている。




	粥見井尻遺跡 (かゆみいじりいせき)(日本最古の土偶) 
 
	平成8年9月、松阪市飯南町の粥見井尻遺跡で縄文時代草創期の土偶が、ほぼ完全な形で発見されました。今から時代をさかのぼる
	こと約1万2千年から9千年。土器や弓矢が使われ始めた縄文時代草創期のもので日本最古のものとみられています。
	女性の上半身を形どった、全長 6.8cm、幅4.2cm、厚さ2.6cmの小さな土偶ですが、縄文時代の精神文化誕生をひもとき、その時代
	の人々の暮し、 社会の様子などを解明していく上で大きなヒントになるものと全国から注目されました。
	このほか粥見井尻遺跡では、竪穴住居跡などの遺溝とともに、矢柄研磨器や隆線文土器片など縄文時代草創期を特徴づける遺物が
	発掘されました。(県史・2000/06/19(H12)・国土交通省・三重県)

	<粥見井尻遺跡>
	県指定史跡 : 指定登録日 2000(H12)年6月19日
	指定面積  : 1,695.84u
	市 町   : 三重県松阪市 
	所在地   : 松阪市飯南町粥見字井尻ほか  
	所有者   : 国土交通省・三重県 
	年 代	  : 縄文時代 草創期
	交通機関  : JR・近鉄松阪駅から飯高地域振興局方面行きバス40分粥見神社下車	伊勢自動車道・松阪インターから国道166
			号経由車30分 
	問い合わせ先:	松阪市教育委員会飯南教育事務所 〒 515-1411 松阪市飯南町横野848 松阪市飯南産業文化センター内 
			TEL 0598-32-2300 FAX 059832-2559 







やっと探し当てた遺跡の近くに大きな駐車場があって、どうやらここは遺跡見学者用の駐車場のようだ。



そこから茶畑の中を、道路の高架目指して歩いて行くと、



高架の下に、なにやら復元住居のようなものが見える。「あすこだ!」



まさしく「高架下の遺跡」だった。こんな遺跡は初めて見る。





上右、遺跡名を付けた木柱の上部に土偶のレプリカが付いている。これが冒頭に掲示した土偶のレプリカである。














	<粥見井尻遺跡> 1996年10月4日(金)  全国配信 朝刊

	井尻遺跡は縄文時代草創期の住居跡で、平成8年(1997)松阪市飯南町粥見の国道368号のバイパス工事に先だち、道路
	予定地で行われた発掘調査で、竪穴住居跡と土偶が2個発見され、そのうちの1個はほぼ完全な形で出土した。この土偶は専門
	家の鑑定の結果、日本最古のものとわかった。この遺跡は地名を取って「粥見井尻遺跡」と名付けられた。




	○竪穴住居跡

	粥見井尻遺跡では全国的にも珍しい縄文時代の草創期(約12000〜11000年前)の竪穴住居跡が4棟見つかった。長い
	旧石器時代から縄文時代へ移行した時で、旧石器時代の住居が平地に屋根をかけた簡単なものであったのに対し、縄文時代の始
	まりの頃には直径4〜6m程度、深さ1m程度地面を掘って、垂木を立てかけ屋根を葺いた住居跡が出現した。 




	井尻遺跡の住居跡は、一度に1棟か2棟があり、2、3回立て替えられており、旧石器時代と違って同じ場所に住み続ける「定
	住」が始まったことがうかがえる。また、家の大きさから数人から十数人住んでいたと思われる。このような縄文初期の竪穴住
	居がたくさん見つかることは、日本列島の中でも大変珍しい。




	○井尻遺跡の土偶

	井尻遺跡から2つの土偶が発見された。そのうち1つはほぼ完全な形で、もう1つは頭だけのものが別々の竪穴住居跡から発見
	された。2点とも同じ大きさ、形で、砂粒の混じりの少ない粘土が使われ、明るい黄土色をしている。この土偶は全長6.8p、
	幅4.2p厚さ2.6pの女性の上半身を形どったもので、目や口などはなく、胸には粘土を貼り付け乳房を表現している。
	また、脚はなく、手は胴体の粘土を横につまみ出し、両手を広げた形を表している。土偶は北海道から九州までに1万点余りあ
	るが、今まで発見されたものの中では井尻遺跡のものが日本最古である。
	土偶は遊動生活をしていた旧石器時代には無く、定住を始めた縄文時代に流行し、その後本格的な農耕を始めた弥生時代には消
	えている。








