羽咋市内に「七つ塚」と呼ばれる古墳群が存在することは古くから知られており、七塚を「大塚(御陵山)、大谷塚、姫塚、 宝塚、痛子塚、水犬塚、剣塚」に比定する事はほぼ確定しているようである。これらの古墳は現在、垂仁天皇の皇子「石衡 別命(いわつきわけのみこと)一族の墳墓とされており、大塚と大谷塚は宮内庁の陵墓参考地となっている。それらは「古 事記」の「垂仁記」や「国造本紀」の記事が元になっていると思われる。 古事記・垂仁記 「又娶其大国之淵女、弟苅羽男■【辛リ辛】、生御子石衝別王 (略) 次石衝別王者、羽咋君、三尾君之祖」 先代旧事本紀・国造本紀 「三尾君祖、石撞別命児、石城別王」 いったいいつごろからその伝承があるものなのかは判然としないが、大谷塚が元和(1615−1624)頃まで「王児塚」と呼ば れていたという伝聞(郡誌)を信用すれば近世以前に遡ることになり、平家物語巻七、倶梨迦羅(倶利迦羅)落条に、鹿島 町所在の小田中「新王(親王)の塚」が、崇神天皇の皇子「大入杵命」をその被葬者に比定していたと推測されるので、こ の地での伝承も、或いはその頃(中世初頭)には存在していたと見ることもできる。 羽咋七塚に関する記述は、この他の伝聞として同じく郡誌(羽咋郡誌:大正6年)に、姫塚の周囲にあった池が埋め立てら れたのが寛文(1661−1673)年間とあり、平地に所在するこれらの塚が、人々に早くから貴人の墓と認識されていた事を記 録している。しかし考古学的な調査は、大正7年の陵墓参考地指定に伴って、昭和4年に御陵山、大谷塚の憤丘調査が行わ れたのみで、いずれも過去に大規模な盗掘にあっているらしく、出土物などの情報はない。従って「羽咋七塚」の現状は科 学的な学問の照射を浴びているとは言えず、あくまでも伝承に基づく古墳群というしかない。
羽咋神社 JR七尾線羽咋駅を西へ10分程行ったところの商店街のなかにある。能登国羽咋郡の延喜式内社。現在の本殿は大塚古 墳後円部の南麓にあるが、大正7年までは墳頂にあったという。往古の鎮座地は現社地の南東約200mの八幡神社の場 所と見られている。本殿は三間三面に一間の向拝付きの流造、拝殿は天保三年(1832)の建造で、五間五面の入母屋造、 千鳥破風、軒唐破風である。いずれも銅板葺きである。 祭神 : 磐衝別命、磐城別王命、弟苅羽田刀弁命 由緒 : 往古の当地の中心的豪族である羽咋君ゆかりの神社とされている。『古事記』垂仁記によれば、羽咋君の祖は 垂仁天皇と山代の大国の淵の女弟刈羽田刀弁との間に生まれた石衝別王であり、これは『新撰姓氏録』にも記 されている。また『先代旧事本紀』国造本紀には、雄略天皇の御代に石衝別命の児石城別王が羽咋国造に定め られたとある。伝承ではその昔、当地は高志の北島と呼ばれる未開地で、人々は飢餓とこの地方一帯に流行し た疫病に苦しんでいた。また盗賊もはびこり、更に滝崎の森には大毒鳥(怪鳥)が出現し住民を苦しめていた。 そこで垂仁天皇の勅により鎮圧の使として石(磐)衝別命(いわつきわけのみこと)が当地に下向してこれら を討ち、さらに住民に農業を奨励したので人々の生活は安定した。命が没した際、住民は墓を築いて埋葬し、 その恩徳を子孫に伝えるため神霊を社に祀ったのが羽咋神社の起源と云う。羽咋神社には石衝別命とその子石 城別王(いわきわけおう)が祀られており、毎年9月25日には報恩の祭典が行われる。
