飛鳥京跡の苑池遺構がまた発掘調査された。今年2月6日に第 5次調査の説明会があって、錦織さんと見学に行ったばかりなのに、も う第6次の説明会である。尤も飛鳥京跡の発掘調査は第170次というから、年に何回かやっている勘定にはなる。ま、ファンとしては ありがたいけどね。今回はどこを掘ったのかなと出かけていったら、なんと飛鳥京跡苑池遺構の、最初の発掘現場(第一次)だった。 私はこの時の説明会(1999.6.20)にも行ったので、なんと13年ぶりに同じ発掘現場を見ることになる。驚いた。 今回の調査は、第一次でわからなかった南池東岸とその周辺の状況を調べるためだそうだが、これで南池の全体構造がほぼ解明され たそうである。(詳細は巻末の調査報告書を参照の事) 奈良県は、この飛鳥京跡の苑池遺構に該当するところを全て買い上げて、一大「飛鳥苑地跡公園」(仮称)を造る計画だそうなので、 まだまだ発掘調査は続くのだろう。「いつ出来上がるかは不明」と前回の調査員も言っていたので、はたして私が生きている内に出 来るかどうかは疑わしい。北池とそれを取り巻く諸施設も含めれば壮大な「苑池」の範囲になるので、用地買収など、2,30年はかか るかもしれない。 私は川や湖や、水辺のある遺跡は大好きである。歴史倶楽部の長老服部さんは、昔「井上さんは魚の産まれ代わりちゃうか?」と言 っていたほどなので、この「苑地」もおそらく「水」が好きで、こう何度も訪ねて行くのだろうと思う。しかし発掘された遺構を見 ていると、この飛鳥の地で古代、この苑地に船を浮かべて悦に入っていた、大和朝廷黎明期の人々の姿が浮かんでき、雅な飛鳥時代 が彷彿としてきて、古代のロマンを満喫出来るのである。 (ある人に言わせれば、「男のロマンは女のがまん」、もしくは「女のふまん」だそうである。)
南池全景。前回は確か、あの展望台のあるところ位まで掘ってたと思う。 調査地は、岡集落の北西の水田中にあり、飛鳥川右岸の低位段丘面に立地している。飛鳥京跡上層遺構の内郭の外側で、北西コーナーから 100m北西に離れている。大正5年(1916)、この地から耕作中に2個の石造物が掘りだされた。石の表面に穿たれた溝と窪みによって水を受 けて流す仕組みになっており、岡所在の酒船石との関連性が指摘されている興味深い石造物である。
まだ説明までには時間があったが、みんな学芸員を捕まえては色々と質問している。 苑池は底に平らな石を敷き詰め、周囲に石積みの護岸を巡らせたもの。1999年の第一回発掘調査では、調査区南辺では、大正5年に石造物 を掘りだした際の抜き取り坑を確認し、元の位置を確定することができた。さらにその周辺で別の石造物を2個検出し、これらの石造物が 一連に組み合わされて南方からの流水施設となることもわかった。池底には厚さ1mの有機質層が堆積しており、最下層の石敷き上には 10世紀代の土器、最上層には13世紀代の瓦器が包含されていた。このことから苑池は平安時代までは滞水しており、鎌倉時代中期に かけて湿地状態で埋没していったことがわかった。(第一回調査報告書より)
護岸石垣は、南端では緩やかに東に曲がり込んでいる。直線部分は北に対し西へ21°の振れがあり、石垣は現状で高さ80p、1〜4段が遺 存しており、斜めに積まれていた。池底にはベース土の青灰色砂礫土上に10〜30p大の石を平らな面を生かして敷き詰められている。 本来は全面に敷かれていたものだが、抜けている部分もある。石敷き面の高さは極めて水平であるが、護岸石垣際は4mの幅で上面に更 に1層の石敷きが施されていた。また護岸石垣に接して柱が1本と、柱を抜き取ったとみられる坑が5箇所確認された。 (第一回調査報告書より)
島状石積み 石敷き上に6×11mの範囲で、敷石よりもやや大きめの石を高さ60pで積み上げたものである。平面形は不整楕円形で、2箇所に小さな張り 出しがあるが、明確に輪郭をなす石は置いていない。上面は2×5mの範囲で平らだが、面を揃えて敷き詰めていない。 (第一回調査報告書より)
張り出し 発掘区を北側に拡張した部分で、南側に舌状に張り出す護岸石垣を検出した。この部分は西辺の護岸石垣とは異なり、石敷き上に小礫を置 き、その上に垂直に積まれている。3段積みで高さは110p遺存している。この石垣の性格としては、西辺の護岸に連結する北辺の護岸から 張り出す出島状の施設か、あるいは独立した中島の石垣で張り出し部分に相当するものと考えられる。(第一回調査報告書より)
今現存している「酒船石」もこの苑地遺構の構成要素かもしれないが、それならなぜあんな丘の上まで持って行ったのかという疑問が 湧く。あれはやっぱり「亀石構造物」へ水を供給する施設だったと考える方が正解だろうと思う。
