上の新聞記事を見て、「あ、こりゃ杉本さんとこだ」と思ったので電話してみた。「ああ、家からすぐやで。案内したるわ。」
との事だったので、早速出かけて行った。縄文時代の石器工房跡は、関西ではそう多くはない。しかも草創期という今から1万
年以上前である。聞けばこの三郷町には旧石器時代の遺跡も幾つかあるという。旧石器時代からこのあたりにも人が住んでいた
のだ。大和川も昔は相当大きく、また流れも今とは違っていたようだが、この周辺には大和川を中心にして、昔から人々が連綿
と生活を営んできたのであろう。
私は石器が好きで、勿論石器を作っていた旧石器人たちや縄文人にも興味がある。なので「石器出土!」と聞けばたいてい見に
行くのだが、ここでは、現地説明会はないようだった。
私が、例会も含めていままで見に行った石器の遺跡は、関西では以下の4つくらいかな。
「サヌカイト炭坑」。奈良県香芝市、サカイ・平地山遺跡。縄文時代草創期の原産地。
「馬見二ノ谷遺跡」。奈良県北葛城郡河合町。旧石器時代の石器が出土。
「国府遺跡」。大阪府藤井寺市。旧石器時代のナイフ形石器や、縄文弥生時代の人骨が90体以上出土した。
「翠鳥園遺跡」。 大阪府羽曳野市 。旧石器時代の石器工房跡。
JR大和路線「王子駅」で杉本さんが待っていた。駅近くで昼食にする。
「西友」の入っているビルの地下で中華料理を食べる。中華ランチが980円で盛りだくさんだった。
ビルの一角に小さなFM放送スタジオ814があって、お姉さんがDisk Jyokieをしていた。「写してもええか?」という素振り
をすると、ガラスの向こうでニコリ。
♪やまとがわぁ〜、♪♪ 流れる、きしべぇ〜♪、あ、広瀬川か、ありゃ。
信貴山の雄岳と女岳。何か二上山ににていtる。
上の道をずーっと西へ下って行った所が、我々も例会で行った大阪府柏原市の「高井田横穴古墳群」である。駅2つか3つ先だ。
杉本さんの立っている後ろのグラウンドが、今回(といっても1年前だが)石器発見の「勢野東(せやひがし)遺跡」である。
グラウンドなのに、名前は「三郷町中央公園」となっている。
遺跡全景。昔は田圃だったところを、洪水時の水の溜め池になるようにと町が買い上げたらしい。
大和川の向こう側には、王子の何とか言う神社の森が見えている。
上左の方に見えているのが「三郷町役場」。文化センターはその手前にある。
「将軍の孫」とかいう銅像があったけど、これは何かな? 杉本さんも知らないようだった。
後で調べたら、北村西望作【天真爛漫 将軍の孫】という銅像だった。ネットでは、33.8cmのブロンズ像の置き物が、価格:
241,500円(税込)となっていた。他の店(net)では250万という像もあった。ひぇーっ。ここのは幾ら出したんだろう。
展示室の前ではお姉さんが一人ポツンと座っていて、下の説明資料を配っていた。
サヌカイトの原石。割ってみると中は黒い。私も「サカイ・平地山遺跡」から貰って来たものを持っているが、割ると割れた切り口
は恐ろしいくらい鋭くて、分厚い紙でも布でもカッターと同じように切れる。肉など簡単に切れただろう。
沖縄県与那国島の、海面下26mのところにある人工の巨大な石の建造物(階段やテラスがある)は、この時に作ったのだろう。
文化センターの中には「民俗資料コーナー」もあった。例によって昔懐かしいものばかり。
こりゃ、平群町とどっこいどっこいやね。
今は生駒郡だが、昔は平群郡だったんだね。
三郷町 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三郷町(さんごうちょう)
国 日本
地方 近畿地方
都道府県 奈良県
郡 生駒郡
団体コード 29343-1
面積 8.80km2
総人口 23,358人(推計人口、2011年2月1日)
人口密度 2,650人/km2
隣接自治体 平群町・斑鳩町・王寺町・大阪府 八尾市・柏原市
町の木 もみじ
町の花 ひまわり
三郷町役場 所在地 〒636-8535 奈良県生駒郡三郷町勢野西一丁目1番1号
三郷町(さんごうちょう)は、奈良県の西部に位置し、竜田の紅葉で知られる町である。町名の由来は立野、勢野、南畑の三ヶ村
が合併し、三郷村となったことによる。
文化センターを出て、杉本さんに近辺を案内してもらう。まず、龍田大社本宮へ。
<龍田大社> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
龍田大社(たつたたいしゃ)は、奈良県生駒郡三郷町にある神社である。風の神(風神)として古くから信仰を集める。
