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茅原大墓古墳・発掘調査現地説明会 2011.2.26(土) 奈良県桜井市




発掘前の茅原大墓古墳




	2月下旬、奈良県桜井市の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳で、人物埴輪が発見されたという記事がメディアで流れた。茅原大墓
	古墳は、1982年に国の史跡に指定された帆立貝式の前方後円墳である。全長は約86mで、後円部の径は約70m、高さは
	約9m、前方部の長さは約15mを測る。この規模は箸中支群の中で、箸墓古墳に次ぐとされる。位置的にも箸墓古墳の裏手
	(東側)にある。
	記事では4世紀末築造とされているが、かっては5世紀の古墳とされ現地にある案内もそうなっている。最近の時流に乗って、
	古墳の築造年代を数十年早めたため、埴輪も「日本最古の」人物埴輪とせざるを得なくなった。

	「盾持人埴輪」(たてもちびとはにわ)という、後に盛んになる埴輪祭祀が生まれる契機になったと考えられる埴輪で、人物や動
	物の埴輪が登場するまでは、埴輪と言えば円筒形の埴輪が主流で、これまで人物埴輪は大阪府羽曳野、藤井寺両市の墓山古墳な
	どの5世紀前半のものが最古だった。旧来の年代に従えば、これらと同時期に製作されたことになるのだが、今回の発表では、
	この埴輪が「日本最古」とされている。Newsを聞いて、これは見ずばなるまいと発掘調査の現地説明会に出かけて行った。





	現地への最寄り駅としては「巻向」か「三輪」なのだが、のんびりと「山辺の道」ではないところを歩いて見たくて、JRまほ
	ろば線(桜井線)の「柳本」で降りた。山辺の道はもう何度も歩いたし、櫻井−柳本間の道は殆ど頭に入っている。普通、山辺
	の道というと櫻井から天理までを言うが、私見では天理からさらに北上して、和邇や崇道天皇陵を経由して、奈良市の開化天皇
	陵までが正式な「山辺の道」である。ここを全部歩いてこそ、古墳時代のこの地域が理解でき、はじめて山辺の道を歩いたと言
	えるのだ。今日は、桜井線と山辺の道の間を歩こうと思った。




	巻向駅の近くの巻野内という集落で、荒れた石祠の跡があった。穴師大明神と言えば相撲神社の先にある兵主神社の事だろうか。
	それにしても、散乱する石柱は整備するか、かたづけるかすればいいのにと思ってしまう。何か哀しい。

	<穴師坐兵主神社>(あなしにいますひょうずじんじゃ)

	旧県社だが、延喜式の神名帳に記載がある格式高い神社で、穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、巻向坐若御魂神社という3つの
	社を合祀したものだという。総称して穴師坐兵主神社とか穴師神社と呼ばれているようだ。かっては上下二社にわかれ、上社は
	弓月岳に穴師坐兵主神社があり、下社が現在地にあり穴師大兵主神社であった。この弓月岳が一体どの山なのか、竜王山、穴師
	山、巻向山の説がある。一の鳥居をくぐり、少しばかり山道を行くと、目の前に、こんもりした森が見えてくる。穴師坐兵主神
	社である。









早々に咲き出した桜と三輪山を見ながら南下する。



高架の上から桜井線の三輪方面(南)を見る。左が三輪山で右は箸墓古墳である。



この桜の下で、途中の雑貨屋さんで買った「助六」と「お稲荷さん」で昼食にする。どこにもコンビニは無い。



柳本から1時間くらい歩いただろうか、遠くに古墳らしきものが見える。「あそこだ!」と思ったが木々がない。全部切られている。













「受付」と言っても名前を書いたりするわけではない。資料を貰うだけだが、簡単な質問にも答えてくれる。詳しいことは「学芸員へ」。





出土品のテントを横目に、まず説明を聞く。




	<今回の調査成果の概要>(詳細は巻末の報告書参照)

	1.古墳の形が珍しい
 
	 ・墳丘の端から葺石が出てきたので 規模が後円部径およそ72m、全長86mと把握でき、全長が短いので、形態が帆立貝式
	  の前方後円墳(4世紀末頃より出現)と判明した。
     ・周りにある箸墓などの古墳と比べると全長が短い(86m)ので 勢力が主流派から非主流派に外れ、大和衰退期に築造された
	  と推定できる。(勢力の衰えとともに 小さくなったか?)
   	 ・その後 勢力の移動とともに古墳も大和から大阪へ移り、羽曳野、古市近辺〜堺あたりで大きな古墳が築造されるようになる。
   