石造物 大正5年の抜き取り坑の先端から1.5m間隔を空いた地点で石造物1を、抜き取り坑の東に接して調査区の南壁際で石造物2を検出した。 石造物1は原位置で樹立した状態で出土した。花崗岩の石塊を成形し、上部には横方向に孔を貫通させている。現高140p、裾部厚72p、 孔径9p。石造物2は、平らな石塊の内側を槽状に刳り抜いたもので、水を溜めて流す装置と考えられる。長さ約270p、幅約200p、厚さ60 p。下から吸い上げて上から水が流れ出るように造ってある。たいしたもんだわ。
10年以上に及ぶ一連の発掘調査で、従来明らかでなかった飛鳥京跡近辺での大規模な苑池遺構の構造がほぼ判明した。かって飛鳥地方 で検出された苑池遺構としては、島庄遺跡、石神遺跡、飛鳥池遺跡、小墾田宮推定地などで検出されているが、島庄遺跡を除くといずれも 一辺10mに満たない小規模なものであった。一次から六次にわたる調査で、苑池は、規模で島庄遺跡の方形池をはるかに超え、飛鳥川 右岸一帯に大規模な饗宴施設が展開していたのである。 『日本書紀』天武 14年 11月条にみえる「白錦後苑」との関わりが指摘されているが、正確な規模、形態、築造年代、系譜関係については今後 の検討が必要であろう。また、苑地にかかわる飛鳥時代の石造物が出土したことも大発見と言ってよい。大正5年に出土した際には調査 はなされておらず、具体的な出土状況は不明だったが、六次に及ぶ一連の調査により、大体の構成がほぼ復元できた。 石造物は南北方向に一直線に並び、段丘崖を利用して南方の高所から流水し、さらに池中への落水を意図したことが明らかになった。 これらの大規模饗宴施設の建造目的はいったい何であろうか。指摘されているように、海外からの使節や特使をもてなしたり、国内豪族 達に大和朝廷の権力を誇示する目的も勿論あっただろう。同時に、これだけの施設を作れるほど、大和朝廷の初期政権には権力が集中し 始めていたとも言える。ともあれ、現在は田んぼの中であるこの飛鳥の里に、1300年前壮大な都とその付随施設が存在し、国家とし ての規模と体裁を徐々に整えつつあったのである。
飛鳥京跡 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 飛鳥京跡(あすかきょうあと)は奈良県高市郡明日香村にある飛鳥時代の遺跡である。飛鳥古京跡(あすかこきょうあと)とも称する。 飛鳥京、すなわち都市としての飛鳥における遺跡群の総称であり、大王および天皇の歴代の宮や官衙、豪族の邸宅や寺院など大和朝廷 の支配拠点となる建造物、および広場、道路など都市関連遺跡の総体である。 <概要> 飛鳥京跡は、6世紀末から7世紀後半まで飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする都市遺跡であり、宮殿のほか朝廷の支配拠点となる諸施 設や飛鳥が政治都市であったことにかかわる祭祀施設、生産施設、流通施設などから構成されている。具体的には、伝飛鳥板蓋宮跡 (でんあすかいたぶきみやあと)を中心に、川原寺跡、飛鳥寺跡、飛鳥池工房遺跡、飛鳥京跡苑池、酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡などの 諸遺跡であり、未発見の数多くの遺跡や遺構をふくんでいる。遺跡全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行 なわれている。 <飛鳥宮の発掘調査> 飛鳥宮は、6世紀末から7世紀後半までの宮殿遺構だとされ、『日本書紀』などに記述される飛鳥におかれた天皇(大王)の宮の跡地で あると考えられている。もともとこの区域には宮らしき遺構があると伝承されており、板蓋宮の跡だとされてきた。発掘調査開始当初 に検出された遺構についても国の史跡として「伝飛鳥板蓋宮跡」の名称で指定されている。 飛鳥板蓋宮は皇極・斉明天皇の2代の天皇、飛鳥浄御原宮は天武・持統天皇の2代の天皇がそれぞれ使用した。こうした状況は当時の宮 は天皇1代限りの行宮という考え方ではなく、何代もの天皇の宮として使用されるものとの考え方に変わってきていることが分かる。 つまり、飛鳥宮は歴代遷宮すなわち1代ごとに移動する宮都から固定した宮都(藤原京)へと変化する転換点であった。 発掘調査は1959年(昭和34年)からが始まった。発掘調査が進んでいる区域では、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかっ ており、大まかにはI期、II期、III期の3期に分類される。