天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみこと)を祭神とし、龍田の風神と総称され、広瀬の水神
と並び称された。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神
地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建され
たという。正史では、天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと
『日本書紀』の記述が初見である。『延喜式』では名神大社に列し、二十二社の一社とされた。近代社格制度のもと、明治4年
(1871年)に龍田神社として官幣大社に列した。
紅葉の名所としても有名である。摂社・龍田比古龍田比売神社の祭神である龍田姫は秋の女神とされ、古来より多くの歌に詠
まれてきた。
龍田大社由緒略記
<御祭神>
天御柱命国御柱命の二座に座します。又の御名を志那都比古命、志那都比売命と申し上げ伊邪那岐命、伊邪那美命の御子神にお
わしまして天地の大気即ち風力を主宰し給う。よって風の神と称します。
<御由緒>
第十代崇神天皇の御代に天下の公民が耕作に最も大切なる五穀を始め種々の作物は揮て凶作となり一年や二年にあらずして累年
に及び更に悪疫が流行して天下は騒然でありました。天皇が非常に御心を悩ませ給い多くの卜占者に占はしめたが如何なる理由
か其の根拠は全く不明に終わりました。
茲に於いて御自ら天神地祇を祭らせ給ひて御誓約を行わせられ祈請を込められましたところ御夢に大神が現れ、給い吾は天御柱
命国御柱命なり天下の国民の作れる物共を暴風洪水に遭いて凶作となり其他災害の起れるは我が心機の平安ならざるものあり、
仍て吾宮を朝日の日向う処夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に造営して吾前を鄭重に斎き祀らば五穀を始め何れの作物も豊穣
ならしめ災禍も自ら終息して天下太平の御代と成るべしとの御神教がありましたので直に御悟しに従い社殿を此の地に造らしめ
給い厳粛に奉斎せしめられました。
其れ即ち当社の起源でありまして今より凡そ二千百年前の事であります。其の後は龍田の大神の御教への如く万作は豊熟し疫病
は退散して太平の世の中となりましたので国民は大いに喜び天皇の殖産恵民の広き厚き大御心を仰ぎ尊び奉り深く感謝して和楽
の御代の出現を忝く思い打ち揃って家業に勉励する様になりました。斯の如く誠に御神徳の高く広い大神であらせられましたか
ら朝廷の御崇敬は極めて篤く春秋恒例の祭祀を始め臨時の祈願大祭には廃務を仰せ出だされ勅使が参向し弊帛其他貴重なる品々
を奉献せられ盛大なる祭典を執行致しました事は古書に見ゆる所であります。
平安朝以後には当社を官幣の明神大社とせられ近畿諸社中朝廷の御崇敬最も厚き十六社又は二十二社の内に撰ばれ社名も実に高
く勿論由緒顕著でありましたから明治四年五月十四日に早速官幣大社に列せられました。
大東亜の終戦後は制度の変革がありましたので現在は龍田大社と称し神社本庁の別表神社と成っておりますが一般民衆の信仰は
広大なる御神徳に依り遠近各地より其の恩恵を享けて災難なく安全多幸を祈る参拝者或は名所古跡を訪れる文人詩客の参詣も甚
だ多い野であります。
龍田大社由緒略記 続き
<御神徳>
御祭神は天地の大気、生気、即ち風力を主宰し給へば風神と申上げています。天御柱命、国御柱命と申す御名は天と国とは彦神
を天に姫神を国に比して称し奉り御柱とは真柱の事にして天地万物の中心の柱の義で即ち空気或いは風の事で志那都比古命、志
那都比売命と申す御名の志那は息長(シナガ)の義で気息(イキ)即ち風の長く遠く吹き亘るを云う、斯くて天候、気象の変化
旋転するは大神の御威霊なる風力を基本とし中心とする事なれば農業には暴風洪水の禍害なく五穀豊穣し、航空業を始め航海業、
漁業、建築業等に関係を持つ人々は除難多幸を願い現代の如く交通頻繁なる道路を自動車が往来する時運転者には風神龍田大神
の守護に依りて誤りなく安全に操縦して無難幸福を祈念する参拝者も近年は著しく増加しております。
殊に気息の神として延命長寿を祈願する者は往昔より今に変わる事なく非常に多いのであります。
<風鎮祭の由来>
当大社の御祭神は前記の通り風気を主宰し給う風神でありまして磯城の瑞垣の宮(第十代崇神天皇)以来朝廷が風水の被害なく