	2.重要な出土遺物が出た
	
	 ・盾持ち人埴輪が出た。古墳の端で出土することが多いので 他の形象埴輪とは意味合いが違う。盾を持って外を向いているこ
	  とから、外部から古墳を守る役目だろうと考えられる。
	 ・円筒埴輪列が数段見つかった。今回多数出土したので、古墳築造の年代が4世紀後半と特定できた。
	 ・埴輪棺も見つかった(埴輪を棺に転用したもの)。同古墳から出土しているので 被葬者の縁者だと推定できる。埴輪棺は、
	  本古墳前方部東側斜面のくびれ部基底部で、樹立した状態で発見された。

	
	3.その他

	 ・今回新たに古墳の規模も判明し、市教委が目指す2013年度以降の整備に向け、大きく前進した。一方、なぜここに最古の
	  人物埴輪があったのかなど、新たな謎も浮かび上がった。
	 ・同古墳は、戦前から果樹園や畑として利用されてきた。市教委は08年度から発掘調査を続けている。 
	 ・今回の調査では、ふき石で覆われた古墳東側のくびれ部が出土。過去の調査で見つかった古墳のすそ部などとあわせ、全長86
	  mに復元できることがわかった。前方部は2段と確定、後円部は3段と推定されることも判明した。 
	 ・最古の人物埴輪が出てきたことについては、「正直、この時代の古墳にあるとは思ってもみなかった」と市教委の福辻淳主任。 
	 ・4世紀末は、箸墓古墳や渋谷向山古墳(景行天皇陵)など、200メートルを超える巨大な古墳をつくった奈良盆地東南部の
	  勢力が衰退し、盆地北部や河内地域へと大和王権の中枢が移った時期とされる。茅原大墓古墳のような帆立貝(ほたてがい)
	  式古墳は、大和王権が地方豪族に対し、前方後円墳の築造を制限したため造られたとする説もある。 






	盾持ち人埴輪が出土したのは 上図の【4−2】の部分(前方部と後円部の境目、くびれ部分)である。発掘された場所より上段
	に立っていたものが、何かの原因で崩れ落ち、頭部と下部が離れた場所に落ちたと考えられる。また 【4−5】の部分からは、
	埴輪棺が出土した。盾持ち人埴輪は、編笠形のかぶとをかぶり、盾を構えた兵士を表現している。ほかに鳥形埴輪や円筒埴輪も出
	土した。











会場には、これまでの調査結果も張り出されている。




	茅原大墓古墳は1996年と2008年に発掘調査が実施された。埋葬施設は未調査だが、墳丘には葺石とともに円筒埴輪、朝
	顔形埴輪、家型埴輪などが樹立していたらしく、埴輪の破片が散乱していた。後円部の西側では、周濠の痕跡も確認された。 
	この古墳は、地元では「倭佐保姫」の御陵として伝えられてきた。そのため、比較的原形をよく留めているという。後円部の北
	側の裾は墳丘が破壊され現在は畑に変わっているが、長さ約15m、高さ約1mの前方部が存在した。こうした墳丘の古墳は、
	円形の墳丘に短い突出部が取り付いた帆立貝式前方後円墳と呼ばれる。出土した埴輪類などから、古墳の築造時期はかっては古
	墳時代中期、すなわち5世紀とされていた。




	古墳は1982年に国史跡に指定されたが、詳細な形態が不明なため、桜井市教委が08年から毎年、発掘調査してきた。その
	結果、全長は86m、後円部が直径72mの3段築成、前方部が長さ20mの2段築成と判明した。前方部が極端に短く、形が
	ホタテ貝に似ているため、「帆立貝式前方後円墳」に分類された。




	周辺には3世紀後半から、箸墓古墳(全長280m)、西殿塚古墳(同230m)、行燈山(あんどんやま)古墳(同242m)、
	渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳(同300m)など、大王墓クラスの大型前方後円墳が相次いで造られたが、4世紀後半
	突然築造されなくなる。茅原大墓古墳は、その直後に大王墓の半分以下の規模で造られた。下は発掘成果の出土品。橿原考古学
	研究所の附属博物館に、常時展示されている。





