若葉の季節になって嵐山を訪ねた。私が敬愛する偉人の一人、角倉了以の像が嵐山公園にあると知ったので、それを
探しに行ったのだが、途中立ち寄った天竜寺の天皇陵で、宮内庁の職員さんからそれら天皇達(後嵯峨天皇・亀山天
皇)の火葬塚も嵐山公園の中にあると聞いたのでそこにも行って見た。すると、そこには何と「村岡局」(むらおか
のつぼね)の像もあった。村岡局は、70歳という高齢にもかかわらず井伊直弼の「安政の大獄」の犠牲になって捕
縛された幕末の女傑である。井伊直弼の京都における情報窓口だった長野主膳によって捕らえられ江戸へ送られた。
嵯峨の生まれだったのだ。
★第88代 後嵯峨(ごさが)天皇 嵯峨南陵(天皇陵巡りより転載)
土御門天皇の皇子。在位1242〜1246、生没1220〜1272。53歳で没。
後嵯峨天皇が誕生した翌年の1221年、承久の乱が起こり、敗れた後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ配流され
たが、乱には関与しなかった土御門院も自ら望んで土佐に流された。土御門院はその後阿波に移り、1231年同地で崩御。
承久の乱で父の御門院が土佐へ配流となった為、後嵯峨天皇は母の叔父中院通方に養育される。暦仁元年(1238)通方が
没すると、父方の祖母承明門院に養育される。四条天皇が皇嗣の無いまま急死すると、跡継ぎを巡っての論議が起きる。
いったんは順徳上皇の皇子・忠成王が帝に推挙されたが、父親の院政を恐れて見送られた。そこで北条泰時は、遠い血
縁の邦仁(くにひと)王に八幡宮の託宣が下ったとして即位させる。やがて後嵯峨天皇は、皇子・後深草天皇に譲位し、
20年間院政をとる。この間、後深草天皇(兄)を退位させ、亀山天皇(弟)を即位させて、さらに亀山天皇の皇子を継
承者とした。後嵯峨天皇が兄弟のうち兄よりも弟をかわいがったため、この兄弟にはしこりが残り、やがてこの二人が
持明院統(後深草)と大覚時統(亀山)の始まりとなって、南北朝の戦いへ発展する。
後嵯峨天皇が後深草天皇を嫌った理由として、病弱で好色だったためとも伝えられる。後嵯峨天皇自身は、仏教信仰厚
く、和歌にすぐれていたと言い、藤原基家らに「続古今和歌集」を撰集させている。『増鏡』によれば、後嵯峨天皇に
ついては以下のように記述されている。
源大納言通方が預かっていた阿波院(土御門院)の皇子は、成長するに従い、性質は大変優れ、容姿も端麗で、上品高
貴な雰囲気を漂わせていたので、世間の人々は優秀な皇子の現在の境遇を不憫で残念だと思っていた。さらに、大納言
通方までもが暦仁(りゃくにん)元年(1238)逝去したので、ますます衷心からお仕えする者もなく、不安で、何かに
期待するということもできず、また世間との交際も断ち切れず、はなはだ世間体も良くなく、さぞや情けなく思ってい
る事であろう。
母は土御門内大臣通親の子、宰相中将通宗(みちむね)といい、夭折した人の娘である。その母までなくなったので、
宰相通宗の姉妹の姫君が御乳母のようにして、さも叔母の瞿曇弥(きょうどんみ)が釈迦尊を養ったような形になって
いた。
2歳で父土御門天皇に生別したので、父の顔さえ覚えていないが、存命であればそのうち会えることもあるだろうと、
幼い心にかけて思い続けていたが、12歳の折、父上皇崩御の報を伝え聞いた後は、いよいよ世の辛さを思って消沈した
が、それでもけなげに振る舞っているのを、祖母の承明門院は心痛の面もちで見ていた。(以下略)
★第90代 亀山(かめやま)天皇 亀山陵(同上)
後嵯峨天皇の第3皇子。名は恒仁(つねひと)、後深草天皇同母弟。在位15年で譲位。院政をとり、のち出家。
建長元年(1249)5月27日、外祖父西園寺実氏の今出川第で誕生、直ちに親王宣下があり、父上皇、母大宮院にこよ
なく愛され、10歳の時皇太弟に立てられる。正元元年(1259)兄後深草天皇が病気の際、譲位されて即位した。
後嵯峨上皇は、亀山帝の皇太子にその皇子・世仁(よひと)親王をたてて、持明院統と大覚寺統の対立にさらに拍車が
かかった。この事を恨み、ますます激昂した後深草帝は出家をほのめかす。この事態に同情した鎌倉幕府が仲裁に入り、
後宇多天皇(世仁)の次には後深草上皇の皇子・煕仁(ひろひと)王が立つ事になる。後の伏見天皇である。