	○井尻遺跡の土器、石器
 
	土器の口の大きさは10数p、深さ20p程、丸みのある平らな底の鉢で、柔らかくて薄い素焼きのもの。模様のないものが中
	心で、中には隆線紋や爪形紋やと呼ばれる模様のついたもののほか、縄のあとが底に付いたものや、板のようなものでナデたも
	のもある。これらには、外側にスス、内側にはオコゲが付いているものが多く、煮炊きに使ったことがよくわかる。
	このほか粥見井尻遺跡からは石器も出土した。石器は完全な形のもの、作りかけのもの、またうち欠いた時の石屑もあった。弓
	矢の関係では矢じり(石鏃・せきぞく)とともに、矢の棒の部分をまっすぐになるように扱くための矢柄研磨器(やがらけんま
	き)と呼ばれる石器が4点発見された。矢じりの材料となるサヌカイトとも呼ばれる讃岐石は、奈良県と大阪府の境にある二上
	山(ふたかみやま)から和歌山街道を通ってこの地まで運ばれたと考えられている。




	○現在の井尻遺跡

	土偶は県の有形文化財に指定され、県埋蔵文化財センターに保管されている。また当初土盛で計画されていた道路は高架の工法
	に変更され、高架道路の下の遺跡には縄文人の竪穴住居が復元されている。この付近は櫛田川が大きく蛇行しているところで、
	この櫛田川の近くで花開いた縄文人の生活がしのばれる。毎年10月にはこの場所で遺跡祭りが開催され、家族連れなどが参加
	して、勾玉づくり、土器づくり、矢じりづくり、火おこし体験、弓矢体験などが行われる。

	○所在地	・三重県松阪市飯南町粥見



















































発掘調査当時の写真。

	粥見井尻遺跡は、櫛田川が大きく蛇行し、平坦な河岸段丘が広がる粥見地区にある。平成8年、三重県教育委員会により発掘調査
	が行われた。その結果、縄文時代草創期の竪穴住居跡4基、日本最古の土偶、矢柄研磨器、隆線文土器など、縄文草創期を特徴づ
	ける遺物や、土器片・石鏃などが多数出土した。遺跡を保存するため、道路建設は土盛りから遺跡の部分のみをまたぐ高架方式に
	変更された。現在、遺跡1,700uは竪穴住居も復元されて高架下の史跡公園として公開されている 




	土偶は人型を模して作られた土製品である。日本では、縄文時代に粘土をこねて人型を作り、それを土器と同じように野焼きで焼
	いた。その時代は、今から約1万2000年前あたりから紀元前3世紀ごろ、弥生時代が始まるまで約1万年続いた。 
	土偶の出土する時期は地域に偏りが見られるものの、土偶は東日本に顕著ながら各地で作り続けられてきた。世界的に見れば、こ
	うした土製品は、新石器時代の農耕社会において乳房や臀部を誇張した女性像が多く作られていることから、通常は、多産や豊饒
	を祈る地母神崇拝のための人形と解釈されることが多い。 
	しかし世界史的には、狩猟・採集時代のものとしての類例があまりない。不思議なことに、我が国では逆に農耕が開始された弥生
	時代になると、ほとんど作られなくなってしまう。平成4年の段階で全国で出土した土偶の数は11,800個に達している。
	縄文時代には全国で約30万個の土偶が造られたと推定されている。

	粥見井尻遺跡の土偶は極めて小形で、やや厚みのある板状のもので、頭部と両腕を突起で表現しており、顔や手足の表現がないが、
	乳房は明瞭に表現されていて、女性の上半身を形どっている。大きさは全長6.8cm、幅4.2cm、厚さ2.6cm。
	土偶は縄文時代を通してみられるが、早期(BC7000 - BC4000)や前期(BC4000 - BC3000)のものは少ない。中期(BC3000 - BC2000)
	には東日本を中心に分布するようになり、目、鼻、口がはっきり表現されるようになる。後期(BC2000 - BC1000)になると顔がハー
	トの形をしたハート形土偶や、後頭部が突出した三角形の顔をした山形土偶、丸い目や口をつけたみみずく土偶など多彩になる。 