このテントの中で出土品が展示されている。盾持ち人埴輪もここにある。これだとどの位待つのだろうか。







後円部の三段の石垣は、築造当時のものではなく近代の調査時に積んだものだという。段丘はあったが石垣ではなかったのだ。








	くびれ部。盾持ち人埴輪が破片になって出土した地点だ。樹立埴輪の下部が残っている。左上の段から下に落ち、このくびれ部で
	頭部と下部に分かれて埋没したものらしい。








	今回の発掘調査では壷形埴輪のほか、形象埴輪として盾持人埴輪・鶏形或いは水鳥形埴輪などの存在が明らかになった。今回の発
	掘調査でもう一つの珍しい発見は、埴輪棺が出土したことである。くびれ部の上にあたる前方部で見つかった。





前方部東側の葺き石。





今回発掘調査された、後円部東側、東側くびれ部、前方部北側などの墳丘端の斜面に葺かれた葺石が、墳丘全体の輪郭を明らかにした。



前方部の東端から墳頂へ上れるように石段がある。反対側、後円部の溜め池側からも登れる。







墳頂。遠くに二上山が見えている。



墳頂の縁の部分からも埴輪が検出されて、墳頂部は築造当時のままであると考えられている。



墳頂から見た発掘現場全体。こちらが前方部である。



西側には周濠の跡が溜め池として残っている。かっては周濠として古墳を取り巻いていた。西にあった毘沙門塚古墳は現在消滅している。














	後円部の頂上から西側には箸墓古墳が見え、その彼方には大阪と奈良の境、二上山も見える。振り返れば反対の東側に、大物主
	を祭る大神神社のご神体である三輪山が見えている。つまり茅原大墓古墳は、箸墓古墳と三輪山の間にあるのだ。



墳頂ではどっかのTVクルーがInterviewに余念がなかった。















ここが前方部の先端。しっかりトレンチが入っている。





古墳北側の前方部先端の葺石出土状況









まだ相当並んでいる。昼からどんどん人が増えたようだ。仕方がない、並ぶとするか。




	盾持人埴輪は、墳丘東側のくびれ部付近に流れ落ちた状況で出土しており、頭部から盾面の上半分にかけて、高さ約67cm分が
	残存していた。幅約50cm・高さ47cmの長方形の盾部分には、線刻による文様が表現されている。この盾とみられる板が貼り
	付けられていたことから、古墳を守る兵士の役割を与えられたのではと考えられる。人物埴輪はその出土の状況などから、古墳
	が造られたのとほぼ同じ4世紀末ごろに制作されたとされる。が、私は従来通り5世紀なのではないかと考えている。

	埴輪は、円筒形をしたものが3世紀後半ごろから古墳を取り巻くように立てられ始め、人の形が出現するのは5世紀前半ごろと
	考えられてきた。しかし、今回の発表は、これまでの例を数十年さかのぼり、人の姿をしたものとしては最も古い事例という。
	これまで人物埴輪の大半は5世紀後半から6世紀代に属するもので、5世紀前半の羽曳野市の墓山古墳や、4世紀末〜5世紀前
	半の福岡市の拝恁テ墳の盾持人埴輪が最も古い事例とされてきた。ここがホントに4世紀末の古墳なら、確かに日本一古い人物
	埴輪と言うことになるのだろうが、ちょっと怪しい。

	盾持人埴輪は、他の形象埴輪とは異なり、古墳外縁部に置かれる例が多く、外側の邪悪なものから古墳を守る意味を持つ象徴と
	も考えられる。このような人物埴輪の出現は、古墳時代中期中頃以降に盛行する「埴輪祭祀」が生まれる大きな契機となったと
	見られる。



顎の部分は張り出しており、入れ墨と思われる表現が見られる。頭部には三角形をした冑と思われるものを被っている。



顔面部分は平面的で、表面には赤色顔料が塗られている。



注目の埴輪。菱形文がくっきりと線刻されている。








	古墳前に設置されている説明板では、古墳の築造年代は5世紀となっている。これまで盾持ち人埴輪の最古のものは5世紀前半だ
	とされていたが、この古墳は、従来の見方より数十年早くして4世紀末とみなしているため。盾持ち人埴輪も日本最古となった。
	盾持ち人埴輪はもともと墳丘に据えてあったものが、墳丘東側くびれ部の周濠におちたものである。