こうした経緯のもと26歳で即位した亀山天皇は、才知豊で人望厚い帝だった。この帝が退位して上皇となってから、蒙
古襲来が起きている。院は一族を集め、国と臣民のために「敵国調伏」を一心に祈祷し、祈願は成就する。
亀山天皇は父上皇崩御の時二十四歳であったが二十六歳の正月(文永十一年=1274)に位を皇太子(八歳)に譲り、
院政を行なった。この年はかねて来襲の噂があった蒙古軍の北九州侵人があった。七年後の弘安四年(1281)には
蒙古の大軍が再びわが国に迫った。亀山上皇は伊勢神官へ敵国降伏を祈願するための勅使を派遣、宸筆の願文には身命
にかえて国難撃攘を祈願する文言が書かれてあったといわれる。また石清水八幡宮にも行幸し、西大寺長老叡尊(えい
ぞん)をして真読(しんどく)の大般若経(だいはんにゃきょう)を供養し、敵国降伏を祈願したと伝えている。
有名な嵯峨野の竹藪。この先のどんつきを左へ曲がると「嵐山公園」である。突き当たりは大河内伝次郎の大河内山荘がある。
村岡局銅像
<安政の大獄> 出典:ウィキペディアに加筆
安政の大獄は、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて、江戸幕府が行なった弾圧である。当初は戊午
(ぼご)の大獄とも呼ばれていた。
幕府大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に
決定した。安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。弾圧されたのは尊皇攘夷や一
橋派の大名・公卿・志士らで、連座した者は100人以上にのぼった。
形式上は第13代将軍・徳川家定が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際に
は大老・井伊直弼が全ての命令を発した。
わずかに家定の台命として行なわれたのは、家定死去の直前である7月5日、徳川慶勝や松平慶永、徳川斉昭・慶篤
と一橋慶喜に対する隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)だけであり、大獄の始まる初期のわずかな期間だ
けである。井伊直弼は江戸にいて、志士が暗躍する京都の情報を逐一江戸へ送っていたのは、彦根時代からの腹心
長野主膳と、直弼の女だった村山たかである。
安政の大獄は幕府の規範意識の低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させ、幕府滅亡の遠因にな
ったとも言われる。
<受刑者>
[死刑・獄死]
吉田松陰………長州毛利大膳家臣、斬罪 ・・・・言わずと知れた長州勤王の志士のシンボル
橋本左内………越前松平慶永家臣、斬罪 ・・・・大坂適塾で緒方洪庵・杉田成卿に師事。26歳の生涯
頼三樹三郎……京都町儒者、斬罪 ・・・・・・・頼山陽の息子
安島帯刀………水戸藩家老、切腹 ・・・・・・・水戸藩において日本初の軍艦旭日丸の建造に参与
鵜飼吉左衛門…水戸藩家臣、斬罪 ・・・・・・・遠祖は甲賀流忍者といわれ、代々水戸徳川家に仕える。
鵜飼幸吉………水戸藩家臣、獄門 ・・・・・・・吉左衛門の息子
茅根伊予之介…水戸藩士、斬罪
梅田雲浜………小浜藩士、獄死 ・・・・・・・京都東山護国神社に墓がある。安政の大獄での逮捕第一号
飯泉喜内………元土浦藩士・三条家家来、斬罪・・自宅から数多の書類が押収され、その中に多くの志士との
手紙などがあったことから安政の大獄に発展した。
日下部伊三治…薩摩藩士、獄死
藤井尚弼………西園寺家家臣、獄死
信海……………僧侶、月照の弟、獄死
近藤正慎………清水寺成就院坊、獄死 ・・・・・(俳優近藤正臣の曾祖父)
中井数馬………与力、獄死
[隠居・謹慎]
一橋慶喜………一橋徳川家当主
徳川慶篤………水戸藩主(9月30日に免除)
徳川慶勝………尾張藩主
松平春嶽………福井藩主
伊達宗城………宇和島藩主
山内容堂………土佐藩主
堀田正睦………佐倉藩主 ・・・・・・・・・・井伊直弼が大老になる前の老中首座
太田資始………前掛川藩主
川路聖謨………江戸城西丸留守居 ・・・・・・・江戸城明け渡しの日ピストル自殺。
ロシアのプチャーチンと条約締結。後親交を結ぶ。
