仕事で名古屋に行った。名古屋駅から地下鉄「名城線」に乗って神宮西駅で下車し、駅の説明板で仕事先を探していると、仕事 場のすぐ側、徒歩2,3分のところに古墳があった。「断夫山古墳」で、熱田神宮公園にある。名古屋市のど真ん中に古墳がと 驚いたが、早速仕事をすませた帰りに寄ってみた。巨大な古墳は、航空写真でも見ない限り全容の把握は難しいが、濠の周囲を 歩いてみてその規模に驚いた。実に大きな前方後円墳だ。
神宮西駅から5,6分北上すると、熱田神宮公園の中に日本武尊(ヤマトタケル)の妻・宮簣媛(ミヤズヒメ)の墓と伝えられ る断夫山古墳がある。涸堀に囲まれ、鬱蒼と木が茂っている大きな古墳である。全長151m、高さ16mの、東海地方最大の 前方後円墳である。「断夫山」の名は、日本武尊の死後宮簣媛が再婚しなかったことから付けられたものという。
日本武尊は、『古事記』によれば、宮簣媛に草薙剣(クサナギノツルギ)を預けて伊吹山の国津神たちを退治しようとして命を 落とした。残された草薙剣を祀って創建されたのが熱田神宮であり、断夫山古墳の近くには日本武尊の墓と伝えられる白鳥古墳 もある。しかし古事記では、日本武尊は三重県亀山市の能煩野(のぼの)で崩御し、そこに御陵を造ったところ、日本武尊の魂 は白鳥になって飛び立ち、琴原(ことはら)・志幾(しき)に留まったため、琴原・志幾にも改めて御陵を造ったとある。 この記述に基づき、「能煩野」とされる三重県亀山市と奈良県御所市の「琴原」、「志幾」とされる大阪府羽曳野市にある古墳 を日本武尊の御陵として「白鳥塚」とよんでいる。 しかし熱田にある白鳥古墳、断夫山古墳とも、造られたのは5世紀から6世紀ごろと推定されており、日本武尊の時代より後世 にあたることから、実際にはこの地方の豪族・尾張氏の墓であろうと考えられる。濃尾平野の低湿地は稲作に適し、また、伊勢 湾が深く湾入して(当時)水運の要衝でもあったため、有力豪族による支配が行われたのであろう。この巨大な断夫山古墳の造 営を命じた人物は、おそらく大和王朝と密接に結びついた、尾張地方の強大な支配者であったことが考えられる。日本書紀によ れば、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘であった目子媛(めのこひめ)が継体天皇の妃になったとあり、古事記にも似 た記事があることから、熱田台地に本拠地をおいていた尾張氏は、「連(むらじ)を与えられ、大和王朝と姻戚関係にあったこ とが推定される。断夫山古墳はこの尾張氏の墳墓と考えられるのだ。白鳥伝説と、継体妃となった尾張氏の娘のこととが錯綜し ているが、断夫山古墳と尾張氏とは深く関わっていることを暗示している。
あるいはまた、次のような推論も立てうる。つまり、日本武尊と宮簣媛のLove Storyはほんとの話であったという推論である。 断夫山という名前そのものは後世の人々がつけたものだろうが、伝承ではここが本当に宮簣媛の墓で、一生を独身で過ごした姫 が葬られた墓だったから、当時の人々はその名前を記憶していたのかもしれないのだ。時代が違うとは言っても、戦乱に明け暮 れる古墳時代の年代順など、実際のところはわかりはしない。すぐ側の熱田神宮には草薙の剣を祀っているし、記紀の話を核と すれば、この地が実際にLove Storyの現場であった可能性も全く無いわけではない。日本武尊が、大和朝廷の版土拡大を担って 東国へ赴いた帰路に、能煩野で命を落としてここ白鳥塚に埋葬されたとすると、記紀の話はつじつまが合う。その後、亡骸をや はり畿内へ葬るため、運ばれて琴原・志幾へ再葬されたと考えることも出来る。最近、記紀の記述を証明するような考古学上の 発見が相次いでいることを考えると、あながち穿った見方でもないように思うのだがどうだろう。
<断夫山古墳> 史跡(だんぷさんこふん) 所在地: 名古屋市熱田区旗屋一丁目1014 所有者: 愛知県 指定年月日: 昭和62年7月9日 規模と構造: 全長 151メートル 前方部の幅 116メートル 後円部の直径 80メートル 前方部の高さ 16.2メートル 後円部の高さ 13メートル 「断夫山古墳」は名古屋市を南北に、舌状にのびる熱田台地の南端近くの西側(標高約6m)に位置し、東海地方最大の前方後 円墳で6世紀初頭に築造されたと考えられている。後円部は台状で三段に築かれていたと見られ、二段目の傾斜面に円筒埴輪を 巡らせた造りになっていた。また、前方部と後円部の間に「造り出し」と呼ばれる方形の壇が造られており、須恵器なども発見 された事から、ここで祭事が行なわれていたと考えられる。前方部が発達した前方後円墳としては新しい時期に属するものであ り、現在は石垣で組まれ,区画された周濠をもつが,以前はより幅広い濠(ほり)が巡らされていたそうである。周囲には石垣 で組まれた周濠が巡らされているが、現在のものは第二次大戦後に造られたもので、かつてどのような構造・規模であったのか は不明戸のこと。現在は全域を樹木に覆われ、周囲からその全景を見渡す事は出来ない。
熱田神宮公園の敷地も含めて、かつてはこの辺り一帯が熱田神宮の管理下にあったが、第二次大戦後に名古屋市の戦災復興事業 に伴い借換地となり、1980年(昭和55年)に愛知県の所有となって現在に至る。1987年(昭和62年)7月9日に国の史跡に指定さ れた。