 三重県埋文センター通信 みえ 平成9年1月30日 No.21 



	2010年5月、ここと同年代同形の土偶が、滋賀県の東近江市の集落遺跡・相谷熊原遺跡から発掘された。今の所縄文草創期の土偶
	としては、この2例が日本最古の範疇に入る。










	土偶:国内最古級1体出土 滋賀の相谷熊原遺跡で (毎日新聞 2010年5月29日 17時31分 更新:5月29日 19時8分) 

	 滋賀県文化財保護協会は29日、同県東近江市永源寺相谷町の相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡で、縄文時代草創期(約1万
	3000年前)の竪穴住居跡5棟が見つかり、国内最古級の土偶1体が完全な形で出土したと発表した。同時期の住居群跡は全国
	で数例、土偶は三重県の粥見井尻(かゆみいじり)遺跡で2点しか発見されていない。移動生活から定住が始まった時期の暮らし
	や文化がうかがえる、貴重な発見となりそうだ。 
	 発見された土偶は高さ3.1センチ、最大幅2.7センチ、重さ14.6グラム。女性の胴体のみを、胸や腰のくびれも優美に
	表現し、底は平らで自立するのが特徴だ。上部に直径3ミリ、深さ2センチの穴があり、棒で別の頭部をつないだなどの可能性も
	ある。 
	 相谷熊原遺跡は、三重県境の鈴鹿山脈から流れる愛知(えち)川の南の河岸段丘にあり、山間地と平野部が接する場所にある。
	竪穴住居群は、緩い斜面約100メートルの間に5棟連なって確認された。規模の分かるものは直径約8メートルのいびつな円形
	で、深さ約0.6〜1メートルと、これまでの例より深く、しっかりした構造だった。作るのに相当な労力がかかる上、多くの土
	器や石器も出土しており、一定時期でも定住したことが考えられるという。 
	現地説明会は6月6日、午前10時と午後1時半の2回。雨天決行。問い合わせは県文化財保護協会(077・548・9780)
	【南文枝】 

	


	国内最古級の土偶発見 滋賀・相谷熊原遺跡	(朝日新聞2010年5月29日)

	滋賀県文化財保護協会は29日、同県東近江市の集落遺跡・相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡から縄文時代草創期(約1万3千
	年前)とみられる国内最古級の土偶が出土したと発表した。三重県で1996年に見つかった土偶とほぼ同時代のもの。ともに女
	性像で、今回の土偶のほうが指先サイズと小型だが、乳房や腰のくびれが明瞭(めいりょう)に表現されている。信仰や祭祀(さ
	いし)にかかわる呪物とみられ、旧石器時代からの転換期の縄文人の精神文化の芽生えを考えるうえで貴重な発見という。 
	 土偶は高さ3.1センチ、最大幅2.7センチ、重さ14.6グラム。胴体部分のみを現した造形で、欠落のない完全な形で出
	土した。三重県松阪市の粥見井尻(かゆみいじり)遺跡から出土した同時代の土偶(全長6.8センチ、最大幅4.2センチ)が
	逆三角形に近い形状なのに対して、今回の土偶は豊満な体形。底を平たく仕上げて自立できる造りは縄文中期(約5千年前)以前
	の土偶では例がないという。 
	 京都大大学院の泉拓良教授(考古学)は「女性らしさの表現は、多産などの願いを託したとみられ、定住化が進んだとみられる
	この時代と土偶の出現の関係を探る鍵になるのではないか」と話す。 
	 土偶は今回出土した5棟の半地下式の竪穴(たてあな)建物群のうち1棟の埋土(まいど)から見つかった。竪穴建物は直径8
	メートル、深さ約1メートルの棟もあり、国内各地で出土した同時代の一般的な竪穴建物(直径4〜5メートル、深さ30〜40
	センチ)に比べて規模が大きい。多大な労力をさいて建てられたとみられ、定住用の建物の可能性があるという。


邪馬台国大研究ホームページ / 遺跡・旧蹟めぐり /粥見井尻遺跡