無事に五穀を始め総ての作物の豊作、国家の安泰、庶民の福祉を祈願されておられましたが、勅使を参向せしめられて風神祭を
厳粛に執行されたのは天武天皇が始めであります。その後は平安朝の後期まで引き続き勅使参向のうえ執行されております。
風神に風鎮め即ち順風を祈る祭祀として風鎮祭と称する様になったとされるこのお祭りは最も丁重を極め神饌幣帛を奉献のほか
に彦神に矛楯御馬に御鞍を具えて奉り、姫神には金の麻笥(オケ)、金のATALI、金のkasehiその他御馬に御鞍を具えて奉り十
分言葉を尽くして丁重に祭典を執り行ない御神慮を慰め奉り広き厚き恩頼を授けられん事をお祈りしたる大祭であります。武家
政治の時代は祭祀も著しく衰えましたが明治の御代に至り大いに復興せられ、大東亜戦争後は毎年恒例の神事として七月の第一
日曜を大祭日とし、それの一週間前より七日間継続して朝夕の祭典を執り行ない、最終日に厳粛盛大のる風鎮大祭を斎行して居
ります。
龍田大社由緒略記 続き
<岩瀬の杜の瀧祭>
当社の例大祭は毎年四月四日でありますがその前日の三日に、岩瀬の杜の沿岸を流れる龍田川(現在の大和川)から生魚を捕獲
してこれを唐櫃に納めて本社に持ち帰り、翌四日の当日に神前に供し祭典終了の後に元の川に放魚する祭りで古くから伝わる神
事であります。
<摂社並びに末社の御祭神>
摂社は龍田比古神、龍田比売神二座であります。(本社の一段下神域の瑞垣内南側二社)末社は同一瑞垣ない北側三座で、御祭
神は上座は天照大御神と住吉大神、中座は枚岡大神と春日大神、下座は今御前の社と称し高望王の夫人を祀っております。その
他境内に末社として白龍神社、龍田恵美須神社、三室稲荷神社、祖霊社である下照神社があります。この他境外末社に神奈備神
社があります。
龍田大社由緒略記 続き
<付近の名所旧跡>
・御座ケ峯と龍田山
御座ケ峯は上古当社の御祭神が降臨せられたる霊地なりと伝承しており現在は三室山の山嶺より東南凡そ壱粁離れた頂上の畑地
の中央にありて松樹林となっております。又龍田山は三室山に引き続きたる実に広大な山岳地帯を指したる地域の総称であり古
来龍田越などの峠もあって起伏多く往来に相当難所の山道であります。
・三室山
当社の古い境内地で神奈備の三室山とも称し往昔より春は山桜に若葉の楓とツツジ、秋は紅葉と風景の美を賞賛せられ飛鳥、奈
良、平安朝時代には各地より参者遊客文人等の来集甚だ多く社頭は常に人影が絶えなかったと伝えられております
・龍田川
古の龍田川は今の大和川で大和平野の諸川を集めて成れる河にして当地立野の里を流れる流域の沿岸に楓樹多く下流の亀瀬まで
約五、六粁を世人が龍田川と称し紅葉の名所と謡はれておりました。
(注)文中のtataliは、「瑞」の偏が「木」偏になったものです。又kasehiは、「峠」の偏が「木」偏になったものです。
以上、「全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年」より
高橋虫麻呂 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高橋 虫麻呂(たかはし の むしまろ、生没年不詳)は、奈良時代の万葉歌人。姓は連。高橋氏(高橋連)は物部氏の一族である
神別氏族。719年(養老3年)頃、藤原宇合が常陸守であった頃に宇合の下僚となり、以後宇合の庇護を受けたという。
『万葉集』に34首の作品が入集し、そのうち長歌が14首・旋頭歌が1首である。巻6の2首目からは「虫麻呂の歌(=高橋連虫麻呂
歌集)の中に出ず」として載せている(巻6の1首目は笠金村の歌)。
下総国真間(現在の千葉県市川市)の手児奈(てこな)の歌や、摂津国葦屋(現在の兵庫県芦屋市)の菟原処女(うないおとめ)
の歌など、地方の伝説や人事を詠んだ歌が多い。虫麻呂が歌に詠んだ地域は、常陸国から駿河国にかけての東国と、摂津国・河
内国・京などである。
境内にあった、
我が行きは 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風にな散らし という句は、
「私たちの旅は、7日を越えることはないでしょう。ですから、龍田大社の竜田彦の神よ、夢にもこの桜の花を散らさないでくだ
さい。」という意味だそうである。
<岩瀬の杜>
JR三郷駅の改札を出て左折し、線路沿い(道路沿い)に、2,3分歩けば、道路と線路に挟まれて三角形の木立がある。「岩瀬
の杜」の石碑が立っていて、小さな空き地の線路側に、藤原鎌足の正妻で代表的な万葉歌人だった鏡女王の句碑がたててある。植
