<飛鳥京跡苑池> 飛鳥京跡苑池は、「伝飛鳥板蓋宮跡」の北西に隣接した庭園遺構であり、1999年(平成10)の発掘調査で確認された。藤原京以前 に宮都に付随した苑池が営まれていたことがうかがわれる重要な遺構である。2003年に国の史跡・名勝に指定された。 1916年(大正5)に「出水の酒船石」が発見されていた。その出土地点確認の発掘調査で飛鳥川の川辺にある小字「出水」と「ゴミ 田」苑地遺構が出土した。2002年(平成14)時点で、東西80メートル、南北200メートルの広大な苑地である。斉明朝(7世紀中葉) に造営され、天武朝(7世紀後半)に整備され、10世紀に至るまで機能し、鎌倉時代までには完全に埋没していたと推測されている。 歴史倶楽部の皆様 こんな案内が来ました。先日のケンゴシ塚古墳や、真弓カンス塚古墳などもそうですが、現地説明会の時しか見れない状況が沢山 あります。私は行くつもりですが、他にも参加したい方があれば、是非ご一緒しましょう。 苑池遺跡などは、すぐ埋め戻してしまいますから、この日しか見れません。是非行きましょう。mail下さい。掲示板でも結構です。 筑前 -----Original Message----- From: 橿原考古学研究所 [mailto:archinstit@kashikoken.jp] Sent: Wednesday, February 02, 2011 1:13 PM To: 井上 修一 Subject: 現地説明会のご案内 史跡・名勝飛鳥京跡苑池第5次調査 現地説明会のご案内 内 容:飛鳥京跡苑池で復元整備にともなう調査を実施しています。北池の北東コーナーを検出し、池の東側では砂利敷きや石組 溝などを確認しました。 実施日時:平成23年2月6日(日)10時〜15時 ※説明は随時行います。小雨は決行しますが、悪天候の場合は中止します。 受付場所:高市郡明日香村岡ー史跡伝承飛鳥板蓋宮伝承地(明日香郵便局より北へ200m) ※受付にて資料配布・概略説明の後、調査地に移動して説明を行います。 交 通:近鉄橿原神宮駅東口より奈良交通バス「岡寺」「飛鳥駅」行き乗車、「岡戎前」「岡天理教前」下車。 ※公共交通機関・レンタサイクルをご利用ください 問い合わせ:奈良県立橿原考古学研究所 Tel 0744−24−1101 上のmailを倶楽部の皆さんに流していたら、「行こう」と言ってきたのは錦織さんだけだったので、二人で「橿原神宮駅」で待ち 合わせをして、第五次の「飛鳥京跡苑池遺構・現地説明会」にやってきた。私はこれ(飛鳥京跡苑池遺構)の、最初(と思う)の 現地説明会にも行ったので、「あ、もう五次も掘ってたのか。」と感慨深かった。最初に掘ったのは「南池」で、この時は飛鳥京 の大がかりな苑地が出たというので大騒ぎだった。噴水の役目を果たす「石造物」や、木が植わっていた石積みの中之島や、配水 施設と思われる石槽などが出土して、見学者も今日どころの騒ぎではなかった。 そもそも「北池」があるなどとは当時は判明していなかったので、二次から四次の間にそうとう広範囲にわたる苑地だという事が わかったもののようだ。今回の調査で、「北池」の東岸が判明した。飛鳥京のすぐ側に広い苑地施設を作っていたのだ。 時期的にはこの苑地施設は斉明朝に作られたもののようだが、亀石・酒船石といい、両槻(ふたつき)の宮といい、斉明天皇は、 飛鳥に壮麗な「水の都」を作ろうとしていたのかもしれない。
通い慣れた「飛鳥板蓋宮跡」が、説明会の受付になっていた。11時に待ち合わせをして歩いてきたので、見学客はあまり多くなか った。むしろ、飛鳥の説明会にしては少ない方だろう。立っていた説明員に聞くと「朝は多かったですけどねぇ」と言っていた。 昼から出てきて正解、正解。
向こうの方に人だかりが見える。あそこで説明しているようだ。
職員のお姉さんが、「説明会のパンフレットですぅ、説明会はいま始まった所ですぅ。」と資料を配っていた。
テントの中には出土物の一部が展示してあった。
全然少ない見学者だ。飛鳥の現地説明会は、大抵2時間くらい並ぶんだが、「苑地」とかは地味なのかねぇ。
でもこういうのも飛鳥京を取り巻く施設だし、何より飛鳥全体のイメージを掴むには、石室を見るよりこっちの方が遙かに楽しいと思うがなぁ。
説明する橿原考古学研究所卜部さん。まずここで説明を聞いて、それから発掘現場へ向かうようだ。