大久保忠寛……江戸城西丸留守居 ・・・・・・・初期の勝海舟の上司
中山信宝………水戸藩家老(9月27日に免除)
松平忠固………上田藩主
本郷泰固………川成島藩主
土岐頼旨………大目付・海防掛
石河政平………一橋徳川家家老
[隠居・差控]
鵜殿鳩翁………駿府奉行
浅野長祚………小普請奉行
[御役御免・差控]
板倉勝静………備中松山藩主
平岡円四郎……一橋徳川家家臣
黒川雅敬………一橋徳川家家臣
佐々木顕発……勘定奉行
高須鉄次郎……外国奉行支配調役
[永蟄居]
徳川斉昭………前水戸藩主
岩瀬忠震………作事奉行 ・・・・・・・・・・・川路聖詮らとともに日米修好条約を締結した
永井尚志………軍艦奉行
[譴責]
松平頼胤………高松藩主
松平頼誠………守山藩主
松平頼縄………常陸府中藩主
[甲府勤番への左遷]
平山敬忠………書物奉行
木村勝教………評定所組頭
[遠島]
鮎沢伊太夫……水戸藩士
小林良典………鷹司家家臣、獄死
六物空満………大覚寺門跡家士、獄死
日下部裕之進…薩摩藩士・日下部伊三治の子、獄死
勝野森之助……旗本家来・勝野正道の子
茅根熊太郎……茅根伊予之介の子
太宰八郎………松平信古家臣
[重追放]
吉見左膳………宇和島藩家老、伊能友鴎に改名
[中追放]
池内大学………儒者
近藤茂左衛門…信濃国松本町大名主(逮捕者第1号) ・・・梅田雲浜との二説あり(逮捕者第1号)
丹羽正庸………三条家家臣
森寺常邦………三条家家臣
三国大学………鷹司家家臣
伊丹重賢………青蓮院宮家臣、通称蔵人
入江則賢………一条家家臣
藤森恭助………古賀謹一郎家臣
とき……………宝寿院修験者
[所払]
宇喜多一宦c…画家、所払中病死
宇喜多松庵……画家
蒲市正…………二条家家臣
[永押込]
鮎沢力之進……鮎沢伊太夫の子
鮎沢大蔵………鮎沢伊太夫の子
山科正恒………御倉小舎人
春日仲嚢………久我家家臣
森寺常安………三条家家臣
長谷川宗右衛門…高松藩士
長谷川速水……長谷川宗右衛門の子
山国喜八郎……水戸藩士
海保帆平………水戸藩士
加藤木賞三……水戸藩士
[国許永押込]
横山湖山………松平信古家臣
菅野狷介………姫路藩士
大郷巻蔵………鯖江藩士
林某……………鯖江藩士
小南五郎………土佐藩士
大山綱良………薩摩藩士
大久保要………土浦藩士、幽閉中病死
舟橋亘理………関宿藩士
[押込]
津崎矩子………近衛家家臣(9月28日に免除)
飯田忠彦………有栖川宮家臣
豊島泰盛………有栖川宮家臣
高橋俊■…………鷹司家家臣
山田時章………青蓮院宮家臣
富田織部………三条家家臣
大沼又三郎……下田奉行手付出役
飯泉春堂………飯泉喜内の養子
大竹儀兵衛……水戸藩士
岩本常助………幕臣
藤田忠蔵………幕臣
筧承三…………岡部豊常家臣
勝野保三郎……勝野正道の弟
勝野ちか………勝野正道の妻
勝野ゆう………勝野正道の娘
三木源八………水戸藩士
荻信之介………水戸藩士
菊池為三郎……水戸藩士
[急度叱り置き]
山本とよ………山本貞一郎の妻
山本さい………山本貞一郎の娘
山本うめ………山本貞一郎の娘
[手鎖]
伊十郎…………小網町名主
源左衛門………信濃国松本町の町人
源助……………江戸神田町の町人
[その他]
若松永福………三条家家臣、洛中洛外江戸構い(追放)
世古恪太郎……伊勢松坂の百姓、江戸構い(追放)、紀伊殿領分所払い
[捕縛前に死去]
梁川星巌………漢詩人 ・・・・・・・捕縛に来た役人が死を知って「さすが星厳、死(詩)に上手」と言った記録がある
月照……………僧侶 ・・・・・・・西郷隆盛と一緒に薩摩の錦江湾に入水するが、月照だけ死去
山本貞一郎……浪人
勝野正道………陪臣
[朝廷への処分]
尊融入道親王……青蓮院門主、隠居・慎・永蟄居
一条忠香…………内大臣、慎十日
近衛忠煕…………左大臣、辞官・落飾
鷹司輔煕…………右大臣、辞官・落飾・慎
鷹司政通…………前関白、隠居・落飾・慎
三条実万…………前内大臣、隠居・落飾・慎
二条斉敬…………権大納言、慎十日
近衛忠房…………権大納言、慎
広橋光成…………前権大納言、慎
万里小路正房……前権大納言、慎三十日
正親町三条実愛…権中納言、慎十日
久我建通…………右大将、慎
とてつもない数の逮捕者である。大名ばかりか御三家、御三卿まで処分されている。大老が如何に強大な権力を持って