え込みに隠れて見落とされる程の小さな杜である。昔は大和川( 龍田川 )の中洲にあって、広大な杜であったとの事。いまは龍田
大社の所領になっていて、龍田大社では現在でも4月3日に毎年「瀧祭り」を行事としてここで行うそうだ。
神奈備の 石瀬の社の呼子鳥 痛くな鳴きそ 我が恋まさる
(「神奈備乃 伊波瀬乃社之 喚子鳥 痛莫鳴 吾戀益」)は、
神奈備の石瀬の社の呼子鳥よ、そんなに激しく鳴かないでおくれ。私の恋しい思いが募るばかりだから という意味である。
この歌は、鏡王女が鎌足の死後、彼を思って作った歌だという説がある。
鏡王女 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鏡王女(かがみのおおきみ、生年不詳 - 天武天皇12年7月5日(683年8月2日))は藤原鎌足の正妻。代表的な万葉歌人。『万葉集』
では「鏡王女」・『日本書紀』では、「鏡姫王」と記されている。鏡女王とも呼ばれる。藤原不比等の生母とする説が有力である
(当時貴族が王族をめとれなかったとし、後生の創作に過ぎないとする説もある)。また後述するが「鏡王女」と「鏡女王」を別
人とする説もある。
鏡王女の素性は額田王以上に謎に包まれており、額田王の姉という説があるが、『日本書紀』には二人が姉妹だという記述はなく、
確証はない。そのため、近年では二人の姉妹説を積極的に支持する研究者は見られなくなってきているようだ。
しかし、額田王の父・鏡王との血縁関係はなかったとしても、同じ「鏡」という名が付いている事から、同じく、鏡を作る氏族に
養育された可能性はある。また、鏡王女には舒明天皇の皇女だという説もある。
最初、天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻となる。鎌足の病気平癒を祈り、天智天皇8年(669年)に山階寺(後の興福寺)
を建立した。
『日本書紀』の天武天皇12年7月の項に、己丑(4日)、天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊ひたまふ。庚寅(五日)に、鏡姫王薨
せぬ(「秋七月 丙戌朔己丑 天皇幸鏡?王之家 訊病 庚寅 鏡?王薨」)とあり、天武天皇が見舞いに来たが、その翌日の天武天皇
12年7月5日に亡くなった事がわかる。『万葉集』には四首の歌が収録されている。天智天皇・額田王・藤原鎌足との、歌の問答が
残されている。
現在墓所に比定されているのは奈良県桜井市にある小墳丘で、舒明天皇陵の近所にあり、現在は談山神社の管理となっている。
(この墓には、我々も歴史倶楽部の例会で行った。あれは「忍阪街道をゆく」の時じゃなかったかな。)
<異説>
直木孝次郎『額田王』によれば、当時明文法にはないが言うまでもない事実として、女王をめとれるのは王に限るという規則があ
り、そのためいくら鎌足が有力者であろうとも女王をめとれるわけがない。後世の創作であろう(鎌足の妻とするのは神社の縁起
のみである)とした上で、「鏡王女」は「鏡女王」とは記載されない(舒明の皇女「鏡女王」は年代から別人)ことから、「鏡王
の娘」と読むのが正しく、額田王のことであろうとしている。また万葉集にある鎌足の妻どいの歌は余興の上の冗談であり(めと
れる身分にないことから)、額田王の返歌は、王族でない者に冗談とは言い寄られ、怒っている(「貴方はともかく、私の名に傷
が付く」)そうである。
<神南備神社>
龍田大社からJR三郷駅に向かう右手の森に、小さな鳥居と石段が目に付き、階段の右手に教育委員会の案内掲示板があって、
そこには、神南備神社に纏わる万葉歌人の歌が8種程紹介されている。万葉歌人で天武・持統・文武の3帝に仕えた宮廷歌人の
柿本人麻呂の歌があった。
神南備の 神より板に する杉の 思いも過ぎず 恋ひの繁きに。
神南備の社は以前は三室山の山裾にあり、大和と難波を結ぶ龍田越えの交通の要所であり、旅行く人を見送る別れの社でもあった
らしい。現在の社は龍田大社と共に移築されたものとの説もある。この神社の石段の下でデジカメが突然ダウンして、写真が無い。
この後入った喫茶店で財布は落とすし、この日はエライ目にあった。龍田神社でエエ加減に拝んだせいかもしれない。
杉本さん、いろいろご案内いただいてありがとうございました。あの喫茶店に、傘はとりに行きましたか。
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