「飛鳥京の北西に一大苑地があって、南池と北池に分かれています。間には堤防(渡堤)があります。北池からさらに北へ水路が 伸びていて、それは途中で西側へ直角に曲がっているのが確認されています。今回の調査は、北池の東岸、北岸の位置を確認する のも目的の一つでした。」と卜部さんの説明。 2つの池に分かれているのも知らなかったし、こんなに広い範囲に苑地を作っていたというのも驚きだった。10年前の苑地説明会 の時でも、その豪勢な作りに驚かされたが、あの池だけではなくて北にも池があったとは。斉明天皇はこの飛鳥をどうするつもり だったのだろうか。
10年前の説明会を聞きに来た時、勿論「北池」の存在などはわからなかったので、「南池」の水はすぐ側の飛鳥川から引いてきて いるものだとばかり思っていた。ところが説明では、この二つの池の水は飛鳥川の水ではなくて、それぞれ二つの池の中から湧き 出ている「湧き水」だという。それを北池の水路を経て飛鳥川へ排水しているのだそうだ。驚いた。ここの地名が字「出水」にも ビックリ。
板蓋宮を後にして、農道を渡って発掘現場へ行く。4,5分だ。飛鳥川の側、前回(10年前)の発掘現場のすぐ隣だった。
お、あそこだな。人だかりが見える。
おー、いるいる。ここだここだ。早くみたいねぇ。気がせく。
1400年前の石組み、砂利敷きだ! 飛鳥時代の人間があの石を並べたのだと思うと、自分がここに立っているのが不思議な 気がする。斉明天皇、中大兄や大海人皇子もここに立って、工事の進捗を眺めたりしたのだろうか。まさしく、「稜々たるかな 古今」だ。はるけくも、来つるものかな。
しかし飛鳥の説明会にしてはホントに少ないねぇ。ま、話を聞く方は聴衆が少ない方が頭に入っていいけどね。
北池の北岸と東岸。これで北池の全体が判明した。
北池から、水路が北(上写真右方向)へ伸びて、途中で直角に西へ曲がり、飛鳥川へ排水されていたと考えられている。
今でもひんぱんに水が湧き出ている。発掘にはじゃまなのでポンプで吸い出している。
そうやってやっと遺跡の全体像がわかる。発掘なんて気が長くないとやれないねぇ。我々はその成果を楽々と享受。ありがたや。
現地説明会も、毎回このくらいの人手だとずいぶん聞きやすいんだがなぁ。流れ作業のような説明会は何を聞いたか殆ど覚えてないもんね。
北池の全体像。中央の黒い部分が北池の底に当たるようで、あそこらから水が湧き出していたのだ。
南池の発掘現場をみる
この広い一帯が広大な池だった。池の底にはちゃんと砂利が敷いてあって、船も浮かべていたらしい。
説明員とだいぶ話をした。これらの造園作業を行った人々は、「石神遺跡」の宿舎に泊まっていたのではないかと言う。
大正五年(1916)にこの水田から二つの石造物が出土した。一つは平らな形で(長さ2.2m、幅1.7m)、あんぱんをつぶしたよう な形の物と、もう一つは板を縦にたてたような、滑り台のような形の物(長さ3m、幅0.3m)。二つの石を組み合わせて、水など の液体を流したらしいことはわかったが、当時は苑地の付属物とは全然判らず放置されて、今は京都市東山の野村別邸・碧雲荘に ある。この「出水の酒船石」と名付けられた石造物は、まさしく苑地の池に水を流れ落とす仕掛けの一部だったのだ。これは湧き 水ではなさそうなので、飛鳥川から水を引いていたものと思われる。
上が、大正五年出土の石造物とその使われ方の想定図。下はこの石造物のレプリカで、国立文化財研究所飛鳥資料館の庭に置いてある。
ここが南池の発掘跡。すっかり埋め戻されているが、ここはもう奈良県が買い上げているそうだ。北池から水路部分も、可能な限 り買い上げて、将来「苑地公園」にする計画らしいが、果たしていつのことになるのか。質問したら学芸員も「さぁ、平成30何 年とかですかねぇ」と言っていた。つまり、いつになるやら判らないのだ。私が生きている間に、復元された苑地を見る事が出来 るだろうか。
板蓋宮跡にはまだ説明を聞いている人達がいた。散発的に集まって来ているようだ。
昔の例会で「飛鳥鍋」を食べた「めんどや」さんで、今日は「にゅうめん定食」の昼食。三輪そうめんの暖かい奴でうまかった。
帰りに「飛鳥民俗資料館」を覗いて、飛鳥座神社(あすかにいますじんじゃ)でのお祭りを見て橿原神宮駅へ戻った。錦織さん、 お疲れ様でした。また行きましょう。「飛鳥民俗資料館」、飛鳥座神社の祭り、の模様は、「博物館めぐり」の「飛鳥民俗資料館」 に入れます。そちらもどうぞご覧下さい。
当日配布された「現地説明会資料」
錦織さん、これも是非行きましょう! 他の皆さんもいかがですか?
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