いたかが窺い知れるが、幕府老中達の合議制は完全に崩壊していたこともわかるし、同時に井伊直弼がいかに小心者
だったかも我々は知るのである。
角倉了以翁銅像
どういう訳だか、小生は角倉了以に非常に惹かれる。なし得た偉業の大きさもそうだが、何か人間的に大きなものを持
っていた人物のような気がするのである。儲けるために事業を興すのでは無く、人々の為になる事業をするためには金
が要る、その為に事業を興すという思想は本田宗一郎に似ている。
結果として、角倉家は本家〔嵯峨野}、分家{二条}ともに明治まで大富豪の地位を保つ。
しかしその基礎は、了以だけではなくその意思を継いだ息子素庵の力による部分も大きい。
保津川を挟んでこの公園の向かい側に、了以を本尊とする「千光寺大悲閣」がある。
保津川を掘削したり、高瀬川という運河を開いた了以に相応しく、ツルハシを持っている。率先して工事の先頭に立ったと言う。
角倉了以についての詳細をもっと知りたい方は ココ をクリックしてください。
周恩来総理記念詩碑
周恩来と京都のゆかりって何だろう。ウィキに依れば以下の様な事だった。ただ立ち寄っただけじゃん。
<周恩来> 出典:ウィキペディア
周 恩来(しゅう おんらい、ヂョウ・オンライ、1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中華人民共和国の政治家。
字は翔宇。中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理
(首相)を務めた。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き
上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも
知られている。妻はケ穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。
周恩来は江蘇省淮安の沒落した官僚の家に生まれた。周恩来が13歳となった1911年、辛亥革命起きる。翌1912
年、清朝が崩壊し、中華民国が建国された。1913年、周恩来は天津の南開中学校に入学し、革命の息吹に触れる。
南開中学卒業後の1917年に、日本に留学。日本語の習得不足により第一高等学校と東京高等師範学校の受験に
失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、
明治大学政治経済科(旧政学部、現政治経済学部)に通学。
日本では勉学に励む他、友人と活発に交流して祖国の将来について語り合っている。また日比谷公園や靖国神社、
三越呉服店や浅草など、各所を積極的に見てまわっている。1918年5月1日には靖国神社の大祭を見物し、「それ
を見てはなはだ大きな感慨を催す」。また6月2日にも游就館を訪れたことも日記に記している。日本社会や日本
人についてもよく観察しており、これが知日派としてのベースをつくった。同年、留学生の一斉帰国運動も起き
るが、周恩来は冷静な対応をしている。一旦中国に帰るが、再来日。帰国前の数ヶ月については記録もなく、
よくわかっていない。苦渋の中で、酒に溺れがちだったという説もある。やがて、母校の南開学校が大学部を
創設するということを知って、帰国を決意した。
船に乗るために神戸に向かう途中、京都の嵐山に寄って歌った詩「雨中嵐山」は、嵐山の周恩来記念碑に刻まれ
ている。1919年4月に帰国し、南開大学文学部に入学。その直後に中国近代史の起点となる五・四運動が起きる。
周恩来は学生運動のリーダーとなって頭角を現していく。なお日本滞在中の様子については、『周恩来 十九歳
の東京日記』が最も正確で詳細な記録である。東京日日新聞の神近市子記者のインタビューを受けたという、
従来の伝聞や伝記にあった誤りも指摘されている。
後嵯峨天皇・龜山天皇・後伏見天皇 火葬塚
三天皇はここで火葬にされたのだ。
保津川へ降りてくると、ここに火葬塚の案内石碑などがあった。こっちから来た方が早かったかも知れない。
渡月橋から見た保津川上流。連休直後は人通りが少ない。嵐山はこういう時が穴場である。
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