各期の時代順序と『日本書紀』などの文献史料の記述を照らし合わせてそ れぞれ、 I期が飛鳥岡本宮(630 - 636年) II期が飛鳥板蓋宮(643 - 645、655年) III期が後飛鳥岡本宮(656 - 660年)、飛鳥浄御原宮(672 - 694年) の遺構であると考えられており III期の後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮については出土した遺物の年代考察からかなり有力視されている。 発掘調査で構造がもっともよく判明しているのは、飛鳥浄御原宮である。 飛鳥京跡最上層の遺構は内郭と外郭からなっている。内郭は東西152-158メートル、南北 197メートルで南北の2区画に分かれており北 区画の方が広く一辺約151メートルの正方形である。井戸、高床建物、廊状建物の建物が多く川原石が敷かれている。南区画の方は20× 11.2メートルの大規模な建物跡が確認されている。この建物の中心線と内郭の中心線とが一致している。周りに小砂利が敷かれている。 少し離れた所に南門が建設されている。 外郭でも掘立柱建物・塀・石組溝等が検出されている これらの内郭・外郭ともに太い掘立柱 を立てた塀で囲まれている。これが、後期岡本宮の跡だと考えられている。なお、この他に宮の南東に「エビノコ郭」と呼ばれる一画 がある。「エビノコ郭」は飛鳥浄御原宮にともなう遺構であることが有力視されている。 「エビノコ郭」は、小字「エビノコ」にあるに由来している。この一郭には、29.2×15.3メートルで四面庇付きの大型の掘立柱建物が 検出されている。これが通称「エビノコ大殿」であり、後世の大極殿の原型と考えられる。しかし、反対意見も多い。 大殿の周辺は南北100メートル以上、東西約100メートルの掘立柱の塀で囲まれている。外郭の外側からは「辛巳年」(かのとみ)「大 津皇子」「大来」等と書かれた墨書木簡が出土している。「辛巳年」は 681年、「大来」は大津皇子の姉の大来(伯)皇女の名と推定 できること等から、この最上層の遺構は天武天皇の飛鳥浄御原宮にともなうものであると考えられる。 すなわち、天皇の居住空間に相当する区画は東西158メートル、南北197メートルの後期岡本宮をそのまま使用したものであり、その南 東の東西94メートル、南北55メートルの区域は儀礼空間として用いられ、そこに「エビノコ郭」が新たに設けられた。さらにこれら宮 殿周囲を役所や庭園などの関連施設が取り囲み、役所の一部は周辺地域へも広がるという構造が周辺の状況や文献から推定されている。 <飛鳥京跡苑池> 飛鳥京跡苑池は、「伝飛鳥板蓋宮跡」の北西に隣接した庭園遺構であり、1999年(平成10年)の発掘調査で確認された。藤原京以前に 宮都に付随した苑池が営まれていたことがうかがわれる重要な遺構である。2003年(平成15年)に国の史跡・名勝に指定された。 1916年(大正5年)に「出水の酒船石」が発見されていた。その出土地点確認の発掘調査で飛鳥川の川辺にある小字「出水」と「ゴミ 田」苑地遺構が出土した。2002年(平成14年)時点で、東西80メートル、南北200メートルの広大な苑地である。斉明朝(7世紀中葉) に造営され、天武朝(7世紀後半)に整備され、10世紀に至るまで機能し、鎌倉時代までには完全に埋没していたと推測されている。 <飛鳥池工房遺跡> 明日香村飛鳥小字古池に所在する飛鳥池は、近世につくられた溜池で、そこに1991年(平成3年)に産業廃棄物を埋める計画が持ち上 がり、1996年(平成8年)予定が変更され、「万葉ミュージアム」を建設することになり、1997年(平成9年)から三カ年にわたる発掘 調査が実施され、その結果、天武朝の大規模な官営工房遺構が検出された。 複合的な工房群が発見された飛鳥池工房遺跡では、1998年(平成10年)に「富本銭」の鋳造が確認された。鋳型やバリ銭、鋳棹などが 出土している。2001年(平成13年)に国の史跡に指定された。 <酒船石遺跡> 謎の石造物であった「酒船石」は、砂岩を用いた湧水施設で水を汲み上げ、船形をした石槽で濾過し、亀形の石槽に水を溜めて聖水と したものであり、水辺祭祀の遺構であることがわかった。さらに、酒船石のある丘陵には全体に砂岩の切石による石垣がめぐることが わかり、丘陵全体が聖域として扱われていたことが判明した。1927年(昭和2年)に国の史跡に指定され、その後も追加指定がある。 <川原寺跡> 史跡川原寺跡では、寺の創建と営繕にかかわる瓦・金属工房を確認した。1921年(大正10年)に国の史跡に指定され、その後も追加指 定がある。 参考文献 [編集]文化庁編『発掘された日本列島2004』朝日新聞社、2004年6月。ISBN 4-02-257919-6
当日配布資料
邪馬台国大研究ホームページ/遺跡めぐり/飛鳥京跡苑池遺構・現地説明会3