JR羽咋駅の角に(上左端の木が立っている部分。)ある。かっては経20mほどの円墳であったとあるが、とても現状から は想像もできない。「旧記」に「石憧別命妃、三足比当ス御墓」、「姫塚西十間南北五間、御妃の墓也」とあり、「社記」に 「姫塚三足姫の憤 今三俵苅社と云う (略) 姫塚の周囲なりしが寛文度間開墾致し墳墓を毀ち池を埋めしとぞ」とある。 明治42年、頂上の小祠を羽咋神社に合祀したのち、頂上にあったシイ・タブの小樹数株を移植したものが今ここに見えてい る木である。 現在、案内板には「三足比当ス(みたらしひめのみこと)御墓」となっているが、この地方には太古から能登比盗_(のとひ めのかみ)という女性神の伝承もあり、何か関連がありそうな気もする。 <能登比盗_> 太古、大己貴命、少彦名命と共に天下を経営し越の八国を平け給う時此の地に至り 国津神を求め給う、爰に機織乙女あり、 命機殿に来たり御飯を語り給いければ乙女は稗粥と、どぶろくを進む、命甚く愛で生して永く吾苗裔と爲さむと宜り給う。 此の乙女名を能登比盗_ と稱へ奉る機棹を海中に投げ給いしに島が出来、この島名は能登比盗D島又名は機貝島と云う。 羽咋郡富来沖にあり。
駅前には「唐戸山神事相撲の由来」碑がたっている。この地の相撲好きは、磐衝別命が相撲が好きだったという事に由来し ているようで、町のアチコチに相撲の看板や記念碑がある。またコスモアイル(宇宙博物館)の近くには関脇「電電震右衛 門」の顕彰碑も立っている。
同じく羽咋駅前の、姫塚とは反対側の駅前広場の一角に、これまた1本の木が立っていて、ここが「剣塚」である。これ もロータリ−の中に1本だけ立っていて、とてもここに塚があったなどイメージできない。この木を挟んで駅とは反対側 20mくらいのところに「八幡神社」があり、ここが「石衝別王の居館」があった所だという。 「社記」に「八幡社、石衝別王居館地此側に古墳在り、伝に云剣塚と按ずるに、刀剣を納めたるところか」とあり、「郡 誌には「八幡森」として「猫山前」「八万突」「城ケ口」「突戸の腰」の別称を載せている。姫塚から8、90m、御陵 山古墳から300mほど離れたところにあって、八幡神社すぐから古墳があったというが、現在その痕跡は全く留めてい ない。
「旧記」に「石憧別命下降、弓矢ヲモテ黒白斑犬ヲ率キ連レ鳥ヲ射落ス三犬之ヲ殺ス (略) 又三犬共ニ死ス今水犬 塚也」と記し、羽咋の地名由来とあわせて命名されている。「郡誌」には「薬師塚」として記載されており、「朝雲」 の別称も載せている。御陵山古墳の東側鞍部より東南90m、宝塚の東南約30mに道路を挟んで存在する。憤丘は北 半分を失い、南も本念時裏門に接し、東面には頂上にある「少名彦名命」の祠が建っていて、古墳としての原型は留め ていないので規模は不明である。昭和47年、祠を作り替える際土器片が出土したそうだが、現在は散逸している。
大国主命が少名彦名命を伴って全国(主として西日本山陰・北陸地方)に土木行脚に出かける話は古事記に載っている し、垂仁天皇・景行天皇の時代に大和朝廷が全国のまつろわぬ民どもを成敗に出かける話も日本書紀に詳しい。四道将 軍の一人ははるか会津にまで出かけているし、景行天皇の皇子「日本武尊」は、西に東に休む間もなく征伐の旅にでて、 とうとう遠征の途上で命を落とす。こういう話は果たして完全に机上の創作なのだろうか。 私にはどうしてもそうとは思えないのである。勿論「ヤマトタケル」などという名前の人物がいたとは言わないが、何 かおなじような事績、たとえば西(九州・出雲)から或いは南(大和地方)から、この地方へ進出してきた一団がいた のだろうという気がする。その記憶や伝承が、やがて記紀編纂の時に纏められて記載されているのだろう。違う文献に 同じような事象が載っている事も、それが創作物語では無いことを証明しているし、全国に記紀などに載っている事績 が存在する事も、それらを後から創造していったと考えるよりも、実際似た事績がその地で起きたのだと考えるほうが はるかに理にかなっている。