	4世紀末という時期は「倭の五王」(讃・珍・済・興・武)の時代で、15代応神天皇から21代雄略天皇の間の時期に当たると
	見る見方が一般的。この時期は巨大古墳の造成時期にあたり、その終末期に茅原大墓古墳が出現するのなら、実際はもっと遅い時
	期ではないか。従来どおり5世紀の古墳でいいのではないかと思うが。
	即ちこの時期になると、奈良盆地東南部の勢力は衰退し、奈良盆地北部・河内地域の勢力がより強大になったことを示している。
	従って茅原大墓古墳は、奈良盆地東南部の勢力が衰退していく時期に築造された古墳で、4世紀末頃より多く見られる帆立貝式古
	墳の形態は、この地域の勢力の衰退を物語っているのであろう。



説明会会場を後にして巻向駅へ向かう。





箸墓古墳を見ながら行くと、周濠の水は冬場なのですっかり抜かれていた。





水がないとこの御陵は、垂仁天皇陵と多邇馬守の島のような感じだった。あんがい、そうちゃうか?



埋め戻されたマキムク遺跡(上右)と、ホームに咲いていた桜。







	日本最古級の人物埴輪=4世紀末、茅原大墓古墳		−奈良 時事通信

	
	 奈良県桜井市の4世紀末の前方後円墳「茅原大墓古墳」(全長約86メートル)から、人の形を模した埴輪(はにわ)の一種「盾持
	人埴輪」の一部が出土したと、同市教育委員会が24日発表した。市教委は「複数の専門家の意見を踏まえると、最古といっていい」
	としている。
	 市教委によると、埴輪は古墳の墳丘東側からバラバラの状態で見つかった。破片をつなぎ合わせると全体で約1メートルと推定され、
	うち67センチ分が残っていた。顔の部分は縦17センチ、横16センチで、赤色の顔料が塗られていた。前方部と後円部の境目のく
	びれ部分から落ちたとみられる。
	 盾持人埴輪は、邪悪なものから古墳を守るため、古墳外縁部に置かれることが多い。関東地方を中心に、50カ所以上の古墳などで
	100例以上が出土しているが、大半は5世紀後半以降という。
	 市教委文化財課の福辻淳主任は「今回の埴輪は、以前にはなかった人物の表情をいち早く採り入れており、後に盛んになる埴輪祭祀
	(さいし)が生まれる大きな契機になったと考えられる」と話している。(2011/02/24-19:03



	最古の人物埴輪にっこり…  奈良・茅原大墓古墳

	奈良県桜井市の前方後円墳、茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(4世紀末、全長86メートル)で、「盾持人埴輪(たてもちびとはにわ)」
	と呼ばれる兵士をかたどった埴輪(高さ約67センチ、幅約50センチ)が出土したと、市教委が24日、発表した。人物埴輪として
	は日本最古。墳丘外縁部に立てて被葬者の魔よけにしたとみられる。
	 東側の周濠(しゅうごう)から破片で出土し、市教委が復元した。盾の上部に冑(かぶと)をかぶった頭が付き、顔は赤く塗られ、あご
	に入れ墨を表現した線がある。目と口は穴で表し、笑っているように見える。
	 人物や動物の埴輪が登場するまでは、円筒形の埴輪が主流。これまで人物埴輪は大阪府羽曳野、藤井寺両市の墓山古墳などの5世紀
	前半のものが最古だった。
	 現地説明会は26日午前10時〜午後3時。雨天時は桜井市立埋蔵文化財センターで埴輪を展示する。
	(2011年2月25日  読売新聞)



	最古の人物埴輪が出土 奈良・桜井の茅原大墓古墳  2011/2/24 20:06 日経

	 奈良県桜井市の国史跡、茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(前方後円墳)を調査中の同市教育委員会は24日、4世紀末の「盾持人
	(たてもちびと)埴輪(はにわ)」が出土したと発表した。人をかたどった埴輪では最古という。これまで謎とされてきた人物埴輪の
	登場の経緯や、埴輪を使った古墳祭祀(さいし)の変遷を解明する重要な手掛かりとなりそうだ。
	 埴輪は編み笠形のかぶとをかぶり、長方形の盾を構えた兵士を表現。頭から盾の上半分まで高さ67センチ分が残存していた。顔は赤
	く塗られ、目と口の部分に穴を開けて、あごに入れ墨を示す線刻が入れてあった。鼻は欠けているが、粘土をはりつけてあった跡があ
	った。
	 盾にはひし形や三角形などの模様が線刻してあり、革製のかぶとや盾を模したとみられる。
	 市教委は一緒に出土した円筒埴輪の特徴などから、古墳の築造年代を推定。これまで最古の盾持人埴輪とされた墓山古墳(大阪府、
	5世紀前半)などの出土例よりも数十年古いと判断した。
	 埴輪は墳丘東側のくびれ部付近の周濠(しゅうごう)内から出土。墳丘上に据えてあったが転落したらしい。市教委は「邪悪なもの
	から古墳を守るため置かれた」と推察している。
	 同古墳は帆立て貝形をした前方後円墳で、市教委は墳丘の形態を探るため3年前から発掘を続けている。今回、墳丘が全長86メート
	ルであることが判明したほか、鳥形埴輪や円筒埴輪も出土した。
	 現地説明会は26日午前10時〜午後3時