前方後円墳は、台形(前方部)と半球形(後円部)の2つの丘からなる墳丘を指し、その平面はかぎ穴に似ている事から、英語 では「Keyhole toom」と呼ばれる。墳丘は、台状の二段或いは三段にわけて積みあげられており、三段築成の場合、二段の緩斜 面に円筒埴輪が並べられる事が多い。なお、この古墳の墳丘の表面には、葺石が敷きつめられていたと思われる。墳丘をめぐる 濠を周濠とよぶが、現在のものは第二次世界大戦後につくられたもので、本来の周濠の幅や深さは不明である。 墳丘の後円部と前方部の接合部分の西側に、「造り出し」とよばれる方形の壇が周像に張り出している。この張り出した部分に は、円筒埴輪が周囲に沿ってたてられ、須恵器(すえき)も発見された。このことから、この造り出しは、墓前祭をおこなうた めの祭壇と考えられる。もともと墓前祭は前方部でおこなわれていたのだが、この古墳のように前方部が高く大きくなる段階で、 墓前祭のための場が、別に設けられ、それを「造りだし」といい、それを持つ古墳は全国に幾つか存在する。
粘土を巻きあげて成形し高温で焼いた筒状の埴輪を円筒埴輪といい、円筒埴輪には、胴の部分にタガを模倣した突帯(とったい) や円形の穴(窓)がみられる。断夫山古墳で発見された円筒埴輸は、硬く灰黒色のもので、名古屋市東部の東山丘陵の古窯(こ よう)で焼かれたものである。円筒埴輪は、墳丘に幾重にも並べられるが、これは神聖な場所を囲むためのもので、今日、神社 にみられる“玉垣”と同じ役割をもっていたと思われる。断夫山古墳でもl000個を超える円筒埴輪が並べられていたと考えられ る。
ここから見ると、この古墳が前方後円墳であるのが良くわかる。左側に国道19号線が走っており、それを南へ(この写真では 先へ)200mほど行くと左手が熱田神宮である。 <熱田台地の古墳群> 名古屋台地は、精進川(現在の新堀川)によって、瑞穂台地と熱田台地にわけられている。名古屋台地における古墳の造営は、 5世紀中頃に東部の瑞穂台地から始まる。直径82mの巨大な円墳である八幡山古墳(国史跡)、五中山古墳を中心にした高田 古墳群、さらに南の瑞穂古墳群へと続く。6世紀にはいると西側の熱田台地に古墳造営ラッシュが訪れる。名古屋スポーツセン ターの位置にあった大須二子山古墳をはじめとする大須古墳群、断夫山古墳、白鳥古墳さらには7世紀にはいって高蔵古墳群な どが造営されるが、しかし、古墳造営の動向も、7世紀後半からは沈静化し、かわって元興寺(中区)や古観音廃寺(昭和区) などの寺院建立が活発になる。【愛知県教育委員会HPより】
記紀には、日本武尊命は東征の折、この尾張の地で豪族の娘宮簣媛と結婚の約束を交わしたと書かれている。その後、東征の帰 途日本武尊命は死し、白鳥となって飛び去ったとある。そしてこの白鳥となった日本武尊命の墓が、熱田区の白鳥山法持寺の東 隣にある「白鳥古墳」であり、日本武尊命への思いを抱いて亡くなった宮簣媛の墓が、断夫山古墳であると伝えられている。
<白 鳥 伝 説> 日本武尊は、父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国 を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってくるが、休む暇もなく父から東国の蝦夷を征討せよと命じられる。その命令を受けた日 本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命に自分の不遇を訴えている。幾多の苦難のすえ、東国を征討するが、その帰る道中、伊吹 山の神との戦いに破れ、傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとする。能褒野(のぼの)(亀山市)に辿り着いた時、つい に力尽きその地で死んでしまう。死に臨んで日本武尊は、大和への思いを、「大和は国のまほろばたたなづく青垣 山こもれる 大和し美し」と詠んでいるが、能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、御所市の琴弾原を経て、旧市邑 (ふるいちむら)(羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えている。
<白鳥古墳>(しろとりこふん) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』名古屋市熱田区白鳥公園内。 6世紀初頭に築造されたと考えられている前方後円墳で、白鳥山法持寺のすぐ東に位置する。全長 74メートル、最大幅25 メートルとされるが、方墳の前部と円墳の東部が削りとられており、元々の形を留めていない。「尾張名所図絵」には、1837年 (天保8年)の台風の際に陵上の樹が倒れて内部の石室が露出し、直刀や鉄鉾などが発見された事が記されている。死後、白鳥 となった日本武尊が舞い降りた地と伝えられる事から、日本武尊の陵墓とされてきたが、断夫山古墳同様に、現在では尾張氏の 墓と考えられている。造営された当時は海岸線が今よりずっと内側にあったため、海を見下ろす場所に造られたものだったと考 えられる。
白鳥公園の中にあり、熱田区白鳥1丁目にある「白鳥山法持寺」の東隣の小山である。高座結御子神社の南西約1kmの丘陵に 築かれた前方後円墳で、四囲に濠を設けた跡がある。天保8年の大風で陵上の大樹が吹き倒れ土石を跳ね返し、墳中より縦4m、 横1.5m、深さ2mの石廊の蓋石5枚が現れ、中には太刀、鉾、六鈴鏡等の副葬品の数々が発見されたという記録が残されて いる。6世紀初頭の築造とされる、全長74メートルの前方後円墳。