昭和4年5月羽咋神社社務所刊の「官弊中社昇格願書」には、「宝塚ハ今字稲荷山也、石憧別命甍去、殉死ノ為メ動 物ノ形像ヲ造リ、又愛玩筆硯器具ヲ埋ム」とその由来を伝えている。稲荷山の別称は、古墳の東北方80〜90m子 浦川に架けられた稲荷橋との関係が窺える。
この古墳は、御陵山古墳の東側鞍部より東北約90mに存在し、憤形は四隅が切削されて菱形をなしており、基底部 の長辺約22m、短辺約16m、高さは東側で約4m、西側で約2mを測り、円墳とすれば経25m程の中規模古墳 となる。上の図で見ていただくように、現在頂部中央に墓碑が建立され、10m平方くらいの平坦面をなしている。
「羽咋郡誌」には、これを「羽咋弥公墓」とする所伝を載せ、「羽咋の稲荷岡にあり、弥公は羽咋国造石衝別命の氏 人なり、(略)甍後此に葬り、丘上に祠を建てて祀れり、其祠は現に今存するものにして、嚢年丘中より古刀、勾玉 の類を得たりといふ、」と記録して、大正5年以前に出土物のあったことを伝えているが、「旧記」にも、この地に 氷室を作ったものがあって、深く掘り下げたところ土器や石器や土製の人面などが出土したと見える。 「旧記」に言う宝塚古墳からの出土物は、いま宮内庁書陵部に一括保管されている。土器は3点あって須恵器短頚壺 は口径6.8cm、胴経13.1cm、高さ8.5cmを測り、6世紀代の製作と推測される。須恵器杯は平安後期。 櫛状のもので波形をつけた珠洲焼壺は、鎌倉後期の製品と推定される。土面は縦12.2cm、横8.8cmを計る が、素焼きの橙色が付いており、江戸時代以前のものとは考えられず、またこれらが一括して出土したという伝承が 正しければ、とても6世紀から江戸時代までのものが1箇所に集まっていたとは考えにくく、その出土状況には疑問 が残ると言わざるを得ない。
「旧記」に「三足比唐フ女王、三足比燈aム時、哀痛シテ甍ズ」「板子墓東西十二間南北十四間皇子墓」とみえる。現在 その位置は不明で、「官弊中社昇格願書」には「神社の東ニ町に在り今は田地となっております。」とあって、経25m ほどの古墳であった事が窺える。
滝村の人々はこの古墳を昔から「おおつか」と呼んできたが、「大塚」なのか「王塚」なのかはわからない。滝・一ノ宮 古墳群の中では最大の円墳である。数年前能登開発の工事で憤丘の大部分か削り取られてしまった。わずかに残された憤 丘東南の裾の部分に葺石の状態を見ることができ、その数カ所から円筒埴輪が発見されている。実測値はないようだが全 長約90mの円墳で、昔の聞き取り調査によれば、内部構造は竪穴式の石室を持っていたようである。 昭和28年にここから出土したとされる須恵器が、近くの一ノ宮小学校に寄託されているそうだ。また、消滅したマウン ドの底部から頁岩製石鏃が1点採集されている。さらに、ここからの出土とされる黒色滑石製の小型勾玉も、近所の住民 に保管されていた。文献によればこの古墳も気多(けた)大社とのつながりがあったものと思われる。
【謝辞 Acknowledgement】 ここに転載した図、および解説文は、石川県羽咋市発行、羽咋市史「古代編」を参照しました。記して謝意を表します。