	奈良県桜井市で最古の人物埴輪/4世紀末の茅原大墓古墳 2011/02/24 17:19 Shikoku.news

	 奈良県桜井市の帆立て貝形の前方後円墳・茅原大墓古墳(4世紀末、国史跡)で、盾を持った最古の人物埴輪が見つかり、市教育委
	員会が24日、発表。「盾持ち人」と呼ばれるタイプで、古墳を守護する役割があったとされる。口元は笑っているようにも見える。
	 3世紀に誕生した初期の埴輪は円筒形で、人物埴輪は墓山古墳(5世紀前半、大阪府)などでの出土例が最古とされており、「埴輪
	研究最大の謎」とされる人物埴輪の起源が数十年さかのぼることになり、今後の研究に影響しそう。
	 市教委によると、埴輪は壊れていて、数百点の破片で見つかった。復元できた大きさで幅50センチ、高さ67センチ。



	国内最古の人型埴輪 数十年さかのぼる発見 奈良・茅原大墓古墳 SANKEI-web 2011.2.24 20:59 


	 
	茅原大墓古墳で発見された「盾持ち人埴輪」の頭部=24日、奈良県桜井市(鳥越瑞絵撮影)

	 奈良県桜井市にある帆立貝式前方後円墳の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(4世紀末、全長86メートル)で、人を表現した国内
	最古の埴輪(盾持ち人埴輪)が見つかり、同市教委が24日、発表した。「人」の埴輪は5世紀前半に出現したと考えられており、数
	十年さかのぼる成果。
	 見つかった盾持ち人埴輪は高さ67センチ以上、幅50センチ。目と口を穴で表現し、鼻の部分は粘土を盛った跡がある。あごには
	ひげか入れ墨が線刻され、頭に被っているのは冑(かぶと)と推定される。
	 盾には「菱形文」が丁寧に線刻され、盾の表面や顔面には魔よけの象徴とされた赤い顔料が一面に塗られていたという。
	 盾持ち人は、4世紀に登場した盾や冑だけの埴輪に平面的な顔が付くという発展経過をたどる。
	 辰巳和弘・同志社大教授(古代学)は「邪悪なものが墓に入ってこないよう盾の役割を強化したのが顔だ。あざ笑うような異様な形
	相で邪悪を退散させようとした」とし、後の人物埴輪とは系統が別と考える。
	 一方、高橋克寿・花園大教授(考古学)は「人型のものを土でうつすことは弥生時代以降は一度もない。禁忌行為とされた長い長い
	伝統がある中で改革的な行動だった」と人物埴輪への原初形態と評価する。
	 盾持ち人が「人」であるならば、人物埴輪は大阪・河内地域の巨大古墳群で5世紀に出現し、6世紀にかけて全国に広がったとする
	「定説」を揺るがす。
	 高橋教授は「4世紀末の大和は政治力では大阪に負けているが、聖なる三輪山の麓には革新していく宗教的リーダー性が続いたこと
	を示している」と話した。
	 現地説明会は26日午前10時〜午後3時。雨天時は桜井市立埋蔵文化財センター(桜井市芝)で展示する。



	築造当初の7メートル渡り堤 - 茅原大墓古墳	 2012年2月16日 奈良新聞

	
	前方部から北(手前)に延びる渡り堤=15日、桜井市茅原の茅原大墓古墳

	桜井市茅原の帆立て貝式前方後円墳、茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(=国史跡、4世紀末、全長86メートル)の周濠で、築造当初の渡り
	堤が見つかり、桜井市教育委員会が15日、発表した。同古墳では初めて。市教委は「推定が裏付けられた」としている。
	古墳の北東角で、東西幅7メートル、高さ80センチの渡り堤が前方部から北へ延びていた。両サイドは直径10〜30センチの石を丁寧に
	葺(ふ)いていた。西側に大ぶりの石を使い、三輪山が背景になる東向きの景観を意識しているという。上面は残っていなかった.



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