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徐福の墓か? 童男山古墳 福岡県八女市山内 2006.5.9


 


	八女丘陵
	
	筑紫の君の幾世代にもわたる墓域と考えられる八女丘陵(やめきゅうりょう)は東西10kmにおよぶ。この丘陵には西側
	から石人(せきじん)山古墳、神奈無田(じんなむた)古墳、岩戸山(いわとやま)古墳、乗場(のりば)古墳、善蔵塚
	(ぜんぞうつか)古墳、鶴見(つるみ)山古墳、釘崎(くぎざき)古墳群、丸山(まるやま)古墳など11基の著名な前方後
	円墳がある。この東方には「金製垂飾付耳飾り」や多数の埴輪を出土した立山山(たちやまやま)8・13号墳、巨石古墳
	として有名な童男山(どうなんざん)古墳などがあり一大古墳群を形成している。総数は150〜300基と考えられてい
	る。





 

 









	
	<童男山古墳>
	JR鹿児島線羽犬塚駅よりバス30分。堀川バス上山内から徒歩5分。八女古墳群の終末を飾るわが国の代表的巨石古墳。
	昭和31年7月28日県指定史跡。童男山古墳には、秦の始皇帝の時代に、中国から不老不死の薬を探すために日本にきた
	徐福一行の墓であるという伝説が残っている。徐福一行は渡航の時に嵐にあって遭難し、命からがらこの地にたどり着くが、
	土地の人々の看病もむなしく亡くなってしまったという。この徐福一行が童男、童女を伴っていたということで、童男山古
	墳の由来ともなった。現在も徐福の命日には「童男山ふすべ」という行事が行われている。





 

 







 























	
	<童男山古墳:国指定史跡>

	一帯は童男山古墳郡を形成しており、現在までに27基が確認されている。それらの中心にあるのが1号墳で、直径約48
	m、高さ約67mの円墳である。主体部は南西に開口する全長約18mの複式構造の複室の横穴式石室で、玄室に凝灰岩の
	巨大な石屋形がある。中にはくり抜きの石棺が納められている。石棚・棺床・石棺も多いのが特徴。八女丘陵でもっとも東
	に位置し、6世紀後半のものといわれている。
	この古墳はわが国でも有数の巨石古墳であり、石室に用いられている石はほんとうに大きい。後室の右壁は巨大な花崗岩一
	枚でできている。奥壁に接して長さ2.5m、幅1.3m、深さ0.5mの石屋形があり、凝灰岩をくり抜いてつくられた
	棺身が収められていて、内部には朱塗りの跡が残っていたという。後室入口袖石に楯石(まぐさいし)が架してあり、その
	上の通路天井石との間に高さ0.3mの窓がある。





	
	以下は遺跡巡りの中の「岩戸山古墳」を訪ねたときに書いた文章である。

	
	八女古墳群の中の童男山(どうなんざん)古墳には奇妙な伝説がある。岩戸山古墳と同時期の6世紀後半に築造された円墳
	であるが、ここが徐福伝説に言う「徐福」の墓だというのである。秦の始皇帝が不老不死の仙薬を求め、仙術にたけた徐福
	が一族郎党を率いて九州に上陸したが、ここ八女で病に倒れたという。人々の看護にもかかわらず徐福はここで亡くなり、
	木の船は朽ちて石船になった。そこで童男山に塚を造って葬ったと言う。今でも徐福の命日には「ふすべ」という行事が行
	われている、とものの本にある。

	徐福の命日など誰が知っているのかと思うが、しかしここにこういう伝承が残って居るというのは、太古からのあることを
	伝えているのではないかという気がする。それは、磐井も含む「筑紫の君」一族が渡来人の末裔ではないかという考えであ
	る。詳細は「岩戸山歴史資料館」で検証しているが、八女古墳群からの出土物は大陸半島色が非常に強いと思う。和歌山市
	立博物館に展示してある同市大谷古墳から出土したイアリングといい馬具類といい、明らかに渡来系の遺物でそれはここ八
	女古墳群からの出土物と酷似している。しかも和歌山も根強く徐福伝説の残る土地である。
	また、最近の研究者たちの中には、「磐井の乱」は「乱」ではない、という見方をする者もいる。大和朝廷の九州・支配経
	営政策に反発した「磐井」の「大義の抵抗」であるというものだ。
	私見では、「倭国大乱」や、それに続く「大和朝廷」成立前後の闘いや、大和朝廷による熊襲・蝦夷征伐などは、渡来人ど
	うしの派閥争いもしくは渡来人たちの部族間闘争であるというのが私の説である。渡来してきた朝鮮人・騎馬民族・中国人
	たちの集団は、それぞれ日本中を騎馬により或いは徒歩により、駆けめぐって各地に拠点を築いた。それははるか縄文時代
	にも行われ、弥生に入っては環濠を築いてムラを守り、馬が移入されてからはそれらを持ってきた部族たちと闘い融合し、
	次第に日本列島に地盤を築いていったのだろう。
	そして朝鮮系は中国系とあるいは騎馬民族系と、あるいはもともと日本にいて渡来人の力を借りて力を付けていた「国津神」
	たちと、闘い、融和し、和合しながら、日本全体が統一へ統一へと突き進んでいたのではないだろうか。

	「磐井」も、渡来系の末裔で九州北部に勢力を持っていた豪族で、これを支配したい大和の勢力が攻め込んできたというの
	が、私の「磐井の乱」に対する捉え方である。官営の歴史書である「日本書紀」には叛乱と明示されているが、「筑紫国風
	土記」では、大和朝廷側が突然攻め込んできたという表現になっている。
	(尚、本文には「筑後国風土記」と記されているが、そういう名の風土記の存在は今の所確認されていない。)





	
	徐福についてはあちこちで書いたのであらためて記述する気も起きないほどだが、しかしここの古墳が徐福の墓でないこと
	ははっきりしている。時代が合わないのである。徐福は「秦」の国から来た人で、その生存時代は日本で言えば弥生前期で
	ある。この古墳は6世紀後半と推測されているので、徐福の死後7,800年後に墓が造られるわけはないからだ。
	しかし、この古墳の被葬者が渡来人或いはその末裔なのは確かだろう。人々は遠い異国の地からやってきた人たちのことを
	伝承し、後世それを徐福伝説と結びつけた可能性は大きい。あるいは、想像をたくましくすれば、徐福の子孫たちがほんと
	にここに住んでいたのかもしれない。

 







	
	徐福は、青森に漂着したとか富士山麓で没したとか、また和歌山県新宮、丹後半島、お隣の佐賀県にも墓がある。更に朝鮮
	における徐福伝説にも相当根強い信奉者たちがいる。韓国済洲島の「徐福通過遺跡」(西市過此(中国語で西市と徐市は同
	音))は、慶州南道の南海島(釜山)にも同じ伝承・遺跡が残る。司馬遷は史記に、「徐福は童男童女と百工らを率いて船
	出し…平原広沢を得て、王となり止まった」と書いている。
	私はおそらく、これは真実なのだろうと思う。不老不死の薬を求めてかどうかはわからないが、少なくとも徐福に象徴され
	る有力者が、「秦」の圧政を逃れて大船団で大陸を旅立った事実はあったに違いないと思っている。そしてそれらの、一説
	には三千人ともいう人々が数十隻の船に分乗し、東を目指したのだろうと思う。ある者は済洲島や南海島に流れ着き、また
	ある者は丹後半島や北九州・西九州にたどり着いたに違いない。そしてその地に大陸の進んだ文化・文明を伝播したのであ
	る。彼らが自らを「徐福船団だ。」と名乗った可能性も大いにある。









	
	徐福の渡来した西暦前3世紀頃の我が国は弥生時代前期である。この頃から、渡来は本格的に数次にわたったと思われる。
	その上陸地は、朝鮮半島、列島各地に分散したであろうが、彼らがもたらした稲作、金属器や多くの先進技術は、当時の人
	々の生活を大きく変化させた。この童男山古墳周辺にもおそらく、渡来人が来たのだ。渡来した人々は、各地において先住
	の倭人と同化し、時には争いもあったかもしれないが、この地において生きて行くことを決意して、先人たちと融和して日
	本人になっていった。
	この地に来た渡来人達が果たして徐福一行だったかどうかはわからない。しかし他の多くの徐福伝承とおなじく、後世、そ
	れが徐福だということになった。あるいは、徐福とは全く関係ない渡来人達の集団だった可能性も大きいのだ。











	
	衆議院議員で、元首相の羽田孜氏は、長野県にある本家・羽田家の軒下には昔から「秦陽館」の三文字を大書した額が掲げ
	られており、羽田家は秦(しん→はた)の徐福に血の源流があることを示しているとし、自身も徐福の末裔であろうと述べ
	ている。こういう人は、韓国、日本に山ほどいるのである。






	
	【表】 日中宥和徐福勲 にっちゅうゆうわ じょふくのいさおし (博多人形師・置鮎正)

	平成18年7月1日(土)から7月14日(金)までの博多祇園山笠期間中、ソラリアプラザ1階「ゼファ」に飾られている、博多祇
	園山笠「十三番ソラリア飾り山 日中宥和徐福」(西日本鉄道(株)・天神エフエム(株)提供奉納。)
	山笠には表と裏(見送り)があり、それぞれ別の意匠に基づく山が飾られる。


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